■ 一日目


 クテラレーテが生まれて初めて乗ることになった馬車は、四頭立てだった。
 ずいぶんと立派な馬車だったにも関わらず、外に座っている御者を除けば中にはたったの二人しか乗っていないと言うのは、妙にがらんとした印象を覚える。座席は二人分。決して狭い空間ではなかったけれど、それだって並んで座ればそれなりに緊張する距離感になる。
 ちら、っと隣を窺うと、隣に座っている男は相変わらずどこを見ているのかよく分からない目線で、じっと目の前の何もない空間を見据えているようだった。
 ボサボサで艶のない灰色の短い髪、狼の瞳孔をした金色の目、物騒な雰囲気を強調するようなストライプのスーツ。耳と尻尾はあの街では珍しくない、人狼族のものだろう。
 だが、何よりも一番最初に目に飛び込んでくるのは両腕を戒める物々しい手枷と、首に巻かれた大きな首輪から伸びる鎖だった。二メートルほどの大きな鎖は、クテラの手の中に握られているグリップへと繋がっている。
 強制従属刑・受刑者No9。
 滅多に目にしないような物騒な言葉がずらずらと並んだ男の名前は、クテラの故郷の歴史でも数人しかいない世にも珍しい罪人に与えられる仮の名前だ。
 クテラはもちろん、今まで罪を犯すような人間と接するような機会などなかったし、死刑すら与えられず「能力封印刑」と「強制従属刑」と言う二つの重刑を課されるような稀有な受刑者と会ったことがある者など、それこそそう多くはないだろう。

(確かに、強制従属刑の契約はちゃんと成立したはずだけど……こんな危なそうな人が護衛だなんて、逆に危ないと思うんだけどな……)

 無論、クテラのような凡人などには計り知れないような意図がそこには存在するのかもしれない。
 だがそれにしても、生まれて初めて街の外へ赴くクテラへ与えられた護衛がこんな重罪人だと言うのは、いささか不安を抱かざるを得ない。
 長老会の立会いの元、引き合わされてからこれまでずっと、男はただただしかめっ面でだんまりを決め込んでいるだけだった。クテラや長老たちのやり取りにもまったく、口を挟もうとすらしなかったときている。その沈黙がまた、クテラから見ればひどく得体がしれない気がしてこの男の『恐さ』に拍車をかけていた。
 それとも、これはこの男に対する不安だけでなく、生まれて初めて街の外へ出されることへの不安をそう錯覚しているだけなのだろうか。

「……あ、あの……ナイン、さん……?」
「……………………」

 延々と続く沈黙と不安に耐えきれずに、思わず声をかけてみる。
 返って来たのは、およそ返事とも思い難い不機嫌そうな謎の声だった。一応、聞き取るなら「あぁ?」というのが一番、音としては近いかもしれない。

「……え……えと……その……」
「……ナインだ」

 相槌とも言えないような返事しか返ってこない現状に、二言目すら続けられずにどもっているクテラの方を見ないまま、ぼそっとしか表現できないような小さな一言が返ってくる。ひどく不機嫌そうな、いたって簡潔な返答だった。
 少しだけぽかんとした後、クテラは男の言葉の意味を模索しながら何とか、言葉を返そうとした。

「は、はい、ごめんなさい……えと……ナイン……ですね」

 今度は訂正されない。返事はなかったが、多分、言葉の意味はこれで間違っていなかったのだろう。十歳近く年上らしい相手を呼び捨てにするのは抵抗があったが、それよりも初めて返事が帰ってきた嬉しさの方が優った。
 そのまま横に置いた鞄からごそごそと荷物を探す。手に取ったのは、やけに仰々しい体裁の一枚の紙だった。
 とりあえず、ようやく返事が返って来たのだ。できればこのタイミングで内容を確認してしまわなければと、取り出したその紙を鎖を持たない方の手で持ちながら、ゆっくりとクテラの視線が文面を追いかける。

「強制従属刑、受刑者No.9……種族は人狼。執行されたのは能力封印刑と強制従属刑の二つですね、これは長老さまたちから聞いてた通りです。……あれ、罪状とかは載ってないんですね、この紙」

 口にしてから、自分の言葉が目の前の男にとって、ひどい意味を持っていることに気がついたのだろう。ハッとしたようにクテラが書面から顔を上げ、書類と男とを交互に見比べながらオロオロと口を開いた。

「……あ、ご、ごめんなさい、その……普通、罪を犯した場合って死罪になることが殆どだって聞いてたから、どんな罪状だったのかなって思って……」

 悪い意図はなかったのだと弁明しようとするたびに墓穴を深く掘り進めながら、クテラが言葉を重ねる。はっきり言ってまったくフォローにもなっていないのだが、当のクテラ本人だけはそのことに気が付いていないらしい。
 クテラの言葉が力なく小さく消えてから、大体、三秒はたっぷり間を開けただろうか。
 困ったようにナインを見つめるクテラを、徹底していないもののように無視しているとしか思えなかったナインが、気まぐれか何かのように突拍子もなく、だがはっきりと聞き取れる声で口を開いた。

