■ 十一日目


 朝の市場に溢れかえる人波の中を、へたくそな足取りで人を避けながらクテラが先導し、その後ろをやる気のないそぶりでナインが歩く。
 人の出も多かったが、それ以上に店先や露天に並ぶ品数の多さ、種類の豊富さはそれだけで道行く人間を圧倒するだけのものがあった。当然、クテラが初めて見るような品物も多く、つい視線がさまざまな商品の間を行き来してしまう。
 以前は、外の物を見聞きするのはなんとなく、巫子として間違っている姿勢なんじゃないかと気が咎めたのだが、キヤと話をしてからは少し、外を歩くのが楽になった。外で生きていく上で必要なものか、確かめるために手を伸ばすことは、そこまで悪いことではないのだと思いたい。

「……」
「……なんだよ」
「あ、いえ、その……あの、あそこの……大きな傘がついた、花がいっぱい添えられている箱はなんなのかな、って思って……」

 思いっきり余所見をしながら歩くクテラを、ナインがじろりと睨みながら『前を向いて歩け』と言うように鎖を軽く引っ張る。
 野営に使うための携帯食や調味料の補充に来たはずなのに、つい見たこともない物に気を取られてしまうクテラは、余所見にかまけて余計な時間を浪費しがちだ。
 だが、驚いたことに面倒くさそうな面持ちを崩さないナインの口からは、意外にも丁寧な返答が返ってきた。

「……ありゃあ手回しオルガン、楽器の一種だな。あの箱から出てるハンドルを回すと、回す速度に合わせて決まった音が流れる。大道芸人なんかが、人集めをする前に鳴らしたするのに使ったりもするな」
「大道芸人! ……この辺りにも、来たりするんでしょうか?」
「ありゃあ飾ってあるだけだろ。……ハイデルベルクくらいデカい街なら、サーカスの一つや二つは来てそうな気もするけどな」
「へー……すごいなぁ、どんな音楽が鳴るんでしょうか……」

 物知らずを呆れられるか、面倒くさがられてまともな答えも返って来ないのどちらかだと思っていたのだが、ナインの返答はそのどちらの感情も含まず、いたって真面目なものだった。
 そのことを意外に思いながらも、同じようなことを二・三回ほど繰り返すうちに、気がつけば目に入るもの惹かれるもの、気を引かれるがままにあれこれ、ナインへ尋ねるようになってしまった。

「ナイン、あれは何て言う果物なんですか?」
「柘榴。割ると中に入ってる……種衣は分かるか? まあ、要するに中身の赤い実が食える」
「美味しいんですか?」
「そこそこ程度ってところか?」
「……ナインのそこそこ、は、難しい表現です……」

「ナインはあの織物、見たことがありますか?」
「西の方のやつじゃねぇか? 名前は……なんつったかな……」
「西の方の色なんですね……南の方の濃い染め色とも違って、ちょっと淡い感じがして可愛いです」

「ナイン、ナイン、あれ、あの動物、何なんですか!? 首……ながい……もこもこ……」
「あー……なんつったっけな、アレだ、アレ……羊駱駝だ、羊駱駝」
「羊駱駝! うわー……かわいい……ウサギも好きだけど、あの子もかわいいですね……ぬいぐるみとか、あるんでしょうか……」
「……流石にあんなマイナー動物にそんなシリーズ展開があるとは思いたくねぇけどな」

 ナインの回答に耳を傾けながら、しみじみ、周りの状況を見渡せば見渡すほど、今の自分の状況がいかに異常であるかを実感する。

「……外には、不思議なものが沢山、あるものなんですね……」

 昔は、自分は街から出ることなく巫子として御霊に仕えて、そのまま一生を終わるのだと思っていた。
 そう思えば思うほど、ふとした瞬間に街の外にはどんな世界が広がっているのだろうと言う途方もない好奇心に駆られたものだ。
 だから街の外に出ることを勧められた時、クテラは、これは与えられたチャンスなのだと思った。失敗を自らの手で取り戻すと言う意味でも、外の世界を自分の目で確かめられると言う意味でも。
 けれども、実際にこうして故郷を離れて初めて感じるのは途方もない恐怖ばかりなのだ。
 外のものは、怖い。慣れ親しんだ故郷を離れて初めて、クテラはいつも身近にあるものと引き離され、見知らぬものに囲まれる怖さを知った。
 だが同時に、外のものはそれでも尚、やはり少しも色あせることなく魅力的なのだ。
 未知は魅力的だ。だからこそクテラは途方もなく、外のものを怖い、と感じるのかもしれない。

「……魔物って」

 ぽつりとクテラが呟いた言葉は、ナインの耳には恐らく、随分と唐突に聞こえたに違いない。

「人間の力だと、絶対に倒せないくらい強いじゃないですか。精霊協会でも、『精霊力のコントロール以外の方法で魔物に対抗するのは難しい』って、一番最初に教えられますし」
「……また随分と脈絡のねぇ話だな、オイ……」

 呆れたように呟くナインの態度にムッとしたのだろう、少しだけ目を吊り上げてジトーっとナインの方を睨むクテラが、ムスっとした声で反論を試みる。

「だって、人狼は銀の弾丸で死ぬ、なんて言われてるじゃないですか。でも、魔物が精霊術とか、精霊武具とか、精霊兵でしか対抗できない存在なら、どうして人狼には銀が効くのかなって……」

 そこで一度区切ってから、改めてじっとクテラがナインの顔を見上げる。満月色の目は、紛うことなき人狼族特有の狼の目だ。

「ナインも、やっぱり銀って苦手なんですか?」
「……あんた、これなんだと思ってるんだ?」

 答えは端的だった。
 粗野な仕草で、親指だけでくいっとナインが自分の片耳を指し示す。

「あ……」

 人間の耳とはまったく違う、野生動物の毛並みと同じようなあまり手入れのされていない狼の耳だった。片側の耳は千切れたような傷が残ったままで、すこし痛々しく見える。反対側の耳には、大きくて目立つピアス。日の光を反射してきらきらと輝いている。

