■ 一日目


強くなければ生きていけない、ジェントルでなければ生きていく資格がないと語ったのは人間だったと聞いている。

が、これは何も人間に限っただけの話でもないとレグリュエルは考える。
哲学だとかポリシーだとかマニフェストだとか言う話は人間に任せておけばいいとは思うが、ウサギにだって人生はあるし手足は四本あるし今夜の夕飯をニンジンにしようか、菜っ葉にしようかで死ぬほど悩んだりもする。
挙句の果てに両方食べて、食べ過ぎで次の日の腹具合に後悔したりもする。

話が逸れた。
つまるところ、レグリュエルはウサギであっても強くなければ生き残れないし、ジェントルでなければ生きて行く資格を見いだせないと考えている。
こういうのを、人間は固茹とか言う卵のゆで具合みたいな言い方をするらしい。
レグリュエルは半熟の方が好きだった。
が、卵のゆで具合の好みとこれとは別問題だ。

別に、俺より強い奴に会いに行くだとか、そういう自分で自分の寿命を縮めるようなエッジでパンクでデストロイな生き方がしたい訳ではない。
もう少し中途半端で、ほどほどで、生きやすく融通の利く具合が好ましい。
つまるところ、作ったことのない卵の茹で具合など計れるはずもなく、卵を茹でるのならばまずは鍋に水を汲み、卵をひたすことから始めなければならない。

これは一匹のウサギが、今夜の夕飯とハードボイルドのために右往左往する、そういう類の話だ。

■ 二日目


森の中に、林檎がいた。

別段、それ自体は特におかしなことではないと思う。
歩く兎が歩く林檎にケチをつけるのかと言われれば返す言葉もないし、歩こうが歩くまいがそれは人の自由というものだ。
ただ、その林檎は座っていた。

ヤンキー座りというやつだった。
きっとこの世の中に何か、感じ入るものが彼なりにあるのだろう。
溢れ出る品性から自然とあんな座り方になる、と言う例は少ないと思う。
つまるところあれは彼なりの何か意思表示だったり、訴えだったり、世の中への尽きぬ不満を表現する一手段なのかもしれない。

案の定、そのムキムキの身体に赤タイツを張りつけた林檎は、レグリュエルに物すごい形相で絡んできたのだ。
どうやら、この林檎タイツの現状の不満はただ一点、レグリュエルが近くを通りがかったことらしい。
何とも、世の中は複雑骨折だ。

■ 三日目


 街の出入り口に面した草原に、でかでかと『料理人募集』の簡素な立札が立っている。
 妙に流暢な筆跡だった。片隅には小さな文字で『武器、作ります』とも書き足されている、どこにでもありそうな木製の立札だ。
 その立札にもたれかかるように座っているのは、体長二メートルはあるだろうジャンボウサギだった。爪は鉱石、目は宝石、名前をレグリュエル。
 ウサギというよりは人間に近い格好で、器用に座りこむ姿はちょっとしたホラーに見えなくもない。

 森の中でメンチを切ってきた林檎が、依頼の『アップルさん』だったと気がついたのは、赤タイツの巨体が地面に倒れこんでからのことだった。
 鳥のさえずりが心地いい木漏れ日の中、じっと倒れ込んだ林檎の顔を覗き込んで、依頼内容に間違いがないかを厳重に確かめる。
 取りあえず、状況を鑑みてもこの林檎が依頼の『アップルさん』と断定して間違いはなさそうだと納得したのだろう。
 二、三回、納得したように頷いたレグリュエルがのっそりと林檎を背中に担ぐ。
 物を乗せる時は四足に限る。二足は便利だが、四足は馬力が違う。
 小回りが利くことは大事だが、エンジンをフルスロットルに回せると言うこともまた、レグリュエルにとっては同じくらいに大事なことだ。

 木の立札を立ててそろそろ数時間、いいかげん、空は良い具合に傾きかけているような、まだまだ太陽が粘っているような微妙な時間具合にさしかかっていた。
 草原を赤く染める日の光を遮って、レグリュエルの前に現れた影は随分と華奢な、人間一人分のシルエットだった。
 人の気配が近づくまでぼんやりと瞼を閉じていたレグリュエルが、宝石の目を開ける。
 人間一人分と言うのは間違いだった。耳が長い、が、レグリュエルの同族ではない。エルフの女性だった。
「失礼だが、料理人を探していると言うのは貴殿か?」
 きょとん、とワンテンポ遅れて、レグリュエルが背後の荷物から立札を一つ、取り出してそこに何かを書き付けた。
『たいへん空腹です。あと、武器とか作ります』
「……そうか。武器はしばらく入用になる予定がないのだが、しばし待っていてもらえるか? 同行してくれている二人に話をしてくる故」
 買い物を終えた後だったのか、小さく荷物を抱えていた女性が、後ろに待つ大きな影と小さな影の元へ小走りに駆けて行った。