「婦女暴行未遂」
「……え?」

 一瞬、予想していなかった突然の単語に頭がついていかず、ちょっと間の抜けた顔をしてクテラが男の顔をぽかんと見つめる。
 だが、いくら待てども二言目は続かず、言葉の撤回もなく、ただただ呟かれた単語という現実がクテラの頭の中を二周、三周と駆け廻っていき、やがて言葉の意味がじんわりと頭の中に浸透し始めた。
 そして、そのクテラの理解が追いつくタイミングをまるで待ってでもいたかのように、ここにきて今まで何もない空間をただやる気なさげに見つめるだけだったナインがくるりとクテラの方へ振り向く。
 ニタァ、としか表現できない角度でナインの口の端が吊りあがった。
 率直に言って、泣き出したくなるほど怖かった。

「!?」

 一瞬のうちに、座席の端側までクテラが退く。それでも、所詮は一つしかない同じ椅子に腰かけている身だ。決定的な距離にはならない。
 死にそうな顔色で、クテラは必死に泣き出しそうになってしまうのをこらえた。
 だが、勝手に怯えて勝手に退いたクテラから興味を失ったのか、身も心も恐怖で震えあがらせるような凶悪な笑顔の持ち主はさっさと前を向くと、先ほどと同じようにまた寝ているのか寝ていないのか、よく分からない状態に戻ってしまった。
 視線がそれたことに無意識に安堵の息をつきながら、クテラは改めて手に持った紙と手の中のグリップと、目の前の男をそれぞれに眺めながら考える。
 もしかしなくても、自分はとんでもない危険人物の手綱を任されてしまったのではないだろうか。
 婦女暴行未遂と言う罪状を考えれば、まだ分化を迎えていない自分はなるほど、隣に置いて手綱を握らせるには最適な人材だ。
 どうせ儀式には失敗してしまい、魂が半分だけになってしまった今、改めて儀式をやり直すこともできない出来損ないだ。たかだか婦女暴行未遂犯と一緒に行動させるくらいは別に危険でもなんでもないと判断されたのかもしれない。
 そうだとしても、だ。

(つ、常に鎖を手放さない、側を離れない、目を離さない)

 従属刑の契約の際、言い含められた三つの約束を反芻する。
 大丈夫だ、自分には従属契約という名の、強力な庇護がある。長老会の長老たちや、御霊さまだってずいぶんと自分のことを心配してくれていた。だからこそ、こういう形での旅になったのだろう。
 最初に指示された目的地は精霊協会、そこでは協会に所属できる冒険者を選別する試験が行われているらしい。
 この先、どうなるのかはまだ分からないままでも、何もせずに手をこまねいているよりはずっとマシなはずだ。

(……と、取り敢えず、この鎖だけは絶対、手放さないようにしないと……)

 手の中のグリップを、ぎゅっと握りしめる。
 いつまで続くかも分からない先の見えない旅路だが、当面の間は恐らく、この鎖こそが目の前の男を縛り付けることができる、クテラに与えられた唯一の命綱なのだ。

■ 二日目


 故郷を出て、協会本部の存在するハイデルベルクに着いてから一番に驚いたことは、やはり往来する人や物の多さだろう。
 クテラの暮らしていた都市も、現在の守護者である氏族の統治が続いて長いためか安定した発展を続けているが、ここはあらゆるものの流通が桁違いだ。日が落ちて、すでに夜の帳が降りはじめているにもかかわらず、人足が途絶えると言うことがなく、むしろメインストリートには夜の外出を目的にした人種が増え始める。
 だが、昼間から彷徨っているにもかかわらず、一向にクテラの目的とする宿は見つからなかった。地図を見ながらでもなかなか覚束ない地理に、通りの片隅に立ち止まって必死に地図をにらみはするのだが、どうにもこうにも成果が上がらない。
 それもこれも、クテラが地図をにらみはじめる度に、集中するのを邪魔する誰かがいるせいだ。

「よぉ、そこのねーちゃん、暇なら今からでもどっか……」
「何で知らない人にいきなり勝手に声をかけるんですかー!!」

 迷ってばかりのクテラに付き合いきれないとでも言いたげに、その辺りの壁にやる気なさげに背中を預けているナインが珍しく自主的に顔を上げて動き出した方と思えば、口を開く端からこれときている。
 鎖の持ち手部分から首輪まで、許される距離は二メートル。どんなに距離を開けたって無理や無茶が通る距離ではないはずなのに、どういう訳かナインにはそんな理屈は関係ないらしい。
 クテラがいようがいまいが、関係ないのだとでも言いたげに気儘に振る舞う姿はまるで、鎖に繋がれていようが従属契約があろうが、クテラ如きの言うことなど聞いてやる義理はないのだとでも言いたげだ。

「もう、もう、お願いだから、道端のお姉さんに片っ端から声をかけるのを止めてくださいって言ってるじゃないですか……!!」
「片っ端からとはご挨拶だな。俺は好みだと思ったねーちゃんしか誘ってねぇよ」
「急に道端で知らない人に声をかけたって、変な人間だって思われるに決まってますっ!」