「そ、そうですよね、なんで僕、こんな大きなピアスのこと忘れてたんでしょうか……」
「いや、こりゃプラチナだけどな?」
「……」

 一瞬、意味が分からなかった。
 へ、と言う声をあげたまま、間抜けにぽかんと口を開けたクテラに向かって、ナインは容赦なくずらずらと事実を並べたてる。

「大体、純銀なんて腐食が激しくてアクセサリーになんか向かねぇだろ」
「……ど、どうして必要のないところで嘘をつくんですか? そんなことされると、困ります……」

 恨みがましいクテラの視線はさらっと無視して、ナインは答えたい部分にだけ答えることにしたらしい。

「ま、あれだな。何の迷信かは知りゃしないが、大方、たまたまその銀の弾丸とやらで撃たれた奴が金属アレルギーでも持ってたんじゃねぇのか? 傍迷惑な迷信残してくれたもんだけどな」
「うーん……そういうものなんですね……」

 そこでじ、っとナインの耳を見つめていたクテラが何を思ったのか、ふっと爪先立ちになって、なんとかナインの耳に触れられないものかと手を伸ばす。
 毛皮が好きなのかと言われればそうではなく、おそらくは変身能力を奪われたナインに残された数少ない人狼族の証明として、クテラはナインの耳や尻尾といったパーツが好きなのだろう。

「お耳。ふわふわですね」

 手を伸ばして、指先でだけ少しばかり、ナインの耳の毛に触れるか触れないかの距離を撫でるクテラのがら空きの横腹を、こちょこちょ、と器用にナインの尻尾がくすぐった。

「わ、ず、ずるいです、こういう時だけ尻尾を有効活用して……!」
「油断大敵ってやつだな」

 飛びのきかけて慌てて横腹をガードするクテラの慌てた様子に、何が面白かったのか、けらけらとナインが屈託なく笑う。
 唇の端を吊りあげて、相手を小馬鹿にするようないつもの意地の悪い笑みでなく、ごくごく普通の、ただ面白いから笑っているのだと言うような笑顔だった。

(……わ、笑った!?)

 一瞬、驚いて目を丸くしてしまったクテラの様子に、ナインが怪訝そうな眼差しを向ける。だが、一瞬後にはクテラがからかわれたことに抗議の意思を示すようにそっぽを向いてしまったので、言及する機会を失ったのだろう。
 そのことに内心でだけ安堵の息を吐きながら、もう一度だけちらりとナインの様子を伺う。いつも通りの、何の変哲もないナインの顔だ。
 流石に、当の本人を目の前にして「皮肉でなく笑っている所を初めて見た」とは、口にできるはずもない。

■ 十二日目


「……冬、ね」

 どこか皮肉気につぶやくナインの声に、商業区の通りを先導して歩くクテラが、へ、とちょっと間抜けな口をしながら振り返る。
 そんなクテラに前を向け、と追い払うような仕草で手を振りながら、鼻先で笑い飛ばすようにナインが唇の端をつり上げた。

「この程度で冬なんざ、笑わせるなって感じだけどな」
「ハイデルベルクの冬は、里に比べると随分と温暖ですよね……でも、そろそろナインも、コートくらいないと困りますし」
「コートねぇ……」

 白の里と黒の森は、ハイデルベルクよりもずっと北の土地に位置している。あちらの冬は雪も積もるし、下手をすれば家籠りを強いられることだって少なくはない。
 だからクテラもナインも、ハイデルベルクの冬にはまだそこまで難儀はしていないのだが、さすがにそろそろ雲が分厚く、重い色をした日が増えてきている。
 寒さを知っているからこそ、寒さへの備えをおろそかにすることは出来ない。

「どっちかっていうと、俺はあんたに自分で自分の服を選ぶなんていう気概がある方に驚いたけどな」
「……そうですか? 僕、ハイデルベルクに出てくるときに、お洋服屋さんが見られるのはけっこう、楽しみにしてたんですけど……」

 最近、すこしだけナインは口数が増えた、ような気がする。
 気がするだけでまったくそんなことはないのかもしれないが、前よりはこういう、どうでもいいような話題が増えたように思う。
 相変わらず相手を皮肉るような笑みで、クテラのことを挑発するような姿勢を崩さないが、それでもだんまりばかりだった当初に比べれば随分と馴染んだものだ。

「首都のお洋服屋さんはすごく可愛いって聞いてたから、一度でいいから見てみたいなぁって。……見ての通り、僕はまだあんまり女の子らしい服や、男の子らしい服は着られないから、そんなにご縁はないんですけど」

 自分のローブの端をつまんで、ぱたぱたさせるクテラが非常に残念だ、と言う顔をする。
 こればっかりはまあ、体型的な問題というやつだ。屋敷にいた頃は服を採寸からあつらえてもらえるから困らなかったが、外に出ればそう上手くはいかない。
 いきなり自分で自分の服を選べと言われても、どうしたらいいものかと迷うばかりだが、それでも自分で服を選ぶと言うのはそれだけで好奇心をくすぐられる響きだ。

「あ! あれ、可愛い……」
「……あんたに着られるデザインじゃないだろ」

 ウェストをしぼるリボンや、きれいに胸を強調する立体裁断のワンピース。
 通りすがるかたわらにショーウィンドウを指をさして、あれが可愛い、これが可愛いと言うだけでもそれなりに楽しいのだが、ナインはその辺りの感覚がいまいち理解できないらしい。
 真面目に選ぶ気がないのかと言いたげなナインに、クテラがむっとしながら応戦する。

「さすがに一応、それくらいは分かります……そうじゃなくて、僕も分化したら、ああいう可愛いお洋服が着られるようになるのかな、っていうことです」
「……したいって、思うもんかね」
「……うーん……」