『お名前を聞いても大丈夫ですか?』
「名乗るほどの者ではない……と言いたいところだが、呼ぶ名がないのも不便か。リリコ、リリコ・フリーセントだ」
 何が良いかと聞かれたので、迷わずニンジンサラダをリクエストした。
 ちょっと目を丸くしたリリコは「やはり、ニンジンが好物なのか」と小さくつぶやいて首をかしげて見せた後、了承した、とにっこり破顔して、慣れた手つきでレグリュエルの手持ちの野菜を刻んでくれた。
 笑うと、凛々しい雰囲気が和らいで少しだけ幼さの覗く、優しい笑顔の女性だった。
 綺麗にお皿に盛りつけられたサラダを手に持って、レグリュエルがぺこりと頭を下げる。
 さっと取り出した『ありがとうございました』の立札は書きつけるまでもない、旅の荷物の中に常備してある常備札の一つだ。これの使用頻度が高くなる旅は、総じて良い旅になる確率が高い。
「礼には及ばぬ。だが、貴殿はいっぴ……一人なのか? 街の中ならまだしも、外に出て依頼をこなすとなれば色々と危険も多いだろう」
 心配そうに表情を曇らせるリリコは、一人旅の心許なさに覚えがあるのだろう。親身になってくれているリリコの不安げな表情に、慌てたように木札に文字を書きつけて、ひょこりとレグリュエルが顔を上げる。
『もうすぐ、合流できる予定なので』
「……同行者がいるのか」
 それは良かった、と、心の底から相手を案じていることが分かる打算のない安堵でリリコがホッと息を吐く。そしてそのすぐ直後、少しだけ恥ずかしそうに目尻を下げながら、打ち明け話をするように少し照れた様子でコホン、と小さな咳払いをして見せた。
「……すまぬな、余計な口出しをしてしまった。拙もつい先日まで一人だったものでな。つい他人事でない気がして……」
 照れたように僅かに目をそらしたり、かと思えば相手の目を真っ直ぐに見つめ直したり、本当に表情の豊かな人だなぁとレグリュエルは感心したようにまじまじ、リリコの瞳を見つめ返した。
「本当は、一人で何でも出来るようにならなければと思うのに駄目だな。見知らぬ世界で一人、ぼーっと食事をしているとひどく心許ない気分になってしまう。自分のことならまだしも、他人がそういう思いをするのは何だか、ひどく遣る瀬無い気がしてな……貴殿にも同行者がいるのなら、本当に何よりだ」
『自分もそう思います。同行者の方に、どうぞよろしくお伝えください』
「レグリュエル殿も、良い旅を」
 『リリコさんも、どうぞ良い旅を』を書いて掲げた木札の文字は、傾いた夕暮れの日差しの中ではひどく読みづらく、果たしてリリコがそれを読むことが出来たのかどうかは分からない。
 夕暮れに伴って吹き始めた風に長い黒髪を揺らすリリコは、煌々と燃える夕陽の赤がひどく似合う女性だった。

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日記は、ご許可を頂いて料理を作ってくださったリリコ・フリーセントさん(ENo.729)さんをレンタルさせて頂きました。
リリコさん、快くご許可をくださって有難うございました!

■ 四日目


 街の端の目立たない一角に、みっしりと葉の茂った木が堂々と根を張っている。
 風が吹く度にそよそよと葉っぱの揺れる音がするその木陰で、レグリュエルの長い耳もときどき、風に吹かれて揺れていた。風とは無関係にときどき、無意識にぴくぴく動いたりもする。これは周りの物音に反応しているせいなので、当人の意志とはまったく無関係の反射行動だ。これを意識して止めるのはすごく難しい。相当集中しないと上手くいかない芸当だ。
 その落ちつきなく揺れたり動いたりしていた耳が、ぴくんと動いたきりピタリと動きを止めたのは、一方向の音を拾うのに集中しはじめたせいだった。
 草の上にぐてんと横になっていた身体を起こす。毛についた葉っぱを叩き落として身づくろいを整えたタイミングで、ぴたりと小さな靴音が止んだ。
 レグリュエルの後ろに立っている木の立札をじっと読んでいるのは、長い緑の髪を結ったふんわりと柔らかい雰囲気の女の子だった。
「こんにちは、大きなウサギさん」
 にっこりと微笑んだ少女が、レグリュエルの後ろに堂々と立つ『合成枠交換、武器作成請け負います』の看板を指差しながら小さく首を傾げる。
「ええと、通りの掲示板で合成枠の交換募集を出してたのって、貴方でいいのかな?」
 いよいよお客さんだ、とレグリュエルは張り切って新しい立札を荷物の中から取り出した。
『仕事欲しいです。交換大歓迎です。「みんなで幸せになろうよ」って昔の偉い人も言っていました』
 立札に書かれた文字を見て一瞬、へ、と呆気に取られたように目を丸くした後、くすくすと笑い出した少女が可愛らしく口元を隠しながら笑う合間に言葉を挟んだ。
「初めまして、私はシセ。私のお友達のスターちゃんがね、こういう合成とか、得意なんだ。呼んでくるから、ちょっとだけ待ってて」

◇ ◆ ◇

 シセに手を引かれてやってきた少女は、スターの名前に相応しいキラキラの瞳を持ったドラゴンの女の子だった。スターガール、と名乗った少女に朗らかに笑いかけられて、レグリュエルもぺこりと頭を下げる。名は体を表す、と言う言葉がこれほど合う少女もそうはいないだろう。
 お互いに持ち寄った合成の細かい仕様を情報交換してから、材料を交換。そのついでに、最近勉強し始めたばかりの合成の話をいろいろと聞く。スターガールはレグリュエルよりずっと高い技術の持ち主で、持ちかけられる話題はどれもレグリュエルにとっては目新しい情報ばかりだ。
「ヽ(・∀・ )ノ 」
『ヽ(*´∀`)ノ』
「な、なんで通じ合っちゃうの……?」
 バッチリだった。練習しておいた甲斐があった、とレグリュエルは胸の内でだけグッと握り拳を作る。人間の言葉は難しいが、中でもこの「顔文字」は特に理解が難しかった。最初は本当に意味が分からなかった。百年間、地道に続けた勉強の成果が今日、ここで活かされているのだ。

