■ 二十一日目


 あるところに、お腹を空かせた旅人がいました。
 お腹を空かせた旅人は、一匹のウサギに出会いました。
 お腹を空かせた旅人に、自分を食料にしてもらうため、ウサギは自ら焚き火の炎に飛び込みます。
 そのとき、旅人とウサギのどちらにも、喜びが溢れたんだとか。
 遠い遠いどこか躍動の世界で、ホムンクルスが宝石ウサギに語ったオリエンタル物語です。

[ガッデム!!]

◇ ◆ ◇

 白の里、真ん中広場、ウサギ小屋、頭をなでる大きな手。
 クテラの名前を尋ねた王さまは、今度は変なことを聞いてくる。

「おまえ、黒の森は好きか?」
「……もり? もりのひとのこと?」

 里の人間は、許可証を持った人間以外は森に出入りすることはないから、クテラは実際に黒の森を訪れたことがある訳ではない。ただ、同じように許可証を持った黒の森の魔物たちがこちらにやってくることはあるから、森の住人達のことは少しだけ知っていた。

「もりのひとはすき。ときどき、くまのひとがしゃけとか、ごぶのひとがふしぎなおまもりもってきてくれる。たまにおおかみのひとがあそんでくれるよ」
「本当にか? あそこは恐ろしい街だぞ? こわい魔物や狼が死ぬほどいっぱいいるからな。あいつらは何でも食っちまうし、そこのウサギもおまえも、一緒に食われて食糧にされちまうぞ? 俺だって、腹が減ってればお前みたいなガキの一匹や二匹、とって食っちまうかもしれないしな」

 にたりと唇の端をつり上げて、わざと犬歯を見せつけるように王さまが笑った。
 だからクテラも真剣に、腕組みをしてうーんと首をかしげながら、大真面目に答える。

「……おうさまはみんなをまもってくれるだいじなひとだから、どうしてもおなかがすいてて、かなしくてかなしくてしょうがなかったら、ぼくのことたべちゃってもいいよ」

 それは仕方がないことだ、と思う。黒の森と白の里は、そういう約束で成り立っている。
 もちろん、黒の森は黒の森で、白の里のことを大事にしてくれているのだと大人は言う。森の魔物は理由もなく里の者を傷つけたり、ないがしろに扱ったりはしない。それを知っているからこそ、白の里は人間たちの住む境界の向こう側へ逃げようとせず、黒の森の魔物たちを信じようとして連綿と続く膨大な歴史を紡いできたのだ。
 だから黒の森と白の森がそうやって今日も明日も隣り合うためにそれが必要なのだとしたら、白の里の人間たちは黒の森の誠意に報いようと常に最大限の努力を払うだろう。
 白の里の子供たちは何よりも一番最初に、そのことを当たり前のこととして教わる。

「でも、ぼくはおりょうりがじょうずだから」

 たまごやきがじょうずなんだよ、とクテラが両手で、卵を割る真似をしてみせる。

「たべないでいてくれたら、おうさまのためにおいしいりょうりをたくさん、つくってあげられるよ」

 弱ったウサギがそこにいるなら、側に着いてなぐさめてやりたい。腹を空かせた魔物がいるなら、この間覚えたばかりの卵焼きを作ろう。
 ウサギと魔物の間に、生き物としての境界なんてない。クテラにとってはただ、どちらも大事な友人だ。
 側にいるなら、ただ無条件で手を差し伸べたいと思う。

◇ ◆ ◇

「バレンタインと言うことで、いろいろ用意してみたんですけど……」

 机の上に広がる、いかにもプレゼントです、と言いたげな四角いラッピングから蓋付きシチュー鍋まで、雑多に広げられたクテラの健闘の成果を、胡散臭いものでも見つめるような目でナインがじろりと見渡す。
 その目は言葉よりも雄弁に、何がしたいんだこいつは、と物語っている。

「……で、あんたはチョコレート一つ用意すればいいものを、いったい何をこんな惨状にする必要があったんだ?」
「べ、別に事故や事件や遭難を起こした訳じゃないのに、そんな言い方しなくてもいいじゃないですか……そうじゃなくて、チョコレートだとほら、ナインが食べられないと思って」

 あからさまに「は?」と疑問符を浮かべるナインに、クテラが簡潔に一言、継ぎ足す。

「辛党だって、リーナさんに飴をもらった時に言ってました」
「……律儀に覚えててくれてそりゃどうも、だ」

 正確にはもらった、なんて状況でなく、口に放り込まれかけた(おまけに、恐らくただの飴ではない何かだった)と言うのが正確なところになるのだが、クテラ的にはまあ、今のところリーナとナインは問題なく仲良くしているように見えるので、取りあえず問題ないと判断したのだろう。

「で、あんたはその『辛党』のために、この惨状をやらかしたのか?」
「……分かりました、白状します」

 いよいよ誤魔化しきれなくなったか、と覚悟を決めたように重々しい表情で、悲しげにうつむいたクテラがゆっくりと顔を両の手の平で覆う。

「……オオカミさんチョコレート……固めた後に運んでたら、途中で転んじゃって……箱の中で首と身体の部分が別れて、折れちゃいました……」
「……首狩りチョコレートの密室殺人とはこれまた凄惨な事件現場だな、オイ」
「うう……そ、それはともかくとして、過去の事件は忘れて今の問題と向き合わないと!」
「前向きなようでいてまったくそうじゃないところがミソだな」

 気を取り直したようにパッと顔を上げて話題を切り替えようとするクテラに、さりげなくトドメをさしながらナインが相槌を打つ。
 お互い、そろそろ望むと望まないとに関わらず一緒にいる時間が長いので、そろそろ相手のリアクションに慣れてきているのだろう。いちいちテンポを止めたりはしなかった。
 取りあえず、とクテラが机の上の、いかにもプレゼント、と言いたげなラッピングの箱を手に取る。

「えっと、これが取りあえず、甘くないもの、と思って買ってみたしょうゆお煎餅です」
「初っ端からまったくバレンタインも何も関係ねぇな」

 クテラがこうやってあれこれ、悩んでいるときは大体、ろくでもないことで悩んでいると分かり切っていたのだろう。特に斬新さも何も感じさせない溜息で、ナインが一刀両断で返す。
 クテラにとってもこの辺りはいつも通りなのか、特に気にした風もなく、次に銀の保温ボウルで覆った皿を何事もなかったのように指をさした。

「それがお嫌でしたら、こっちに、さっき作った子羊ステーキのチョコレートソースがけが……隠し味のスパイスとフォンドヴォーは、ちょっと頑張りました」
「……お前、なんかこういう、店に出てきそうな料理はやたらと得意だよな……」

