■ 六日目


 意図せずして目が合った、としか言いようがない状況だった。
「あれ?」
 思わずクテラの上げてしまった声で、相手が顔見知りだと確信できたのだろう。通りを歩いていたキヤが、クテラの立つショーウィンドウの方へくるりと方向転換する。
 少し、名前を思い出すのに難儀しているように見えるのは、突然の出会いに驚いたことと、クテラのことを『隣にいつもデカい狼男がいる人間』と認識していたせいもあるのだろう。
「ああ、えっと……そうだ、クララ」
「……クテラですよ、キヤちゃん」
 忘却癖については初対面の時に断られていたこともあってか、そこまで気にはならなかったらしい。冗談めかして訂正するクテラの言葉に、キヤが口を「あ」の形に開いたまま、参ったと言うように頭を片手で支えた。
「……悪いわね。メモも取ったし、もう覚えたつもりだったんだけど……」
「いえ。前にちゃんと断ってもらってましたし、気になさらないでください」
 本当に不快感のようなものは何もなかったのだろう。
 笑って言い切るクテラの周りを改めて見直して、本当に一人でここにいるのだと確認したキヤが不思議そうに首をかしげた。
「何やってんの? 買い出し? ……っていうか、あの狼男がいないみたいだけど、目を離しておいて平気なの?」
「あ……えっと……い、一緒に来られると、買い出しにくいものがあるので……」
「……ああ」
 まあ、年の離れた男と二人旅ではそういう都合もあるだろうと、キヤがショーウィンドウに目を移す。
 ショーウィンドウの中はウサギのぬいぐるみが所狭しと鎮座している、ちょっとしたジオラマ仕立てになっていた。ルビー、シトリン、ヘリオドール、さまざまな宝石に見立てた色硝子に、羽織るのは生成りの手編みレース。
 確かに、あの青年の前でこういったものは嗜みづらいのかもしれない。
「キヤちゃんは……これからお仕事ですか?」
「ううん。仕事は明日。今日は、腕慣らしの練習みたいなものかな。的撃ちだけだけど、協会の中でやらせてくれる所があるから」
 キヤが抱えた荷物の中に、イチイの弓が覗いていることに気がついていたのだろう。
 尋ねるクテラに、きびきびとキヤが答える。だが、そんなキヤとは正反対に、クテラの表情はどうにも覇気がない。
 狼男がいないのも、案外、買い物のせいだけでもないかな、と当たりをつける。もしくは、買い物が単なるこじつけか。
「……協会って、そんな場所まであるんですね……知りませんでした」
 感心したように目を瞠っていたクテラが少し考え込むようなそぶりを見せた後、切り出しづらそうに口を開く。
「……あの、もし良かったら、その……一緒に見に行ってもいいですか? 試験の時に見てたのって、キヤちゃんをキヤちゃんだって思って見てなかったと思うから……」
「……」
 これはこじつけでビンゴかな、と、キヤが頭の中でだけつぶやく。
「……別に、いいけど。見せびらかすような真似は好きじゃないんだけどね、……これも練習のうちかな。パーティの中じゃ、そんなこと言ってられないし」