◇ ◆ ◇

 終わった後は、黙々と手際よく片付ける。合成強度を計る天秤をごそごそと地面に置いてある荷物の中にしまいこんでいると、シセが不思議そうに看板を眺めながら小首を傾げた。
「ウサギさんは、ずっとここで寝てるの?」
『待ち合せの相手を探していて』
「あ、探している人がいるんだー」
 どんな人なの、と言うスターガールの言葉に数秒の間、レグリュエルが考え込む。どう説明すれば自分の探している相手の特徴が伝わるものか、言葉を選びながら新しい立札にごそごそと文字を書き付けた。
『赤い服を着た人を見ませんでしたか』
「……赤い服?」
 赤い服、だと抽象的過ぎるのかも知れない。ただ赤い服を着ているだけの人間なら、スティルフの街中でいくらでも見かける。もう少し絞り込まなければと、レグリュエルはもう少し情報をつけたした。
『胡散臭く笑ってる感じの』
「う、うさんくさい?」
 予想していなかった単語の登場に、スターガールがぎょっと目を丸くする。シセは相変わらず首を傾げ続けていて、自分の記憶の中をいろいろと辿っているようだった。
 他に何か、ぱっと見て分かりやすい特徴はあっただろうかと思い返して、レグリュエルがもう一言、立札に書き足す。
『多分、花とか持ってる』
「あ、」
 声を挟んだのは、シセの方だった。何かに思い当たったと言いたげなその声に、星の瞳と宝石の目と、その場の視線がいっぺんにシセに集中する。
「ええと、その人って、もしかして……」
 転がり膨らむは人の縁、とはよく言ったものだった。
 つまるところ彼女、シセはレグリュエルの尋ね人の魔石作成を請け負っていたらしい。
 おまけに、魔石を作ってもらうとそいつは『怪奇!歩く巨大ウサギ』の目撃談を追って森の方へさっさか歩いて行ってしまったそうだ。
 尋ね人を探すレグリュエルに、何とか自分の知っている情報を提供しようと懸命だったのだろう。あれこれと一生懸命に身振り手振りを交えて語ってくれたシセの説明が終わってからもしばらく、レグリュエルは無言だった。無言なのはしょうがない。ウサギには他の動物のような声帯がない。鳴くこと自体が稀だ。表情も大して変わらなかった。人間のように複雑な表情筋の持ち合わせがないのだから、これも仕方がないと言える。
 ただ、レグリュエルは静かにその憤りを、後ろから取り出した木の立札に書きつけることでしか表現出来なかった。

『 ガ ッ デ ム 』

 大人しく街で待ってろと言っていた癖に、どうしてその当人が街にいないと言う結果になるのだ。解せぬ。

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日記は、合成枠交換をしてくださったシセ・フライハイトさん(ENo.2904)とスターガール・ティアライトさん(ENo.2365)をお借りさせて頂きました。
名前は出てないけど合流予定のサキミタマくん(ENo.2099)は勝手に借りました、むしろ向こうの日記とリンクしていると言う噂があります。

■ 五日目


 鞄の中に預かって来た木瓜を、重さを確かめるように手に取る。ずっしりと、結構重い。
 請け負った仕事は合成枠交換が一件に、久しぶりに舞い込んだ武器作成が一件。合成は、ひんやりと冷たい手をした綺麗な女の子からの依頼だった。水の魔力の影響が強い子だったのか、依頼されていた素材も瑞々しい、なかなかの素材になったと思う。
 武器の案件は、銃だった。こちらも無邪気そうな、武具を持つとは思えないような可愛らしい女の子からの依頼だ。
 素材自体は動植物の生命力が旺盛なセルフォリーフではよく見かける種類のもので、平原などにたまに自生しているのを見かけるやつだった。特性を活かすなら、断然、貫通弾向きだ。当たり所が良ければ貫通した弾の傷が体力を奪うから、力のない女子供にも扱いやすい。
 銃の扱いはこれでも、得意な方だった。作製したことは数えきれないし、メンテナンスはその何倍以上もこなした。ただ、どれもすごく昔の記憶なので、作製自体はとても久しぶりだ。最後に作ったのは、大口径マグナムの自動拳銃だったろうか。
 レグリュエルを拾った人間は、探偵だった。
 探偵と言っても、冴えない風貌の、都会の片隅でいつも不倫調査や失せ物探しをしていたような、ぼろぼろのトレンチコートが一張羅だった男だ。着崩したトレンチコートのポケットや、よれよれの襟元から頭を覗かせるのがレグリュエルの定位置だった。
 冴えない仕事ばかり選ぶ男だったにも関わらず、裏地の隠しポケットにはいつも大口径のマグナムを潜ませていたのだから人間というやつは分からないとレグリュエルはしみじみ、今になって思い返す。
 すぐにトラブルに巻き込まれるせいで、何丁という銃をすぐ駄目にする男だった。大口径が好きで、反動の重い銃ばかりを好んで片手で扱っていた。ときどき、訳ありの女性や子供を拾ってくることもあって、そうなると今度は護身用のコンシールドガンが必要になったりもした。とにかく、あの男の胸元でぴょこぴょこと耳を動かしている間は、仕事に困る暇がなかった。
 また銃を作る機会に恵まれたんだな、と思うと、少しだけ感慨深く木瓜を一度、手の中から空中へぽんと放って、再びキャッチしてみる。
 頭の中によぎるのは、どれももう随分と昔の、百年を遡るような時代の話だ。
 今更、過ぎてしまった時間の向こう側に戻りたいと思うほど若くはない。とうとう自分の手を経ることなく幕を閉じてしまった二つの復讐劇に、慕情を募らせるほど情熱的でもない。ここにいるのは茹で上げられることもなく、半熟のまま冷たい水の中で割れてしまった半熟卵の殻の破片だ。
 ハンプティ・ダンプティは落っこちた。もう、百年は昔の話だ。
 落っこちた卵の殻だけが今も、自分はどうして兎になれなかったのかと自問自答している。