 ナインが声をかけた女性の不審げな視線に耐えかねて、ぐいぐいと引っ張るようにしてナインに移動を促しながら、何とか人ごみに紛れてまた新たに別の通りの片隅を探す。そんなことを繰り返している間にもどんどん、道は分からなくなっていくしメインストリートからも離れていく。
 一体どうしたものか、悩むクテラの口から飛び出す小言にも、ナインはまったく取り合うつもりがないらしい。
 ようやく次の落ち着き先を見つけたクテラが足を止めると、近くの壁に再びやる気なさげに背中を預けたナインが億劫げにため息を漏らした。

「……あんだよ、あんただって道に迷ったら他人に声くらいかけるだろ? それと一緒だよ、一緒」
「……………………僕、知ってます」

 ひどく不機嫌そうな「あぁ?」とでも言いたげな表情で、ナインが顔をしかめながらクテラの方を振り向く。
 クテラはいつも通り、何の物怖じもしない視線でまっすぐにナインの目を見上げていた。人の目を覗き込むことに躊躇いがないのは、怖いもの知らずと言うより無知のなせる技なのかもしれない。

「知ってます。そういうの、『なんぱ』って言うんでしょう? そういう『ふしだらな真似』はやっちゃいけない事だって、ちゃんと習いました」

 果たして、「ふしだら」と言う言葉の意味を本当に理解出来ているとは思えないような口調と表情でクテラがとうとうと語る。正しく、ただ本に書いてあった事をそのまま読み上げているだけなのだろう。
 クテラのその言葉に何か思い当たることがあったのか、何かを思い出した、という顔で忌々しげにナインが舌打ちをする。

「……チッ、巫子のタブーか……」
「そうです、巫子にだってちゃんと『なんぱ』くらいは分かりますし、ナインがやってることがいけないことだって言うのもちゃんと分かるんです。だから、もうそんなふしだらなことはしないでください」

 ナインはただひどく嫌そうに一度、盛大に眉をしかめただけで、何も返事を返しはしなかった。クテラにしてみればそれ以上、念の押しようもない。
 しばらくは諦めきれずにナインの方を見つめたままだったが、それでも、自分が動かなければ状況が動かないと言う事実の方が重かったのだろう。
 諦めてもう一度、しまい込んだ地図とのにらめっこを再開しようと思いかけて、クテラはふっと側の路地から覗く光景に気がついた。

「あれ、あっちの道はどこに続いてるんでしょうか? なんだか、綺麗な看板が見えた気がするんですけど……」

 確かめようと歩きだしたクテラの身体が急にガクッと何かに引っ張られるように止まり、歩きだそうとした足が空回りして前に出ようとした上半身が見事に地面に激突する。
 引っ張られた、と言うのは語弊がある表現かもしれない。単に引っ張るつもりはなく、鎖の繋がった先のもう一人に動く気がまったくなかった、が正確な表現だ。
 転んでも頑張って鎖のグリップだけは必死に握ったままのクテラが、何とか体勢を立て直して立ち上がると、すさまじい勢いでナインの方へと振り向く。

「な、なんで一緒に歩いてきてくれないんですか!?」
「……あ? なんで俺があんたについてかねぇといけないんだ?」
「な、何でって……わ、わ、勝手に歩いていっちゃダメです!!」

 いよいよもって勝手に歩きはじめられてしまうと、クテラがこれに逆らう術はない。鎖のグリップを手放さないよう、あまり引っ張るのも怖い気がしてつい引かれるがままにオロオロと歩いていってしまうのだ。
 だが、このままではどこに連れて行かれてしまうのかも分からないし、いっそ思い切って、首輪を引っ張ってしまうのも覚悟で立ち止まってしまうべきなのかも知れない。そう思い覚悟を決めると、クテラはぐっと力を込めて立ち止まる。
 そして、鎖を引っ張ろうとして思いっきり力負けした。
 なんて事ない顔で歩き続けるだけのナインの力に思いっきり負けて、ほとんど顔面からクテラが地面に突っ込む。派手にコケる音で流石にクテラの異常に気がついたのか、しかめっ面のまま振り向いたナインの表情が現状の把握と同時に、呆れ一色に変化した。

「……なにやってんだ? あんた」
「ひ、引っ張ったのはナインの方じゃないですかぁ……!」

 擦りむいた鼻を押さえながら、半泣きでクテラが抗議の声を張り上げる。さっきから何度も顔から思いっきり地面にぶつかっているせいで色々な場所がすりむけて痛いのだが、残念なことにそう言った細かな傷に構っている暇も余裕もない。
 結局、再び歩き出してしまったナインの背中を追いかけて、繋がった鎖に引かれるがままに歩くしかなかった。

(こんな事でこの先、やっていけるのかなぁ……)

 無言の背中を追いかけながら黙々と痛みをこらえて歩いていると、さすがに幸先の見えない不安が頭の中をよぎる。
 外の世界への興味はもちろん、ある。
 だが、こんな形で旅に出ることになるとはまさか思ってもいなかったし、こんな形での出立など、望んでもいなかった。
 あの儀式さえ上手くいっていれば、クテラとてこんな旅に出ずに済んだのだ。
 かと言って、悔んだ所で儀式の失敗を今更取り戻すことなど出来はしない。そもそも、クテラは儀式のための眠りについていただけで、何が起こったのかということすら知らないままなのだ。
 起きた時、初めて儀式の失敗と自分の現状を知らされた時のあの驚きは、一生忘れることはないだろう。