◇ ◆ ◇ ◆ ◇

「キヤちゃんは、ここでよく練習するんですか?」
「暇な時とか、腕の調子が狂いそうな時はね。本当は狩りをするのが一番いいんだけど、ハイデルベルクにいる間はそうしょっちゅう行く訳にもいかないし」
 本当に慣れた手つきで淡々と準備を終わらせたキヤを、離れた場所からクテラが眺める。
 弓を引く狩人特有のものなのだろう。キヤの姿勢は、清々しいほどピンと背が伸びていた。
「ここさ、色々なものが有り過ぎて、何だか調子が狂うから」
「……調子……ですか?」
 気分か、腕か。キヤの腕前は実際、素人のクテラの目から見てもかなりのものに見える。的を外すことなく淡々ととらえ続ける光景を見ていると、とても調子が悪いようには見えない。
「猟師ってさ、基本は自給自足なんだ。必要な分の狩りしかしないの。生活に必要な分だけを取って、足りなくなったらまた狩りに出る」
 弓を引いている間は、キヤはほとんど口を開かなかった。ただ、何回か引き終わると間を空けるように弓を置いて、その間に気が向いたら口を開く、と言ったサイクルを繰り返しているようで、これはクテラにとっては有難い話だった。急な話で無理やりついてきてしまったので、下手に気を遣われると居た堪れないが、キヤはあくまでクテラの存在にもペースを乱さず接してくれるので、クテラとしても気兼ねなく見学に回れる。
「生活するためには自分で働いて、自分で何とかする。そう思ってたから、こうも何でもありますよって与えられると、何だか、すごく変な感じ」
「……すごく、よく分かります。なんだか、良いことをして褒められた訳でもないのに、ずっとご褒美を貰い続けてる気がして……」
 キヤの言葉に何かしら、自分の中で思うものと重なる所があったのだろう。ぱっと顔をあげたクテラが、何度も頷きながら言葉を続ける。
「……だから、僕、今、すごく悪いことをしている気がして落ち着かないんだと思います……」
「ああ、分かる分かる。あたし達は新米だし、まだ大した仕事任せてもらってる訳じゃないしね。でも、向こうは協会の冒険者さま! って、一人前扱いでしょ? もちろん、早く一人前になれって発破をかけてるのもあるんだろうけど」
 さばさばと割り切りよく笑うキヤとは逆に、クテラの表情はいかんせん、晴れない。
 少しの間、迷うように言葉を探していたクテラが微妙に目線を迷わせながら、撃ち方のサイクルが終わるのを待って改めて口を開いた。
「……キヤちゃんは、どうして冒険者になろう、って思ったんですか?」
「冒険者になった理由?」
 話す気分になったのだろう。弓と矢を置いたキヤが振り返り、おうむ返しに尋ねながら考え込む。
「まあ、色々あるけど……そうね、一番はやっぱり、これしか生活のアテがなかったから、かな」
「生活……ですか?」
「そう。あたし、何の頼りもなく出てきたから。冒険者になれなかったら、本気でどうやって生活するか悩んでたと思う」
 キヤの答えが、自分の想像していたどんな理由とも違ったのだろう。へ、とちょっと間抜けな形に口をぽかんとさせたクテラが、え、え、っと目を瞠った。
「……じゃあ、キヤちゃんは故郷から一人で出てきたんですか? 自分ひとりで生活するために?」
「まあ、要するにそうよね。あたし、もう絶対あそこにはいられないって飛び出してきたから。今思うと、割と考えなしだったと思うんだけど……出たかったから」
「……」
 言葉もない。世の中にはそんな事情の人間もいるのだ、と、頭では理解しているはずなのに、何だか、急にキヤが自分の知らない世界からやってきた人間のような気がして、まじまじと見つめてしまう。
「あんたは、自分の意志でこっちに出てきたんじゃないんだ?」
「……え……あ、っと……」
 言葉に悩むのは、クテラの中でも答えが固まっていないせいなのだろう。
「……自分では、そのつもりだったんですけど……最近、ちょっと自信がなくなってしまった気がします……」
「ふーん……」
 歯切れの悪いクテラの言葉からも、何かしら感じ取れる所はあったのかもしれない。
 あまり無理に言葉を得ようとはせずに、キヤは少しだけ考え込むような沈黙を残したあと、落ち着いた声音で再び口を開いた。
「……さっきさ、ものがいっぱいありすぎて良く分からない、って言ったけど」
 一本だけ矢をつがえたキヤが、そこで言葉を切るようにしてじっと集中する。矢が的を射抜く。流れるような一連の仕草は、矢が的の中央を捕える所までがまるで一揃いの光景のようだ。
「でも、出されたものを無碍にするのはさ、もっと勿体ないしよくないじゃない? 自分がそれを無駄にした所で、別にそれが他の誰かの所に回されてその人が幸せになるってものでもないし。少なくとも、周りの人間はあたし達にそれだけの価値があるって思ってるんだから」
 サイクルが終わると、的から矢を引き抜くためにキヤが弓を降ろす。戻ってくれば再び、先ほどとまったく同じにしか見えない、指の先までしなやかな姿勢で弓に矢をつがえる。
「狩りをする時の話で悪いんだけどさ。狩人って、矢を撃つときは自分の実力と同じくらい、自分の幸運も信じるんだ。弓から離れた瞬間、もうあたし達のコントロールは効かなくなっちゃうしね。だからもし、その矢が偶然、獲物を二匹とらえることがあったとしても、その獲物はありがたく頂かせてもらうわけ」
 的に吸いこまれていくように軌道を描く矢は、とても肉眼で終えるスピードではない。これを制止した的ではなく、動く標的に向かってまったく同じ技を駆使すると言うのだから、まったくクテラには想像できないような世界だ。
「……ここさ、せわしないし、落ち着かないことも多いくらい大きな街だけど、やっぱり、良い所なんだろうなって思うんだ。パーティの人はみんな良い人ばかっりだし……色々な人間がいるのが当たり前で、偏見とかそういうのも少ないし」
 最後の矢だった。キヤが何のためらいも緊張もなく、まるで呼吸と同じような気軽さで矢をつがえ、弓を引く。弧を描く弓は、半月が日に日に満ちていく姿に少し似ている。
「だからまあ、楽しめるうちは、楽しんでおく方がいいんじゃないかなって、自分でも思ってはいるんだけどね」
 最後の矢が、きれいに真ん中の円を撃ち抜いた。
 キヤはきっと、良いパーティに巡り合えたんだろうな、とクテラは思う。
「喋りすぎちゃったわね。あんまりこういうの、柄じゃないんだけどさ」
「あ……い、いいえ! その……なんか、同じくらいの年なのに、すごくしっかりしててキヤちゃん、すごいなって思って……」
「しっかりしなさいよ。あんたの方が、二つも年上なんだからさ……ってまあ、言うほど年齢とか気になる方じゃないんだけど……あんたは、もうちょっとしっかりした方が良い気がする」
「え!? 二つ下!?」
 猟師の世界ともなれば、年齢如何に関わらず、実力がものを言う社会なのだろう。それは確かにクテラにも理解できる、のだが。
「そうよ。あたし、今年で14だから。あんたの二つ下」
「……も、もっと精進できるように頑張ります……」
「別にいいって、本当。年齢なんてこのくらいの年になったら、そんなに関係ないし」
 片づけを終えたキヤが何事もなかったかのような涼しい表情で、クテラの隣をすっと通り過ぎる。ふんわりと風に揺れる髪の毛の感触が少しだけ頬に触れて、そこでクテラは初めて気がついた。
「わ。キヤちゃんの髪の毛、ふわふわですね。ヒヨコの羽みたいです」
「……あんたって、見かけによらず意外と鋭いのね」
 クテラの言葉に、驚いたように振り返るキヤが軽く目を瞠った。
 だが、当のクテラにはキヤの言葉の真意は伝わらなかったらしい。
「……へ? 何がですか?」
「……前言撤回。なんでもないわ」

◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 キヤと分かれてから、もう一度あのショーウィンドウの店に戻って来た。
 ただし、ぬいぐるみを買うためではない。店の中に入って、あれこれと他の商品を眺めさせてもらう。どうやら、ぬいぐるみや文芸用品の店ではなく、いわゆる雑貨全般を扱っている店だったらしい。
 何十分かうろうろと迷いに迷った後、ようやく、腹をくくって店の中の人間に声をかける。
「あの……この商品、頂けますか?」
 最初は通貨の数え方もまだあまり慣れていなくて、ナインには随分と呆れられたけれど(挙句の果てに、一人できちんと買い物に行けるかどうかまでテストされた)、通貨の扱いにも大分慣れてきたと思う。
 数分後には無事に、包みを受け取ることができた。

(ENo.263のキヤちゃん、お借りさせて頂きました!)