 改めて聞かれればまあ、確かにすこし、返事に困る。
 正直に言えば、憧れよりは何だかよく分からないモヤモヤのような気持ちの方が強い。いきなり、ある日を境に性別が分化するのだ、と言われても実感も何もあったものではないし、急に自分が変わってしまうのだと言われれば、理屈はどうあれ恐怖が先立つものだ。
 ずっと中性体として生きてきたのだ。今更、いつかは分化するのだと言われても、クテラにはどうすればいいのか分からない。

「実をいうと、あんまりよく分からないっていうのが本音です。でも、ああいう可愛いお洋服を堂々と着られるようになるのは羨ましいなって思います。……それに、この年でまだ中性体だって言うのも、さすがにちょっと恥ずかしいので……」

 これが里での発言だったら、大問題になっていただろうな、と思う。
 ただ分化の遅れてしまっただけのアークルード族ならまだしも、クテラは巫子だ。巫子がこんな発言をしたら、前代未聞の大問題になっていたに違いない。そして巫子が巫子であるためなら、クテラはいくらでも嘘を重ねることを許されている。
 そういう意味では、今ここでナインと話せる場所がハイデルベルクで良かったな、と思う。
 ここでは、不要な嘘をつかずにいられる。

「あー! あれ、いいです、絶対いいです! あれなら、僕でも問題なく着られますよ、きっと!」

 ようやくまともに着るものに目を向ける気になったのかと、苦々しくため息をついていたナインがクテラの指さす方角に目を向け、そして数秒ほど動きを止める。
 飾られていたのは、いわゆる子供向けのキグルミだった。パジャマだったり、パーカーだったり、種類は色々なのだろうがまあ、そういうのは些細な差だ。
 ひときわ、場所をとって飾られているのはウサギのものだった。今さら確認するまでもない、易いビーズをはめ込んだ目は絵本でも有名な『宝石ウサギ』になぞらえたものだろう。ご丁寧に、着せたマネキンの横には『言葉を喋れない』と言う彼らの伝統にならって、筆談用の木の看板を模したぬいぐるみまで添えられている。
 巫子は元来、屋敷の中では修行着か、御霊からの贈りもののどちらかを着ていることがほとんどだ。ちょっと考えればまあ、嫌でもわかる。
 クテラには服を選ぶと言う習慣自体がそこまで根付いていないのだ。

「……あれ着ると喋れなくなるって噂だけどな」
「でもほら、看板もちゃんとセットになってますし」
「……いいから、さっさと次の店に行け」

 分かりました、と返事を返して歩を進めるクテラの後を、あくまで追いかけると言うスタンスを崩さないナインが、ふっと何かに気がついたように顔を上げる。

「……なぁ?」
「はい、なんでしょうか」
「……お前、もしかして体型的にああいうの着てる方が楽なのか?」
「あ、はい、そうです。その……女の子の服は体型的に無理があるときが多いので……男の子の服も、やっぱり、骨格っていうか体型っていうか、根本的にいろいろと違うんです。ああいう服って、体型を選ばないからありがたいですよね」
「……今、ようやくお前の趣味の謎が解けた気がする」

 服の趣味がどうこう、と言う以前の問題だったのだろう。クテラの謎深き洋服の好みの一端が垣間見えたことに、感慨深げにナインが呟いた所で、クテラがふっと、今度はまったく違う店の前で足を止めた。

「あ、あの色、きれいですね。ナインに似合いそう」

 店の趣からして、先ほどとはまったく違う。こちらは男性用の服を中心に扱っている店なのだろう。
 サイズの大きなコートをぼーっと眺め見ながら、何度もナインの方を振り返っては、色味を見比べて首を傾げた。

「ナインはスーツの色が濃いから、コートもやっぱり、濃い色じゃないとですよね……マフラーは……うーん、同系色はまずいのかな……?」
「……ネクタイが白なんだから、白で合わせるのが普通だろ」
「あ、そ、そっか……」

 いつも支給品の中から選ばされているせいかあまり頓着していないようだけど、実はナインはクテラなんかより全然、服選びのセンスが良いのだと思う。ただまあ、状況が状況なせいでせっかくのセンスも活かせる場所がないのだろうけど。
 何にせよ、助言は有難く受け取っておくに限る。
 じゃあコートはスーツにあわせて重い色で、マフラーは白で、と頭の中に書きとめるようにふらふら、店の中に入ろうとするクテラを、グリップに繋がった鎖をぐいっと引っ張りながらナインが引きとめた。

「じゃなくて、人の服を選んでないで自分の服を選べ、自分の服を」
「え」

 ナインの言葉に、驚いたように立ち止った後、そろそろと恐る恐る、クテラが先ほど歩いてきた方角を指差す。こそこそとナインの顔色を伺う様子を見るまでもなく、指差した方角は先ほどのキグルミだろう。

「だ、ダメですか……?」
「あんた、一緒に歩かされる俺の身になって考えたことあるか?」
「え、そ、そんなにダメな感じなんでしょうか……あ、はい、すみません……」

 言葉を最後まで続けることなく、ナインの一睨みでクテラは頭を下げて降伏した。
 その後も、その色にその色はあり得ないだのシルエットがバランス悪いだのと言う、数々の教育的指導と言う名のつっこみが入りつつ、クテラの服選びは続くのだ。

■ 十三日目


 文末の言葉を書き終えたペンからインクをふき取り、片付ける。
 今日の日記は特筆することもそこまでなくて、苦戦してしまったけれどナインに色々と話を聞いて、なんとか埋めることが出来た。
 見返すついでに、旅に出るときに一新したばかりの日記帳を遡って、日付に抜けがないことを簡単に確認する。少し前の日記につけたコロシアムの戦績は四勝一敗。ナインの全勝には叶わないけれど、前回の一勝四敗に比べたら大前進だ。
 とは言っても、やっていること自体は変わらないので成長があったのかと聞かれると少し、悩む。だが、キヤと当たれたのは嬉しかったし、彼女の戦い方はクテラと共通する部分も多い。とても勉強になった。その点に関しては、コロシアムに出て本当に良かったと思っている。
 ページを少し戻して、前回のコロシアムの日付を開く。対戦相手を一人ずつ、戦い方と反省点をメモしてまとめたので他の日記より随分、長くなってしまった。
 一番長いのは、精霊協会会員証ナンバー八番。フラウベリー・エスカルーア。