(こういうの、世間だと『イキオクレ』って言うんだっけ)

 言葉もない。誰もが「お前のせいで失敗した訳ではないのだ」とクテラを慰めてはくれたが、儀式に使われる予定だった魂の半分が戻って来ないままであることも、今もまだ未分化のままであることも、何一つ解決されないままだ。
 長老たちの言によれば、奪われた魂は『クテラが近くにいれば分かる』と言う話だったが、ここに来るまでの間も手掛かりらしい手掛かりは何一つ見つけられていない。
 こんな事では、連綿と続いてきた一族代々の歴史に申し訳が立たなかった。

「……わ、わ?」

 唐突に、ナインの歩みが止まった。
 突然のことに驚くクテラには構わず、近くの建物にまたやる気なく背中を預けながら、珍しく首でくい、っとクテラには合図しながら口を開く。

「火、くれ」

 このやり取りにもいい加減慣れたもので、これは「煙草が吸いたい」と言うナインからの合図だ。もちろん、そのままでは吸えないから腕輪の鎖を一旦、外さなければならないし(なにせ、鍵はクテラが預かっている)、一応ライターをナインに持たせてはいけないと言う決まりなので、スーツのポケットに入っているライターはクテラが取り出して火をつけなければならない。

「……身体に悪いから、ちょっとだけにしてくださいね。沢山は吸っちゃダメですよ?」

 ナインは酒も煙草も好むタイプらしく、クテラの前でも何の憚りもなく嗜む。
 それも、いわゆる高級品ではなく、クテラの目から見てもあれは安い物なんだな、と分かるような物ばかりを好んでいるらしい。こういうのは高い物の方が美味しいんじゃないかと尋ねれば、「あんな形だけ気取ってるようなお上品なシロモノなんざ願い下げだ」と眉を顰める。
 自分の鞄から鍵を取り出したクテラがまず、ナインの腕輪の鎖を一旦、外してやると、慣れた手付きでナインがスーツの内ポケットから煙草の箱を取り出す。その内の一本をナインが口にくわえるのを眺めながら、クテラがナインのスーツのポケットからライターを探り当てると、いまいち不安になる手付きで何度もカチカチと着火に失敗する。

「……あんた、本当にライターつけるのヘタクソだな……」
「だ、だって、こんなのお屋敷にはありませんでしたし……」

 四苦八苦の末に何とか、着火に成功した火をナインの煙草に移す。
 ナインが喫煙している間は、煙草の煙が苦手なクテラにとっては手持ち無沙汰の時間だ。
 暇になると人間、いろいろと考えが巡るもので、そう言えばここはどこなんだろうとか、探していた宿からはどのくらい遠ざかってしまったのだろうとか、そう言った後回しにしていた思考が気になり始める。
 そして、何か目印になりそうな建物はこの辺りにないものかと、近くの建物から出ている看板に目を留めてようやく、クテラは気が付いた。

「……………………あー!!」

 大慌てで、鞄の中から何か文字の書きつけてあるメモを取り出す。メモの文字と看板に書かれた店の名前を何度も見比べ、間違いや勘違いでないことを確認する。
 間違いない。

「ええっと……こ、ここです! 『宿』です!」

 どうにかこうにか、街中なのに宿なしと言うよく分からない事態だけは避けられたらしい。

■ 三日目


 精霊試験に合格して、ようやく一つ目の依頼を無事にこなした。
 初めは怖くて仕方がなかったナインも、聞いていた罪状やしかめつらの強面とは裏腹に別段、クテラに対して暴力的なそぶりを見せることもなく、他人に対する態度が喧嘩腰である以外は気が抜けるほどごく普通の人間だ。
 気が抜けてしまう、という言い方はよくないのだろうが、有り体に言ってしまえばクテラの想像していた罪人のイメージとかけ離れているのだ。最初の想像が悪すぎたのでは、と言う疑惑はともかく、何にしろナインとの二人旅はクテラが思っていたものよりもずっと順調で、余裕のあるものになった。
 そうなってくると人間、欲が出てくるもので、もうちょっと頑張れば打ち解けられるんじゃないだろうか、と言う同じ時間を過ごす人間ならではの希望的観測が生まれてきてしまうのだが、これに関してはナインの方にはまったくそんなつもりがないらしく、ナインとクテラの間にぽっかりと空いた溝は一向に埋まる気配を見せない。
 もっとも、これに関してはナインの側にしてみれば「冗談ではない」と言った所なのだろう。ナインの立場を考えてみればごく当たり前の感情なのだろうが、この辺りの機微を想像出来ない所がクテラの人間関係におけるコミュニケーション経験の乏しさを物語っていた。
 それでも、物事が順調に進んでいる、と言う余裕は、クテラに周りを見渡すだけの余裕を与える。