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日記は、今回分の生産取引予定の方をネタにさせて頂きました。
不都合・矛盾などありましたら魔法の呪文・分割世界パラレルを唱えて頂けると幸いです。

■ 六日目


 日が落ちて夜が深まりはじめた街の端々に、ちらほらと明かりが灯り始める。
 そうなるともう食料品でもない限り客が来る見込みはほとんどなくなり、街灯の明かりに照らされた影絵のような人並みがこぞって、野宿の準備や宿へ戻る片付けをはじめていた。

 のっそりと立ち上がったレグリュエルも、その人並みに混ざるようにいそいそと立てていた木の看板を片付け始める。
「そろそろ店仕舞いですか」
『もう、良い時間だからな』
 後ろからかかった声に振り向きもせずに答えるウサギの後ろ姿は、愛想も何もなかった。知っている声であったし、知っている気配でもあったし、いちいち振り返って愛想よく返答するような仲でもない。レグリュエルとサキミタマは、何というか、一言で言うと難しい同行者だった。

『またお前と顔を合わせる日が来るなんてな』
「馬鹿なことを言わないでください。お互い、このまま顔を見ずに終われるだろうなんて、一度として思ったことがありましたか?」
『……思ったことはないが、出来れば二度と見たくないとは心の底から思ってた』
「そうですか、それはご愁傷様ですね」

 皮肉なのかそんなつもりはまったくないのか、顔色をまったく読ませないままニコニコと笑い続けるサキの言葉に、嫌そうにレグリュエルが耳を振る。これだからどうにも、調子が狂って困るとレグリュエルは思う。サキは大概、いつも何がそんなに嬉しいのかと首を傾げるほどニコニコと喜んでいて、その底にあるものがまったく見えてこない。
 頭の中がおめでたい、と言う表現があるが、サキはそんなものの比ではない。サキミタマは、さる錬金術師が情報収集端末として創造したホムンクルスであり、彼の担当する感情収集は「喜び」だ。つまるところ、頭の中どころか体中を構成する要素全てがおめでたい輩なのだ。

「それで、これからどうするつもりなんですか? いつまでもここで商取引をして、のんびり過ごすなんて事を考えている訳ではないんでしょう?」
 ニコニコと笑いながら首をかしげるサキが、次の瞬間、一瞬だけ細めるようにして真っ赤な瞳を覗かせながら、囁くように声を潜ませる。
「なんでも、まことしやかな噂によると、アンジニティでは世界隔壁の一部が壊れたと大変な騒ぎになっているそうですが」
『セルフォリーフが出した救援依頼の名目は『世界復元』だ。復元の内容が騒動の回収を含むのと同時に、壊れた世界隔壁の復元を含んでいる可能性は高い』

 怪我をすればかさぶたが出来る、病原菌が入り込めば白血球が活動をはじめる。原理はそれと同じだ。そしてアンジニティに落とされたあの男、サキの製作者と兄弟たちは必ず、その世界隔壁に空いた穴を目指す。
『当面はその世界隔壁の穴が、行動指針になると思う』
「取りあえずは異変を追いながらその復元個所を探すしかない、と」
『……そうするしかないんだろうな』
 異変が数珠つなぎに世界隔壁まで繋がっているとは限らないが、世界復元の動きを追う以外に手がないのも確かなのだ。外部の住人であるレグリュエルやサキが取れる手段は、あまり多くはない。

「しばらくは探偵業の仕事が来なくても退屈をせずに済みそうで、良かったじゃないですか」
 しらっとした顔でサキが口を挟むのは、レグリュエルの暮らしていた探偵事務所の閑古鳥の鳴き具合を知っていたせいだろう。
 場末の喫茶店に事務所を構えていたくたびれた探偵とウサギの事務員は、大概、いつも暇を持て余していた。
『……もともと、探偵っていうのは困ってる人間が困らなくても生活できるようにするのが仕事なんだよ』
「素晴らしい。食事を確保するには、最適に近い業種の一つですね」
『……』

 やっぱり、どうやってもサキの頭の中にはついていける気がしない。親の顔が見てみたい、と思うのだが、残念なことに既に知っていたし、嫌というほど対決もしたし、何よりもこれから、その当人の顔を見に行くために歩くのだ。
 その昔、アンジニティに落とされた一人の錬金術師がいた。その男をアンジニティに叩き落とすために命をかけた探偵もいた。
 これはその錬金術師に創られたホムンクルスと、探偵の助手だったウサギの百年越しのロスタイムなのだ。

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日記は、PMのサキちゃん(ENo.2099)の日記とリンクしています、サキちゃんいつもありがとうありがとう。
キャラのブレ・矛盾点などありましたら魔法の呪文・分割世界パラレルを唱えて頂けると幸いになります。