(……あの子、また強くなってたな……)

 まだ小さな、女の子だった。コロシアムの対戦相手に、と渡された資料で見た年齢は12才。初めは、本当にこんな子供と戦わなくてはいけないのだろうか、と迷った。
 結果、彼女は五戦を全勝してブロックを抜けた。今回のコロシアムのマッチングでは、もっともハイレベルな全勝組のマッチングに混ざっている。
 戦い方も、驚くくらい綺麗に計算しつくされていた。こうすれば勝てる、という術が、彼女には戦う以前から計算で来ていたんじゃないだろうかと気が付いたのは戦い終わった後、しばらく時間が経ってからだ。
 当たり前だろう、クテラには自分のために使える術の数が限られている。最善手を尽くせばどうなるのかは明確で、彼女は正確にそれを見抜いていたに違いない。

(……僕よりずっと年下だけど、また使える術も増えてたみたいだし……)

 主力はたぶん、同じ術系統なのだろうと思う。他人を支援し、魔力を受け渡して、他人の力を増幅する。自分のために使える術はとても少ない。
 ただ、彼女が使う術はそれだけにとどまらず、ひどく幅が広いのだ。ナインと同じような自己強化を基礎とする増幅術、秩序杯で組んだユハが使っていたのと同じ治癒術、それから秩序杯でも何度か対戦したことがある操作術。
 今回のコロシアムでは、ロジェや大会決勝常連のトライが使うのと同じ放出術まで使えるようになっていた。

『まっすぐ突き進んだあなたと、少し寄り道をした私。強くなるための寄り道なんだから……ここであなたに、負けるはずはない!』

 コロシアムでは、ナインと組めない。
 だからクテラは一人で戦うとき、最低限の魔力付与だけをかけて、あとはひたすら歌い続ける。オラトリオの楽譜が宙を舞い、式を展開してクテラの周りをぐるぐると周回する。描かれた式に、クテラはただただ歌を通して自分のマナを注ぎ込む。
 増幅したマナでの砲撃だけが頼りの戦い方は、攻撃術や結界術を持つ人間にとっては精霊協会での模擬戦闘に使われる、一番シンプルな精霊兵のように見えるかもしれない。クテラはただただ、基礎に基づいて立ち回る。ただ単純な砲撃を繰り返すクテラにどう対応するか、それがコロシアムの向こう側に立つ人間たちの命題になる。

『パーティの要ってのは、一人で戦えないから厄介よねー』

 今思えば、あれは彼女なりの慰めだったのかな、と思うときがある。
 要だなんて嘘だ。ナインはいくらでも一人で困らない。困るのはクテラだけだ。そのためにナインは、護衛として長老会に選ばれたのだ。

(……嫌だな、なんか、こういうの。ナインのこと、戦力のために利用してるみたいで……)

 利用しているも何も、そのためにナインは選ばれ、クテラはその話を引き受けたのだ。言い訳のしようもない。
 けれどもせめて、自分をかばってナインが不要な怪我を負う事態だけはもう少し、減らせるようにならなければ、と思う。間違って登録してしまったコロシアムに、結局今も続けて参加しているのは、何とか自分でも戦えるようになりたいと思う部分があるからだ。
 フラウのように器用にいくつもの術を使い分け、無駄なく駆使する戦術はきっとクテラにはできないだろう。
 何よりも、クテラには町を出るときに、白の里の長老たちと交わした約束が一つだけある。

「里を代表する巫子として、黒の森との和平を担う側使えとして、決して魔物を直接傷つける術を得ないこと」

 黒の森との外交を担う立場である巫子が精霊協会の試験を受け、精霊術の秘密に触れることを許されたのは、巫子の役目の一つに御霊の魔力の支えとなり、必要であれば魔力を与え、増幅器として側に仕えることが求められるからだ。
 だから、クテラにはあの子と同じ戦い方は出来ない。それでもこうして、あの子の戦いを追いかけてしまうのは、少しでも参考にできる所がないかと思ってしまうせいだろう。
 開いた日記を閉じて、最近、精霊協会から勉強のために何冊か借りている本に目を向ける。机の片隅に背表紙ごとに並べた本は、あの子やユハが使っているのを何度も見た治癒の術の本だ。
 さすがに『精製くらいしか適性がない』と言われただけあって、手に馴染むようだった精製の術とは違い、地道な鍛錬や勉強が成果を上げる気配はまったくない。
 故郷で求められている役割と違う術を学ぶのは最初、ひどく抵抗があったのだが、戦いを重ねてナインの戦い方が理解できるようになったとき、クテラはいよいよ覚悟を決めた。
 言いつけには逆らっていない。傷つける術ではなく、癒す術を覚えたいだけだ。余計なことをしている、と言われてしまえばそれまでかもしれないが。
 あんな小さな、自分より年下の子供だって日々新しい術を覚え、並み居る猛者の中で必死に背伸びをして頑張っているのだ。

(……まあ、年下に、って言うなら、ナインに守られてる今だって同じようなものなんだろうけど……)

 考えれば考えるほど、こんな体たらくでグズグズしている訳にはいかない。自分が頑張らなければならないのだ。
 書き物をしていた腕を思いっきり、体全体をほぐすように伸ばしながら、椅子から立ち上がり寝台のある方を振り返る。

(ナイン、戻ってこないなぁ……)