 発見、その一。
 ナインは大体、いつも宿の部屋にいるときは本を読んでいる。
 少なくとも、クテラが同じ部屋にいるときは大体そうしているように見える。他にすることがない、と言うのもあるのだろうが、それを除いても読書を好んでいる節があるように見えるし、実際、活字に対する抵抗はまったくないらしい。旅の身で本を持ち歩く訳にはいかないので、大抵はその時、その時の宿の備え付けの本棚から適当に見繕って来ているらしいのだが、その内容は実に多岐に渡った。
 何せ、哲学や医術書のような驚くほど難しい内容の学術書をごく当たり前のように読んでいることもあれば、クテラが触ることを禁じられていた『くだらない本』の類を大して笑いもせずに眺めていることもある。本当に拘りがないらしく、かと言って適当に読んでいる訳でもないようで、クテラが内容を尋ねれば愛想がないなりにきちんとした答えが返ってくる。
 この日も、ナインはやはりベッドの上に転がりながら、小さな文庫サイズの本を手に開いていた。
 そのベッドの上へ、ぴょんと両手をついて体重を預けながら、クテラがずいっと顔を近づけて気配も騒々しく口を開く。

「ナイン、ナイン、武術会です!!」
「……あぁ?」

 発見、その二。精霊協会では近々、大々的な武術会を催すらしく、そこには世界中から腕に覚えのある冒険者が集まるらしい。
 ちらっと一瞬だけクテラの方を眺め見たナインが、嫌そうに眉を顰めながらちょっと身体を遠ざけるように横にズレて距離を取る。

「今度、武術会があるんですよ! とても大きなお祭りのようなもので、色々な所からたくさんの人が参加するそうです!」
「……なんで俺に言うんだよ」

 心の底から理解したくない、とでも言いたげな面倒くさそうなナインに向かって、少しも怯むことなく快活な表情でクテラが言葉を募らせる。どうやら、ナインのこの不機嫌でやる気のない態度が一時的なものではなく、日常的なものだと分かってきて、これはもうそういうものなのだと割り切り始めたらしい。

「だって人がいっぱい来るんですよ。それに、すごく強い人たちが集まります。……僕の魂を持って行ってしまったのが誰なのかは分からなくても、儀式のときにあのお城の中に入って来られるって言うのは多分、すごく強くて頭のいい人だったんだと思うんです。そうじゃなかったら、あんなこと出来ないはずだし……だから、こういう場所なら、見に行くだけでも何か手掛かりが掴めるかも知れません!」

 雲をつかむような内容の話をさらりと口にしながら、クテラがぐっと握りこぶしを作って語る。
 一応、自分なりに『自分の目的を達成するにはどうすればいいのか』を考えているつもりなのだろうが、その具体性のなさたるや、いっそ清々しいほどだ。
 それでも、生まれて初めて里の外に出ることを許され、許可を求めずとも新しい何かに触れられると言う状況はそれだけでクテラにとってのモチベーションに繋がっているらしい。

「なので、今からちょっとだけ、武術会が行われるって言う場所までの道を確認に行って来ようと思うんです。……ナインは、まだ本を読んでいる途中なんですよね。この宿から協会まで、ちょっと歩いて行って来るだけなので、良かったらここでお留守番してもらっててもいいですか?」
「……そのガキみてぇな言いつけはどうかと思うが、どっちにしろ、好きにしろよ。言ったろ。俺には決定権なんざねぇんだからよ」

 まだこの辺りの地理に慣れきっていないのだろう。机の上に用意されている地図とナインの顔を交互に見つめる好奇心たっぷりなクテラの視線とは対象的に、皮肉なのか本当に興味がないのか、ナインの反応は最初から最後まで一貫して突き放すような態度を崩さなかった。好きにすればいい、とでも言いたげに、犬でも追い払うようなそぶりであっちへ行けと手を振られ、クテラが渋々とベッドから手を離す。

「鎖は……邪魔になっちゃうと困るから、この辺りに置いておけば大丈夫ですか? 勝手にどこかへ行っちゃったり、僕のこと置いていったりしないでくださいね?」
「勝手にしてくれ。どうせ『ご主人様の命令』には逆らえないしな」

 付いて来いと言われればクテラに付き従い、来るなと言われるのならクテラの指示に従う。今更、悪あがきをするつもりもないのだろう。与えられた環境を拒むでもなく、ナインは本当に淡々とクテラの言葉を拒まない。
 クテラは悲しそうに、ほんの少し瞼を伏せて視線をそらした。

「……命令じゃないです。僕からの、個人的なお願いです」

 そのまますぐにくるりと踵を返して、ぱたぱたとクテラが部屋の外へと駆けだしていく。開いたドアがパタン、と閉じると、部屋の中はすぐに静けさを取り戻した。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 ドアのすぐ側に、一人分の気配。
 嗅覚も聴力も人並み程度に落とされているナインでも、流石にこれは気が付かないと言うことはないだろうと言うくらい、気配の隠し方が下手だった。と言うより、気配を隠すと言うことを意識したことがないのかもしれない。
 もう五分はドアの外で部屋の中に入ろうか、どうしようか迷っているのだろう。その気配の煮え切らなさにいよいよ、ナインは苛立ちを抑えきれずにベッドから降りて立ち上がると、ずかずかとドアの前まで乱暴に歩きよる。そのまま、ドアノブをひねるのも面倒で部屋のドアを一度、壊れない程度にガン、と音をさせて蹴りつけた。
 ドアの外から嫌と言うほど聞き覚えのある「ひっ!」と言う怯えた声がしたあと、恐る恐る、と言う様子でじりじりとドアノブがひねられ、開いたドアの隙間からクテラが大粒の涙を目に貯めた顔を覗かせた。

