■ 十六日目


 ナインが、脱走した。
 起こってみれば意外に呆気ないもので、何か叫んだりとか、そういうことをする暇もなければ、そもそもこれは脱走なのではないのだろうか、と気が付くのにまず、随分な時間を要した。
 自分でも馬鹿な話だとは思う。だが、従属契約とは実際、そういうものだと思っていたのだ。
 一人で先に戻ってきた宿の部屋はがらんと静かで、窓のガラスは夜色に染まっている。

(……もう、夜になっちゃったんだ……)

 別れたのは、日が陰り始めるすこし前だった。
 もちろん、短時間で区切っての別行動自体は、今までの生活や協会主催での大会でも何度か経験している。
 首輪や手枷はいわば、刑としては『見せしめ』に当たる部分であり、つまるところ『彼の贖罪は死よりも辛い罰である』という、対外的な建前の一種である。だからこそ死罪であるはずの罪人が生かされ、こうして表に出ることを許されるのだという一種の釈明のようなものだ、とクテラは説明されている。根幹に当たる部分は『従属契約』が担っており、手枷や鎖は対外的な部分でしかないのだと。
 だから、必要であれば鎖を外すことも、生活に必要な自由を許すこともクテラは特に、躊躇いや不安を覚えたりはしなかった。

(……別行動、って言ってたけど……さすがにそろそろ、遅いよね……)

 与えられた役割から考えれば、決して良い状態でないのは確かだ。
 だが、ナインの性格を考えると何か悪いことを企んで、というような想像にも繋がりづらい。
 なんというか、本当にきっちりしているというか、妙なところで筋の通った人なのだ。よく協会で話をするメーアにも「きっちりしてそうな人だよね」と言われて以来、クテラもその点に関しては妙に自信が持てるようになった。
 だからこそ、どうしてナインが急に駆け出して行ったのか、従属契約があるのにどうしてそんな事が可能だったのか、考えれば考えるほど腑に落ちないことが多いのだ。

(……ナインは、別行動だって言ってたから……脱走のつもりはなかった、とか)

 揚げ足取りのようでおかしな理屈だが、そうでもないと、ああも簡単にナインが自分の監視から抜け出せてしまう理由に説明がつかない。そも、その程度の拘束であれば、最初からナインを従わせることなどできなかったはずだ。
 だからそうなってくると今度は、脱走というより、別行動の予定だったのが帰ってこられなくなってしまったのではないだろうか、という心配の方が先立ってくる。
 自分がこんな風にのんきにナインを待っている間にも、ナインは困っているのではないだろうか。

(……やっぱり、探しに行ってもいい……よね……?)

 わざわざ別行動を希望したということは、クテラには来てほしくないという意思表示なのだろうと思うと、少しばかり躊躇う気持ちはある。
 ただ、なにも事情を告げられずに別れてしまったのだから、心配する権利くらいはあるはずだ。もし、見つけて余計なことをしたと怒られてしまうようだったら、その時は素直に謝ろう。あと、一応、体裁上は監視役という形なのだから(実際は、クテラの面倒を護衛のナインが見させられている、という実情だとしても、だ)せめて事情くらいはちゃんと話してから別行動するようにちゃんと意見しよう。
 一応、護身用としては過剰すぎるかもしれない精霊武具と、地図をいつもの肩掛け鞄に詰め込んで、部屋の外へと出る。
 一階の食堂はクリスマスらしく、どこかいつもより賑やかな喧騒で満ち溢れていた。

◇ ◆ ◇

「え、何、クテラ、今日ひとりなの? アイツは? 別行動? 見かけなかったか、って……え、それまずい状況なんじゃないのか?」

 クテラが一人で訪ねてきたことに驚いたロジェは、まるで我が事のように親身になってあれこれ、尋ねてくれた。
 心配をかけてしまったようで心苦しかったけれど、見かけたら協会の伝言板あてに連絡を取るからと言われて、協会を中継点にしようと提案してもらえた。
 こういう機転はクテラには思いつかない事なので、協力してもらえて本当にありがたい。

「あれ? なに、また喧嘩でもしたの? ……はいはい、喧嘩なんてしたことないのね、それは悪かったわね……って、一人歩き? ……言いたくはないけどさ、一応、犯罪者って話なのにこんなに何回も一人歩きの話が出てくるって言うのも問題あると思うわよ……」

 キヤには以前にも、自分の勝手で一人歩きをしている所を拾ってもらっているので流石に言い訳のしようがなかった。
 呆れたように心配してくれるキヤにも、迷惑をかけてしまって悪いと思いつつ、ロジェに教えてもらった伝言板経由での連絡を頼む。

「バアアアアアニン……あ、何、狼男? 知らないよ? なーんだ、気が変わって肉体を捨てる覚悟でもついたのかと思ったのに……ふーん、まあ、いいよ。その、伝言板? を、燃やせばいいんだろ? ……え、違う?」

 ちゃんと心を尽くして頼めば、礼儀には礼儀でもって答えてくれるのがこのインフェルノ妖精だとは分かってはいるのだが、それでもちょっとだけ、いざ伝言板へと駆け込んだ時に、小火騒ぎが聞こえてくるんじゃないかと心配になったのは仕方がないことなのだと思いたい。

「ン? なんだオメェ、珍しく一人歩きか? ハ? 脱走? ハハ、こいつぁいいや、とんだ笑い話だな! ああ、何、別行動ねぇ……まあ、あんな真似が出来るのに、今更脱走って話もねぇか……ああ、分かったよ。伝言板ねぇ。かったりぃがまあ、これも何かの縁だ。見かけたら言っておいてやるよ」

 ナインとは親しいらしいオッズなら、何か知っているのではないかと期待をしたのだが駄目だった。
 代わりに、伝言板の件を了承してもらえたので、それがとても有難い。気分よく飲んでいたのだろうに、気を悪くせず引き受けてくれたオッズに何度も頭を下げる。

「何、クテラ、貴方どうしてこんな所にいるの? それに、一人だなんて珍しいけど……」
「……脱走……? ああ、いや、すまない、別行動、か。……一応、確認しておくが、彼はその……本当に、何も言わずにいなくなってしまったのか? 何か、伝言のようなものは何も残していかなかったのか?」
「強制従属刑なんだもの、そんなに好き勝手には出来ないんじゃないのかしら……でも、勝手に走り出して、勝手にいなくなってしまったなんて……そういうの、わたくしは嫌いだわ。……あ、べ、別に、理由もなくそうする人だとは思ってないのよ? ……何か、理由があったんじゃないのかしら」

