ああ、と最初に匂いを嗅ぎつけたのはロゾバだった。
褐色の肌に淡い金色の髪の毛を揺らして、はて、というようにおっとりと首をかしげる。穏やかだとも、覇気が薄いともとれる視線だ。
「潮の匂いがする……」
「海水? 生け簀かね、この辺りだと珍しいな」
目ざといラジカが、一度気になると止まらないとばかりにキョロキョロ、近くの店を観察し始める。
案の定、海産物を扱っているらしいレストランの横の通路では、人が一人入りそうな大きさの水槽を、何人がかりという大作業で運び込んでいた。食べる前の魚をあの中に入れて観賞できるようにする趣向らしい。
「……あの……」
珍しい趣向だな、悪趣味な気もするけど、なんて散漫に話題を交わす大人二人の間に、少し神経質そうなチズの少年らしい声が入り込む。
憂鬱げな視線はふらふらと定まりが悪く、あまり店の中を見ないようにしているようだった。
「……家に戻りませんか? 申し訳ないんですが、食欲が……その……なくなってしまって……」
こうなると、大人二人の態度は一気に大人げなくなる。
二人が二人とも、心配でたまらないと言いたげに落ち着きがなくなって、ラジカもロゾバもあれやこれやととにかく、チズを口うるさく心配するのだ。
「あれま。なんだ、どうした。熱か? 吐き気? 貧血か? おぶってやろうか?」
「大丈夫か? その辺りの店で、休めそうな程度なら場所を探すが」
実年齢は違うとは言え、見た目にはこの中で一番、幼く見えるはずのチズの方が冷静に振る舞っているように見える図というのはいかがなものなのだろう。
「いえ……家に、戻って少し休めば平気だと思うので……」
◇ ◆ ◇
ベッドに戻るほどではないからと、ソファーの上で寝転がっているチズがふっと、ラジカの手の中へ目を向ける。
ここしばらくルームシェアで暮らして長いが、ラジカがこういったものを出しているところを初めて見たのだろう。
「……アロマか何かですか?」
立ち上がったラジカがぽんぽん、手癖か何かのようにチズの頭をなでる。チズはすこし座りが悪そうな顔をするが、逃げるほどでもないような、というような微妙な迷いを見せている。
猫を飼っていたら、こんな気分になるのかねと内心でだけ一人ごちて、ラジカはチズに見えるようにいくつか、小さくてアクセサリーのような色とりどりのアロマキャンドルを順番に見せた。
「そう、植物系のな。ハーブとか、食べ物とか、けっこう色々あるぞ。どれか、好きなのがあれば焚いてやるんだが」
「……僕は、そういったものはあまり……ラジカさんがお好きなものが一番だと思います。え、なに? ナーデル、甘い匂いが?」
「はは、ナーデルはお菓子の匂い希望か。でも、もうちょっとでオヤツだからな、我慢してくれ。チズ、この本を片してくるから、それまで大人しく寝てろよ。ナーデル、チズが勝手に置きださないよう、よく見ておいてくれ」
実際、ラジカにはチズが言うような、ナーデルの行動は見えない。ただ、クマのぬいぐるみを使って、チズが一人芝居をしているだけだ。
ただ、会って最初に少し話しただけでピンときたが、チズは確実に「そこ」に「ナーデル」と言う青年がいる、と思っている。チズの語るナーデルは、言葉を持たない。黒のくせ毛に褐色の肌、紫の瞳を持っていて、常に身振り手振りでチズと意志の疎通を図っている。
あのクマに何かいるのは本当だろう、とラジカには分かる。
ただ、それはチズの語る、天真爛漫で無邪気なナーデルからはかけ離れた、複雑な憐憫に支配された視線をわずかに感じる程度のものだ。
「……うーん、特定の匂いに嗜好がある訳じゃない、か。そうすると、単純に潮が……海が嫌いなんかね」
「……探偵ごっことは、趣味がいいな」
二階の書庫へ上がったラジカの言葉に、反対側の本棚から顔を出したロゾバがため息交じりの釘を刺す。
ラジカの方はと言えば特に驚いた様子もなく、まるで最初からそこにロゾバがいるから喋っているのだと言いたげだ。
「なんだい、ロゾバは自分の好きな相手のことを知りたいって思わないのかい?」
俺たちは、共同生活者なんだ。好きでもない相手とは、一緒に生活するなんて無理だろう?
と、もっともぶった態度でラジカが首をかしげる。
「……逆だよ。私はお前と違って、自制が利かないからやりたくないんだ」
そういうのは、際限がなくなる。
短く言い置いて、ロゾバがそっぽを向く。
「そうかい? 俺が知っていなかったせいで、アイツに何かあった時に何も出来なかったらどうしよう、って思う方が俺は嫌だなぁ」
わざとらしいため息や、どこか大げさなジェスチャーで軽薄さを強調しながら、ラジカが手に持った本を書庫の決まった位置へ戻す。目に見えない場所にいくつも魔法陣の刻まれた、見る人間が見たら顔をしかめるかもしれないような棚だ。
「知っていれば、俺がどうとでもしてやれたのに」
だって、そうだろ、と同意を求めるように首をかしげて笑う姿は、ふっと年齢を忘れそうになるような、子供じみたものだった。
自分の言葉が、過去形になっていることにすら気が付いていないのかもしれない。
「……傲慢だな」
「俺もそう思うよ」
嫌悪するような、怖れるようなロゾバの反応はどこか神経質で慎重だ。
ラジカはその、ロゾバやチズの持つ、怖れることを知っている人間のあの独特の慎重さが好きだった。何かを恐れている人間の臆病さだ。失うこと、傷つくこと、二度とは戻れないこと。
「お前は絶対に恋人を持たない方がいい」
「マジでー。なんでみんな、同じこと口を酸っぱくして言うかなぁ……」
「全員が同じ見解を抱く程度にはよろしくないということだ」
「ええー……」
軽口を交わし合いながら、書庫を後にする。
ロゾバは食べることに関しては目がないから、このまま、昼のおやつ目当てに下まで降りてくる算段だろう。
「まあ、いいよ別に。今はロゾバとチズとナーデルと、手のかかる奴らが多いからな」
家で腹を空かせた人間が二人も待っていて、そいつらを食わすのに忙しいんだなんて言って誘いを断っていては、きっとそのうち声もかかわらないようになってしまうだろう。
「遊んでる暇なんてないさ」
「お前を見ていると、物好きというのはいるものなんだな、と納得するよ」
何が一体そこまで駆り立てるのか、分からないそれが怖いのだ、と言いたげにロゾバが視線をそらす。
階段を下りると、ナーデルと一緒に何やら起きる、起きないと問答をしているような人形芝居をしながら、チズが二人を待っていた。
「チズー、ナーデルー、おやつ作るぞー。今日はドーナツ揚げるからな。ココアとナチュラル、どっちが良い?」
「ドーナツなのか」
「トッピングは自分で選べよ」
「ふふ……そうか、うんうん、選べる幅があるのは、いいことだ」
甘いものに相好を崩すロゾバとは対照的に、チズは少しだけ、こういう時どうしたらいいのか分からないという顔をして見せた後、困ったようにラジカに粉糖を控えめにしてください、とだけリクエストした。
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タワムレガキより、PTMだったチズとナーデル、ロゾバをお借りしています。
毎日、男三人でオシャンティな生活してるとよいなと思います。