 それは当然だろう。
 巫子の受ける教育の中に、料理は必須項目として含まれていたし、クテラはこの料理の授業だけは昔から得意分野だった。
 野営での簡易調理を始めたばかりの頃はとにかく勝手が分からずに目を回していたのと違い、それなりにきちんと環境の整った厨房に立てば、クテラは今までの教育の成果を存分に発揮したコックに変身する。

「こっちのデカい鍋はなんなんだ? フォンデュか何かってオチか?」
「あ、いえ、それはええと、普通の肉じゃが……」
「……ステーキと肉じゃがが夕飯って、取り合わせ間違ってるだろ」

 チョコレートフォンデュあたりがオチだろうとナインは読んでいたのだろうが、残念なことにクテラは甘いものが嫌いな相手にフォンデュをだすような無情な真似はしない。
 甘くてもナインに食べられそうなもの、というまったく正解に近くないラインをさまよった結果、肉じゃがに行きついたのだ。

「だいたい、そんなもん山のように並べなくたって、ここに丁度よさそうなのが転がってるだろ」
「あー! そ、それは僕が自分用に用意したやつ……」

 一通り、机の上に広がる、バレンタインなのか何なのかよく分からない物資に指摘を終えた後、さっさと踵を返したナインがサイドボードの上の、先ほどから目をつけていたらしいホットチョコレートのカップに手を伸ばす。
 クテラが自分用にと用意したものなので、甘さも加減していない、ごく普通の甘ったるいホットチョコレートなのだが、何の遠慮も容赦もなく、さっくり、ナインは口をつけてしまった。

「こういうときは変に凝らないで、普通のでいいんだよ、普通ので」
「あううう……それ……折れちゃったオオカミさんチョコレートで作ったホットチョコ……」
「……リサイクルされてたのかよ、あいつ」
「だって、どこかに落とした訳じゃないし、食べられるのに勿体ないかなって……でも、折れちゃった背中がとっても淋しそうで、そのままだと食べられる気がしなくて……」
「湯煎で溶かすのもどっこいどっこいに残酷劇場だと思うけどな……」

 だったら、その残酷劇場を容赦なく飲み干すナインの方がよっぽど、容赦がないじゃないかと思ったところで、そういえば一応、凶悪犯罪者って触れ込みで紹介されたんだよなぁと自己完結する。
 一応、自他ともに認める凶悪犯罪者だったはずの狼男は、今はのんびり、平和そうにホットチョコレートをすすっていた。

■ 二十二日目


 朝になって目覚めたとき、すでに室内はがらんとしていた。
 人の姿も気配もなく、静かでどこか淋しい光景だ。
 部屋の中を見回しても、ナインの姿はどこにも見当たらない。

「あれ……ナイン、もう出かけちゃったんですか……?」

 確かに、今日のナインからは『お休み』希望が出てはいたのだけれど、まさかこんなに早く出発してしまうとは思わなかった。
 とは言っても、クテラにも予定があるのであまりゆっくりはしていられない。支度を済ませたら、部屋を出なければならない。

(……尻尾、また生えちゃったな……ロジェさんになんて言おう……)

 耳も、尻尾も、一度は引っ込みはしたのだけれど、あれから結局、何度となく生えては引っ込みを繰り返していて、クテラは結局、獣人向けの専門店できちんとした下着を買い揃えた。尻尾穴も、ちゃんと測ってから開けてもらっている。
 今日もそうだ。
 せっかくのデートにとんだ災難だとは思うのだが、こればっかりは自分の意志で制御できないのだからどうしようもない。
 部屋を出るとき、誰もいない部屋に振り返って「いってきます」と声を掛けた。当然だが、返ってくる声はない。
 数歩後ろにも、部屋の中にもナインがいない。大会やクリスマスで最近では珍しくもなくなった状況とはいえ、やっぱり、一人で出かけるのは不思議な感じがする。
 最初の方は、強制従属刑があると分かっていても少し目を離すだけで不安だったのに、今はクリスマス騒動もあってか何となく、ナインは勝手に逃げ出したり、長老会からの恩赦を捨ててまで無理なことはしないのだろうという、希望的観測のような勝手な期待が出来上がってしまっていて、あまり危機感を感じなくなってしまっているのかもしれない。
 クリスマスも、ちゃんと戻ってきてくれた。態度はあまり良くはないのかもしれないけれど、恩赦のため課せられた義務のため、ナインは護衛としてとても丁寧に仕事をしてくれている。『護衛』としての休暇が欲しいと言われれば、素直に休ませてあげたいとも思える。
 今日は、『護衛』も『ご主人サマ』も休暇だ。
 グリップを持たない両腕は、まるで枷が外れたように軽かった。

◇ ◆ ◇

「す、すみませんロジェさん、遅くなりました!」
「あれ、クテラ、早……」

 たぶん、早いね、と言おうとしてくれていたのだろうロジェの言葉が、待ち合わせ場所に走り込んできたクテラの姿を見てぴたりと止まる。

「……え?」
「あ、えっと……こ、こっちの姿では初めまして、とか……」

 先に到着しているロジェの姿を見て、慌てて駆け出したせいで息を切らせているクテラが、はっと顔を上げると慌てて、オーバードレスの裾を両手でつまんで、笑って誤魔化すように頭を下げる。

「あーっと……クテラ……だよな?」
「はい、その……色々と付属していますが、お察しの通り、クテラ……です……」
「えと……新しいアクセサリー、とか……っていう訳でもないんだよな……?」
「あ、はい、えと……全部、普通に生えて、ます……」
「あー……」

 あまり他人について多くは詮索しないスタンスのロジェも、流石に、待ち合わせの相手が急にこんなことになると、言葉に軽く詰まるのだろう。
 そりゃあ、自分だって急にロジェに耳や尻尾が生えたら、どう言葉をかけていいのか困るだろうなぁと思う。いやまあ、驚いた後に、たぶん耳としっぽに触っていのか尋ねるだろうけど。