 リーナとユージュは、ナインがいなくなったと聞いてなんだか、ものすごく驚いたような顔をしていた。この二人とは色々と共通する点が多くて、二人連れだとか、片割れが人狼だとか、いろいろと話が通じやすい。
 ただ、ナインと違ってユージュは自らリーナに仕えているらしく、彼らにはきっと、同行者の片割れが何も言わずに姿を消すなんて言う事態はあまり想像できたものではなかったのだろう。
 心配をかけて悪いと思ったが、親身に話を聞いてくれる二人が伝言板への連絡を約束してくれたお蔭で、心強い気持ちでその場を離れることが出来た。

◇ ◆ ◇

(……結局、みんなに心配をかけただけで終わってしまった……)

 宿への帰り道を、疲労に悲鳴を上げる足をひきずりながらとぼとぼと歩く。辺りを軽く見渡してみれば、もう、随分と夜も更けてしまった。
 結局、最後の伝言板に『有難うございました、今日はここまでにして、もう戻ろうと思います』とそれぞれに言伝して、ナイン探しは撤収になった。
 流石にここまで帰ってこないとなると、いい加減、安否を心配するべきなんじゃないだろうかと言う気分になってくる。
 脱走というよりは何か、トラブルにでも巻き込まれてしまったのではないだろうか。帰りたくても帰れなくなってしまって、それで帰ってこないのではないだろうか。

(……本当に脱走、なのかな)

 横道の多い宿までの帰り道は、あまり人通りも多くないからなるべく早足で歩いた方がいいと忠告されていたのに、足が疲れていて流石に、そこまでの元気が保てそうにない。疲れた頭の中でぐるぐると思考だけが回転していて、するする色々なことが頭に浮かびあがる。
 変な話だ。
 脱走の可能性も少しは考えなければならないと思うし、もし本当に脱走なのだとしたら、クテラの監視不行き届きによる責任問題は免れえない。
 何よりもまず、監視役として真剣にそういう可能性と向き合わなければならないと分かっているはずなのに、そういう可能性を考えはじめると決まって、頭の中がそれを否定する材料を張り切って立て並べはじめる。

(……もし、本当に脱走なら)

 それでナインは自由になれるのだろうか。
 強制従属契約はどうなってしまうのだろうか。
 それとも、クテラにナインを従わせる意思がないと伝えられるものならば、それは成立しうるものなのだろうか。
 どうしてそんな事をする必要があったんだろう、という気持ちもすこしだけある。
 贖罪が認められるということは『クテラの護衛として任務をまっとうすれば罪が許される』と言うことだ。だからクテラは、鎖で人をつなぐのは嫌だったけれど、これが終わればナインは命を失うことなく再び自由になれるのだと思って今まで、この任務はこの任務なりに、ナインにとっても無意味なものではないのだろうと思ってきた。

『婦女暴行未遂』

 会ったばかりの頃の、ナインの言葉を思い出す。
 クテラには人間のそういう機微は、正直、よくは分からない。けれども、ナインはもしかしたら、好きな人がいたんじゃないかな、と思う時はある。それが彼の罪状だったのではないかな、とも。
 もし自由になれたら、彼はもう一度、その人に会いに行くことは許されるのだろうか。それとも、普通はやはりそんな罪を犯してしまった人間は、特例で自由の身になれたとしても、その人にだけは会いに行くことは出来ないのだろうか。
 だとしたらナインは、脱走してでももう一度、その人に会いたいと思うことはあるのだろうか。

「……あんた、巫子サマだよな?」

 急に声を掛けられて、おまけに、その内容が内容だったので、驚いて声のする方へ振り向く。
 細い横道に立っている人影の顔は、夜道の暗さに紛れて確認できなかった。

(ナインとの共通知り合いからEno.48ロジェさん、ENo.263キヤちゃん、ENo.353セレンちゃん、ENo.547オッズさん、ENo.711&712、ユージュさん&リーナちゃんをお借りさせて頂きました!)

■ 十七日目


「……髪飾りと、ベールと、目と髪。聞いてた特徴とぜんぶ一緒だ。あんたがあの、アルマさまとか言う長い名前の巫子サマなんだろ?」

 横道の陰から声をかけてきたのは、声だけ聞くかぎりだと、まだ年若い男のようだった。
 少なくとも、知り合いの声でないことだけは確かだ。何より、クテラのことを巫子、と呼ぶような相手に心当たりはない。
 けれども、この男が呼んだ名前は間違いなく、里や森の人間でなければ知らない巫子のもう一つの名前だ。

「……えっと……あ、アルマ・レデンプトリス・マーテルの呼称のこと……ですよね? 正確には、歴代の巫子すべてをそう呼ぶので、名前とはまた違うのですが……里の方、ではありませんよね、もしかして森の……?」
「お、俺は森の出だけど、そんな立派なモンじゃねぇよ……下街暮らしだし……だから、巫子サマの正確な名前も、キチンとは分からないんだ、学がなくて悪ぃんだけどさ……そっか、じゃあ、あんたが本当に巫子サマなんだな……」

 横道からおどおどと現れたのは、ひょろりと背の低い、いかにも小心そうな男だった。年はまだ若い。が、森の人間の年齢は外見とはかけ離れていることが多いので、見た目と年齢がどこまで一致するのは種族次第だ。
 ただ、クテラの方を伺うそぶり一つを取っても、まだ年若い臆病な青年、という印象はぬぐいきれない。
 だが、その気弱そうな見た目の青年は外見の印象に反して、思いもよらぬような行動に出てクテラの度肝を抜いてくれた。

「頼む、この通りだ! 俺の話を聞いてくれ! ナインは……あいつは、あんなことする奴じゃない、何かの間違いなんだ!」
「……へ?」
「あんたは巫子サマなんだろう!? 頼むよ、あいつが捕まったのは絶対、何かの間違いのはずなんだ、婦女暴行未遂だとか何だとかって……物忌寮や長老会のやつらの間違いか何かのはずなんだよ!」

 物忌寮。
 懐かしい名前だ。御霊直下の治安部隊、物忌寮は、黒の森では泣く子も黙る精鋭部隊として知られている。
 他人に黒の森のことを説明するとき、クテラは意図的に王、という言葉を利用してはいるけれど、彼らはいわゆる一般的な王侯貴族ではない。
 各種族の代表から成り立つ長老会の筆頭として、多種多様な魔物の混成軍を総べる総司令を務めるのが黒の森の御霊であり、守護者とは叩き上げの軍人一門なのだ。
 そんな御霊直属の治安部隊であるところの物忌寮は、すなわち、御霊の目であり耳であり、つまるところ黒の森で問題を起こせば例外なく彼らがどこからともなく影から影へと現れ、すべての事態を回収して去っていく。
 罪人を、かの名高き長老会による即決裁判へと引き渡すのも彼らの役回りだ。

「城の奴らのところに行こうとしたって、俺みたいな下街野郎の言うことなんざ、あいつらはこれっぽちっも耳を傾けちゃくれないし、門前払いどころかへたすりゃ頭のおかしい野郎扱いだ……」
「……」

