「海が近くなってきたな」
潮の匂いが嫌いな隣の同行者の方へ振り向くと、相変わらずどこか白い顔色で、それでも珍しく、チズリートは窓の外の海を直視するように見つめていた。
「平気か?」
「ええ。この辺りまで潮の匂いが届くとは思っていませんでした」
舗装された行路を進む馬車のリズムに揺られながら、チズが何度かがまばたきをする。
「こんな大量の塩水に囲まれて暮らしてるんだから、魚ってやつは随分とたいした生き物だよ」
人間がこんな大量の塩水と一緒に暮らすには、帆船や航海といった知識の蓄積が必要不可欠だった。
塩水の中で暮らすなんて、まず一番に舌がイカレそうだな、と頭の中で想像して思わずうんざりしてしまう。食道楽とは縁の遠い話だ。
「……ラジカさんはご存知かもしれませんが」
ふっと、チズが口を開く。
「ここよりもっと東の方では、塩は死を清めるものとされているそうです」
ああ、と簡単な相槌を打つ。
ラジカの暮らしていた国でも、似たような価値観は存在した。塩は悪霊払いにも用いられるし、儀式の時にも聖別の際にも重宝される。
「海水が塩分を含んでいるのは、死を清めるためだとしたら」
ラジカも、チズの視線を追うように窓の外の海へ目を向ける。
「海にはそれだけ、死が蔓延しているのでしょうか」
チズにとって、海とは生命の住処ではなく、死の宿る異世界なのかもしれない。
「……おかしなことを言う奴だな」
「……すみません、この間までずっと本を読んでいたから、変なことを考えたんだと思います」
ふっと、思いついたままの疑問をぶつけた。
「人間の涙が塩辛いのも、死を清めるためか?」
「……そこまでは思い至ってませんでした」
だとしたら、チズの思考は死や清めというよりは、やはり海に向かって煮詰められたものだったのだろう。
「……………………ナーデルは、よく寝てるみたいだな」
「はい」
何かあればすぐに騒ぎ出すナーデルとチズのやりとりは、最近、とみに静かだ。
「……最近」
ぽつり、ぽつりと静かに、チズが言葉を探している。
「……ナーデルがよく寝ているんです」
「そうだな、長旅だから、疲れてないといいんだが」
実際、ラジカの目的とする禁書を探す旅は、ここからまだ馬車を乗り継ぎ、船で海を渡った先にまで続く。
物見遊山代わりに、チズに少しでも多くのものを見せてやろうと、彼の視野に少しでも何かを残せればと思って連れ出した旅は、まだ行程の半ばを過ぎたばかりだった。
「……最近、眠っていたり、ぼーっとしていたり、」
チズの声はどこか消え入りそうなほど弱々しく、そしてたどたどしい。
「それに、段々、最近、彼の声が、」
それはまるで、自分で自分の言葉の先を恐れているかのようだった。
「……遠くなったり……聞こえなくなったり……」
自分で自分の言った言葉を、打ち消そうとするかのようにチズの言葉が早口になる。
「……僕の耳は、おかしくなってしまったんでしょうか? でも、耳だけはないんです。ときどき、彼の姿がひどくぼやっとしたものに見えたり、ひどいと、どこにるのか分からなくなってしまって、」
不安を打ち消そうとすればするほど、新しい不安が生まれていく。
チズはその不安の堂々巡りの、渦中で立ちすくんでいる。
「……振り向くと……覚えのないぬいぐるみがいて……僕は……」
「チズ」
ラジカが撫でるようにチズの頭の上に手を乗せると、チズは突然、現実に引き戻されたかのようにはっとして、ラジカの顔を見上げた。
そして、深いため息とともに目をつむる。
「海が近づくと、僕は、すごく嫌な気持ちになるんです」
うっすらを瞼を持ち上げて、どこか夢をみるようにチズが、ラジカの頭を撫でる感触に身を任せる。
「……海に近づいていくほど……ナーデルが……どこかに行ってしまいそうな気がして……」
「……ナーデルは、お前が望む限りどこかに行ってしまったりはしないよ」
「……ラジカさん」
目をはっきりと開き、顔を上げ、チズがラジカをじっと見つめる。
水色の髪の合間から、嘘を吐くことを許さない澄んだアメジストの瞳が覗くのだ。
「俺も、ロゾバもそうさ。ナーデルだって、親友の元を勝手にいなくなったりはしないさ。でもな、チズ」
二度、三度、頭を撫でる速度に合わせて少し、間を空ける。
「俺たちは生きてるんだ。だから、どこかで一度、別れの挨拶をすることもあれば、またどこかで顔を合わせることもある。永遠に会えないこともあるかもしれない。それでもやるべきことがあるから、俺はここに来た」
居心地の良い家を出た。
望めば、永遠に続きそうな時間だった。ずいぶんと色々なものを得て、久しく触れてなかったものに触れられる日々だった。