「……あ! と、取りあえず、えと、時間、大丈夫ですか?」
「あー、うん、そうか、まあ、時間は平気なんだけど……」

 それでも、このままここで話し込むよりは、と言うクテラの意志を、ロジェはすぐにくみ取ってくれたらしい。

「……まあ、歩きながらでも話はできるしね」
「お手数、おかけいたします……」

 込み入った話は道すがらにでも、済ませばいいのだ。

◇ ◆ ◇

 ロジェに勧められて買ったアイスクリームのお店は、デートなのだと教えたら特別サービスでアイスを三段も重ねてくれた。歩くとぐらぐら揺れて、落ちてしまいそうでまるでバランスゲームだ。
 そのまま色々な店先を覗いたり、噴水広場のベンチで吟遊詩人の演奏を聴いたり、ただ歩く間もロジェとたわいもない会話に興じたりする。
 デートの時は手をつないで歩くのだと聞いて、手を差し出したら、にっこりと笑ったロジェがクテラの手を取り、少し先をリードしてくれるように歩きはじめる。誰かと手をつないで歩くのなんて、本当に何年振りだろう。ただ手をつないで歩いているだけでも、ものすごく楽しい。
 耳と尻尾が生えて困っている、という話をしたら、どうせなら生えている間は思いっきり楽しんだ方がいいんじゃないか、とアドバイスされた。完璧な魔物になってしまったら、と考えるのは怖くて、耳や尻尾のことは意識するのも気が重かったので、耳や尻尾にオシャレができる、と言うのはクテラの中にはなかった発想だ。
 ロジェの知っている小物や装身具を扱っている店を訪ねて、耳にコサージュやビーズの飾りを挿したり尻尾にリボンやレースを巻いたりするのは楽しかった。

「クテラ、動物はたしか好きだったよな?」
「? はい、大好きですけど……」
「そっか、なら良かった。じゃあ、今日最後の予定に取り掛かろっか」

 最後に歩いて、ついて行った先は少し郊外の方にある、いわゆる牧場だった。
 馬に牛、羊や山羊、アルパカにロバ、アヒルにウサギと、それから仕事を手伝わせる犬に鼠払いの猫まで、とにかく色々な種類の動物が暮らしているらしく、そこかしこに関係あるのかないのか分からない動物たちまで見かける。
 話を通してあるらしいロジェが牧場主に声を掛けると、馬が思い思いに歩き回っている馬場に案内された。

「……う、うううう……うま……」
「クテラ、あんまり喋ると舌噛むから、気を付けて」
「ははははは、はいぃ……」

 鞍の上でぐらぐら揺れる身体を、歩みを進める馬の動きに合わせて何とかバランスを制御しながら、必死で鞍の持ち手に縋りつく。
 苦笑いでこっちを振り向くロジェが握っているのが実質の手綱で、クテラの仕事は落ちないように鞍の上にしがみ付いていることだけなのだが、それにしても馬の背は高い。乗ると、それだけで結構な迫力があるのだ。

「……ロジェさんは、色々なことが出来る人だなぁって思ってたけど、お馬さんの扱いまで得意だったんですね……」
「んー? 実を言うとね、俺は今、割と何にもしてないんだよ。ちゃんと躾けられてる馬は、すごく頭がいいからね。俺は手綱もって歩いてるだけで、それで馬の方が『あ、こいつについて行けばいいんだな』って判断してくれるから」
「えー!? じゃ、じゃあ、別に訓練とかしなくても、誰でもこういうことって出来ちゃうんですか……?」
「気を付ける所はいくつかあるけどね。驚かせないようにしないといけないし、引くところはちゃんと手綱引かないといけないし。でも、基本は馬のサービス精神に甘えてる感じかなぁ。馬主さんの仕事がしっかりしてるんだね」

 馬に乗せてもらった後は、もらった飼葉やエサを持って牧場の周辺をぐるぐる、エサやりに回った。
 椅子に加工された切り株の近くには、放し飼いにされているウサギが密集していて、エサを持って見せるとすさまじい勢いで足元に群れる。なかなか、迫力の光景だった。

「ウサギー!」
「好きなんだっけ? あの、ぬいぐるみのやつとか」

 宝石ウサギのぬいぐるみは、ここに来る前にも散々、店先で眺めて来たのでロジェとしても何となく、察しはついているのだろう。
 憧れだと言わんばかりにショーウィンドウに張り付くわりに、欲しいのかと聞かれれば『冒険者稼業ではぬいぐるみは持て余すし、旅に同行させると汚れて可哀想だから』と、弁えているのかそうでないのかよく分からない答えが返ってくるあたり、クテラのあのぬいぐるみに対する思い入れは深い。

「はい! 僕、ウサギが好き……だったらしいんですけど、お屋敷に入る前のことって、小さかったからあんまり覚えてなくて。それで、お屋敷の中にウサギはいないからって、僕を引き取ってくださった御霊さまがプレゼントに宝石ウサギさんを買ってくれたんです」
「御霊さまって、例の親御さん代わりの?」
「はい!」

 散策途中に少しばかり話をした内容も、ロジェは律儀に覚えていてくれたらしい。
 膝の上に乗せたウサギをなでながら、可愛い鼻筋やぴんとした耳をのんびり、眺めつつたわいもない話をする。

「……この子、寝ちゃいそう……」
「ああ、良かった。安心してるんだね、きっと」

 くてんと横になってうとうとするウサギをゆっくりなで続けながら、クテラが小さく口を開くと、むにゃむにゃとした出だしからゆっくりと段々、歌の歌詞とメロディーが現れはじめる。

「……子守唄?」
「えと、そういう訳じゃないんですけど……街で、吟遊詩人さんが歌ってた曲……」

 あまり改まって歌うと恥ずかしくなってしまいそうだから、さりげなく約束を果たしてしまいたかったのだけれど、やっぱり、意識するとそれだけでちょっと照れてしまうのが難しい所だ。

「ロジェさん、歌とか、オシャレとか、流行ってるもの詳しそうだから……覚えるなら、一番新しそうな歌がいいなぁと思って、教えてもらったんです」

 ロジェはクテラに対して、教えを説いたり指導するようなこともない。だからクテラは自分で好きなように、昔の教えも今だけは忘れて、かすれた声も外れる音程も気にせず、歌いたいように口ずさむ。
 クテラが一曲、歌い終えると、目があったロジェがふにゃりと微笑んで、今度はバトンを引き継ぐように、聞いたことのない柔らかな子音の歌をうたいはじめた。
 心なしか、ウサギもどこか歌に聞き入るようにロジェの周りに集まっているように見える。
 ふわふわとしたウサギの群れに、スティック状のにんじんを配りながら、柔らかいロジェの歌声に耳を傾け、辺りを見渡しては故郷の緑ともまた違う、色濃い緑の自然に見入る。
 嬉しいし、目に入るもののほとんどが新鮮で、この驚きやそわそわを思わず打ち明けずにはいられないと思うのに、ふといつもの癖で後ろを振り向いても、そこには誰も立ってはいないのだ。
 楽しいけれど、ふと振り向いた場所にナインがいないのはやっぱり、寂しいような物足りないような、何とも言えない気持ちになる。ナインも一緒なら良かったのにな、と思うのだけれど、ナインはナインで今頃、楽しく飲んでいるのだろうから、自分の都合で連れまわしたいと思うのも勝手な話だ。
 それでもやっぱり、面白いものや、綺麗なものや、ビックリするようなものや、そういうものを見るとき、いつも一緒にいるナインがいないのは、とても淋しいことのような気もするのだ。

(……ナインとも、一緒に来たかったなぁ)

 鎖や言葉で縛りつけて無理やり連れまわしたところで、何も嬉しくはないのだと今までの経験からも十分、理解してはいるのだけれど。
 頭の中で、少しだけ考えてみる。
 クテラの手の中にグリップはなく、ナインの首には首輪もなく。縛り付けるでも命令するでもなく、それでもナインが一緒に散策を許してくれて、ああでもない、こうでもないとたわいもない話ができたら、それはどんなにか、幸せなことだろう。
 無論のこと、それはクテラの勝手な望みだとか、一方的な都合のよさでできている光景でしかないのだ。

(いつものENo.570ナインの他、ENo.48ロジェさんお借りさせて頂きました!)