 さっきまで読んでいた城の本を返すついでに、店主に新しい本をリクエストするのだと言っていたが、話が長引いているのだろうか。
 ナインが宿の主人と話をして以来、一階の食堂の片隅に本棚が増えた。まだまだ数はそう多くはないけれど、種類は実に雑多で、いろいろなジャンルの本が置かれるようになった。
 戻ってきたら、また読書だろうか。それとも、何かまた新しいゲームのルールでも教えてくれはしないだろうか。
 単純なトランプ遊びはナインには退屈なだけかもしれないけど、クテラにとっては教わるルールのすべてが新鮮だ。ポーカーはまだ役が完全に覚えられないけど、そんなクテラのためにナインは簡略化したインディアンポーカーのルールも教えてくれた。役はもちろん、そのうちにちゃんと暗記しようと思う。ブラックジャックに、それから以前、協会に来たばかりの頃に街中で参加したハイアンドローの正式ルール。
 単純にただコインを投げて、表や裏を当てあうだけでも意外にけっこう、盛り上がったりするものだ。

『表が出たら俺の勝ち、裏が出たらお前の負けな』
『はい、分かりました!』

 まあ、ときどき、ひどく意地の悪い毒がちらりと混ざったりもするのだけれど。

(秩序杯メンバーのロジェさん&ユハさんと、『かいてもいいのよ』コミュからENo.8・フラウさん、ENo.95・トライさんお借りさせていただきました!)

■ 十四日目


 みんなの声がする。楽しそうな、嬉しそうな、友達の声。
 里には人間と、ぼくたちと同じアークルードの子がいる。
 今日集まったのは、アークルードの子だけ。広場にはぼくより少し大きい子も、ぼくよりまだ小さい子もいる。
 走り回ったり、踊ったり、歌ったり、大人とお話したり。
 好きにしてていい、って長老に言われたから、ぼくは広場のすみっこにいる。

「ウサギ、好きなのか?」

 急に声を掛けられて、すごくびっくりした。
 大きなずんぐりタバコの葉巻、ふわふわ毛皮の立派な羽織、見たこともないような仕立てのいいスーツ、それから、ふわふわの耳としっぽに、満月みたいにらんらんとした目。
 おとうさんとおかあさんと一緒に、お祭りで一度だけ見たことがある。
 この人は、王さまだ。

「……このこ、このあいだ、びょうきになったばっかりだから」

 広場のすみっこには、ウサギが住んでる小屋があって、でも、その子はこの間、病気にかかったばっかりだ。
 病気は治ったけど、まだ元気がないから一緒に遊んじゃダメだって言われて、だからみんな、あんまり小屋には来なくなってしまった。

「じっとしてなきゃいけないから、だから、みんなとあそべなくて、きっとさみしい」

 大きな手で、急に頭をぐりぐりされて痛かった。
 いたい、っていいかけて、それから、この人は頭をなでたいけど、力が強いから痛くなってしまうんだって分かって、いたい、って言うのはやめた。
 この人はまものの王さまだから、きっと、人間の頭なんてあんまりなでたことがないんだと思う。

「おまえ、名前は?」
「……くてら。くてられーて・りすと」

◇ ◆ ◇

 巫子になったら、ポラリスの姓がもらえる。
 ポラリスの姓をもらえるのはとても名誉なことで、アークルードの子はみんな、そのためにいっしょうけんめい勉強をするし、里の人たちは誰かが選ばれることをすごく喜ぶ。
 でも、ぼくは勉強も運動も一番ではなかったし、おとうさんとおかあさんのためにも頑張りたかったけど、きっと無理だと思っていた。
 おとうさんとおかあさんは、ぼくを泣きながら抱きしめてくれた。

「よう、クテラ。久しぶりだな。思ったよりもデカくなってるもんだ、アークルードの子供はやっぱり、成長が早ぇな」

 しゃがんだ王さまと僕は、ちょうど身長が同じくらい。
 初めて会ったのはぼくが五才の時だから、まだ一年しか経ってないよ、と言おうと思ったけどやめた。
 まものの王さまはずっと姿があんまり変わらないから、きっと7cmも大きくなってるぼくを見てビックリしたんだと思う。
 ぼく、巫子になれたよ、王さま。勉強も運動も、一番じゃなかったけど頑張ったし、髪もほら、こんなに長くなったよ。

「王さまじゃない、クテラ。御霊さま、だ」

◇ ◆ ◇

 引っ越したお屋敷は、すごく広くて大きかった。
 人が来るのは前の巫子さまが修行していた時以来だからって、みんなすごく丁寧にあいさつをしてくれた。
 おとうさんとおかあさんとは、これでお別れ。
 今日からぼくは、巫子として一人で立派にやっていかないといけない。
 ちゃんと、一人で眠れるかな。誰かと一緒に寝ちゃダメなのかな。

◇ ◆ ◇

 巫子になって最初のおしごとは、式典に出ること。
 パレードがあって、やらなくちゃいけないことや覚えなくちゃいけない挨拶がいっぱいあるから、がんばりましょうって。
 がんばったら、ごりょうさまが一緒にお食事してくれるって言ってたから、それはちょっと楽しみ。
 式典の洋服は、すごくふわふわでレースがいっぱいついてて、可愛かった。
 こんな女の子みたいなお洋服、着てもいいのかなって思ったけど、今は昔みたいにごりょうさまがころころ変わったりしないから、僕もたぶん、女の子になるんだって。
 男の子も、女の子も、ぼくにはよく分からないのだけれど。

◇ ◆ ◇

 今日、仲良くなった侍従さんが、急に辞めてしまった。
 ちょっと淋しいけど、お屋敷で働くのは大変なことだから、仕方がないんだって侍従長さんが言ってた。
 侍従さんはけっこう、入れ替わりが多いみたいで、気が付くと見知った顔の人が来なくなったりしてる。
 聞かないと教えてもらえなかったりすることも多いから、気が付いたらこまめに聞いてみることにしようと思う。