「……ラジカさんは、」
考え込むように何度か、ゆっくりとまばたきをしてから、チズは自分が何をラジカに尋ねたいのかを見定めたらしい。
「ラジカさんは、このまま、ロゾバに会えなくなっても後悔しないんですか?」
「するさ」
ラジカには呪いがある。
海の神の呪いだ。長い時間をかけてゆっくり、ラジカは自分の神と同じ道へと近づいていく。意識も残らず、やがては人間のことなど忘れて魚を、人間を食い漁る。
そして、もしその時に親しい人間の人生が犠牲になるようなことがあるのだとしたら、やはりラジカはそれを望まないし、そんな神としての生はどうにも癪だ、とも思う。
「するけれど、それであいつと過ごした日々が消えてなくなる訳じゃないからな。思い出すのはまあ、最初はしんどいだろうが」
そういう経験は何度かしたが、同じことをもう何度か繰り返しても、慣れることはないだろうと思う。
「それでも、俺はあいつと過ごした日々は忘れられないよ」
ロゾバ。褐色に淡いブロンドの、どこか無気力さすら感じさせるような穏やかで、無抵抗の男だった。困ったように微笑む姿を見るのが好きだった。
「もし、このままもう会うことがなくなったとしても、あのとき俺が出来うる限りのことをあいつにしてやったって思えるように毎日、あの家で過ごしてきたんだ」
「……僕は」
考え込むように再び、チズが瞼を伏せる。
「……僕は毎日、ナーデルと、ラジカさんと、ロゾバさんと暮らして、大変だったけど毎日、それなりに幸せで、」
少し不安定に揺れた声で、思い出すようにチズがゆっくりと語る。
「……僕は、分からないけれど、多分、とても後悔していて」
ラジカはそれを、わずかに相槌だけ打ちながら続きを待つ。
「……取り戻したくて……楽しい時間がたくさん欲しくて……」
目を瞑ったチズは、まるで半ば、夢を見ているかのようだ。
「……ずっとずっと……楽しければいいのにって思ってて……でも、ずっと楽しくいたいから、ずっとナーデルを付きあわせてしまって」
隣に座らせた熊のぬいぐるみの腕を、本当は握りたかったのだろう。けれども、寝ているところを起こしたくないかったのかもしれない。
代わりに、チズがラジカの服の端を掴んで、ひどく痛そうなくらいに握りしめる。
「……ナーデルは、疲れてしまったのかもしれません」
「……休ませてやればいいさ。誰にだって、休暇は必要さ」
チズの後頭部を、包み込むようにしてそっと肩の方へ抱き寄せた。
「次の街に行ったら、少し長めに滞在を取ろう。帰りはちと遅れちまうがまあ、手紙でも出すとして」
ロゾバのことだ、また鞄に下着を詰めるようなずぼらをしていなければいいのだが。
「……休みながら、まあ、少しずつでも進めばいいのさ」
「……」
一度に全てを終わらせようとしたら、それはチズでなくても、誰でなくても疲れてしまうに決まっている。
チズは無理を無理と思わないところがあって、それは多分、ひどく生真面目な彼が常になにか、追い立てられるように思い詰めているところに起因しているのだ。
「……すこし、僕も、眠っても大丈夫ですか?」
「馬車疲れだな。寝とけよ、成長期」
「……だから、僕は成長期はとっくに終わって」
「ああ、いや、そうなんだが。まあでも、体力が見た目相応なのはしょうがないしな」
つい見た目のせいで子供扱いしてしまうが、実際のチズは17才の、もう青年なのだという。見た目にはどう見ても精々、13より上ということはなさそうなのだが。
「お前さんのその症状も、いったい、いつになったら治るのやら」
「……今は休むから、そういう疑問は後回しにすることにしました」
「そりゃあいい。ゆっくり休んで、備えてくれ」
ラジカの肩によりかかったまま、一度だけ軽く目礼したチズが瞼を下す。
馬車の揺れに身を任せ、ラジカに体重を預けたまま、チズは静かに微睡みはじめたようだった。
「おやすみチズ、良い夢を。起きたらまた、沢山の話をしておくれ」
チズの遥かな夢の終わりは、長い長い冬眠の終わりの春は、どこからやってくるのだろう。
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チズが自分の妄想と決別する日が来るとしたら、それはある日突然になのか、それともゆっくりとやってくるのか、みたいなことを考えながらぼーっとしていました。
もし元の年齢(見た目)に戻る日が来るとしたら、それは彼が子供=ナーデルとの一人遊びの世界からの卒業の時なのかなーとか。
そしてもしそういう日が来るのだとしたら、ラジカはきっと出来うる限りの手段でチズを支えるんだろうなぁと思います。