■ 二十三日目


 お腹の辺りがひどくズキズキして、吐き気に似た気持ち悪さで視界がくらくらする。
 日が暮れる前にデートが終わって、ロジェが宿まで送り届けてくれるまでは何の問題もない一日だった。それなのに、夕日が差し込む部屋に戻ってきた途端、クテラの腹部はまるで訴えでも起こすように痛み始めてしまった。

(……また、いつものかな……)

 毎年、時期はさまざまだが特に冬、契約の日の前後にクテラはよく体調を崩す、らしい。
 詳しくは熱のせいであまり記憶が定かではない。
 ただ、記録してある限りだと大体は腹痛を中心にした熱だったり吐き気だったりのようなので恐らくは風邪なのだろうが、契約の日の前後は特にこれがひどいことが多いらしかった。
 今年の契約の日はそんなこともなく無事に過ごせたので大丈夫かと思っていたのだが、今年はちょっとズレたらしい。

(今年は契約の日あたりは平気だったから、大丈夫だと思ったんだけどな……)

 ナインがまだ、帰ってきていない時間だったのが唯一の幸いだ。
 今日は一日、ナインの休みを邪魔したくはなかったので、大人しくしてようと誰もいない部屋に「ただいま戻りました」と声をかけてから、荷物を置いてケープをハンガーに吊るし、お湯を使って汗を流してから部屋着に着替え、ベッドの上に横になる。
 だが、いつまでたっても腹痛は和らぐ気配がなく、断続的に痛みのピークがやってきては引いての繰り返しで、寝返りを打っていてもどうにも気が休まる暇がない。
 そのうちに、何か気を紛らわせようと思い立ち、下の階まで出かけて本棚の前に立つ。
 相変わらずどの本を手に取っていいのか分からずに、痛みに急かされるように適当に掴んだ本を二、三冊、持って部屋に戻った。

『人魚姫』
『おひめさまとドラゴン』
『美女と野獣』

 こちらの絵本は何度読んでも、クテラが里で読んでいた絵本と内容が違う。
 白の里の絵本では、平和に暮らしている魔物の土地に迷い込んでくるのはいつも人間の側であったし、最後は人間と魔物が手に手を取り合って終わる。
 人魚の姫君は人間の王子と力を合わせお互いの自国間に友好条約を結ぶし、ドラゴンは退治されず姫や騎士と友和を図り、野獣は人間の王子に戻ったりはしない。

(だいたい、格好いい王子様に戻ってから『ケッコン』だなんて、なにか違うと思うんだけどなぁ……野獣を好きになったはずなのに)

 こちらの絵本は、クテラには何だか納得がいかない理不尽な結末のものが多い。魔物は退治されるし、狼や魔女と人間は分かり合えずに終わるし、たまにドラゴンや野獣と恋に落ちるかと思えば最後は『実は格好いい人間の王子様でした』とオチをつける。

(僕だったら、野獣が人間の王子様になんて戻らなくたって、ずっとずっと一緒にいてあげるのにな)

 クテラには恋愛というものはさっぱり分からないけれど、もし恋をするならやっぱり、素敵な人に焦がれるのだろうなと思う。大きなたくましい身体にふわふわの毛皮、鋭い爪と牙、きらりと夜の中に輝く眼、目を見張るような跳躍力に、と考え出せばキリがない。
 もっとも、それだってクテラには直接は関係ない、空想の世界での話だ。
 結局、いつまで経っても気分は晴れず、痛みもあまり引く気配がなかった。
 いつもなら眠気がやってくるのを待ってしまうのだが、今日は痛みのせいでどうにも眠れる気がしない。そうこうしている内にこの間、ナインが風邪を引いた時に教えられた薬屋のことを思い出した。
 ハイデルベルクに来てからというもの、日用雑貨の買い出しにしろ医者にしろ、とにかく当てがなく、何かあった時にどうするか、という所からまず悩まなければならなかったのだが、こういう時、頼りにできる顔が思い浮かぶというのは有難いことだ。
 身体が億劫だったせいで、結局、情けないけれど部屋着にいくつか上着とコートを重ねて簡単に外に出る身支度を整えた。

◇ ◆ ◇

 外で雪が降っている。
 契約の日はもう終わってしまって、日付が変わったまっくらな深夜のことだ。
 あの子はとうとう、来てくれなかった。約束していたのに、いつまでも窓の前に座っていたのに、とうとう約束の時間は過ぎて、とっくに日が沈んでしまった。窓からあの子が顔をのぞかせてくれることは、木の枝が人ひとり分の重みに揺れることはなかった。
 どうして、あの子は来てくれなかったんだろう。
 来てくれなかったあの子のことが気になって仕方がない。一緒にいるときよりも何だかずっと、あの子の事が気になってしまって、その度にお腹がズキズキと痛む。また熱が上がったんじゃないかと不安になる。
 離れている時の方があの子のことを考えてしまうなんて、なんだか、変な話だな、と思う。
 あの子はどうしているんだろう。何か、来られないような事情があったんだろうか。それとも、約束の事なんて忘れてしまっているのだろうか。
 こんな契約の日は初めてのはずなのに、何故だか、この感覚を自分は知っているような気もする。
 外に行きたかった。外のことを知りたい、と思う。あの子がどうしているのか知りたいと思う。
 あの子に、会いに行きたいなと思うのに、どうしてか身体が上手く動かないのだ。

◇ ◆ ◇

「おや、巫子さまじゃないですか!」
「こんにちは、この間は風邪薬、ありがとうございました」

 ナインが風邪を引いていた時、『この商人からこの薬を買ってきてくれ』と頼まれて知り合った薬屋は元々、里の住人だった人間らしく、クテラの顔を見ると恐縮そうに頭を下げてくれる。
 元は下街で薬屋をやっていた男らしく、クテラが腹部を抑えて、ひどく億劫そうな顔をしていることにはすぐ、気が付いたのだろう。