■ 七日目


 部屋のドアを開けるときは、不思議と、いつもの十倍くらい心臓が早鐘を打っている気がした。
 だが、開けてしまえばなんてこともない、ただの宿の部屋のドアだ。木造りで、簡素で、でもそれなりにしっかり音は防いでくれて、きちんと清潔に保たれている。
 部屋の中の光景も、至っていつも通りだった。部屋のベッドの片方はナインが占拠していて、退屈そうに本を広げながら潰すアテもない暇を潰している。そのあまりにいつも通りな光景に、クテラは一瞬、我知らずの内に安堵の息を吐いていた。
 何だかんだで結局、今日はまだ一度もナインの姿を見ていなかったから、気がかりではあったのかもしれない。

「あ、あの……すみません、今、戻りました……」
「……」

 ベッドの上からは、あぁ、とも聞き取りがたいような微妙な返事が返ってくる。ふと、最初に会ったばかりのころは返ってくる返事と言う返事がすべてこの調子だったので、随分と困ったことを思い出した。
 最近は少しだけ普通に喋れるようになって来たのだが、それでも、未だにこの返事が返ってくるとどうしたらいいものか分からなくなる。
 だが、これももう何度も経験した流れだ。
 こういうときは自分で自分に勢いをつけて、黙りこまずにさっさと用件を打ち明けてしまうに限った。

「あ、あの、それで……その……よ、よかったら、これ、買って来たんですけど……」

 ちくちくと針のむしろのように感じられる沈黙を振り切って、慌てて買ってきた荷物をナインの方へと差し出す。なんとか、頑張って笑わないとと思って笑顔を浮かべようとするのだが、上手くいっている自信はなかった。
 だが、そんなクテラの様子にも別段、特に興味もないのだろう。面倒くさそうにちらりとクテラの差し出した包みを見やったナインは、ただ大儀そうに重たいそぶりで上半身を起こすだけだった。

「……なんだぁ?」
「えっと……あの、ネクタイが、その……戦う時、いつも邪魔そうだな、って思って……」

 ものすごい億劫だ、と全身で物語るような挙動で足を床に降ろしながら、腰かけた体勢でナインがあくびを噛み殺す。その一挙一動に気圧されながら、それでも何とか笑顔を保ったまま言葉を続ける。視線は若干、そらしがちだったのはご愛嬌というやつだろう。

「僕、いっつも戦う時とか、それ以外の時も助けてもらってばっかりなので……」

 切り出す言葉には迷っても、言いたかった本題までこぎつけると案外、すらすらと言葉というやつは出てくるものだなぁと思う。
 やる気のなさそうな仕草で立ち上がるナインがじろりとクテラの手の中の包みを覗き込みはしたが、特に興味があるそぶりはない。言い方は悪いがまあ、人の手から餌を食べる狼というのはまずいないものだ。まず、絶対に警戒される。中身が分からなければ尚の事だ。
 それが分かっていたので、クテラも無理に押し付けるようなことはせず、試しに、と言うように軽く包みをほどきにかかった。

「これ、ネクタイピンなんです。良かったら、試しにつけてみてもらってもいいですか?」

 緩衝材のように何重かにくるまった包み紙をほどいて、最後の包みの中からクテラが細い、金色のネクタイピンを取り出す。取り付け方は店の店員に聞いていたが、クテラは生まれてこの方、当然だがネクタイなんて締めた経験はない。ネクタイピンだって同様だ。
 立ち上がったナインの元へひょこひょこと歩み寄るクテラが、どの辺りの高さにつければいいものなのかじっと眺め見ると、何をやるつもりなのやらと怪訝そうな顔をしたナインが、やる気など欠片もない佇まいでクテラの様子を観察する。
 一方のクテラはと言えば、真逆の様子で興味津々に爛々と目を輝かせ、店員の説明を頭の中で反芻しながらええっと、と目測で位置の目星をつけていた。位置は第一ボタンより少し上がベター、最近ではもう少し上方につける人も多い。
 ピンの構造はバネをつかったホールド式で、ネクタイの大剣と小剣をシャツに重ねて挟み込む。裏側のチェーンはシャツのボタンに掛けて、ピンと張る位置にくるまで高さを調節すること。
 ごそごそと思考錯誤を繰り返して、ようやく、こんな感じだろうか、というところまで辿り着く。シャツのボタンを覗き込むのにぐーっと顔を寄せていたクテラが再び顔を上げて、離れて見たときの様子を確かめているそのタイミングで、ナインがクテラに声をかけた。

「……なぁ」
「はい?」

 なんでしょう、とクテラが言葉を続ける間もなく、ゴンっ、と凄まじく良い音が響いた。警戒だとか緊張感だとか、そういうものがまったく頭にない相手にきれいに頭突きが決まる、爽快感すら感じさせる音だった。
 恐らく、クテラが頭を下げてごそごそと胸元で作業をしていたので、再び頭を上げて高さがちょうどよくなるまでタイミングを待っていたのだろう。
 ナインの頭突きは、きれいにクテラの頭のちょうど、おでこから少し上の辺りに綺麗にクリーンヒットした。

「……ぃ、いた……!!」

 痛みで言葉を失ったクテラがぶつけられた頭を抱えて、耐えかねたようにしゃがみ込みながら無言で悶える。
 だが、ぎゅっと身体を縮こまらせて無言で痛みのピークに耐えきると、両手で頭を押さえながらフラフラと立ち上がり、うつむいていた顔をぐっと上げた。
 そのまま、相変わらず怖いもの知らずと言うよりも無知に似た恐れのなさで直球にナインの目と視線を合わせる。

「ど、どうしていきなり頭突きするんですか!?」
「どうしたもこうしたも、何がどうしたらこんな最悪なチョイスのピンを選べるっつぅんだ、あぁ!? 巫子様ってのは服選び程度の教養もねぇのか!?」
「し、失礼な……! ちゃ、ちゃんと頑張って、ナインに似合いそうなピンを選んだんです! 見てくださいっ!」

 柄の悪い言葉遣いを全開にしてまくし立てるナインにも、怯むことなく反論する所がクテラの悪いところであり、まあ、どんなに言葉を尽くしても、お世辞にも良い面だとは言えない側面であったのだろう。甘やかされて育った人間特有の物怖じのなさで、クテラは「率直に思ったことを反射で口にしてしまう」と言う悪癖をモロに露呈しながら、えへん、と胸を張って自分の主義主張を唱えた。

「かわいい子犬です!!」
「黙れよこの頭の中が残念すぎるご主人様が……このチョイスとお前の主張と、どこに胸を張れる要素があったっつぅんだよ、あぁ!?」

 ヤクザな蹴りでも繰り出してきそうな剣幕で、クテラのおでこにぐりぐりと額を押しつけながら、ナインが低い唸り声を発してメンチを切る。ぐりぐりと押しつけられる痛みにさすがに及び腰になったのか、ちょっと腰が引けてきたクテラが(ただし、ナインが額を押しつけてくるのでちょっと腰が引けた所で痛みはまったく緩和されていない)怯んだような声を発しながら涙目でナインの肩をつかみ、必死に押し返そうと無駄な抵抗を試みる。が、当然だがビクともする気配がない。