 それはそうだろう。
 判決がくだれば死罪の即決裁判で、再審議を求める者がいるだなんて前代未聞だ。無論、ナインは死罪ではなかったのだから、そういう話が出てもおかしくはなかったのだろうが、それは普段の黒の森の司法から考えても異例すぎる話なのだ。

「だいたい、レイプ未遂ってなんだよ、あいつぁ花街のねーちゃん達にえらく人気で、いっつもちやほやされてたんだぜ? それが婦女暴行だとか……俺ぁ聞いた瞬間、思わず笑っちまったんだよ。ところが、その噂は本当で、おまけにあいつ、強制従属刑? だかなんだか、変な刑にかけられたって話だしさ……」

 ビックリして、思わずじりじりと後ずさりしかかっていた身体がぴたりと止まる。
 この青年が喋っているのは、クテラの知らない、たぶん、過去のナインの話だ。

「なあ、頼むよあんた、あいつのこと、許してやってくれよ……!」

 本当に今まで、誰も話を聞いてくれる相手がいなかったのだろう。
 ようやく聞いてくれる相手を見つけた、と言いたげに繰り返し、頭を下げる青年の主張は最初から最後まで変わらなかった。

「……あ、あの……」

 恐る恐る、口を開いたクテラの言葉に反応して、勢いよく青年が頭を上げる。

「お、仰りたいことは、その、だいたい分かったんですけど……でも、あの……僕は従属刑の主として契約を結んだだけで、彼の恩赦や罪状に関する一切に関して、決定権のようなものは何も持ってないんです。だから、僕の一存で彼を許すとか、そういうこともできませんし……」
「そ、そんなこといわねぇでやってくれよぉ……アンタが許してくれなきゃ、あいつはどうすればいいんだ? 逃がそうとしたって、アンタが命令すりゃあ結局、あいつは脱走することもままならねぇんだろ?」
「そ、そうは言われましても……うう……冤罪とか、再裁判ってなると、僕には何の権限もありませんし……ちゃ、ちゃんと調べ直してもらうとか、そういう訳には……」

 一言でいえば、『それをクテラに訴えられても困る』のだ。
 クテラの一存でそれを左右できるような権限は、持ち合わせていない。クテラとて、御霊や長老会の決定に従っているだけなのだ。
 だが、青年とてそんな風に考える時期は、とっくに通り越してしまったのだろう。

「俺だって、何回もそう訴えたんだよぉ……俺だけじゃねぇ、周りの奴らだって何人もそういうやつはいたんだ。でも、変なんだよ、あいつのいたシマのチームのやつらも、なんだかバラバラに動いてるみたいだし、何人かは行方不明になっちまったって噂もあって……」
「……あの……シマ? チーム? って、なんのことですか……?」
「ん? ……あ、そうか、巫子サマにゃ、そんな言葉じゃわかんねぇよな……」

 アンタ、本当は遠い世界の人なんだよなぁと言う彼の言葉は、目の前にいるクテラが改めて、別の世界の人間であることを再確認してのものだったのだろう。
 だから、思わずクテラがそこで口を挟んでしまったのも、もしかしたらその青年の言葉に少し、拒絶されるようなムッとするものを感じてのことだったのかもしれない。

「……あ、あの……」

 取りあえず、肩が痛いので放してほしい、と頼めば、慌てたように青い顔で青年が掴んでいた手を放してくれる。
 だから多分、この人自体は本当に、悪い人ではないんじゃないかと思う。

「……その、僕になにか出来るか、と言われても、僕はたぶん、貴方が思っているほど立派でも、権限がある人でもないんです。ですから、お願いされた件に関しても、多分、何の力も持ちません……ただ、」

 ちょっと迷うように目を横にそらしてから、それから、もう一度改めて青年の方に視線を向け直す。
 自分がずっと、どうしたらいいのか迷うように不貞腐れた顔をしていることに気が付いて、慌てて笑った。

「……折角、森から来てくださったのに、ただ帰ってください、というのも忍びありませんし……よかったら、その……ナインと直接、お会いになっていかれますか? ……お友達、だった方なんですよね……?」
「……あれ? そういや、なんでアンタ、一人で出歩いてるんだ? あいつ、護衛なんだろ? 鎖で繋がれて、無理やり言うことを聞かされてるんじゃなかったのか?」
「……い、色々あって、僕にもよく分からないんですけど、ええと、別行動中というか……僕も彼がどこに行ってるのか知らないんですが……」
「……ハァ!?」

 驚いてばかりだったクテラに変わって、今度は青年の方がいささか、オーバーリアクションに驚いて口を開く。

「……………………強制従属刑って、そういうもんなのか?」
「うーん……なんか、段々と僕にもよく分からなくなってきてしまいました……」

 会ったばかりの人にまでこう言われてしまうんだから、いったい、自分たちはどうなっているのだろう。
 だが、クテラにはその疑問に答えられるだけの回答すら、持ち合わせがないのだ。
 ナインのことも、従属契約の詳細も、なにも知らないままにただ、言われるがままにハイデルベルクにやってきて、ただただ言われたことだけを何も考えずに遂行してきた。
 自分の中は、こんなにもからっぽで、小さな疑問一つにすらろくな答えを返せやしない。

◇ ◆ ◇

 結局、会っていくかと提案してみたところで、ナインが帰ってこなければ何が出来る訳でもない。
 帰りついた宿はすでに酔っ払いたちが祭りの終わりを惜しむだけの騒ぎに変わり果てていて、宿の主人が何も言わずに、取り分けておいてくれた二人分の料理と、余り物のケーキをクテラに預けてくれた。ついでに、見慣れないだろう客を軽く紹介して会釈する。
 ここの主人にはクテラの故郷の方から話が通っているので、あまり説明を必要としないのは何につけてもありがたいことだ。

「いいよ、一応アンタ、森と里の大事な巫子サマなんだろ? ナインが帰ってくるまではまあ、護衛代わりだと思ってくれよ」

 つれて帰ってくることになってしまった客人を部屋に案内して、彼の釈明(と言う名のまあ、大半は思い出話なのだけれど)に耳を傾けながらお茶を入れる。
 とは言っても、いつになれば帰ってくると言うあてがある訳でもない。
 気が付いたら、長旅の疲れと話疲れが重なったのだろう。あの名も知らない青年はいつもクテラが使っている寝台の上で、すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てていた。
 まあ、無理をするのはよくないし、続きはまた明日にでも聞けばいいのだ。彼が明日、どうするつもりなのかは分からなかったが。

(……明日になってもナインが帰って来なかったら、僕、どうなるのかな)