「……ナインさんが完治されたと聞いていましたが、今度は巫子さまの方がご不調のようですね。腹痛ですか?」
「はい……お腹、こわしてる訳じゃないんですけど、痛くて……」

 クテラの話を聞いて、薬屋がふっと、わずかに眉をしかめるようなそぶりを見せた。

「……一つ、お聞きしたいのですが。巫子さまは今も、お薬の服用は続けられていらっしゃいますか?」
「……お薬? ああ、いつも飲んでいた、黒いお薬の事ですか? それなら、ええと……ここに出てくるよりも前……儀式の半年くらい前に、もう飲まなくても大丈夫だ、と」

 黒い錠剤なら確かに毎日、一日一回飲んでいた。
 薬同士は中には、取り合わせが悪いものもあるらしいから、気を遣って聞いてくれたのだろう。それにしても、巫子が薬を常用しているだなんてよく知っているなぁと思う。やはり薬屋ともなると、そういう事情にも精通していないといけないのかもしれない。

「……なるほど。いえ、そうですね、特に他に服用されているお薬がなければ、大丈夫ですので」

 そういって、手早く何包かに小分けにした薬を用意してくれた。

「あまり影響のない、柔らかめの痛み止めです。対症療法の一種ですから、根本的な解決にはならないと思いますが……」
「いえ……すごく助かります、こういう時、本当にどうしたらいいのか分からなくって……有難うございました」

 お金を払い薬を受け取ると、深く頭を下げる一礼で見送ってくれる。
 客に深くを尋ねずに礼儀を払う、商人の一礼をする人だな、と思った。

◇ ◆ ◇

「……おい」
「!?」

 薬を飲んだあと、相変わらずベッドの上で横になったままうつらうつらと絵本を眺めている所に声を掛けられて、慌てて上半身を起こしながらドアの方へと振り返る。
 ドアを開けて部屋の中に入ってくるナインからは、最近では珍しいくらいキツい煙草の匂いと、それからアルコールの香りがした。

「あ……お、おかえりなさい……」
「……なんだよ、帰ってきてるのかと思ったら暗い顔して」

 原因不明とはいえ、いつものことだと分かっている体調不良だ。痛み止めのおかげで大分痛みは和らいでいたし、せっかくの『お休み』に迷惑をかけるのも嫌で、とっさに言い訳が口をついてでる。

「えっと……その、か、帰り道で、大失敗しちゃって……」
「……」

 呆れたような顔をするナインに、誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべたクテラがすぐに話題を切り替える。

「ナインの方は、ええと、お休み、楽しかったですか?」
「……まあな。手のかかる御主人サマもいなかったしな」
「良かったです。僕も楽しかったので、えっと、良いお休みに……なりましたか?」

 ああ、と言う適当な返事を残して隣の部屋に向かうナインの反応が、一日一緒にいなかったせいで妙にそっけなく感じる。何となく、無性に話し足りない気がしてつい咄嗟に、その背中に向かって何でも良いからと言葉をかけてしまった。

「……た、楽しかったから、本当はナインも一緒だったら良かったのになって思ったんです。……今度は、ナインも『デート』しましょうね」
「……なんだそりゃ」

 一瞬、足を止めて振り返ったナインが、げんなりと眉をひそめて心底、嫌気たっぷりにため息をつく。

「毎日引きずり回してるのに、何かまだご不満でもあったのか?」
「……あ、そっか」

 ナインにしてみれば、いつもの仕事の延長にしかならないのだから何も嬉しいことのない話なのだろう。

「……いっつも一緒にいるのに、それもなんだか、変な話ですよね」

■ 二十四日目


「……犬はいいなぁ」

 噴水広場のベンチに座って、ぼーっと散歩中の犬を眺めているクテラの横に、大柄な神父が立っている。
 その表情はまさに鋼鉄、無慈悲と断罪の神からの使者かと言う神父ではあるが、驚いたことに彼は至って親切であり、また人道的であり、ありていに言えば要するに親切だった。

「……悩んでいるのか、青少年」
「悩んでいるというか……こう……陽気も良いし、犬の散歩してる人も増えて来たなって」

 ぼーっと見つめる先では、行儀よく座って利口さをアピールする犬が飼い主に気持ちよさそうに撫でられている。

「……いぬはいいなぁ」
「……聞き直そう。なにか、迷走しているのか青少年」

 そこに来てようやく、クテラの視線が神父の方へ向く。神父は相変わらず、厳然と目の前を見据えており、中空に何か見えない敵を凝視しているかのような厳しい表情を崩さない。

「……犬は、お手をして、お座りして、ちゃんとお散歩して、良い子にしてれば褒めてもらえるじゃないですか」
「……君は、つまり、何か褒められたり認められたりということに恵まれずに不満を抱いているのかね?」
「……褒められたいとか、そういうつもりはなかったんですけど……」

 ちょっと図星をつかれたようにう、と言葉に詰まったクテラが、肩をしゅんとさせて恥ずかしそうにうつむく。

「なんだか……何をしていても、関心が薄いのかなぁ、とか……興味がない? と言うんでしょうか……」
「……一応、確認のために聞くがそれは君と、君のあの連れの話なのかね?」
「そうです。と言うか、こっちで一緒に暮らしてるのはナインくらいなので……」

 こっちでも何も、クテラがこんなに長く誰かと一緒に暮らすのはこれが初めてだ。例えば、兄弟や家族が一緒に暮らしていたら、こんな風にして暮らしているんだろうかと常々、疑問に思ってはいるのだが、尋ねられる相手は未だにいない。

「つまり、君は身近に一緒に暮らしている人間に興味や関心を抱いてもらえない……認めてもらえていないんじゃないかと言う不安に駆られていて、褒められたいという率直な欲求に至っている、と」
「褒められたいというか……」

 何となく抵抗があったのか、反射でそう言葉を変えようとした後、言いよどむ様に言葉が途切れる。
 クテラは今まで、『頑張ったことについては褒めてもらえる』ということを当たり前のように享受してきた。上手くできなかったり、失敗すれば当然だがお小言をもらう。代わりに、上手くできたとき、クテラの周りにいる人々は何のてらいもなくクテラを褒めた。
 だから、ハイデルベルクに来てからこっち、自分なりに全力を尽くしているつもりなのに返ってくるものが何もない状況になんとなく、不安を感じてはいるのだろう。与えられた役割も果たせず、探し物も見つけられない中途半端なままなのだから、それも当り前と言えば当たり前のことなのに、だ。
 分不相応な望みだ、と思う。