「……何やってんだよ、さっきから」
「あうう……」

 流石にドアを挟んでやり取りをする訳にもいかないのだろう。少しナインが後ろに下がると、開いた空間へクテラが身体を滑り込ませるようにそろそろと部屋の中へ入ってくる。だが、パタンと音を立ててドアが閉じても、クテラは何かに怯えるようにうつむいたまま、なかなか顔を上げようとはしなかった。

「……なんだよ。何かあったんなら、さっさと口で説明しろよ」
「……な、ナイン、僕、どうすればいいんでしょうか……僕……僕……」

 動揺して慌てふためいているように見えるクテラとは対照的に、ナインの方はクテラの動揺に引きずられることもなく、根気の良さすら感じさせる沈黙でクテラの言葉の続きを待っている。
 その落ち着き払った沈黙に多少、気持ちが落ち着いたのだろう。ナインの態度に促されるようにおずおずと、クテラがゆっくりと口を開いた。

「……ま、間違えて、その……参加登録、してきちゃいました……!」
「……………………は?」

 一言で言ってしまえばまあ、ナインの想像していた方向性とクテラの発言内容には大きな隔たりがあったのだろう。涙目で、部屋にも入れずに立ち尽くすのだから、これはそれなりのトラブルを持ち込んで来たのだろうとナインも身構えていただろうに、クテラはそんなことにはお構いなしにただただ歯切れの悪い言葉を続ける。

「ち、違うんです、その、ええと、思った以上に人がいっぱいいて、それで、気が付いたら僕、間違えて参加される方の集まってる所に迷い込んでしまって……その……!」

 あたふたと言い訳にもならない謎の経緯を説明しながら、クテラがおろおろと言葉を募らせるのだが、当人もどうしてこうなったのかをよく把握してないのか、口から出てくる言葉はまったくとして説明の役割を果たせていなかった。

「……………………なぁ」
「……は、はい……!!」

 不機嫌なナインの問いかけに、びくりと身体を硬直させて、粛々とクテラが返事を返す。
 だが、その程度のことではナインの不機嫌な態度が緩和されるはずもない。わざわざ、クテラの目線に自分の目線を合わせるように軽くクテラの顔を覗き込むと、わざとらしく唇の端を不機嫌そうに吊りあげながら、苛立ちも露わな笑みを作ってから改めてナインが口を開いた。

「何をどう間違ったら、武術会の会場の下見が参加登録にすり替わる羽目になるんだ? 俺ァよぉ、そこんとこ真っ剣に後学のために聞いときたいんだがなぁ……?」
「ご、ご、ごめんなさい〜!!」

 今にも泣きだしてしまいそうなクテラの、悲壮感溢れる謝罪の声がこんこんと室内に響き渡った。

■ 四日目


 目の奥がぐるぐるするような気持ちの悪い感覚が抜けなくて、何度も重い瞼をこする。
 膝を抱えて座り込んだ身体はズキズキと節々が痛むし、ささいな動作で頭がくらくらして集中力が持たず、吐き気に似ただるさが全身をうっすらと覆っている。
 ときどき、視界に映る焚き火の明かりもぼんやりとかすんで見える気がして、その度に慌てて目をこすりなおす必要があった。襲撃の心配はほとんどないだろうと言われているとはいえ、視界が安定しなければ戦えるはずなんてない。だが、目をこする腕にもロクに力が籠っていないのが現状だ。

(……ご飯、また食べられなかった。アルベルトさんに、なんて謝ろう……)

 今日の食事がもう終わっていると言うのに空腹を感じるのは、生まれて初めて食べる保存食や携帯食に未だに口が慣れないせいだった。固い干し肉は何度口の中で噛んでも飲みこめなかったし、保存のために強くかけられている塩味も辛すぎてクテラの舌にはつらかった。固いパンと一緒に与えられたチーズのじゃりじゃりと口に残る食感や鼻をつく匂いも、なんだか食べ物ではない異物のように感じられて気持ち悪い。
 有数の交易路である精霊街道は補給に困るような道行ではないが、分け与えてもらっている分を無駄にしていると言う事実はどうしようもなく罪悪感を募らせた。

(……こんな頼りない冒険者が護衛じゃ、みんな安心して眠れないかな……)

 携帯食や保存食に慣れないまま空腹を抱えるのも辛かったが、何よりも辛いのは外での眠り方が分からないことだった。
 天幕の中で分け与えられた毛布にくるまっても、固くて冷たい外での眠りは浅く、すぐに身体の節々が痛み始める。疲労で瞼は重いのに、眠りはなかなかクテラの元を訪れてはくれず、上手く身体が休まらない。
 天幕の周りを警戒する夜番は、何人かでローテーションを組んで回しているのだが、クテラは必ずナインと二人で一人分として扱われる。繋がった鎖だとか、監視の役割を果たす上でだとかの理由は周囲の気遣いのようなもので、つまるところクテラは荷物なのだ。一人では満足に役割をこなせないと判断されていて、そして実際、クテラは疲労と寝不足のせいで夜番すら一人分の役割を果たせずにいる。
 いつもこうだ。自分が本来背負わなければならなかった巫子としての使命もロクに果たせないまま、それどころか冒険者としてすら半人前なのだ。