「うう……ひ、ひどいです、どうして子犬のこと、そんなに嫌がるんですか……?」
「嫌がってるのは子犬じゃなくて、あんたのその絶望的なセンスだ!!」

 本日、二度目の頭突きがきれいにクテラの前頭に決まる。
 回避行動をとるにはあまりにもクテラは接近戦という行為に不慣れであったし、それ以前の問題で反射神経が鈍いと言う前提もあった。
 結果、クテラの意識は二度に渡ってクリーンヒットした頭突きのダメージによって一瞬にして暗転し、記憶の糸はここで途切れることになる。

■ 八日目


 人の手がほとんど入っていない平野の、背の高い草をかき分けて走る。
 どうして走っているのかはよく覚えていない。小さな子どもの手足をばたばたと振り回すようにして、無我夢中で走る。
 真昼の青空は涼やかだったが、渡る風が草原の草をなでる度に自分の姿が見つかってしまうんじゃないかと不安になった。

(はやくしないと、はやくしないと)

 屋敷の衛兵も、付き人も、先生も、どうやって振り切ったのか分からない。ただ、気が付いたら一人で平野を走っていた。
 目指す先には崖があった。平野から切り立ったその崖の上には狼が一匹、空に向かうように威風堂々と遠吠えを上げている。普通の狼ではない、遠目に見ても人か、人よりも更に大きいかもしれない。
 見上げる先には、大きな真ん丸の月が浮かんでいた。

(……おひるなのにおつきさまがでてる……?)

 何がなんだかよく分からない。けれど、よく分からない内に後ろの方から物音や、人の声がしはじめて、いよいよ屋敷の人間が自分がいないことに気が付いたのかもしれないと思い至る。早くあそこまで辿り着かないと、捕まれば連れ戻されてしまう。
 こんな時は心底、重くて不器用な自分の身体を恨めしく思った。

(どうして、)

 どうして自分には黒の森の人たちのような、素早くて軽い身体がないのだろう。自分の身体の何倍もの大きさの岩を持ち上げる怪力がないのだろう。魔法のように器用な指先がないのだろう。どうして自分の足はこんなにも遅く、手には力もなく、野原を駆け抜けるにも苦労するのだろう。綺麗な毛皮も、満月のような瞳も、鋭い爪も、自分は持っては生まれなかった。

(はやくしないと、はやくしないと)

 背の高い草原の影から、誰のものともしれない腕が伸びてくる。捕まえられるかもしれない、という恐怖で足がすくみそうになる。早くあの崖まで、と思うのに、少しも走る速度は上がらない。
 訳も分からずに、ただただ必死に手を伸ばした。崖も狼も、とても届くような距離ではないと分かっていたのにそうせずにはいられなかった。
 手を伸ばした先には満月がぽっかり、灰色の雲間に浮かんでいる。

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 布団の中でもぞもぞと、眠れずに何度も寝返りを打つ。何度か、浅く夢を見た気もするのだが、よくは思い出せなかった。散漫なのだ。記憶力も集中力もなく、疲労はあるのに上手く眠れない。

「……うるせぇ」
「!」

 とうとう、隣のベッドと言う至近距離での騒音公害に耐えかねたのだろう。腹にすえかねると言うようにぼそりと投下された爆弾に、決して大きな声ではなかったにも関わらず、クテラの動きがピタッと綺麗に硬直した。
 そのまま、もぞもぞと動く布団の中から顔を覗かせたクテラが、申し訳なさそうにナインの眠るベッドの方へこそこそと頭を下げた。

「……す、すみません……」

 そのまま、クテラが頭を再び布団の中に潜らせる。釘をさされたのが効いたのか、数秒ほど身じろぎ一つない沈黙が部屋の中を包み込んだ。
 だが、残念なことにそこから健やかな眠りへ、とはすんなりいかなかったらしい。

「あ、あの……」

 結局、再びもぞもぞとうごめく布団から、ナインの反応を伺うように恐る恐るクテラが頭を出す。

「……ナイン、まだ起きてますか……?」
「……なんだよ」

 背を向けられているせいで、クテラの方からナインの表情は伺えない。眠りを邪魔されているのだからもちろん、機嫌が良いはずはないのだが、返事をしてくれたと言うことは話くらいなら聞く気がある、と言うことなのだろう。
 ナインから明確な返事が返ってきたことにホッとしながら、気が緩んだようにクテラがそろそろと口を開いた。

「……そ、そっちに行っても、いいですか……?」

 せっかく緩みかけた気配が再び硬直するくらい、しん、と部屋の中が静まりかえる。
 返事の帰って来ない部屋の居心地の悪さは、例えるなら針のむしろに近い。やっぱり、いくら返事が返ってきて気が緩んだからと言って、遠慮なく甘え過ぎたのだろうかと途端に自分の発言が恨めしく思えてくる。

「……あんたな、ガキじゃないんだから……いや、ガキなのか?」
「こ、子供じゃないです! ただ……ちょっと、その……」

 案の定、返ってきたのは呆れたような、それどころかもう何かを諦めたような境地の、自分に理解できない生き物を胡乱げに観察するような一種の冷静さすら感じられるような疲れた声音だった。
 大慌てでがばっと布団の中から起き上がり、なんとか誤解を解かなければと思うのだが、どう言えば上手く伝えられるものなのか、クテラの言葉は必死になれば必死になるほど迷走する。

「……こ、こんなに眠れないのは初めてなんです、どんなに寝付けない時でも、目を閉じているだけでこんなにソワソワすることなんてありませんでしたし……」

 今までだって、正直に言えば寝付きは悪いことの方が多かった。
 屋敷ではずっと二メートル近い巨体を誇るぬいぐるみが隣で眠っているのが当たり前だったせいで、一人で寝なければならないのはそれだけで違和感があったし、ナインと初めて同じ部屋で眠るときは、それこそ生きた心地がしなかった(が、結局、慣れない道行きの疲れもあって、ナインの眠りを確認する前に意識が落ちた)
 眠れたとしても夢見は悪いし、じわじわとした不安が抜けないせいで全体的に眠りも浅い。初めて野宿した商隊護衛の同行依頼でさらした醜態など、未だに顔から火が出そうになるほど恥ずかしい。
 それでも、ハイデルベルクに着いてから、そこそこの時間も経つ。
 うまく噛みあわないことだってあるなりに、ナインとの生活にもだいぶ慣れてきていたのだ。