「……そうなのでしょうか。僕、褒められたいんでしょうか……」
「悪いことではないのではないか。君はまだ、場合によっては親元で教えを乞い、切磋琢磨し褒められていてもおかしくはない年だろう。欲求としては非常に正常であり、素直だとも言える」
「……でも、神様の教えって、よくぼーに素直じゃいけないんじゃないんですか?」
「時と場合による。これは『褒められたい』と言う感情自体の是非というより、その感情で何を為すかが重要なのではないか、と私は思う。例えば、前提が『褒められたい』という動機であっても、清掃やボランティアに精を出せばそれを褒められるのは当然のことだと思うし、そうして為した事実自体は立派な善行だ」

 そこで言葉を区切って、神父はちらりと視線でクテラの表情を確認した。
 分かりづらいけれど、あれだ。
 まあ、彼は彼なりに、クテラが元気なくベンチでしょぼくれているのを、心配してくれているのだろう。

「前提はどうあれ、人の役に立とうとすることを咎める人間は、まあ、あまりいないのではないだろうか?」

 こうして、神父の言葉をきっかけにクテラの『おかーさん巫子だってたまには褒めてもらいたい』運動はひっそりとスタートした。

◇ ◆ ◇

 第一弾。
 率直に、クテラは取りあえず『自分に一番足りないものは何だろう』と考えた。
 その結果、『取りあえず戦いの時にいかんせん役に立っていない現状をもう少し何とかしよう』と思い至った。

「さあ精霊兵、今日こそリベンジ・マッチです!」

 ナインは喫煙所に、煙草を吸いに行っている。
 一人でこっそり、練習するにはまたとないタイミングだ。
 クテラが両手で抱えた楽譜に精霊力を流し込むと、術の発動に必要な分の楽譜が腕の中から抜け出しては宙に舞い、クテラの周りをくるくると回り始める。
 起動した精霊兵がしっかりこちらを向くのを確認して、ぐっとクテラは残りの楽譜を力強く抱きしめる。

◇ ◆ ◇

「……で、お前は来ない来ないと思ったら何やらかしてんだ?」
「う、うう……転んだときに、精霊兵に服のはしっこ、踏まれちゃって……動けません……」

 ご丁寧に、クテラが倒れ込んで動かないので精霊兵もきっちり、動きを止めていた。

◇ ◆ ◇

 第二弾。
 取りあえず、急に苦手なことを頑張ろうとしてもなかなか劇的に上手くなるものではないということを実感したので、得意な所から頑張ろうという結論に至る。
 ナインが下で宿の主人と話しこんでいる間に、さくさく勧めていかなければならない。
 自分がナインの役に立てる分野と言ったらやはり、これだろう。

「磨くぞー! おー!」

 クテラの精製方法は、別に石を削るわけではなく、精神集中からのマナ呼応を応用した『純化』に近い手段を取っている。
 机に向かって座り、レースの上に広げた原石へ両手をかざし目を閉じ、精神集中のための歌を口ずさみはじめる。
 原石の中のマナに呼びかけるようにして増幅を繰り返しながら、内側からゆっくり純化をうながしていけば、余剰部分が勝手に外側から剥がれはじめ、きれいな真円の宝石が姿を現し始める。
 あとは、どこまで純度を高められるかが勝負だ。

◇ ◆ ◇

「……は!? 夢!?」
「……なんだよ、机に突っ伏して寝てると思ったら起き上がって」

 はっと顔を持ち上げたクテラがきょろきょろと辺りを見渡すと、すでに戻ってきていたらしいナインが相変わらず、適当に持ち帰ってきたらしい本に目を通していた。
 ちなみに、タイトルは『無名祭祀書』だ。

「……た、たくさん精製したので、ちょっとうたた寝しちゃって……そうしたら、磨いた石が夢の中でぜんぶ、諸刃に変わっちゃったんです……」
「……復讐じゃなかった分だけマシだと思っとけ」

◇ ◆ ◇

 第三弾。
 やっぱり、自分でも楽しんで取り組めることと言ったら料理だろう。
 携帯用ビスケットは、保存用の瓶から出した野苺のジャムとチーズを乗せる。ナイン用に、オリーブオイル漬けのドライトマトとチーズを乗せたものも忘れない。携帯用のビスケットはしけりやすいのが難点だったが、しけったものはスープやラム酒に浸して食べてしまうものなのだと知ってからは随分と食べ易くなった。
 ぱちぱちと鳴る焚き火の音に振り向くと、串にさして炙っている干し肉がそろそろ、良い具合に暖まり始めている。用意しておいたザワークラウトはスープにも出来るし、あぶった干し肉の付け合わせとして役に立った。まとめてライ麦の固パンに挟んでしまっても美味しい。

「えっと……最後の風味づけに、ラム酒をちょっと多めにたらして……」

 本当は外で食材を自力調達できるのが一番、良いのだろうけど、あいにくとクテラに狩りのスキルはないし、料理はできても肉を捌いて食材にするのはまた別のスキルだ。キヤ辺りなら恐らく、どちらも問題なくこなせるのだろうけど、クテラには材料を調理するスキルしか持ち合わせがない。

「出来ました! ナインは成長期なんですから、いっぱい食べてくださいね!」

◇ ◆ ◇

「うう……あたま、いたいです……」
「なんで風味づけのラム酒で酔うんだよ……」

◇ ◆ ◇

 第四弾。
 掃除、とは言っても別段、クテラやナインが使っている部屋が散らかっていると言う訳でもない。
 クテラは日ごろから物の整理整頓には気をつけていたし、ナインも別に掃除が好きということもないのだろうが、逆に言えばナインには部屋を散らかせるほどの私物がないのだ。
 依頼で手に入った報酬の使い道も、増えるのは霊玉だったり消耗品だったり最低限の日用雑貨だったりよく分からないぴくぴく動く怖い肉だったりで、なかなか私物らしい私物が増える気配はない。

「いっそのこと、ものすごーく部屋が片づいて、なんか置かないと淋しいかも……っていうくらい片づいてしまったら、ナインもちょっとくらい趣味で何か買ってみようかなって気分になるやも……!」

◇ ◆ ◇

「あの……」
「なんだよ」
「……へ、部屋が何か、さっぱりし過ぎてさみしいので……そ、そっちにいっても……」
「……頼むからもうなんか勝手にしてくれ。俺ぁ眠いんだよ。寝たいんだよ」

◇ ◆ ◇

 第五弾。
 たまった洗濯物をまとめて片付けるべく、腕まくりをして部屋の中を見渡す。
 耳と尻尾が生えてからというもの、鋭くなってしまった嗅覚に随分と苦戦したのだけれど、最近はようやく、嗅覚の調節にも日常生活の匂いにも慣れてきた気がする。
 洗濯カゴにまとめてある分とは別に、部屋の中にたまたま放り投げられている残り物を発見する際にも便利だ。