◇ ◆ ◇

 今日は、先生たちの総入れ替え。
 お屋敷の中にいると、いつも同じ人としか会えないから、こういう機会を大事にしなさいって前の先生が言ってた。
 どんな人が来るのかな、楽しみ。

◇ ◆ ◇

 今日は侍従さんの総入れ替え。
 早く顔を覚えないと。

◇ ◆ ◇

 御霊さまから、かわいいお洋服がいっぱい届いた。
 なんでも、『巫子の修行着は可愛くないから』って、いっぱいお洋服を揃えてくれたんだって。
 どれもすごく可愛くて、どれを着ればいいのか迷って、汚すのがもったいなくて結局いつも通り修行着を着たら、御霊さまにゲンコツで怒られた。
 可愛いエプロンのついたワンピースは、明日のお料理の授業に来てみようかな。

◇ ◆ ◇

 やっぱり、あの人も辞めてしまった。
 話しかけていい回数は……一日に、たぶん、十回は超えちゃいけないのかな?
 数えてるけど、たぶん、そのくらい。

◇ ◆ ◇

 話しかけられるのもダメ。
 すごくおしゃべりで、楽しい人だった。
 名前、なんていうんだっけ。忘れちゃったのが、すこし悲しい。

◇ ◆ ◇

 今日から新しい先生と授業。
 早く仲良くなれるといいな。

◇ ◆ ◇

 今日、新しく来た侍従さんの中に、僕と同じくらいの年の子がいた。
 でも、その子は分化は終わっているらしい。里の子は十才を超えたら、ほとんどの子は分化してしまうんだって。
 でも、僕はまだ全然、分化する兆候みたいなのは何にもない。
 分化するときは、何か、合図のようなものはあるのかな?

◇ ◆ ◇

 喧嘩をした。
 例の、同じくらいの年の侍従さん。
 未分化なのに、スカートなんかはいて変だって言われて、御霊さまのお洋服を馬鹿にされて悔しかった。
 言い争いになったのなんて初めてだったから、なんだか、よく分からなくて、ひどいことをいっぱい言ってしまった気がする。
 明日になったら、謝りたいな。
 本当は、すこしだけ外のお話を聞いてみたかっただけなのに、どうしてこうなっちゃったんだろう。

◇ ◆ ◇

 あの子は、もうお屋敷には来ないんだって言われた。『巫子さまに無礼を働いたから』って。
 昨日のうちに辞めちゃったんだって。
 謝りたかったのに、って言おうと思ったけど、言っても目の前の侍従さんが困るだけだと思うからやめた。
 それに、これ以上話したら、きっとこの人も辞めなくちゃいけなくなるんだと思う。

◇ ◆ ◇

 侍従さんの総入れ替え日。
 来月は先生の入れ替えもあるから、ちょっと忙しい。

◇ ◆ ◇

 あの人が見当たらない。
 またいなくなっちゃったのかな。

 あの人、名前、なんていうんだったかな。

◇ ◆ ◇

 やっぱり、言うことをやめてしまうのをやめよう、と思った。
 もしこの人がお屋敷からいなくなってしまうとき、大好きだよ、って言いそびれしまっていたら、絶対に後悔すると思う。
 思ったことは、ぜんぶ言ってしまわないと、いつ言えるか分からなくなっちゃう。
 里に降りられるようになったらいつか、辞めちゃった人たちとも会えるんだって今日、新しい侍従長さんが教えてくれた。
 でも、それにはまだまだ、時間がかかるんだって。
 だから、やっぱり全部、言い忘れないように今の内にちゃんと言ってしまおう。
 本当はもう、誰に何を言おうと思っていたのか、全部ぐちゃぐちゃで、全然わからなくなってしまっていたのだけれど。

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 ハイデルベルクの冬も、ずいぶん寒くなってきた。
 僕は冬服に着替えるようになって、ナインは簡単にコートを着込む。本当は、マフラーも一緒に巻きたいのだけれど、そうするとナインは決まって「なんでこんな首元にごちゃごちゃ巻くんだよ」って言って怒る。確かに、ただでさえ邪魔そうな首輪の上からマフラーまで巻かれてしまったら、相当うっとうしいのかもしれない。
 でも、こんなに寒くなるとやっぱり、金属の首輪は冷たくてつらいと思うからマフラーくらいはつけてほしい気がする。
 この季節になると、協会にはたくさん、『クリスマス会』のチラシを見かけるようになった。
 里と森にも、この時期には大きなお祭りがあったけれど、ハイデルベルクにも似たようなお祭りがあるのかもしれない。

「あれ、クテラ、クリスマスって知らない? ハイデルベルクもまあ、冬の祭りはいろいろとあるんだけど、今回は『クリスマス会』っていう大きな催しがあるんだってさ。まあ、みんなでパーティーをして美味しいご飯を食べたり、お酒や飲み物を飲んで話したり、……あとはプレゼントを交換したりとかかなぁ」

 さすが、街育ちなだけあって、尋ねたらロジェさんはすらすらと答えてくれた。
 用意するのはプレゼントの中身と、きれいな包みと、それからメッセージを添えるクリスマスカード。
 本当は親から子供へプレゼントを贈ることが多いらしいのだけれど、でもまあ、ナインだってまだ子供のようなものだし。

『Nein』

 カードの宛名に、名前を綴る。
 白の里と黒の森では、使っている言葉に少しだけ差がある。ナインの綴りは『Nein』、最初に名前を宿帳に書いていた時、『Nine』と綴ったらナイン本人に訂正された。
 辞書で調べた意味は、当然だけどあんまり良い意味じゃない。
 罪人は名前を含めてすべてのものを1度剥奪される、と聞くけど、ナインも剥奪され、何もなくなってしまったのかもしれない。

(他に何か、書いておかないといけないことあったかな……)

 書けることがあったら、とりあえず全部書いておかないと。
 あいまいな記憶や言葉と違って、日記やカードの文字は確実に残る。
 だからせめて、カードくらいにはきちんと、毎日の感謝をしっかり詰めないと。