「……今日は、満月なんですね」

 ベッドの上で所在なく座っているクテラが、見たくないものを見るかのようにこわごわと、窓から覗く真ん丸の月へ目を向ける。

「……なんだか、窓から月が覗いてるのがすごく気になって、うまく眠れないんです……」

 自分でも、あんまりすぎる理由だと言う自覚はあるのだろう。だが、これが率直な本音である以上、ほかに言葉が出てこないのだ。ただただ月が気になる。心が落ち着かずざわめいていて、意識がどんどんと穏やか眠りから遠ざかっていく。
 けれどもそういうのは全部、クテラにしか分からないただの感覚の話だ。
 一通り話を聞き終わったナインの口から、はあ、と言う明らかに人に聞かせるためにこぼれたような重いため息がもれる。

「……いいさ、好きにしろよ。言っただろ、どうせ俺にゃ決定権なんざねぇんだって……」
「そ、そういうつもりじゃなかったんです、すみません……」

 一緒に旅に出ることになってから今日まで、『命令』をしたつもりは一度もなかったのだが、それも自分の傲慢なのだろう。希望や望みを口にするだけで強制力を持つと言うのなら、口にした当人がそれを自覚していないと言うのはただの迷惑の乗算にしかならないに違いない。
 いつもこうだ。
 クテラとナインの視界は常にすれ違っていて、感じ取る感覚には大きな隔たりがあり、課せられた権利と義務は平等ではない。
 クテラにとって居心地の良いことや嬉しいことが、ナインにとっての窮屈さや面倒さの上に成り立っていたとしても、ナインにはそれを拒否するだけの権利は与えられていないのだ。

「ご、ごめんなさい、やっぱり、今のは忘れてください……お、おやすみなさい……」

 座ったまま頭を下げたクテラが、そのまま被るように布団の中に潜り込む。窓を見ないようナインの寝台に背を向けて、何かから身を守るように背を丸めて枕を抱え込んだ。
 不自然なほどに急速に静かになった部屋の中に、しんしんと沈黙が降り積もる。クテラは身じろぎの音一つももらさないよう、じっと丸まっている。
 だが、その沈黙のハリボテじみた滑稽さがいよいよ、腹に据えかねたのだろう。
 苛立ちのままに起き上がるナインの「だー、クソッ!」と言う毒づきに、布団の中で丸くなっているクテラの身体がぎょっとしたようにビクリと揺れた。

「だから、好きにすりゃぁ良いっつってんだろ! こちとら明日も仕事なんだよ、っていうかお前もだお前も! 護衛だか訓練だか知りゃあしねぇが、依頼受けに行くんじゃなかったのか!? 寝られないなら寝る努力をしろ!! そうやってグダグダされる方が迷惑なんだよ!!」
「すっすすすすみません、すみませんすみませんすみません!!」

 苛立ちのままにまくし立てるナインの怒鳴り声に、飛び上りそうな勢いで身体を起こしたクテラがあわあわと頭を下げながら寝台から降りる準備をしようとして転げ落ちる。
 そりゃあそうだ。言うだけ言っておいてやっぱりいいです、なんて言われたってナインだって良い気はしないだろう。
 そう言う所はなんと言うか、本当に驚くほど良い人なのだ。そう思うと、すごく性格の悪いことをしてしまったと思う。
 まあ、純粋に迷惑だと言うのも多分に含まれてはいるのだろうが、それでも返事を返して話を聞いてくれる辺り、ナインは本当に律儀だ。

(うう……やっぱり、言わなければ良かった……)

 ハイデルベルクに来て、言ってしまってから後悔した発言の数のなんと多いことか。もっと思慮深く相手を思い遣らなければと思うのに、自分が至らないばかりに迷惑ばかりかけてしまっている。
 結局、盛大に迷いはしたもののこのまま隣でもぞもぞし続けるのも申し訳なく、床に鼻の頭を思いっきりぶつけながらも何とか立ち上がり、ナインの寝台の方へなるべく足音を立てないよう、そろそろと歩み寄った。

「……ご、ごめんなさい、お邪魔……します……」

 不機嫌そうに横になるナインが端の方へ身を寄せて、寝台のスペースに空きを作る。その隙間に潜り込むように布団の中に混ぜてもらいながら、ちょっと狭いスペースのやりくりに苦心するように寝台の中央に身を寄せる。こちらに背を向けたナインの背中が腕にあたって、布団の中が自分以外の体温で暖かい。

「……わ!」

 ちょっと驚いたのは、布団の中にふわふわとした尻尾の毛の感触があることだった。
 考えてみれば当たり前なのだが、ナインがこちらに背を向けているということは尻尾がこちら側にある、と言うことだ。これは尻尾のないクテラには想像していなかった事態なのだが、嬉しいのか嫌なのかと聞かれれば当然のごとく、断然、嬉しい。

「ナインの尻尾、ふわふわですね……」

 思わず抱き締めようと、魅惑の感触に魅入られたようにふらふらと手を伸ばせば、手厳しい速度でびし、っと尻尾に手を叩かれる。

「わ!」

 ぎょっとしてナインの方を振り返りかけたが、当然ながらこちらに背中を向けている相手の顔など、伺えるはずもない。
 思わず、何度もナインの背中と布団の中の尻尾とを見比べてしまう。

「……な、ナインって、尻尾も自分で動かせるんですか……!?」
「……いいから、さっさと寝ろよ……」

 そう釘を刺されてしまえば、反論の言葉など出てくるはずもない。
 仕方なく、横になったナインの背中と尻尾に寄り添うようにして、朝起きたらベッドの端から転げ落ちていました、なんて言うことにならないよう祈りながらゆっくりと目を閉じる。
 暖かい背中の感触にすり寄るように頬を寄せているだけで何だか、安心したように瞼が重くなってくるのだから、人の体温は偉大だ。

■ 九日目


 朝起きたら、隣で寝ている男の人が裸だった。
 目を疑うほど驚いたし、ものすごく怖かった。クテラが男の裸を見たのは、教科書の絵を除けばこれが初めてだったし、ましてや一晩一緒に寝ていた相手がそんなことになっているなんて思いもよらなかった。世の中には、下着一枚で眠ってしまうような人種と言うのが存在していたらしい。深夜で部屋の中が暗かったことと、尻尾の毛が間に挟まった状態で眠っていたせいで全然、まったく気が付いていなかった。
 もちろん今までだって毎日、同じ部屋で暮らしていた訳だし、手枷と首輪のこともあって、ナインの生活の大半をクテラは手伝ったり、鎖の付け外しをしたりしながら一緒に過ごしてきている。
 ただ、寝るときは大体、クテラの方が先に疲れてベッドに倒れ込んでしまうことが多かったし、ナインはクテラより早くは眠りたがらない節があった。
 そして朝、クテラが起きるときには大抵、ナインは身支度を済ませ終わっている。
 ナインとクテラの生活に、ナインは壁のように厳密なラインを一本、引いていて、だからクテラは今日になって初めて、朝起きたばかりのナインを見たのだ。