「あ、もう、ナインってば、こんな所にシャツ脱ぎっぱなしにしてる……」

 ナインの匂いはナインからしかしない個人特有の匂いの他に、いつも煙草のあの独特の鼻につくような匂いがする。クテラはあの匂いがあまり好きには慣れなくて、嗅覚が鋭くなってからはナインの煙草の匂いが随分と負担だった。

「あ、これはあんまり煙草吸ってない日のやつだ」

 つい気になって、手に取ったシャツに鼻を近づけて匂いを確認してしまう。別に変な趣味がある訳ではなくて、鼻が鋭くなって以来、無意識にいろいろな匂いを確認したくなってしまうようになってしまったのだ。
 ナインの煙草の匂いは日によってけっこう、バラつきがあって、最初の方はそうでもなかったけれど、協会の近くに喫煙所を見つけてからはまた煙草の匂いがキツいことが増えてきた。
 日によって全然匂いが違って、だからこれは、喫煙所に寄らなかった日の洗濯物なのかな、と思う。

◇ ◆ ◇

「……何やってんだ?」
「……へ!? あ、いや、えと、せ、洗濯物回収をしてるだけで、べべべべ別段、怪しいことは何も……!」

 まさか、洗濯物の匂いを確認するのが面白くて、とは口が裂けてもいえるはずがない。

◇ ◆ ◇

「……お前、なんか今週、やたらとミスが多いよな」
「……へ?」

 驚いて顔をあげたクテラが、真っ直ぐにナインの方を見つめ返す。

「コケて訓練失敗するわ、石磨きかけのまま寝てるわ、ラム酒の分量間違うわ、急に掃除はじめたと思ったら落ち着かないとか言い出すわ、洗濯物持ったままぼーっとしてるわ。春が近いから、気でも抜けてるのか?」

 ここに至って、ようやく、クテラは納得した。
 思わず、ああ、なるほどな、と頷きながら、思わず神妙な顔でうなる。

「やっぱり、よくぼーのままに動いちゃダメなんですね……人間は理性が大事なんだなって思いました」
「……寝ぼけてんのか? お前」

(ENo.129・ハルト神父、お借りさせて頂きました)

■ 三十日目


(精霊伝説の終了告知が24回更新後に入ったため、30回まで日記が飛んでいます。また、予定していた更新数の二分の一以下の回数しかなかったため、伏線などほぼ回収せずに続投フラグだけ残して打切りの状態になってしまいました、ご了承ください)

 すっかりサッパリしてしまった部屋の中を見渡しながら、忘れ物がないことを確認する。
 鞄にまとめた荷物はずっしりと重く、持ち上げると二、三回、不安定にクテラの身体が揺れた。

「怪我、ようやく治りましたね」

 振り返ると、やっぱり身軽なりに荷物をまとめたナインが退屈そうに欠伸をかみ殺している。

「まあな」
「喧嘩両成敗! って、協会員さんがなかなか治してくれないから、一時はどうなるかと思いました……」
「……」

 ナインが肩に大怪我をして倒れてから、普通なら精霊術ですぐに治してもらえるところを一週間。
 こうして考えると、随分と慌ただしく過ごしてしまったような気がする。
 でも、それも今日までで一区切りだ。

◇ ◆ ◇

 協会でのもろもろの処理のために、道中、協会に立ち寄る。
 ナインが退屈そうだったので喫煙所で待っていてもらうことにして、事務処理のための書類を持ったまま、受付の女性に声を掛けた。
 話は事前に通してあって、今日は書類の提出だけですぐに出立できるようになっているので、向こうも勝手の分かった表情で書類を受け取ってくれる。

「しばらくお待ちください」

 のんびりと協会のロビーで椅子に腰かけていると、ぽん、と肩を叩かれて、驚いて振り返る。

「……ロジェさん!」
「や。クテラ、久しぶり」

 屈託なくにこりと笑う姿は愛嬌があって、相変わらずどこか掴みどころがなかった。

「あいつ、完治したんだって?」
「……その節は本当に、その、大変なご迷惑をおかけいたしました……」
「いや、どっちかっていうとその件に関して謝られちゃうと、俺の方がなんか気まずいんだけど……」

 どれほど盛大な喧嘩だったことはナインが寝込んだ一週間からも明らかだったので、こればっかりはクテラも誤魔化すように笑みを浮かべるしかない。

「帰るんだって? 向こうに」
「……はい、なんだか、急に呼び戻しがかかったみたいで……」
「そっか……なんか、最近、そんな話聞いてばっかりだなぁ」

 みんな、いなくなっちゃうんだって、とぽつりとロジェがつぶやく。

「クテラがいなくなっちゃうのは、淋しいな。あいつも……いなくなるんだって思うと、なんだか、不思議だ」
「……僕も、せっかくいろいろと良くしていただいたのに、こんなに急にお別れしないといけないのは淋しいです。もっと……いろいろなことが一緒にできると思ってたから……」
「……ん。でも、クテラはあいつと一緒に戻るんだろ?」
「あ、はい……監視のお役目が御免になるとか、そういうお話ともちょっと違うみたいなので……」
「なら、良かった。……大丈夫、あいつならちゃんと、約束は守ってくれるよ。俺に向かって、あんな大見得切ってくれるんだからさ」
「……ロジェさん?」

 ロジェの言っている言葉の意味がわからずに、不思議そうに首を傾げるクテラの頭を、ロジェがぽん、と子供にしてやるように撫でる。

「あいつ、いま煙草?」
「はい。会っていかれ……ますよね?」
「ん、挨拶くらいはね。でも、その前にクテラとちょっと話したいことがあって」
「……なんでしょうか?」

 気まずくなっていなければいいけど、と言うクテラの心配は杞憂だったらしい。
 それならば安心だとほっとするクテラが続きを促すと、打って変わって、今度はロジェの方が少し、困ったような曖昧な笑みを浮かべる。

「んー……どこから、話そうかな」

 数秒の沈黙を経て、再びロジェが口を開き始めるまでは少し、間が空いた。

「クテラはさ、前に、俺に『日記が飛び飛びになっちゃう』って言ったの、覚えてる?」
「あ……はい、懐かしいな。そんなお話、してましたよね。デートの約束と一緒に」
「うん、それでさ……」