 脱走されたとなれば、今度こそ間違いなくクテラ自身の責任問題になるだろう。儀式の時とは違う、本物の自分の責任、というものと向き合わなければならないのだ。
 明日のことがどうなるのか、それは誰にも分からないし、クテラ自身、今はあまりそのことを考えたくない。
 眠気覚ましに、と、控えめなテーブルランプの明かりと一緒に取り出した日記の内容も、とてもではないけれどまとまりそうになかった。

◇ ◆ ◇

 腰のあたりになんだか、狭い場所に無理やり押し込まれているような狭っ苦しさを感じる。
 その窮屈さに負けて目を開けると、カーテンの隙間からは朝の光が漏れていた。
 せまっ苦しさの原因は、着の身のままで寝てしまった服の中にあるらしく、アンダードレスの下が異様にもぞもぞする。いや、それ以前にあれだ、ドロワーズがずり下がってるときのあの独特の感覚がする。

「……はへ……?」
「……うおっぷ……お、うわああああああああ!?」

 後ろで変な音がする、と思ったら、どうも例の人が起きようとして寝台から転がり落ちたらしい。が、その後の悲鳴は何だというのだろう。驚いて身を起こそうとして、そこでクテラは自分が机ではなく、寝台に横になっていることに気がついた。

「……あ、アンタ……じ、人狼族だったのか? え、あ、いや、でもアンタ巫子……へ……?」
「……あ……う、え……はぷ……?」

 違和感の正体は、ふわふわだった。
 ドレスの下でひょこひょこと揺れている、このフワフワはなんだろう。
 だが、何よりも問題なのは、ベッドから転げ落ちている青年がクテラの顔の方を思いっきり、指差しているということだ。
 慌てて寝台から飛び降りて、隣の部屋の鏡の前へと駆け込む。
 顔は別に、普段通りの自分だと思う。ただ、どうして鏡の中の自分の目は、爛々と満月のような金色をしているのだろう。そしてどうして本来、人間の耳がついているべき部分から、狼のものと思しき耳が生えているのだろう。
 頭の中が真っ白になって、思考が労働基準法違反を訴えてストライキをおこし始める。
 何が起こったのか、理解し始めているはずなのに理解できなかった。

■ 十八日目


 何でも好きなもの、頼んでいいぞと言われて、そこでクテラはぴたりと硬直した。
 注文ってなんだろう、とか、お外なのにお店なんて変なの、とか言いたいことは色々とあったのに、それも上手く言葉にならない。
 お屋敷の中なら、――と二人だけならいくらでも言葉が出てくるのに、――が外に連れ出してくれて、周りにいろいろな人がいるのを見るとダメだ。変なことを言いたくないし、変な奴だと思われたくない。

「……なんだよ、どうかしたのか? クレープ、食べたことないって言ってただろ」
「……わかんない……」

 どうしたらいいのかよく分からなくて、結局、そんな言葉しか出てこなかった。
 ――はそれを聞いて、困ったような呆れたような顔をしたけれど、結局、屋台の店主に向き直り、ざっとメニューを見渡してぴしっとその内のひとつを指差した。

「親父、苺とバナナとチョコのやつ、くれ」
「なんだぁ、坊主、小遣い足りんのか? 彼女の前だからって見栄張りすぎるなよ」
「ばっ、ち、ちげーよ!! よけーなこと言うなよ、商人の風上にもおけねーぞ!?」

 随分マセたクソガキだと、笑いながら店主がクレープをクテラの方へと手渡してくれた。

「――は、食べないんですか?」
「いーんだよ、俺は辛党だから」
「……カラトー、ってなんですか?」
「辛党って言うのはな……」

 これがクテラの一番最初に食べた、クレープの思い出だ。
 あまり上手に食べられなくて、チョコレートソースと生クリームでべたべたになったクテラの顔を見て、――は面白おかしくてしょうがないというように笑っていた。
 当然だが、クテラはもう、覚えてはいないのだけれども。

◇ ◆ ◇

「うう……お、終わりました……」

 精神的にヘロヘロになったクテラが隣の部屋から出てくると、机の椅子を陣取る名前も知らない青年と、寝台に座って微妙そうな顔をしているナインとが一斉に振り向く。
 二人してじろじろとクテラの様子を眺めた後、口数が多いらしい青年の方がホッとしたような溜息をつきながら口を開いた。

「なんだよ、随分かかったなぁ。大丈夫なのか?」
「た、たぶん、取りあえずこれで……でも何分、しっぽ穴なんて開けたの初めてなので、上手く出来てるのかよく分からないです……」
「……ま、まあ、確認する訳にもいかねぇしなぁ……その内、ちゃんとそういう、専門の店行った方がいいぞ。ここはでっかい街らしいから、ちゃんと獣人専門の服屋もあるっていう話だし……」
「はい……」
「……本当に大丈夫なのかぁ? 巫子サマってのはもっと、厳格で、しっかりしてるもんなんだと思ってたんだけどなぁ……」
「……」

 返す言葉もない。普通、白の里の巫子と聞いたら多分、みんな同じような想像をするのだと思う。踊りよりもかけっこが得意な巫子だなんて、前代未聞なのだ。
 けっきょく、朝になったらナインは帰ってきていて、おまけに、床で寝ていたらしい。机で寝ていたはずのクテラが寝台の上にいたのも、どうも、ナインが運んでくれたせいだったらしい。
 本当なら募る話もあるだろうに、起きてからクテラが大騒ぎしてるせいで、なんだかんだでこんな時間だ。まさか自分で自分のしっぽ穴を手作りする日が来るなんて、当然だが考えたこともなかったのだ。

「あー! ほら、アンタ、油断するとスカートめくれるって」
「へ、え、え、わ!?」

 まだ自分に尻尾がある、と言う感覚に慣れないせいで、気が付くと無意識で動かしてしまうのか、クテラの尻尾は持ち主の意に添わず、勝手に揺れて、勝手に動く。ので、先ほどから度々、スカートの裾はまくれるし勝手に壁や家具にぶつかって痛いしで、とにかく良いことがない。
 別に、下にきちんとドロワーズをはいているから普段なら問題はないし、協会からの依頼や大会のことなども考えて実際、そのためにはいている訳なのだが、今回はちょっと訳が違う。
 なにせ、しっぽ穴なんて開けるのが初めてで、最初に作った穴は小さすぎるし、次に一回り大きくしてみようとしたら大きく開けすぎたりで、クテラの尻尾付近は今、ちょっと残念な感じになっているのだ。
 慌てたようにスカートを抑えようとしてくれる青年と、思わずスカートの裾を抑えて屈みこむクテラと、構図にしてみればただ、それだけのことのはずだった。

「み、みみみ見ないでください!」
「ぐえっ!!」

 思わず、スカートの裾を抑えて屈みこむ。クテラがやったのは、本当にただそれだけのことのはずだった。
 それなのに、慌てて腕を伸ばしクテラに近づこうとした青年は次の瞬間、驚きの声を上げて何かにはじかれたかのようにひっくり返ったのだ。