「……うう……」
「……なんだよ、仕方ねぇだろ。こちとらこういう習慣なんだよ」

 寝台から半分ほど身体を起こした状態のまま、クテラは完全に固まっていた。その様子に呆れながら、ナインが我関せずと言ったような大欠伸をする。だが、何の悪びれもない顔でそんな事を言われても困るものは困るし、そもそも、パンツを一枚履いただけで寝ていて風邪を引かないのだろうか。
 疑問は色々とあったけれど、どちらかと言うとクテラの衝撃は第一段階を通り越して第二段階に移行していたので、口から出てきたのはまったく別の疑問だった。

「……あの……お、おひげ……」
「……あぁ。そうか、剃ってない所は見たことなかったんだったか」

 ものすごくビックリしたことに、ナインの顔に違和感がある。髭だ。
 ざらざらとした感触の自分の顎を確認するように手で撫でたナインが、寝起きの人間特有の重そうな動作で寝台から降りる。歩きがてら、荷物の中から着替えを適当そうなそぶりで掴んでいった。
 そのまま、大きな背中が隣の部屋に消えると着替えの音がして、その内に水音が聞こえ始める。恐る恐る、後を追いかけるクテラが部屋の入り口からナインの後ろ姿を覗き見た。
 着替え終わっている背中をみると、ようやくいつものナインの背中だ、と無条件で安堵をおぼえる。

「……お、男の人って、毎朝そんな風にしてお髭を剃らないといけないんですか……?」
「普通はな。……巫子サマってのは、その程度のことも知らないで生きてけるモンなのか?」

 質問というよりは明らかに呆れを表現するための皮肉に、うっ、とクテラが言葉に詰まる。
 知らないのはそんなにおかしなことだったのだろうかと疑問は思うのだが、ナインのこの反応を前にそんなことを口にできる勇気は湧いてこなかった。もっとも、ここで言葉に詰まってしまった時点で、ナインの疑問をほとんど肯定しているようなものだったのだろうが。

「嫌なら、あっちにいってろよ。生憎と俺みたいな粗暴者にゃ、巫子サマの繊細な感覚は理解できないんでな」
「え、あ……あの、す、すみませんそういうつもりじゃなかったんです、ただ、あの、初めて見たのでビックリしたというか……」

 内心ではものすごく怖かった。ものすごく怖かったが、それは自分の勝手な感情だし、ここで素直にそれを言ったらただ寝ていただけのナインにとってはひどく失礼で申し訳ない話だとも思う。
 何とか、そういう訳ではなかったのだと言いたくて、悩んだ挙句にクテラは迷走した。

「……ちょ、ちょっとだけ触ってみたりとかは……」
「バッサリ切ってもいいなら止めねぇけどな」

 容赦なく断られた。
 実際、今の状態で手を出したらナインか自分か、どちらかが剃刀の刃でバッサリといくことになるのは目に見えて明らかだったので、がっかりと肩を落とすと大人しく引き返して寝台の上で座って待つ。
 ナインが返ってきてあの部屋が空くまで、クテラの着替えは保留だ。アークルード族の中性体は未分化という特性上、他人に裸を見せることをあまり良しとしない。もっと言ってしまえば、人間は未分化のアークルード族の身体を奇異や嫌悪の目で見る傾向が強いから、未分化のアークルード族は他人に自分の身体を見せることを極端に避ける。
 だからこそ、余計にショックに感じられるのかもしれない。

(そっか……よく考えたらナインって、男の人なんだ)

 あんまりにも当たり前すぎると言えば当たり前すぎる事実なのだが、当たり前すぎるだけに、中性体であるクテラには実感に乏しい言葉だ。
 ましてや、ナインと初めて会った時は、個々の人格やら個人としての存在として以前に、凶悪な首輪と手枷の鎖と罪人と言う前提があまりにも強烈だった。心のどこかで今まで、無意識のうちに「長老会から預けられた犯罪者」と言うシルエットでナインのことを一括りに認識していたのかもしれない。
 暴行未遂と言う罪状を一度だけ、聞いた時にもっと実感していてもよかったような気もするのだが、それを実感できない所が自分の至らなさなのだろう。

(……でも……ナインって、別に女性に嫌われる様な人じゃないと思うんだけど……何だかんだ言ったって、綺麗なお姉さんに声をかけられてることだってあったし……)

 ナインの罪状は、女性を傷つけて不幸にしようとした、と言う罪状だ。どこかにそのせいで、傷つけられかけた女性がいるのだろう。その意味を理解できずに勝手にナインのことを、何となく悪い人でない気がする、と言うのもひどい話なのだと思う。
 それでも、一緒にいる間のナインからはそんな気配がほとんど、感じられるようなこともなくて、クテラはどうしても一緒にいると、そのことを忘れそうになる時がある。

(……なにか事情があった、とか……)

 婦女暴行未遂、と言う言葉は、クテラにとって「得体のしれない暴力」であり、それ以上に想像のしようがない。
 生物や保育の教科書で読んだ、ぬっぺりとした絵の人間の男女の裸は、鏡で見る自分の身体と比べてまるで出来の悪い子供のらくがきのようにしか見えなかったし、授業で教わった知識も正直、ただ丸暗記しているだけと言うのが現状だ。
 それでも、ナインがそういう罪状を背負うことになったと言うことはきっと、ナイン個人の事情や感情がそこに存在していたということだ。
 ナインは、男の人だ。だから、誰か好きな女性がいたのかもしれない。

(……分化すれば、そういうのも分かるようになるのかなぁ)

 アークルード族は誰もがみな、誰かのために分化する。
 もちろん、その誰かと生涯、寄り添うことができるかどうかはこれとは別の問題なのだが、それでも、アークルード族は自分ではない誰か、他人のために性別を選ぶ。他人を意識し、他人を認識して、他人を自分の世界に受け入れて、そこで初めて「自分とは一体なんなのか」と言う疑問を無意識のうちに抱く。他人を知覚することで初めて、自分を意識する。
 だから、今のクテラにはナインの事情を憶測することしかできない。