「……クテラ、……『グロウ』って、誰?」

 聞いたことのない名前だった。

「……え?」
「覚えてない? 狼に戻ったあいつにクテラが泣きついて離れなかった時、グロウ、グロウって叫んでたの」

 ぴたりと動きを止めて、不思議そうに聞き返したクテラに、穏やかにロジェが問いかけ続ける。

「……グロウ、ですか?」

 確かに、倒れているナインを見たときは驚いていた、はずだ。
 動揺していたので記憶はあいまいだったし、ビックリして何か変なことの一つや二つは叫んでいてもおかしくはなかったのかもしれないが、そも、グロウという言葉にまったく心当たりがない。

「……ちょっと……よく、覚えてないんですけど……えっと……」
「ああ、いや、ごめん、心当たりがないならいいんだけど。俺の聞き間違いかもしれないし」

 一体、何の言葉なのか、誰かの名前だろうかと、心の中でだけ何度か、繰り返しその言葉を呟いてみる。

(そういえば、)

 グロウ、グロウ、グロウ。

(どうしてあの狼さんの姿を見て、すぐにあれがナインだって分かったんだっけ)

 欠けた耳? ピアス? 毛並みの色?
 分からない、知らないはずだ。
 肩から血を流しながら、狼の姿で静かに生命維持に集中するナインを見てよほど気でも動転していたのだろうか。
 けれども、どうしてかグロウ、と小さくつぶやく度に、ずきずきと頭の片隅が痛むのだ。

「……分からない、けど……たぶん、僕は……そういう名前の人は、知らない……と、思います……」
「……そっか」

 ギクシャクと、なんだか調子を崩した機械のように返事をするクテラに、ロジェがふんわりと微笑んで頭を撫でてくれる。

「ごめんね、変なこと聞いちゃって」

 少し顔色が悪く見えるクテラの血色を伺いながら、ふっと目を細めて、ロジェが独り言のようにつぶやく。

「ただ……ちょっと気になっただけだったんだ」

◇ ◆ ◇

 乗合馬車の待合所で、宿の主人から指示された馬車がやって来るのを待つ。
 来るのは森の森の関係者らしいから、ナインのことを不思議がられることもないのだろう。雪領区に戻るまでの間、少し長い馬車旅が続くから、事情を分かっている人間が来てくれるというのは気楽だ。

「でも、急に呼び戻しがかかるなんて、向こうで何かあったんでしょうか……?」
「……さぁな。どうせ向こうに行きゃ、嫌でも分かるだろ」
「それはそうなんですけど……」

 急な呼び戻しの連絡が入ったのは、新月の晩だった。
 急用じゃ、といつもの骸骨じみた仮面をかぶったリッチの長老の言葉に急に決まった帰郷は、あっという間に準備が整ってしまった。

「……ハイデルベルクで暮らすのもけっこう、長かったから、こうやって振り返るとなんだか、淋しい気がしますね」

 知り合いや、友達と呼べるかもしれない相手ともたくさん出会った。もうちょっと時間があれば、と思うことはあったけれど、クテラが巫子である以上、いつかは訪れた別れだ。
 白の里にいた頃には決して持てなかっただろうものをこんなにも多く抱えて故郷に戻れるのは、嬉しいことでもあると同時に無性に淋しくもある。

「……どうせ、会う奴とは会うつもりがなくたってまた会う。そういうモンだろ」
「……」

 それがナインの言うところの、友達だったり、腐れ縁だったり、というものなのだろうか。
 それはクテラが持ったことがない、知らない世界のものだから、そう言われればそうなのかな、とナインを信じるしかない。
 つまるところ、不器用ではあるけれど、ナインはナインなりにハイデルベルクとの別れを惜しんでいて、クテラを多少、気にかけてくれてもいるのだろう。

「……有難うございます、……ナインに慰めてもらっちゃいました」

 何となく気恥かしくておどけて笑ったが、あまり受けはよくなかったようで、ナインの視線は冷たい。もしかしなくても、ハイデルベルクとの別離でおかしな気分になっていたのかもしれない。変なことを言ってしまった。

「……な、ナインと一緒に向こうで過ごすのは、初めてですね。向こうに戻ったら、どこか案内してくれませんか? 僕、森はお城の中しか行ったことないんです」
「……」
「……森にも、クレープ屋さんってあるんでしょうか?」

 誤魔化すように一人でぽつり、ぽつりと喋っていたのだが、驚いたことに返答はあった。

「……ある」

 驚いて、へ、と振り返ってナインを見上げる。
 なんだよ、と言いたげに眉をひそめながら、相変わらず面倒くさそうにため息をつくナインが同じ言葉を繰り返した。

「……あるに決まってるだろ」
「……本当ですか? じゃあ、ナイン、きっと案内してくださいね、約束ですよ?」

 良かった、とホッと一息をついて、もう一度前に向き直る。
 ハイデルベルクにやって来た時に比べたら随分と気楽に感じるのは、あの時と変わらずにナインが隣にいるせいだろう。
 同じ誰かとずっと一緒にいられるというだけで、先のことが分からない不安なんてずいぶん軽くなるものなのだということを、ハイデルベルクに来てから初めてクテラは知った。
 こちらに向かってゆっくり近づいてくる馬車の、銀細工で施された彫金が目印だ。

「それじゃ、森に向かって出発、です!」



(最後の日記ということで、いつものPTMであるENo.570・ナインと、交流や秩序杯チームメイトとしても縁深かったEno.48・ロジェさんをお借りさせていただきました。

終わりに。
精霊伝説内でクテラとナインに関わってくださったみなさま、交流・取引してくださった方、大会でご一緒してくださった方、長い日記にも関わらず丁寧に読んでくださった方、本当にどうも有難うございました。
また、途中で交流面でも日記面でもリタイヤ状態になってしまったにも関わらず、最後までこのクテラの結果ページを見に来てくださった方にも改めてお礼を申し上げたいです。

ナインとクテラの顛末に関しましては、割と思わせぶりに伏線をばらまいてしまったこともあり、また詰め込んだ情報量的にもとても残り五回で回収しきることが難しかったため(ロジェさんとの決闘でようやく、クテラがナインの真実の一端に触れられるくらいの予定でいたので、実はナインとクテラは物語的な立ち位置としてはスタートラインにも立てておりません……)現状、ネタばらしについても迷ったのですが、今のところナインPLともども、続投の可能性も考えて結論は保留にしております。
どうなるかはPL二人とも決めきれていないのですが、またどこかでこの二人のペアを見かけることがありましたら、その時はまたもしよろしければ見守っていただいたり、ちょっかいをかけにきていただければ大変うれしく思います。

結びに、改めまして精霊伝説内で一緒に遊んでくださった全ての方、ならびに多大な尽力でゲームを運営してくださったmeaさんにお礼申し上げます。
大変楽しいゲームでした、みなさん、本当にお疲れ様でした、そしてありがとうございました!)