■ 十五日目


 朝の気温は低い。
 冷え込んだ空気に身震いしながら目を開けると、いつも通り身支度を終わらせて退屈そうにしているナインの姿が視界に映った。

「……、おはようございます……」
「おせぇよ」
「……おそようございます」

 ばっさり切り捨てられたので、訂正する。ようやくカルフへのゴブリン退治遠征が終わって思いっきりゆっくり出来ると思ったのだが、どうもゆっくりし過ぎたらしい。身体の節はまだ疲労を叫んでいて、耳の辺りがムズムズする。こんなことは、初めてだ。
 そんな状態だったので、暖かい布団の誘惑はいかんとも捨てがたかったのだが、身支度まで済ませ終わっているナインを前にぼーっとした所を見せるわけにもいかず、クテラもぼんやり、寝台から足を下ろして立ち上がり、外の景色を確認するように部屋の窓を覗き込む。
 白の里は、たとえるなら雪の平地だ。温暖な収穫の季節が終われば、城壁や屋根の上には常に高い雪が降り積もる。技術の水準は高かったが、そのほとんどは黒の森のために費やされる。
 黒の森は、たとえるなら鉄の森だ。人間たちが鍛造し、鋳造し、精錬し、溶接し、加工した技術が彼らの街を形作っている。

「……ハイデルベルクのクリスマスは、街までオシャレになっちゃうんですね」

 ハイデルベルクは、人間のための街だ。
 街並みはクリスマスのために見慣れないほど華やかに飾られて、街のどこかではミサやパーティーが催されて、街並みを行き交う人々の影もどこか浮かれた足取りに見えた。

◇ ◆ ◇

 いつも通りの準備支度を整えて、いつもとは違ってすっきりとした襟元のナインと向かい合う。
 白いマフラーを巻くためには、少し背伸びをする必要があった。
 何度見ても、首輪も手枷もしていないナインの姿はホッする。鍵を預かっている関係で目にする機会自体はそう少なくはないのだけれど、不必要に外すわけにもいかないのが難しいところだ。

「気をつけてくださいね」
「……呑気なもんだな、お前も」

 手枷を外した腕の調子を確かめるように何度か手の平を握るナインが、心底呆れたような声音でクテラの方をじろりと見る。
 クテラにしてみれば、せっかく鎖が外れたのにどうしてそんなに不機嫌なんだろうと、心底不思議に思うしかない。

「囚人の鎖を、『気をつけろ』なんて言って外す奴がいるか?」
「……で、でも、せっかくの契約の日ですし……」

 言った後に、すこし言い訳がましい言い方だったろうかと不安になる。まるで、自分で自分に言い訳するような言い方になってしまった。
 今日は、本来なら里と森の契約が更新されるめでたい日だ。里と森の両方で盛大に祭りが執り行われ、今日ばかりは身分の貴賤を忘れて、誰もが平等に契約の更新を祝う機会を得られる。
 その恩赦は罪人であるナインにも等しく与えられるもののはずだ。まあ、黒の森の司法は即決裁判の性質上、囚人という概念が存在しなかったから、正確なところはよく分からないというのが本音なのだが。

「……無礼講の日ね。そういや、そんなもんもあるんだったか……」
「……無礼講って……そ、その言い方はちょっと、身も蓋もなさすぎてどうかと思うんですけど……」
「あんたらの気取った回りくどい言い回しの方が、よっぽどどうかと思うけどな」

 これはまあ、里と森の文化の違いもあるので、どうしようもないと言えばどうしようもないのだろうが、それにしたって里と森を繋ぐ契約の更新日を『無礼講の日』で済ませる黒の森の流儀は何と言うか、未だにクテラにはちょっとよく理解できない。
 だが、なんにせよ今日はめでたい日なのだ。
 里からは遠いハイデルベルクですら、今日はやはり特別な祭り事の日なのだと言う。こんなめでたい日にまで、ナインが鎖に繋がれていなければならない理由はどこにもない。
 外に出ると、通りを過ぎる風は冷たかった。今日の夜あたりは、本当に雪が降ってもおかしくはないかもしれない。

◇ ◆ ◇

 商店が並ぶ通りに出れば、そこはいつものハイデルベルクともまた少し雰囲気の違う、どこか浮ついた空気の街並みが広がっている。
 通りの端にまで広がった出張露店、通りを行き交う着飾った人の数、商人の売り込みや人々の話し声、それから、ところどころに見かける赤い服の老人に扮した人々。

「……は、ハイデルベルクって、こんなに沢山の人が暮らしてる街なんですね……あ、あれがもしかして、『サンタさん』って言う方でしょうか……? でも、サンタさんって、なんだか、沢山いらっしゃるんですね……」

 もう随分とハイデルベルクでの暮らしにも慣れたつもりでいたが、こんなに浮足立った街を見るのは初めてのことだと思う。
 なんだか、いつもと違うハイデルベルクの表情を見た気がして、呆然と大通りを前に立ちすくむしかない。
 人ごみに混ざって歩くのにも大分、慣れてきたのだと思うのだが、それにしたってこの人数は色々と想定外だ。

「あ、はい」
「……?」

 目にした光景に圧倒されて、そのままうっかりふらふらと大通りへ足を踏み出しそうになってしまい、あ、と慌ててナインの方を振り向く。
 いつもは鎖のグリップを持ってばかりで、なかなか自由にならない両手だったが、今日ばかりは話が別だ。
 自由な手の片方をナインの方に差し出して、はい、どうぞと声をかけると、ナインが意図が分からない、というより理解したくない、という顔をしてクテラの顔と手を交互に見る。