■ 七日目


 受け渡し場所に指定された街のすぐ横の平原で、緑の野原を背に白いマフラーの尾がひらひらと翻る。
 鮮やかなカラースーツとのコントラストも印象的だったが、一番最初に目を惹かれたのはそのマフラーが巻かれた首元の、色濃い肌とのギャップだった。
 髪の間から覗く少し尖った長い耳は、エルフ特有のものだろう。
 隙のない目つきでちらちらとこちらの出方を窺うように待っている表情には、初対面の人間同士の距離のある笑顔が浮かんでいる。
 その目の前にレグリュエルは抱えていた布包みを差し出して、用意しておいた立札を掲げることで意思疎通を図った。

『ご依頼頂いていた品です。ご確認ください、ミズ・ラブマーク』
「では、失礼して」
 軽い手つきで荷物を受け取ったダーク・エルフの女性が、くるくると巻かれていた布を器用に取り外す。
 中から現れたのは、真柄竹の魔力機構を採用した銃剣銃だ。普段ならまずないような、中々にレアな依頼だったとレグリュエルは思う。
 ぐるりと辺りを見渡せば、空は快晴、風も弱く、銃の動作確認と試し撃ちには良い環境だった。
「早速、検分させてもらいましょう」

 慣れた手つきでざっと細かい場所を見て回ると、何箇所か触っては感触を確かめる。
 そういう、ちょっとした仕草にも都会的な雰囲気が残っている人だった。セルフォリーフの雄大な大自然の中に立っている姿は、いかにも異国の旅人だと感じさせるものがある。
 スマートなラインの洒落たスーツのタグにはきっと、シャネ何とかだとかカル何たらだとか言う、レグリュエルには一生縁がないだろう名前が記されているのだろう。
 セルフォリーフの街中でカラースーツは良い意味でも悪い意味でも目立つセレクトなのだろうが、それを差し引いても褐色の肌に派手目の色合いがよく似合っていた。
 ダークエルフに特有の容姿をアピールすることに恐れのないセレクトだな、とレグリュエルは思う。自分の生まれに恥じるところのない人間のセレクトだ。

 手早く確認を済ませると、無駄のない手つきでレグリュエルの差し出した受領証にサインする。
 カリス・ラブマークとフルネームでサインされた受領証を受け取ると、にっこりと先ほどより少しだけ笑みを深くして、カリスが取り外した布を折り畳みながら口を開いた。
「確かに受領しました。素材特性も発射機構も、問題はなさそうですね。試し撃ちするのが楽しみになってきました。なかなか、担ぎ甲斐もありそうですし」
 一瞬、レグリュエルは絶対の自信があるはずの自分の耳を少しだけ疑った。

『……担ぐんですか?』
「おや貴方、都会の流儀を知らないと見える」
 取りだした新しい木の立札に疑問を書きつけると、いかにも心外だと言うように悪戯っ子の笑顔を浮かべて、ちっちっととカリスが人差し指を振る。

「銃と言ったらまずはこう!」
 何故肩に担いだし、と言うレグリュエルの心の声をとっさに書きつけるには、あまりにも短い時間だった。
「そしてこう!」
 畳みかけるかのようなスピードで、どうしてそこで膝を地面につくのかと突っ込みを挟む間もなく、カリスが最後に取り付けた覚えのない謎のスコープを覗きこむ。
「最後はこの体勢のまま『そのキレイな顔をフッ飛ばしてやる!!』です!!」
『銃剣なのに!?』
「ふっふっふ、ちなみに頭の方に『ちょろいもんだぜ』って付けてもオーケーです」
『そんなものよりカンフーのほうがカッコいいぞ!?』
「私が見本を見せて差し上げましょう!」

 そこまで行けばもう、後は地獄の宴だった。
 無言のままピシっと伸ばして決めた腕、次々と変化していく格好いいのか何なのかよく分からないポーズ、爪先から指先まで力のこもったブレのない身ぶりの数々、ときどき何故か混ざる荒ぶる鷹のポーズ、子供が見たら泣いて逃げ出したかもしれない異様な空気。
 エルフが舞い、ウサギが跳躍し、たまに近くを束子が通り過ぎていく。
 カンフーと言うより、もはや秘境の雨乞いダンスと言われた方が納得できる光景だった。
 短いとは言いたくないが決して長くはないその無言の数分の後、お互いに肩で息をするほどまでに疲労した二人がじっとお互いを見つめ合い、そして健闘をたたえ合うようにがっしりと手を組む。

「……貴方、やりますね……」
『……お姉さんこそ、ただのエルフじゃありませんね……』
 息が切れていることもあってか、言葉数少なくただ視線でお互いの健闘を称え合う。そこには目に見えない充実感と、理解されたことへの満足感、心地よい運動疲労から来る達成感が混在していた。
 もう正直、銃の試し撃ちなんてどうでもよくなってくるだけのものがそこには確かに存在していたのだと思う。
 ただし、それも少し離れた距離からの、遠巻きな声に二人が振り向くまでの一瞬のことだ。

「……新手の新興宗教か健康体操の一種ですか?」
 振り向くと、一抱えもある紙袋にわんさかと食料とポーションを詰め込んだサキが、心の底から怪訝そうな顔で微妙に距離を空けて立っていた。

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日記はPMのサキちゃん(ENo.2099)と、何でも許可コミュ(+ネタこそ許可)の方から武器を作らせてもらったカリス・ラブマークさん(ENo.148)をお借りしました、カリスさん……マジ……すみませんでした……プロフ欄にまゆたんがいたのでつい……。
不都合・キャラのブレ・矛盾点などありましたら魔法の呪文・分割世界パラレルを唱えて頂けると幸いになります。