(ここは本当に、御霊さまの手の届かない土地なんだ……)

 生まれて初めて、魔物と戦った。
 物心ついてすぐに巫子の屋敷に引き取られたクテラでも、かろうじて知識がある種族だった。里に降りることを許されたのはここ、二・三年のことだが、里でもよく見かける存在だったのでよく覚えている。黒の森から許可をもらって訪れる行商人の中にも混ざっていたし、逆に里から森へ商いに行く商人の護衛としても一般的だ。
 クテラの暮らしていた里では、魔物を受け入れ、魔物とともに暮らすことはごく当たり前の光景だった。
 だが、ここでは魔物と人間は共存するための相手ではない。『外の世界ではそうなのだ』と、知識としては何度となく教えられた言葉だったが、現実を目の当たりにすると想像以上に過酷な世界であることを実感する。
 人間は圧倒的弱者であり、魔物はそれを何のためらいもなく駆逐する無慈悲な強者だ。
 この辺りの街は、二つの区画に分かれていたりはしない。黒の森と白の里、魔物と人間がそれぞれの領域を持って、お互いに行き来し合いながら共存しあうと言うこともない。『御霊』と言う絶対の統治者と、彼の定める『即決裁判』と言う法。
 外の世界は、あの街とは何もかもが異質なのだ。

「……オイ」

 声をかけられて、クテラがハッと力のこもらない手でグリップを握り直す。顔を上げると、鎖の繋がった先でつまらなそうに夜番をしているナインが鋭い視線でクテラの顔を見つめていた。

「寝るなよ、まだ交代の番にゃ遠いぞ」
「……だ、大丈夫です、すみません……ちゃんと起きて……ます……」

 自分で言っておいて、情けなくなるほど頼りない言葉だ。口に出して確認しなければならないほど、自分は情けない体たらくをさらしているのだ。
 外に出れば、ふかふかと柔らかいベッドも、当たり前のように口にする普段の食事も、自分の頭を撫でてくれた魔物たちの大きな手の平も、クテラが当たり前のように享受してきたものは何もない。何度も言い含められ、分かっていたはずの事実にどうして今更、こんなにも躓いているのだろう。

「ハ、目ぇ開けてるだけで役に立つってんなら、誰も困りゃしないんだろうけどな」
「……」

 正論だった。起きているだけなら誰にでも出来る。クテラに求められているのは冒険者として、この商隊の人間と彼らの抱える荷馬車を護ることだ。慣れない食事も、固い寝床も、そのための言い訳にはならない。

「……迷惑かけて、ごめんなさい……」

 謝ったのは、誰に対してだったのかもよく分からない。こんな頼りない護衛を雇うことになってしまった商隊の人間にか、それとも望んでもいない立場を与えられクテラと共にいることを強要されているナインにか、もしくはこんな不出来な巫子に命運を託さなければならなかった御霊と街の住人たちにか。
 どうしても堪え切れなくて、抱えた膝に目頭を押しつけて浮かんだ涙を無理やり誤魔化す。
 ナインからの返事はなかった。

■ 五日目


 いつ眠りについたのかも覚えていないような、ずいぶんと深く長い眠りだった。
 目覚めた時には宿の寝台の上で、服も身の着のままと言う体たらくだ。パジャマに着替えるより先に眠くなってしまったのだろうかと思うと、だらしのない自分の姿がどうしようもなく恥ずかしい。夢を見ていたような気もするのだが、内容はまったく思い出せそうにない。
 ナインは、部屋にいなかった。そのことに改めて驚いたのは、ナインが自分に何も言わずに部屋を出るのが初めてのことだったせいだ。下の階の本棚に、新しく自分が読むための本でも取りに行っていったのだろうか。
 こんな状態で連れたっての旅だと言うのに、一度もナインが脱走を試みたことがないのはクテラにとって、本当に不思議だった。
 長老たちの「どうせ逃げられはしない」と言う言葉が本当なら、やはりそう言った最低限の制限に関しては契約封印の中に織り込み済みなのだろうか。契約の詳細を知らされていないクテラには、憶測することしかできない世界だ。

(……あれ? でも、じゃあ長老さまたちはなんで「なるべく側を離れるな」って言ってたんだろう……?)

 鎖を手放さない、目を離さない、常に側を離れない。従属契約があればどれも必要なさそうに思える制約の気がするのだが、そこではたと思い当たる。

(……もしかして、長老さま達が心配してたのはナインじゃなくて、僕の方だったのかな……)

 この世界において、魔物と人との間に横たわる物理的な能力差の壁は絶対だ。
 人間は精霊術や精霊武具といった、精霊力のコントロールによってしか魔物に対抗する手段を持たず、それゆえに国家は都市単位でしか存続できない。
 クテラの暮らしていた街もそうだ。クテラの暮らしていた都市はハイデルベルクからも遠く離れた辺境に位置し、冒険者や精霊技術に頼っての自治など望めるはずもない。
 だからこそあの街、あの白の里は守護者である魔物たちに持てるもの全てを明け渡し、自分たちの行く末のすべてを委ねることでしか自分たちの生活を維持できないのだ。