「……おまえ」
「……へ?」

 遠巻きに唖然とするナインの方へ、ぼんやり視線を向ける。
 自分と、ナインと、倒れた青年とを、薄く発光したガラスにも似た障壁が遮っていた。クテラはたぶん、何度か、これと同じ光を見たことがある。

「これって、確か、人狼族の方が……御霊さまが得意にしてた術の……」

 人狼族の人間が生まれながらにして行使する力のいくつかは、精霊術でいう所の増幅術に酷似している。これは一部の魔物が生まれながらにして持つ、精霊力に準じた力のようなもので、人狼族には生まれながらにしてその爆発的な身体能力から、増幅術と似たような力を行使する者が多い。
 クテラの周りを遮っている光は、御霊が特に得意とした『拒絶による不可侵領域』の術と同じ術のように見えた。

「……あれ? えっと、でも、なんで、御霊さまが、術……?」

 と、そこに至ってクテラは気がついた。
 御霊が、『巫子の前でこんな物騒な術を使うことなんてない』はずだ。
 魂を分かち合う術をかけられる時もクテラは眠っていたし、なくなった魂を補ってもらう術すら、魂を半分失って昏睡状態だったクテラは見た記憶がない。
 御霊は決して、巫子をそう言った荒事に巻き込まなかったはずだ。

「……でも、そうだ、たしかに、御霊さまが使ってた術と一緒で……ちがう、御霊さまが僕の前で術なんて使うはずないし……」

 あれは、いつのことだったろう。
 いつもの部屋、開いたドア、見覚えのない複数人の大人と、倒れている――と、御霊様と、

「……う、っと? あ……う……へ?」

 頭の中で記憶がぐるぐる、変な渦を描いて歪みだして、耳の奥からきぃんと言う耳鳴りが鳴りやまない。何かを思い出そうとしていたはずなのに、何を考えていたのかがすぐに分からなくなって、目の前が真っ暗になりかける。

「……おい!」

 腕を掴まれた。
 ビックリして顔を上げて、それから、ようやく自分の周りから壁が消えていることに気が付く。
 腕を掴んでいるのは、ナインだった。

「いいから、落ち着け」
「……あ、は、はい……」

 ビックリした。ナインの方から目を覗き込んでくるなんて、あんまりないことだ。
 ただ、驚いたのが逆に良かったのか、耳鳴りはやんで頭の奥がぐるぐると渦巻くような感覚もなくなり、ぐるりと周りを見渡すと、ひっくり返った青年がどうにか体勢を立て直し、ナインは何も言わずに無言で掴んでいたクテラの腕を放した。

「……っててて……すげぇな、あんた……見た目だけじゃなく、マジで人狼族の能力まで……」
「……」

 打ったらしい頭を押さえながら、まじまじ、クテラを見つめる青年の視線に、思わず顔をうつむかせる。
 姿が変わっただけでもしばらく、事態を把握するのに時間がかかった。何もしっぽ穴を開けるだけでそんなに時間をかけた訳じゃない。手が震えて、はさみをしばらく、まともに持てなかっただけだ。
 その上、御霊と同じ術をまったく意識せずに行使できるようになっていただなんて、本当に自分はどうなっているのだろう。

「……なんだよ、急にしおらしくなって」
「あ、い、いえ、その……」

 うつむいたクテラが黙り込んだことを心配したのか、オロオロと声をかけてくる青年に、慌てて顔を上げて口を開く。
 黙り込んだままでは、彼だってナインだって、どうしたらいいのか分からないのだろう。

「……昔は、御霊さまやお屋敷の周りの衛兵さん達に、みんな尻尾や耳があるのがすごく羨ましくて……自分にもあったらいいのになぁ、って、すごく憧れだったんですけど……」

 手を伸ばして、自分で自分の耳を確かめてみる。実際に自分で耳を持ってみて驚いたのは、驚くほど耳自体にそこまでの感覚がない、ということだ。これなら、ナインが耳にピアスを通している理由にも何となく、納得がいく。
 代わりに、しっぽの方はちょっとした空気の動きや風も気になるくらいで、少しでもぶつけるととにかく痛いし、ビリビリするしでとにかく気を遣う。
 鼻も、耳も、今まで聞こえなかったものが聞こえて、分からなかったにおいが分かるようになった。
 そういうのは少しずつ慣れるし制御できるようになると言われても、今はさっぱり手に負えないままで、自分で感じる自分のにおいすら今は嫌で嫌で仕方がない。
 自分はこのまま、どうなってしまうのだろう。

「……でも、このまま御霊さまの魂に惹かれて、本当に魔物になってしまったら……僕には、巫子の資格がなくなってしまうんですよね……」

 青年はクテラの様子を伺うように近くに屈みこんだまま、何も言わない。ナインは元いた寝台の上に、こちらに背を向けて座っている。何を考えているのか、何を思っているのか、その表情は伺いしれない。

「……僕、本当にこのまま、魔物になってしまうんでしょうか……」

 答えを返してくれる相手は、誰もいない。

■ 十九日目


 見送りは、乗合馬車の集まる乗り場だった。
 突然現れた青年は、帰るタイミングもやはり急だ。
 急ごしらえで体裁だけ整えた紹介状を手に、結局、何の一族なのか聞き忘れた青年がぺこりと頭を下げる。

「……色々と、迷惑かけて悪かったよ」
「いえ……こちらこそ、お力になれず……」
「いいって。考えてみりゃ、巫子サマに『脱走手伝ってくれ』って言ってるようなもんだったしな……話聞いてもらえただけでも、なんつーか、少し、落ち着いたよ。紹介状も、ありがとな。……帰ったら、まあ、もうちょっと何とか、お上の方に話が通らないかやってみるよ」
「……すみません、本当は僕からも直接、進言できるといいんですが……」

 クテラの方からあちらに連絡できる手段は、非常に限られている。
 宿の主人に声をかければ恐らく、各地の御霊の配下を通じて森へと連絡を取ることは出来るのだろう。それ以外では、長老会の方からの連絡を待つ以外にクテラが知る術はない。
 そして多分、クテラが連絡を取ろうとするよりも早く、この紹介状を持った青年が向こうに到着するはずだ。

「いいよ。俺が思ってたより、あんたの周りってけっこう、シビアっつーか、放任主義なんだな……」
「ほ、放任と言うか……あんまり、あちらを頼ってばかりでは、修行になりませんし……」