■ 八日目


 薪の燃えるパチパチと言う音が耳について、ふっと意識が浮上した。
 眠気のこびりついた瞼をこすってから開くと、少し離れた場所に赤々と燃える焚火が見える。包まった毛布と揺れる焚火はどちらもひどく暖かそうに見えるのに、背中には確かに寒気を感じる。地面に敷いただけの敷布に乗せた頭が、万力で締め付けられるように痛んだ。間違いなく、正真正銘の風邪だ。
 おまけに、起き上がろうと上半身を起こしかけた所で思いっきり咳き込んだ。喉の奥がヒリヒリして痛い。

「起きたんですか?」
 少し遠くから、物音を聞きつけたかのようにかけられた声は姿の見えないサキのものだ。近くで、外敵除けの結界でも張っているのかもしれない。
 口を開くと、少し枯れていたがちゃんと声が出た。
「……薪の音がして、目が覚めた」
「だいぶ喉がやられていますね」
 自分の声で喋るのは久しぶりだった。ウサギなら持っていないはずの声帯も、不思議とこの姿の時は普通に機能する。瞼をこする器用で小回りの利く指も、身体を起こす動きに合わせて揺れる黒い髪も、間違いなく人間と同じものだ。

 どうしてこうなってしまうのか、実を言うと自分でもよく分からない。
 昔はウサギでいることの方が自然だったし、風邪や体調不良の度にこっちの姿に戻ってしまう、と言うこともなかった。確かに、複雑な罠を扱う時や人間の指でないと不便なことがある時、サキと一緒に行動する時には自分の意思で姿を変えることもある。だが、それとこれとは話が別だ。
 風邪を引くとウサギでいられなくなってしまうなんて、ウサギとして絶対におかしいと自分でも思う。
 指でつまみ上げた自分の髪は、ウサギと言うよりはカラスや蝙蝠に似た色をしている。どうして白ウサギの髪の色が黒なんだと、この姿を知っている人間の大半は首を傾げるが、そんなことは自分の方が聞きたいくらいだとレグリュエルは思う。好きで黒髪に、いや、人間の姿を持ったウサギに生まれた訳じゃない。
 だが、視界に映る五本指の爪は間違いなく、見覚えのある鉱石の色で焚火の炎を反射している。目は人間の目とほとんど同じものになってしまうが、耳のある位置から生えるのは毛皮に覆われた、ウサギの長耳そのものだ。
 どれだけ身体がウサギと人間の間を行き来しても、これは間違いなく自分の身体なのだ。

「依頼のハムスターが出ると言う森はすぐそこだと言うのに……貴方は本当に、食べ甲斐がありませんね」
 足音をさせて戻って来たサキが姿を見せると、ため息を吐きながら焚火の側に膝をつく。火の側で何か温めているのかもしれない。
 とは言っても、サキが特別な理由もないのに人間の食べ物を作るとは思い難い。サキの言う「食う」とは感情収集のことであり、サキの食事は人間の感情だ。主だったところとしては喜びを食べていればそれで事足りるらしく、人間の食べ物に口を付けるのは「その食事や食材に込められた感情」を食べるのがメインであって、「機能的に人間の食事と同じことも出来る」と言う話でしかないらしい。
「……俺だって、好きでこの時期に風邪を引いた訳じゃない」
「好もうが好むまいが引いてしまったものは仕方がないんですから、早く治るようにさっさと寝てください」
 人間に戻っている時のレグリュエルの機嫌が悪いことなど、付き合いの長いサキは分かり切っているのだろう。返答はにべもなかった。
 サキと一緒に警部の元から逃げ出してから、もう随分と長い時間が経つ。あまりにも長い逃亡生活だったせいで、サキの前でこの姿に戻ることにもそんなに抵抗がなくなってしまった。
 一緒に行動する時も、さすがにいちいち筆談は面倒でほとんど、こっちの姿でやり取りをする。
 もっとも、別行動の時はあまりこの姿に戻る理由がないし、そもそも、普通のウサギはそんな風に頻繁に人間の姿になったりはしないだろう。

「今さっき起きたばっかりなのに、寝られる訳ないだろ……」
「横になるだけ横になっておけばいいでしょう。身体を起こして無駄に体力を消耗しようとするのは止めて下さい」
「……帳簿も手紙も、まだ完成してない」
 焚火の側に組み立ててある、分解式の簡易テーブルの上には書きかけの帳簿や手紙が広げられたままだった。
 鉛筆を挟んだ家計簿は、事務所で帳簿をつけていた頃の癖で続けているものだった。
 何せあの探偵先生(一応、建前上そう呼んでいた)、字がすさまじく汚かった。とても見られたものではない字で、おまけに日が経つと書いた張本人でも読めなくなるという、救いようのない悪筆だった。
 挙句の果てには拾ったウサギに事務の一切を取り仕切られるようになってしまったのだから、あの先生の事務能力の壊滅的なことと言ったらある意味、奇跡的なほどだったのだろう。請求書も受領書も、あの先生の元で働いているうちにすっかり得意分野になってしまった。
 帳簿をつける癖が抜けないせいで、フリーになった今でもこうして、毎日欠かさず家計簿をつけているし、金銭の収支にはちゃんと請求書や領収書を作成する。

「起きるくらいなら、取り敢えず胃に物を入れてください。書き物はその後にでもすればいいでしょう」
 焚火の側でがさごそと音を立てていたサキが立ち上がると、見覚えのあるスプーンの乗った白い皿が運ばれて来る。
 その皿を見たレグリュエルが、耳の横から生える長耳をしょぼんと垂らしながらものすごく悲しそうに呻いた。
「……オートミールは好きじゃない……」
「……食べ甲斐がないどころか、食べさせ甲斐もないときている」
 呆れたように呟くサキの表情が冷たい。オートミールが好きな人間の方が少数派だとレグリュエルは思っているのだが、サキは「風邪を引いたらオートミールを食べさせる」と言う一般論の知識だけで動いているのだろう。何度、嫌いだと言っても聞き入れられた試しがなかった。