(……ナインは、)

 ハイデルベルクに来てから、もうそろそろ、それなりの時間が経つ。
 里を出ることが決まってからずっと、目の前の事実を理解して追いつくだけでも必死な生活だった。知らないこともどうにかしなければいけないことも大変なことも山ほどあって、だから、ナインのことも、今目の前にいるナインのことを追いかけるだけで必死だった。
 だが、これだけ一緒にいても自分がナインについて知っていることなど、微々たるものなのだ。

(……ナインって、どういう人なんだろう……)

 隣の部屋から、いつもと同じ顔をしたナインが現れる。そうしたら今度はクテラが着替えを掴んで、身支度を整えなければならない。
 ナインはいつも、眠ったままのクテラを置いて一人で、何を考えながら身支度をしているのだろう。
 珍しく置きっぱなしにされたまま忘れられた剃刀の刃に、好奇心で手を伸ばしてみる。
 研がれた刃の感触は、ひんやりと冷たかった。

■ 十日目


 人のいない公園の片隅で、さびれた木の椅子を見つけたクテラがゆっくり、腰かけると、上を向いて太陽の方角を確認する。
 鎖で繋がっているナインはクテラとは逆の側に回り、椅子の背もたれに軽く体重を預けるようにして背を向けるように立つ。セレンは相変わらず、ふよふよと浮きながらあまり木の生えていない辺りを漂っていた。
 三人がそれぞれに居場所を確保したことを確かめると、ぴん、と伸ばした指の割に、表情だけは妙に自信なさげに、クテラが街の北門があるだろう方角をゆっくりと指差す。

「ええっと……太陽の向きがあっちだから……だいたい、あっちの方になるんでしょうか……」

◇ ◆ ◇

「僕たちは北の、何日も馬車に乗って旅をしないといけないような街から来ました」

「僕たちの街はあまり、旅の人も立ち寄らないような場所にあって……人が立ち入らない理由の一つに、とても魔物の数が多いと言うことがあります」

「僕たちの祖先は、当時、その辺り一帯を根城にしていた巨大な魔物に、自分たちの身の安全のためを確保するための取引を持ちかけたのだと言われています。おそらくは最初、もっと人里に近い場所に暮らしていたのが、そうして安全を買う内にやがて、彼らの腕の届く場所で過ごすようになったのだろうと」

「魔物には、人間のように『技術や文化のために働いて高度な文明を築く』と言う概念がありませんから、僕たちの祖先は恐らく、その点で上手く共存して行くことができたんでしょうね。僕たちは魔物と暮らして行くために手足となって技術と文化を築き上げ、文明の利を彼らに与える代わりに、決して彼らを裏切らず背かず、その約束の対価として強力な守護の元、安全に発展して行くことを許されました。……魔物の街、『黒の森』のその時代ごとの支配者の方の一族を『守護者』と呼ぶのは、このためだと言われています」

「守護者は、常に一定ではありません。今は人狼氏族の方の統治が続いて随分、長いのですが……それも決して、絶対のものではありません。守護者と、守護者一族の代表……街の王である『御霊』は、人間と魔物の取引や取り決め、魔物を縛る法……すべてを支配されますから、当然、多くの一族の方はこの地位を望まれます」

「だから、『御霊』と『守護者』は常にその時代、もっとも優れた一族の方に与えられる地位だと言っても過言ではありません。魔物の世界は弱肉強食ですから、上に立つ資格なしと見なされれば守護者も御霊も、容赦なくその地位から引きずりおろされます」

◇ ◆ ◇

 頭の中で整理した言葉を少しずつ、思い出すように言葉を重ねるクテラがそこまで喋ると、ようやく、一区切りついたように息を吐く。
 まったくその気のなさそうなセレンとナインがそれでも、こちらに耳を傾けていることを疑ってもいないように余計な言葉など挟まず、ただ淡々とクテラは言葉を続けた。

「そして、『御霊』には街の統治の他に、もう一つだけ、果たさなくてはならない大事な役割があります」
「そっからが本題、ってわけね」

 呑気に辺りを彷徨いながら、ときどき、思い出したように飲みほした木の実をもてあそんでいたセレンが、ようやく退屈な前置きが終わった、と言うように言葉を挟む。
 くるくると木の実を指で回して遊んでいるセレンに顔を向け、クテラが曖昧な笑みを浮かべながら頷いた。

「そういうことに、なりますね。人間と魔物の義務、人間との信頼関係を証明するための契約、僕たちの里では『儀式』と呼んでいるのですが……」

 セレンがふむふむ、相槌をうつ姿に合わせて、クテラがゆっくりと言葉を選ぶ。
 さすがに自分の領分に踏み込む話題となると興味も段違いなのか、ふわふわとリラックスした様子で辺りを漂っているにもかかわらず、セレンの目だけは鋭い知識の光で輝いていた。

「この『儀式』において、人間の里の代表である『巫子』は魂をまず、半分に分けるんです。そしてその半分を御霊に渡して、代わりに空いたその隙間に、御霊の魂の一部を補ってもらいます。……あ、も、もちろん、儀式が終わったらすぐに戻しますよ? じゃないと、人間の弱い魂では魔物の側に取り込まれてしまいますし……」
「……それにしたって、物騒な話だね……半分にした人間の魂の中に、魔物の魂を混ぜ入れるなんてさ」
「……」

 儀式の片割れを担う身としては、何も言えないのだろう。沈黙を守るクテラには取り合わず、セレンは自分の考えをまとめるかのように首を貸しながら、ふよふよと辺りを行ったり来たりする。

「無理やりにでも、クテラの魂の霊格を引き上げようとした? そんなことしてどうするのさ、大体、魔物になっちゃったら人間代表って意味がなくなっちゃうんだろ?」
「まったくだ」
「……ナイン」

 クテラと、セレンがほとんど同時にナインのいる方角を振り返る。

「そこにいる巫子サマにゃ悪いがな、あんなもん、ただの形式ばっかのお飾りさ。今の氏族の統治が続いて、何代だ? 魔物側だって人間側だって、今の状態のメリットのデカさはとっくの昔に理解してるさ」

 相変わらず何もかもが面倒くさい、とでもいいたげなやる気のなさげな面持ちで、だが、今だけは一抹の苛立ちに似た不機嫌さをにじませながら、珍しく饒舌に愚痴じみた言葉をナインが立て並べる。