 愛嬌のある顔でにこにこ笑う青年がぽんぽん、と何度かクテラの頭をなで、それからナインの方へと向き直った。

「悪かったな、騒がせちまって」
「まあ、お前は昔っからお騒がせで早とちりな奴だったからな……」
「だってよ、マジでおかしいんだって……あれはビビるよ、誰だって」

 しみじみ、ナインがいなくなった後のチームの混乱ぶりを振り返りながら、青年がうんうんと頷く。

「……いなくなった奴らの件、分かったら、連絡するよ」
「……ああ」

 ナインの友人たちが何人か、行方不明になっている、と言う件についてはナインもひどく気にしているらしく、表情は曇りがちだった。何か、進展があればいいと思う。

「元気出せよ。なんか、お前がそんな静かだとこっちも調子狂ってさ……ずっと別人みたいで気持ち悪いぜ、おまえ」
「ほっとけよ。この状況でいつも通りの方が気持ち悪いだろ……」
「そりゃ、そうなんだけどさ」

 ナインがいない間に、いくらか、彼はナインがいた頃のダウンタウンの話をしてくれた。
 初めは一応、彼の訴えの内容に耳を通す、と言う建前だったのだが、その大半はナインと彼の所属していたチームが管理していた縄張りにまつわる思い出話であり、つまるところそれは、クテラが知らないナインの昔話だった。

「じゃあな、また」
「おう」

 故郷からも遠く離れた土地での別れだというのに、ナインと青年の別れは意外なほどあっさりと気負いのないもので、それがクテラには意外で仕方がなかったのだが、それはナインに言わせれば『ダチって言うのはそういうモン』らしい。
 青年の乗った乗合馬車が走り出すまで、手を振って見送ると、やがて走り出した馬車が門の向こうへと見えなくなっていく。

「なんだか、バタバタ落ち着かないクリスマスでしたね……」
「何だったんだろうな、本気でな……」

 妙にしみじみと実感のこもった言葉で、ナインが重いため息とともに言葉を吐き出す。ナインはナインで何やら大変だったらしいのだが、その辺りについてはクテラには何も事情説明がないままだ。「そういえば、結局、昨日の用事ってなんだったんですか?」と尋ねては見たものの、返ってきたのは歯切れの悪い「後で適当に話す」の一言だった。

「でも、良かったですね。お友達が会いに来てくれて」
「お友達って言うほど良いモンでもねぇけどな……ありゃあ腐れ縁って言うんだよ」
「でも、あの人、ナインのお話たくさん聞かせてくれました」
「……」

 彼が寝るまでずっと、クテラは彼の話に付き合い、耳を傾けていた。
 彼の思い出話の中のナインは、クテラの知るナインとはまるで別人だ。
 強くて、他に類を見ない腕っぷしを誇る人狼族。騒がしいことや楽しいこと、人が多い場所が大好きな無類のお祭り好きで、とにかく固っ苦しいことを好まず、馬鹿騒ぎがあれば喜んで飛び出していく。
 いっつも面倒くさがりなふりをして軽口を叩いている癖に、自分のチームメイトや縄張りに何かあれば慌てて飛び出す。慕われ、いつも友人たちに囲まれていた。
 そこにいたのは積極的で、人好きで、面倒見が良くて、毎日の生活を心の底から楽しんでいる、ハイデルベルクでは見ることができない本物のナインの面影だ。

「あの人はナインのこと、冤罪だって言ってました。あんなの何かの嘘だって」

 話を聞いている内はただただ、自分の知らないナインを知りたくて夢中だった。
 それなのに、聞けば聞くほど、話が進むほど、不思議とこみ上げてくるのは訳のわからない不安や焦燥感ばかりで、今のナインが昔のナインとは別人のようだと知る度にどうしようもなく悲しくなった。
 クテラの知るナインはただ淡々とクテラの意向を待つ、少しばかり底意地の悪い、諦めたように口を閉ざし本を読んでいる青年だ。
 そこに、日々の暮らしを謳歌している幸せそうなナインの姿はどこにもない。クテラが知らないナインの姿を知る度に、どうしようもなく気持ちは落ち込む。
 青年が眠りについたあと、クテラは誰も見ていない寝室の片隅で少しだけこっそりと、悔しくて泣いた。
 どうして泣いたのか、自分でもよくは分からなかった。

「……僕、そんなこと、考えたこともありませんでした。御霊さまや長老さまたちが間違ってるかもしれない、なんて」

 見送りの終わった乗り場を離れて、街中の人混みに混ざるように通りを進む。通りの人々の何人かは、ぎょっとしたようにクテラとナインの方を振り返り、クテラの持つグリップとナインの首輪とを見比べる。

「ナインは、」

 その先の言葉が、続くはずもない。
 本当に罪を犯したんですか、なんて、それが本当だったとしても、冤罪だったとしても、ナインにとっては残酷な言葉だろう。
 そも、あの青年にすらナインはその事について、何も語らなかったのだ。クテラが尋ねたところで、答えてくれるとも思い難い。
 出会ったばかりの頃、今と同じような言葉をクテラはナインに、無遠慮に投げかけた。それが出来なくなってしまったことが良いことなのか悪いことなのか、クテラにはまだよく分からない。

「……僕の魂は、どこにあるんでしょうか。本当になくなってしまったんでしょうか? 誰かに奪われて? それが本当だとしても、ハイデルベルクに出てきたことは、本当に正しいことだったんでしょうか?」

 出てくるときは、こんなこと、考えもしなかった。ただ、言われたとおりに御霊さまと長老会の言いつけを守り、巫子として立派に使命を果たせばいいのだと思っていた。一緒に旅をする相手のこと、自分の身に起こったこと、ここで何を果たさなければならないのかと言うこと。
 ぜんぶ、こちらに出てきてから初めて気が付いたことばかりだ。

「……僕はもっと、ちゃんと御霊さまや長老さまに、たくさんのことを聞いておかなくちゃいけなかったんでしょうか」
「……今更だろ」

 返ってきた答えは端的だった。
 こういった話をしているときにナインから返事が返ってくることは稀だったので、返事があることに驚いて思わず、立ち止まって後ろを振り向く。

「ここで口数だけどうこう重ねたところで、何が変わる訳でもないんだ」
「……」

 それが、ナインが何もかもを諦めたように口を閉ざしている理由の一旦なのだろうか。
 冤罪を訴えに来たのだと言う、あの青年を目の前にしたときも、ナインは驚きこそしてはいたようだが、そこからは助けが来たのだという喜びや自分の冤罪を主張するような希望は、何一つとして感じられなかった。

「……えっと、あ、その……あ! く、クレープ、買って帰ってもいいですか?」

 別にクレープが食べたくて口を開いたわけではなかったのだけれど、何を言ったらいいのか分からないまま、この居心地の悪さを何とかしたくて、つい目についた屋台に話題をすり替えてしまった。
 いや、好きは好きなのだ。ただ、別に何もこんなタイミングでそういうことを急に言い出したかった訳ではない。
 訳ではないのだが、あのままナインと、同じ話題を引きずる勇気はなかった。ナインが口を開いてくれることは、今までなら例外なく、たとえそれがどんな意地の悪い言葉でも嬉しかったものだ。
 今はただ、ナインの言葉が怖くて仕方がない。