(けっきょく、僕ってなにをやっても半人前なのかな……)

 一人ではロクに依頼を果たせるかも分からず、里の外にも出たことがない。
 考えてみれば、分かるようなことだ。『クテラ』が『ナイン』の見張りなのではなく、『ナイン』が『クテラ』のお守り役なのだ。
 考えれば考えるほど、体中から気が抜けていく気がして、再びシーツの上にぱたりと全身で倒れ込む。
 沈黙が耳に痛いほど静かだった。

「……おうちにかえりたい」

 こんな事を思う日が来るなんて、思いもしなかったな、と思う。
 儀式に失敗したまま、役目も果たせず里に残り続けることは辛かった。だからこそ、この話を持ちかけられた時は一も二もなく飛びついたのだ。
 自分が儀式に失敗したせいで、御霊の御位が失墜するかもしれない。
 それはどんな事実よりも重く肩にのしかかってくる、クテラの直視すべき現実だ。
 今の氏族の統治が続いてもう、随分と長い時間が経つ。そのおかげで、今の里と森は随分と良好な関係が続いているのだとも聞かされている。だからこそ、この儀式の失敗は現在の御霊の地位を損ない、里と森の友好関係に決定的な亀裂を加えかねない。

「……ごりょうさまにあいたい……」

 ずっと、屋敷の外はどんな世界なのだろうと想像しては、早く外に出られるようになりたいと思っていた。
 里に降りられるようになってからは、街の外がどうなっているのか、世界はどのくらい広いのか、ますます気になって仕方がなかった。
 けれども、こうして実際に外の世界に降り立って、そのために失われたものを思うと、途端にどうしたらいいのか分からなくなってしまい足がすくむのだ。
 自分が無思慮に外に憧れていたのが悪かったのだろうか。巫子として不出来だったせいでこんなことになったのだろうか。理屈も理由付けも関係ない、結局、クテラが巫子としての役割を果たせなかったせいで、里と森の和平は、現御霊の地位は失われるのかもしれないのだ。
 目をつぶれば、今でもはっきりと思い返せる。城壁に囲われた人間たちの里、他のどの家から少し離れた巫子の屋敷、誰も入って来られないその屋敷を唯一、公式に尋ねることができる魔物たちの王。守護者と呼ばれる現在の氏族から、たった一人選ばれる『御霊』。

『いよぉ、クテラ、元気にしてたか?』
『ごりょうさま、ごりょうさま、ぼく、ちゃんといいこでしゅぎょうしていました』

 嘘はついていなかった、と思う。
 ただ、クテラは礼儀作法や踊りよりもかけっこの方が得意で、『踊りよりもかけっこの方が得意な巫子だなんて前代未聞だ』と作法の先生にお叱りを頂くと言うだけで、修行をサボったり、手を抜いたりと言うことは一度も考えたことはなかった。

『おお、クテラは本当に元気で、良い子だなぁ。ほれ、お前のだーいすきな御霊さまが、良い子のクテラに土産を買ってきてやったからな。ちゃんと大事にとっておくんだぞ?』
『……うさぎさん。めがきらきら』
『よく気が付いたな。こいつは、『宝石ウサギ』って名前らしいぞ。なかなか美味そうな……あ、いや、なかなか良い面構えをしてるだろ?』

 小さな、ウサギのぬいぐるみだった。目の部分に使われていたのは子供向けに作られたビーズだったのだろうが、そのキラキラと赤い光を反射する姿が真っ白な毛皮に映えて印象的だった。
 あれ以来、土産の希望を尋ねられるたびに『あの子にお友達が欲しい』と増やし続けて、部屋の中の大半は今も彼らが鎮座している有様になってしまったが、全員、元気でクテラの帰りを待ってくれているだろうか。いつも一緒に眠っていた二メートル近い大きさのエルに、友達のマイケル、トニー、ジャック、サラ、ロバート、ジェニファー、アンソニー、リンディ、他にもたくさんの仲間を置いてきてしまった。
 本当は、旅に出るときに誰か一人だけ、一番小さい子の中から一緒につれていこうかとも迷ったのだが、真っ白な毛皮が旅で汚れるのは忍びなく、結局、全員に別れを告げることにした。
 けれども、未だにエルのいない眠りには慣れていないのが本音だ。

(……お店……確か、ハイデルベルクにもあるんだよね……)

 ふっとつぶった瞼の裏に、街の主要な通りを見て回った時に見かけた、ショーウィンドウいっぱいに飾られた宝石ウサギのぬいぐるみたちを思い出した。
 その時はナインも一緒で、他にも色々としなければならない手続きや確認しないといけない場所も多くて、ロクに見ている時間がなかったのだが、それでも場所だけはしっかり覚えて地図にメモを残しておいたはずだ。

(……)

 身体中のなけなしのエネルギーを無理やり使いきって、ベッドのシーツから身体を起こす。
 小さな真四角のメモに、『すこしだけ買い物に行って来ます』とだけ書き残した。どんなに短時間の別行動にしろ、いつもは必ず直接声をかけあうようにしていたのは、自分でも従属契約の詳細を詳しく把握していないせいでどこか、一抹の不安を抱いていたせいだろう。
 旅に出てから、はじめて、ナインに何も言わずに宿を出た。