「……ホットチョコレートが飲みたい」
「子供みたいなことを言わないでください。声が枯れてます。ミルクと蜂蜜にしましょう」
 いつものように野菜ジュースにしておけと言われない分だけ、サキも手加減しているのかも知れない。
 ウサギのくせに野菜が苦手だなんて、恥ずかしくてとてもではないけれど人には言えない秘密だ。人参が嫌いなウサギだなんて絶対におかしいから、人参だけは一応、進んで食べるようにしているが、昔はあの探偵先生にも渋い顔で「野菜ジュースでも飲んでろ」と小言を言われたものだ。
 まさかその口癖をサキが引き継ぐことになろうとは思ってもいなかったが、サキの元になっているデータを考えれば、それも当然のことではあったのかもしれない。

 手を伸ばせば届く場所にスプーンごと白い皿を置くと、背を向けたサキが簡易テーブルの方へ足を向ける。
 そのまま、まだ書きかけだった発注書に自分の名前をサインして完成させたサキが、振り向かずに発注書を手に取った。
「魔石作製費の決済はこちらで済ませておきます。足りない分は充当しておきますから、後で確認してください」

 背を向けたサキが再び焚火の向こう側に行ってしまうと、またパチパチと薪の燃える音が耳につくようになる。
 サキミタマ。オリエンタルに憧れていた先生が、本来はどういう字を書くのかも教えてくれた。ひどく難しい、文字の体系からしてまったく別の文化の言葉だった。何度か練習してみたが、馬鹿らしくなってすぐに止めてしまった。
 サキはどうだろう。
 サキが普段書く言葉も、レグリュエルの使う言葉とまったく同じものだ。名前のサインも『読み』だけをこちらの文字に当てはめた簡単なものを使っているようだし、そもそも、あの複雑な画数の文字が書けるとは思いがたい。
 そもそも、サキはレグリュエルの名前の綴りだって、知らないのかもしれない。

『レグリュの目もキラキラしてたよね! いいなー、好きだなー!』
 頭の中に蘇ってきたのは、星の瞳をした少女のことだった。快活で、明朗で、話しているだけでそのエネルギーが伝播して来るような子だった。
 あんな風に直接、好きだって言ってもらえたのは何十年振りだったろう。
 目を閉じて、瞼の裏に映らない自分の目を思い浮かべてみる。ネメシス・ルージュ。人間の目には宿らない、宝石ウサギだけが持つコランダム変種の硬度・九。警部が欲しいもの。錬金術師が疎んだもの。先生が好きだと言っていたもの。

 サキは名前を呼ばない。呼ばれたことが一度もない。必ず使われるのは『ウサギくん』と言う、個体認識をしているのかどうかも怪しい呼ばれ方だ。
 けれども、本当に嫌なのはそんな些細な、呼ばれ方一つを気にして暗いことばかり考える自分の思考だった。
 もっと強いウサギになりたい。風邪になんて負けない、弱い自分なんて知らない。ハードでなければ生きていけない、ジェントルでなければ生きている資格がない。

 ゴトリと音がして、慌てて目を開く。
 気がつかない内にウトウトしかけていたレグリュエルの目の前に置かれたマグカップからは、暖かそうな湯気が立ち上っていた。
「……迷惑かけて、悪い」
「そう思うなら、早く飲んでさっさと治してください。依頼は目と鼻の先なんです」
 側に膝をつかれたままそう急かされると、早く飲まないと悪い気がして慌てて、何回か冷ますようにフーと息を吹きかけながら様子見のように一口、口をつけてみる。

「……生姜が入ってる……」
 蜂蜜を垂らすと言うサキの言葉に、甘いホットミルクだと期待して口をつけたのが間違いだったのかもしれない。
 野菜嫌いは、薬味嫌いでもあった。
「残さずに飲むんですよ」
 予想通りの反応に満足したのか、ニコニコといつもの笑顔を浮かべたままのサキが立ち上がる。その背中を恨みのこもった視線で見つめながら、結局、飲まなければ終わらないのだともう一口、マグカップに口をつける。
 熱の通った生姜は、風邪で荒れた舌にひどく沁みる辛さだった。

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日記はいつも通り、PMのサキちゃん(ENo.2099)をお借りしました、サキちゃんの方の日記ともリンクしています。サキちゃんの喋り方にムラっ気があってすみません……。
途中にちょっとだけ、前回メッセでスターガールさん(ENo.2365)から頂いたメッセージの方もお借りさせて頂きました、お二方ともありがとうございました!