「……アンタ、巫子サマのくせに、変なもんが好きなもんだな」
「はい、ええと……あれ? ……えっと、何でだったかな……なにかで食べさせてもらったと思うんですけど……」

 そも、ずっと屋敷の中にいたから、手掴みで食べるようなクレープなんて食べた経験があるはずもないのだが、それとも、里に降りられるようになってからのことだったろうか。
 だが、それもやっぱり、ちょっと違うような気がするのだが。

(誰かの隣で、誰かに買ってもらって、誰かが笑ってて……)

 御霊さまではなかったと思う。御霊さまのお土産はいつも、綺麗で美味しいケーキやシュークリームで、屋台で食べるような手掴み用のクレープなんて、とてもではないけれど縁のある人ではなかった。

「ナインはクレープは……辛党なんですよね」
「買うならさっさと行って来いよ」
「はい、すみません」

 謝って、店の方へ歩み寄ると、屋台の主人へすみません、と、決めてあった注文と一緒に声を掛ける。

「苺と、チョコと、バナナのクレープください」

 クレープと言ったら、やっぱりこれだとクテラは思う。どれか一つが抜けていても物足りないし、余計な具が入っていても何かが違う。
 これを食べると、ああ、この味だ、と安心する。

「……ナイン、お待たせしました……どうかしたんですか? なんで、ビックリしてるんですか……?」

◇ ◆ ◇

 結局、次の日の朝にはクテラの耳もしっぽも、きれいさっぱり消えていた。
 いたって当たり前の人間の耳に、しっぽの生えていない当たり前の尾てい骨。鼻も耳も、痛いほど聞こえたり辛いにおいに耐える必要がない。
 そんないつも通りの姿に戻ったクテラが、夢中で机に向かっているのを見て、ナインが背中から覗き込むように顔を覗かせる。

「わー! わー! み、みみみ見ないでください……」
「……今度は何をやらかしたんだよ」
「……うう……パンツ……しっぽ穴をあけちゃったので……縫い直さないといけなくって……」

 ばっと両腕で机の上を覆い隠そうとしたせいで、端の方に置いてあった何かが床の上に落ちて、ナインがそれをひょいっと指でつまみあげる。

「……なんだこの犬」
「い、犬じゃなくて、狼さんです!」

 どうやら、狼のアップリケだったらしい。
 状況だけ見るに、これがその穴を縫い直すための材料なのだろう。

「……お前、心底残念なものしか着てないよな……」
「し、心底残念ってどういう意味なんですかー!?」

 怒ってるのか悲しいのかよく分からない顔でクテラが叫ぶと、ひどく嫌そうに顔をしかめたナインがこめかみから額の辺りを手で押さえる。
 そのまま、ふらふらと寝台の方へと歩み寄り、めずらしく疲れたように毛布の上からばたんと横になってしまった。

「……な、ナイン、どうかしたんですか?」

 いつもならあまり見ないナインのその行動に違和感を覚えて、椅子を立ち上がると小走りに駆け寄り、前髪をかき上げるようにナインの額へと手を伸ばす。

「……ね、熱があるじゃないですかー!?」

■ 二十日目


「宿のご主人にお願いして、厨房、貸してもらったんです。卵のお粥なら食べられるかと思って。まだ熱いから、ここに置いて冷ましておきますね」

 卵粥の入ったボウル皿を、ことりと音をさせて机の上に置いた。
 もう片方の手にぶら下げていた果物籠はそのまま、ナインが寝ているベッドのそばに置いた椅子まで持って行って、膝の上に乗せる。籠の中から林檎を一つと、平皿を一つ、果物ナイフを一つ取り出して、林檎特有のどこか爽やかな音を聞きながら、まずは四等分に切り分けて芯を抜く。
 そのまま何度か、皮にナイフをいれれば完成だ。

「林檎、食べられそうですか?」
「ああ……っつか、なんだよ、それ……」

 苦しそうに横になっていたナインが、横に来たクテラに気がついて半身を起こすと、ひどく不審げに皮むきされた林檎の乗った皿を指さした。

「……? あれ、ナイン、知りませんか? 林檎うさぎ……」
「そっちは見りゃ分かるよ。じゃなくて、こっちの何だかよく分からんブッサイクな方だよ」
「そ、それはブサイクなんじゃなくて、林檎オオカミさんです……」
「……仲良く食われるのか?」
「ど、どうせなら、可愛く切りたいと思ったんです! ナインだって、ただの林檎よりそっちの方がいいかなって……」
「胃の中に入りゃ一緒だろ……」
「……うう……」

 風邪で絶賛、待機中なのに、言うところだけはきっちり言うらしい。
 おまけに食欲もそこまでは落ちていなかったようで、クテラが剥いた林檎まるまる一個分が無事、ナインの胃袋に収まった。

「あークソ……だりぃ……」

 再びベッドのシーツに背中を預けたナインが、気分が悪くてたまらないといいたげに頭の辺りを抑えながら、心なしか悲しげに天井を仰ぐ。

「……これが天寿って奴か……?」
「何もそこまで悲観しなくても……ただの風邪ですから、大丈夫ですよ。人狼族の方はこういう経験がないから、大変なんだと思うんですけど……」

 能力を封印され、人間同然の身になったばかりのナインは、風邪もロクに引いたことがなかったのだろう。
 クテラの暮らしていた故郷では昔から、人狼族は病を知らないことで知られている。
 いくつかある人狼族の発祥の一つに、ウィルス感染による病の一種だ、という説が古くから存在するくらいだ。
 そのためなのかどうなのかは定かではないけれど、人狼族は昔からとにかく、病気を寄せ付けない鉄の肉体を誇ることで知られていた。まあ、口さがない者などは「馬鹿は風邪を引かない」などと表現することも、ままある。
 代わりに、人狼族に特有の病気と言うのも何種類かあって、ワクチン接種やら何やらで彼らもそれなりに大変ではあるらしい。

「ウィルスだか何だか程度で寝くたばってたら、あの街で生活してける訳がねぇだろ……」
「……そうなんですか? 僕はよく、風邪にかかる方だったので分からないんですけど……」

 クテラが子供の頃は風邪を患いがちで、雪が降り始める季節になる度に何度となく熱を出すことが多かった。
 そのたびに御霊や各種族の長老たちがオロオロと駆けつけては、人間の子供とはなんと脆い生き物なのだと心配そうにクテラの顔を覗き込みに来てくれたものだ。子供のうちはとにかく無理をするな、きちんと身体を成長させるのが大事だと、長老たちが代わる代わる、口々にそう言っていたのをよく覚えている。

「でも、無理は良くありませんよ。ナインだって、まだまだ子供なんですし、無理をすると成長に差支えますから。……でも、ナインは結構、成長が早い方ですよね」
「……アンタだって、アークルード族の中じゃたいして年いってる方じゃねーだろ……」
「人間年齢で数えるなら、少なくとも僕はナインよりは年上です」