「なんだよ、その手は」
「……? 手、繋がないと、今日は人多いですし……」

 いつもは鎖で繋がれているせいで、そんな心配は一度もしたことがなかったのだけれど、今日ばかりは話が別だ。
 実はクテラはあまり他人と手をつないだ経験がないから、手を繋ぐなんていったい何年ぶりのことだろうと、鎖を外したら手をつなぐ機会もあるかもしれないと昨日から楽しみにしていたのだけれど、だが、そんな楽しみなど三秒でしおれるくらいにナインの「何を言ってるんだこいつは」と言う視線は冷たかった。

「……」
「そ、そんな無言で嫌そうな顔しなくてもいいと思うんですけど……なんか、それだったら普通に言葉で『嫌だ』って断ってもらった方が嬉しいです……」

 別に、断ったり主張をしたり、そのくらいのことにはもっと気軽に口を開いてくれればいいのにな、と思う。
 出会ったばかりの頃は、もしかしたらそういうことも出来ないくらい厳しい制約がかかっているのだろうかと心配に思っていたのだが、何日か一緒にいるうちに、どうもそう言う訳でもないらしいと分かってきて、今は普通に、ナインは嫌なことは「嫌だ」と断るし、意見を出すときは割とはっきりクテラに面と向かって「あんたは頭の回転が残念なのか?」と口出しをするのも分かった。
 言葉数が少ない訳ではないのだ。喋るときは喋る。クテラ以外の話し相手がいる時のナインは、実は、そこそこに饒舌だ。話すことを楽しんでもいるし、話題が気に入れば進んで話をする姿も見かける。
 だから、口を閉ざすのはナインの意志なのだろうと言う所までは理解できたのだけれども、そうなってくると今度は、ナインが口を開かないのはクテラと話をすることにあまり価値を感じていないからだ、と言うことになってきて、つまるところ面倒がられているし、億劫がられてもいるのだろうし、分かってはいたことだが要するに、単純に好かれていないのだ。
 ナインが面倒くさそうな面持ちで言葉を閉ざすたびに、クテラはそのことを実感する。

「……お買いものが終わったら、ケーキ、なるべく早く見に行きましょうね。クリスマスだから、すぐに売れてなくなっちゃうそうです。ご飯も、今日は特別なんだって聞きました。いっぱいお腹を空かせておかないとですね」

 沈黙の居心地がどうにも悪くて、場を仕切り直すようにクテラが表情を切り替えて笑った。

「……えっと、そうだ、せっかく鎖もないし、今日はナインが前を歩いてください。こういう日じゃないと、なかなか出来ませんし」

 目的地は決まっているし、この辺りの地理にもお互いもう、随分と慣れたものだ。
 相変わらず、面倒くさそうと言うよりは興味がなさそうな顔のまま、ナインがどうでもいいのだと言うように前を歩き始めたので、クテラはその背中をいそいそと追いかけはじめる。基本的に、拘りがないことに対してはナインはどちらでもいい、というスタンスなのだ。

(コートの色、やっぱりあの色にして良かったな)

 並んでは歩けなくても、鎖を外されたナインを見ているのは好きだ。
 今でも、誇り高い人狼族を鎖につないでいるのだと思うと、ときどき、どうしようもなく自己嫌悪に駆られることはあって、堂々と鎖を外せる数少ない機会の時は少しだけ、そういった後ろめたさから解放される。
 コロシアムや、大会といった協会の祭り事もそうだ。鎖を外すことに、不安を感じたことはあまりない。
 もっとも、従属契約で縛った相手に信用を問うのもおかしな話なのだろう。ナインに自由意志はない、基本的に彼は『やらされているから』全てのことをこなしてくれるだけで、クテラを庇うのもフォローするのも、基本的にはやらざるをえないからやっているだけに過ぎない。
 けれども、そういう意味でナインの行動から、投げやりさを感じたことは一度もなかった。あわよくばクテラが死んでしまえば自分は自由になれるのに、だとか、クテラさえいなければ、だとか、そういうのは隠そうと思って隠せるものではないと思うのだ。
 それとも、そんなことを思う自由も許されないほど、従属契約というのは完璧すぎる術なのだろうか。そうだとしたら、それをひどく酷なことに感じるのは、自分がナインに同情しすぎたせいなのだろうか。
 数歩ほど距離を空けてぼんやり、大きな背中を見ていると、妙にいろいろなことを考えてしまう。

(街の通り、たくさんの人波、誰かの背中、……)

 それから、狼の、よく見知ったロFカG腆モ8・Piナk3b3ZオRィdlテ.6xンア??@ン・MmェHウ'」ィ(ホ&B衄ツtモuホ袢XdYB

(……?)

 フサフサの灰色の毛皮、まんまるお月様の金色の目、鋭い牙と、よく動く尻尾と、懐かしい里の景色。
 会ったことは、まあ、ないのだけれど。

(……あれ?)

 一瞬、驚いて足を止めて、辺りを見回してみる。なんてことはない、何の変哲もないいつも通りの、もう歩き慣れてから大分経つハイデルベルクの街並みだ。
 技術水準は里の方が秀でていた気がするけれど、ハイデルベルクの活気と喧噪はそれを上回るだけの何か、可能性のようなものを感じさせる所がある。つまるところ、似ていなくはないけれど、里を思い出すほど郷愁にあふれているかと思えばそうでもない。

(……なんか、今)

 だが、そんなことを疑問に思う暇もなく、前を歩いていたはずのナインが唐突に、口を開いた。

「わりぃが、ここから別行動にさせてくれ」
「……へ?」

 あの、と声をかける暇もない。
 言い淀んだ言葉が外へ出る間も与えず、駆けだしたナインの背中が人ごみの中に消えていく。
 ビックリして、訳も分からず立ち尽くしたあと、それからようやくクテラはあれ、と首をかしげてある事に気がついた。

「……あ」

 もしかしなくても、これはそういうことなのではないだろうか。

「ええと……もしかしなくても、これって……脱走……なんでしょうか?」

 置いてけぼりのクテラの疑問に、答えてくれる人間は誰もいない。