「……だったら、なんで今もクテラはその『儀式』とやらをやらされる必要があるのさ? 本当に意味がないなら、さっさと別の祭りなり何なりにすげ替えちゃえばいいんだ。人間の歴史は、そういうのは得意技だろ。行為自体に意味がないなら、代替え品で済ませればいいんだからさ」
「ところが、そうもシンプルにいかないのが政治って奴の面倒くささでな。この『儀式』ってやつがあんまりにも長く続いてきたんで、『儀式』を無事に遂行すること自体が御霊の面子に直結する側面ってのが出来ちまったのさ。こいつに失敗するようなやつに、統治者としての資格が本当にあるのか? ってな具合にな。腹を空かせたハイエナどもが、今度は自分がその椅子に座ろうって舌なめずりして待ち構えてやがる」

 けっ、とあからさまに毒づきながら、語るのも嫌になると言いたげにナインが顔をしかめた。

「……一人の巫子を育てるには、莫大なコストがかかる。人手も、金も、労力も。巫子に危害を加えて、当代の守護者一族を引きずり降ろそうって話にだって事欠かない。御霊の面子ってのは、そういう部分を含めて最後まで儀式を遂行できるのかって所に掛かってくるのさ。巫子サマに手なんざ出そうとするモンなら、あの街じゃ政治犯扱いだぜ。……俺みたいなチンケな悪党と違ってな」

 最後の言葉は、間違いなく皮肉だろう。
 だが、そんなナインの皮肉にはまったく興味がないように、セレンは自分の興味の方向だけを追求しているようだった。

「ふーん……で、今の代の王様がトチったせいで、クテラの魂は儀式を邪魔しようとしたその政治犯の手に渡った、と……」
「と、トチったってそんな……ただ、その……色々と事情があったんだと思います……もう、何代も続いている儀式ですし、最近の黒の森は一族ごとの諍いも減ってきていると聞いてましたから、まさかこんな事になるなんて誰も思っていませんでしたし……」

 あわあわと言い訳じみた言葉で擁護に走るクテラの言葉は途中で遮って、セレンが自分の好きな方向に話題を差し替える。

「まあ、犯人探しはどっちにしろ、あたしの領分じゃないからいいんだけどさ。それより、その妙ちくりんな術の方が気になるなぁ。ね、ね、クテラ、その術は誰が使うって決まってたりするの?」
「……術、ですか? うーん……魂の交換をする儀式は、御霊さまが直々に術をかけられるのだと聞きました。能力封印と従属契約は、リッチのお爺さま……アンデッド一族の長老さまがかけていらっしゃるみたいですね。とても長生きな……あ、生きてはいないのかな……ええと、あの街が出来た当初からずっと長老をされている方で、初代からずっと変わらない長老さまのお一人なんですよ」
「……まあ、そりゃ、アンデッドだからね」

 長老会の長老たちは、誰もがクテラのことを可愛がってくれた思い出深い面々だが、特にリッチの長老はあの街での暮らしも長いだけあって、幼い時からクテラのことを孫か何かのように可愛がってくれた。旅に出る前にも、簡単な虫除けのおまじないや天気占いなど、色々なことを心配げに教えてくれたものだ。
 ときどき、「自分は昔、海に沈んでしまった大都市の王さまだった」とか「悪の神官のせいでひどいめにあった」だとかの面白おかしい作り話が飛び出してくるのも聞き逃せない。

「なんて言うかさ……あんたたちって、変な街から来たんだね」
「……そうでしょうか?」
「インフェルノ妖精の村にゃとてもじゃないが敵わないから、安心しろ」

 インフェルノ妖精であるセレンに『変な』などと形容されたのが気に障ったのだろう。
 ボソリ、と皮肉を落とすナインに向かって、セレンが毛を逆立てる猫のように激しく背中の炎を燃え上がらせて叫ぶ。

「……喧嘩売ってるのか、この狼野郎ー!」
「わ、わ、ナイン、セレンさん、け、喧嘩はダメです!」

◇ ◆ ◇

「率直に聞くけどさ」

 率直に、と言っておきながら、クテラには聞こえないようにナインに話題を振ったのはこの妖精なりの、クテラへの礼儀の一種だったのだろう。
 クテラが公園の中で店を出していたクレープ屋まで足を伸ばしている間の僅かな時間を狙って、セレンがボソリと口を開く。

「……クテラってさ、デコイか何かなの?」
「……」

 唐突に飛び出してきた物騒な単語にも、ナインは少しも動じたそぶりを見せなかった。ただ、いつも通り興味も愛想もない、と言った佇まいを崩さないまま、セレンの言葉の続きを待つように口を閉ざす。

「大事に籠に囲って育てた巫子さまなんでしょ? 変なんだよ、聞けば聞くほど。あんたみたいないかにも使い捨てですって犯罪者の護衛と、二人っきりで無防備に外に放り出してさ。おまけに、クテラの魂を奪った相手はそれ以降、何のアクションもないんだろう?」

 炎に似た獰猛さと鋭さを宿した目でナインの方を一瞥しながら、唇の端を吊りあげてセレンが笑う。悪戯好きの妖精は、時として人の命すら陥れると言う無邪気さを体現したかのような笑顔だ。

「……あの子はそこまでの考えに至ってないみたいだけどさ。おかしいんだよ、あんた達。それこそ、何かの囮なんじゃないかって思わないと、納得できないくらい」
「……その質問に答えられる立場にいりゃ、今頃こんな事になってる訳ねぇだろ」

 返って来たのは、思いのほか重苦しいため息だった。
 そのため息に毒毛を抜かれてしまったのが、ちょっとだけきょとんとした顔をしながら、気がそがれたと言うように呆れ気味にセレンがナインの方へ視線を送る。

「……あんた、意外と苦労人なんだね」
「なんだ、知らなかったのか? じゃなかったら、あの能天気な巫子サマがこんな所で呑気にクレープなんぞ食ってられる訳ねぇだろ」
「ハハ、いいじゃん。美味しいよ、クレープ。あたし、甘いものって好きなんだよね。あんたも食べればいいのに」
「あいにくと、辛党でな。甘いもの談義は、あいつとでもやってくれ」

 ナインの言葉を待つでもなく、クテラがセレンの分と自分の分と、二人分のクレープを抱えて、駆け足で戻ってくる。

(ENo.353セレンちゃん、お借りさせて頂きました!)