 人狼族の寿命は、平均してだいたい200年だと言われている。肉体的な年齢も、精神的な年齢も人間より時間をかけて成長する上、成長速度は個体差が大きいため正確な年齢が他の種族よりも測りづらい。
 ただ、精神的な年齢は平均して年齢を二分の一した程度の速度であることが多く、だいたいその辺りを基準にして、人狼族の年齢は人間基準に換算される。
 クテラが預かった書類によると、ナインは25才らしいからだいたい、人狼族として人間に精神年齢を換算すると12〜13才。クテラの見たてた範囲ではナインは成長が早い方なのでおそらく、ここに2〜3才加算して14〜15才前後といった所なのだろう。
 肉体年齢はまた成長速度がまったく別で、子ども時代が長い代わりに、人狼族はある時を境に急に成長したりもする。ナインはまだ成長期の頃合いのようだから、たぶん、今が18才前後になるんのだろうか。このまま伸び切れば、2メートルくらいまでは育つのかもしれない。
 彼らは戦士としてはこれ以上なく優秀な種族である代わりに、その成人までには人間の倍以上のコストと時間がかかるのだ。だからこそ、彼らは黒の森の守護者として大成したわけなのだが。
 逆に言うと、黒の森でも有数の栄華を誇る種族として有名な人狼族で、ダウンタウンに降りる者は珍しいと言える。

「ナインは、その……ダウンタウンの方の出身なんですよね? 前に、少しだけ言ってましたけど」
「……ああ、そうだよ。あんたは見たことないんだろうが、まあ、ろくでもない街だったな」

 一瞬、ちらりとクテラの方へ目を向けたナインが、またすぐに天井の方へ視線を戻すと、ふっと思い出すようにため息をついて一言、付け足す。

「でもまあ、アンタや上の奴らが暮らしてる街に比べたら、あの街はずっとマシな方だったのは間違いない」
「この間、来てた人が言ってました。ナインはいっつも楽しそうだったって」

 ナインにとってはきっと、ダウンタウンは良いところだったのだろう。あんな遠方から、友達が駆けつけてくれるくらいだ。ナインにとってはきっと、他の何物にも代えがたい物が沢山ある街だったに違いない。
 もちろん、クテラにとっての白の里もそうだ。ナインにとってはつまらない街に見えたのかもしれないが、あの街はクテラに取って、御霊や長老たちから受け取った恩義と愛情の象徴だ。クテラ個人へ向けたものだけではない、各種族の長達がそれぞれに違う眼差しから注いだ気遣いと情で、あの街は成り立っている。
 ナインとクテラでは、立場も見えているものも違うのだ。生き方が違えば人生も、価値観も違う。最近、ようやく少しだけ、クテラにはそれが分かるようになってきた。

「……妙なこと吹き込まれただろ、おまえ」
「みょ、妙なことなんて吹き込まれてません。ただ、昔のお話を聞かせてもらっただけです」

 本人のいないところで勝手に話を聞いてしまった手前、微妙な気まずさは残っているのだが、別にナインが隠したがるような話はされていない、と、思う。

「……そういえば」

 ふと、そこに至ってようやく、クテラは気にかかっていたのに今の今まで、尋ねられずにいた疑問を一つ、思い出した。

「ナインは……ダウンタウンにいた頃から『ナイン』だったんですか?」
「……は?」
「え、あ……えと、ほら、あの人、ナインのこと『ナイン』って呼んでたじゃないですか。僕てっきり、ナインのナインは受刑者ナンバーのことだと思ってたんですけど……あの人もナインのことをナインって呼ぶから、あれ? って思って」

 唐突なクテラの疑問に、話の流れをつかみ損ねたのだろう。
 呆れたようにあからさまな疑問を浮かべるナインに、慌ててクテラが言葉を捕捉することでようやく、クテラの思考の流れというか、疑問の発端が伝わったらしい。

「ああ……まあ、あの街でのあだ名だよ。人違いばっかされるんで、違う、違うって答えてたらまあ、ナイン(Nein)って呼ばれるようになってただけだ」

 聞いてみれば、なんとも呆気ない理由だ。
 言われてみれば確かに、クテラの暮らしていた白の里と、ナインをはじめとする魔物が暮らす黒の森の側とでは、微妙に言語圏が異なる。クテラに言わせればナインは9番だが、ナインにとってナインは否定だ。
 他にも、クテラをはじめとするアークルードの巫子やアークルード族にまつわる古い文化全般ではまた別の言語が使われていて、こちらはもう、巫子を取り巻く環境に一部、残っているだけでほとんど使われていない古代語と化している。

「……受刑者ナンバーとやらと被ったのはまあ、ただの偶然だな」
「そうなんですか……なんだか、すごい偶然もあるものなんですね」
「まったく、頭の痛い話だけどな。……クソ、本当に頭痛がしてきやがった……」

 頭を苛む痛みが鬱陶しくてたまらない、というように顔をしかめるナインに、クテラが慌てて椅子を立ち上がり、ベッドの近くのサイドボードへ歩み寄る。

「……わ、わ、大丈夫なんですか? さっき、ナインが言ってたお薬屋さんでもらってきたお薬、開けますか?」
「メシ食わないで飲むわけにもいかないだろ……そこのやつ食ったら後で飲むから、適当にその辺置いといてくれ」
「うー……わかりました……」

 引き出しから取り出した薬をサイドボードの上に置くと、少し困ったように逡巡したあと、ナインの眠る寝台のふちに手を置いて、クテラがナインの額へと手を伸ばす。

「いたいの、いたいの」

 額には触らず、少し浮いた位置をくるくると回る腕がそこで、続きの呪文に困ったようにピタリと一時停止する。
 中途半端なところで止まった言葉を不思議に思ったのか、うろんげにクテラの方へ視線を向けるナインとばっちり、目を合わせて、どうしよう、というように首を傾げながらクテラが続きの言葉を口にした。

「……こっちこーい?」
「なんでだよ」

 反応は、即答だった。

「おかしいだろ。普通そこは『とんでいけ』だろ」
「え、でも、痛いのがどこ飛んで言っちゃうか分かりませんし、飛んで行った痛みが誰か他の人の所に行っちゃったらと思うと、あんまり無責任なことも言えな……」
「なんで律儀に見ず知らずのいるかいないかも分からない他人心配してんだよ……」

 疲れたように息を吐くナインが、ああ、まったくと頭を掻きながら、再び、面倒くさそうに大仰に半身を起こす。

「……粥だ、粥。食うから、持ってきてくれ」
「はい、じゃあ、今お持ちしますね」

 けっきょく、卵粥も最後の一口まできれいにナインの胃に収まった。