■ 九日目


 百年前に見た光景だ、と直感するのと同時に、夢の中のサキが口を開いた。
「なるほど、ウサギ君、あなたはカーバンクルの一種なのですね」
 膝の上に開いた本の一ページを差し示すサキミタマの言葉に、背中まで伸びた長い黒髪をなびかせながら、くるりと夢の中のレグリュエルが振り返る。

 振り返ったのもレグリュエルで、それを少し上の空中から見下ろすように眺めている意識も自分のものだ。けれども、眺めている自分の意識とはまったく無関係に、広大な図書館の中を人の姿をしたレグリュエルは勝手に動く。
 本棚に囲まれた椅子に腰かけたサキの顔はいつも通り、何の陰りもないにこやかな笑顔だった。あまりに他意のないその笑顔に騙されないよう、ちょっとだけ気を張り詰めたレグリュエルがじーっとサキの顔を見つめたあと、じりじりと側に近付いていく。サキはただトントン、と軽くページを指で叩くだけだった。
 そのページを隣に立って覗きこむと、載っていたのは耳の長い動物の挿絵と、その解説文だった。
「……カーバンクル?」
「赤い宝石を持った動物のことです。一般的に、幻獣と呼ばれる生き物のようです。彼らが持つ宝石を手に入れたものには富や幸福、成功がもたらされると言われています」

 ページの端を叩いていた指を持ち上げたサキが、そのままノックをするように軽くこぶしを握って、ちょうどレグリュエルの心臓の位置に当たる胸の位置をこんこん、と叩いた。
 富や幸福、と言う言葉は、レグリュエルに取ってあまり良い印象のある言葉ではない。ここに来る経緯が経緯だったので、そういう言い方をされると何となく、不安が喉元をよじのぼってじりじりと迫って来るような息苦しさを覚える。
 だが、あからさまに表情を曇らせたレグリュエルとは正反対に、サキの表情にはまったく変化がない。

 元いた世界から追われるがままに逃げ出して、まだ、ようやく息をつける所に身を隠せたばかりの頃だったように思う。
 まずはどうしてこんなことになったのか、そこからきちんと事情を把握し直すべきだと言うサキの主張に従って、言われるがままに初めて自分がいったい、何と呼ばれる種族なのかを調べた。

 情けないことに、警部の所から逃げ出した前後の記憶は、実の所、あまりはっきりと残っている訳ではない。
 結局のところ、メンタルが笑えるほど惰弱なんだと思う。何せ、前後の記憶のほとんどがぶっ飛んでいて、覚えていたのは茫然とサキに腕を引かれていたことだけだ。
 サキと、サキの兄弟たちの判断は早かったし、行動も早かった。彼らはすぐに自分たちがやらなければならないことを洗い出し、整理して分担し、それぞれに役割を負って分散した。
 レグリュエルだけが茫然としたまま、訳も分からずサキに腕を引かれるがままに歩いた。

 まだ、先生が死んだばかりの頃だ。

 昔々、ある所に、探偵の先生と錬金術師の教授がいた。いかにも人の良さそうな、善良そうな警部もいた。
 錬金術師は四体のホムンクルスを探偵のデータを元に作り、探偵は密猟者から逃げ延びた一匹のウサギを雨の降る路地で拾った。
 ハードなことも多かったし、決して裕福な生活ではなかったけれど、今ならあれがいかに平和な日々だったのかが分かる。
 拾われたウサギが計り知れないほど傍迷惑で、荒唐無稽で、けれどもある意味無害で平和で、そういう生き物でさえなければきっと、こんなことにはならなかったのだろう。
 探偵の元で育てられて、自分を人間だと勘違いしたまま大きくなったウサギはある日、本当に人間になってしまった。
 思えば、あれが全ての間違いのはじまりだったのだ。

◇ ◆ ◇

 夢見が悪かった朝はことさら、丁寧に髪を梳くようにしている。
 人の姿をしたときの髪の毛はウサギの毛皮の状態に大きく影響したし、下手に切ったりした日には毛並みがざんばらでひどいことになってしまう。変な寝癖がつくと、ウサギの身体は大きい分、あまり隅まで手入れが行き届かない。
 面倒くさくて、先の方で一つ結びにしただけの髪を後ろに流す。
 森の中で見つけた湖の水面は静かに凪いでいて、黒い髪に赤い目をした人間の顔が自分を見つめ返していた。

 人間の姿のままでいると、時々、このままウサギに戻れなくなってしまったらどうしようと言う不安に駆られることがある。
 そんなことある訳ない、と一蹴する自分と、だったらどうしてこうも頻繁に人間に戻ってしまうのだと問う自分と、自分の中で真っ二つに意見が割れる。
 答えの出ない問いを二、三回、訳もなく首を振って追い払うと、目を閉じて心臓のあたりに意識を集中する。
夢の中でサキが叩いた位置だ。ウサギの一対の瞳は、人間の姿でいるときはこの場所で双子星のように連なって眠っている。もしかしたら心臓と同化しているのかもしれない、興味深いと話していたサキを思い出す。
 ざわりと吹いた風にふっと目を開けると、湖面には確かに、その姿の大半が魔力で構成されている大きなウサギの姿が映っていた。

「準備はできたんですか?」

 そろそろ出ますよ、と言うサキの声が枝葉の重なり合う木々の奥から聞こえてくる。
 今日には目的の、巨大化したハムスターがいると言う場所に着けるはずだ。
 風邪を引いたのは大誤算で、依頼の日までに体調が戻るかどうかだけが心配だったのだけれど、どうにかそれも間に合った。
 複雑な罠を扱うときは人の手を使わないと無理だけれど、問題ない、何もかもがいつも通りだ。
 体長二メートル近い、人から見れば異様な大きさだろうサイズのウサギが、ゆっくりと四足で歩きだす。
 凪いでいたはずの湖面にざわざわと、吹く風に揺られて波紋が一つ、二つを広がっていく。

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日記はいつも通り、PMのサキちゃん(ENo.2099)をお借りしました、サキちゃんいつもありがとうありがとう。
不都合・キャラのブレ・矛盾点などありましたら、魔法の呪文・分割世界パラレルを唱えて頂けると幸いになります。