■ 一日目


 屋敷中が、ひどい喧騒のさなかにあった。
 騎士たちの重く物々しい靴音、驚きざわめく人の動揺、それから、僕を覆い隠すように立ち塞がる執事長の声。

これを持って、ここから逃げなさい。お前だけなら何とか、逃げ延びられるだろう。

 二階の踊り場の隠し通路へ、半ば僕を押し込むように追いやりながら、同時に有無をいわさぬ強さで荷物を渡してくる。
 下男に否定権なんてあるわけない。非常時だというのに、つい反射で落とさないように荷物を受け取ってしまう。
 「どうして僕が」とか、「これをどうすればいいんですか」だとか、聞かなくちゃいけないことはいくつもあったはずだ。
 それなのに、空腹で怠け癖がついてしまった頭はあまりの急展開にまったく、ついていけてなかった。

ただし、絶対に捕まってはいけないよ。

 その言葉を最後に、執事長が通路を隠すための扉を閉ざす。もう、向こうからはただの壁にしか見えなくなってしまったに違いない。
 こうして僕は一人、いくばくかの路銀と最低限の荷物と、それから二つ葉の小箱を抱えて、あの屋敷から脱出した。

◇ ◆ ◇

 さかのぼって二代前、あるところに、領内でも誉れ高い勇士が一人いた。
 獣人という身分にも関わらず、領内の人々に広く愛されていた勇士は『魔王』の手から苦しんでいる民衆を救おうと、艱難辛苦の過程を経て、とうとう西の土地に『魔王』を封印することに成功する。

 けれどもそれ以降、魔王が封印された西の土地に草木や花が実ることはなく、そこは長く不毛の荒れ野として人々の立ち入りを拒むことになった。

 西の土地一帯を含む管理を任されていた公爵家はこれに激昂、裁判にて勇者の有罪が可決。
 こうして、勇者は西の土地一帯を不毛にした罪を抱え、公爵家への賠償義務と、長く荒れ野を開拓し耕す贖罪を負うことになる。

 要するに、それが僕の一族が抱える負債のすべてだ。
 生まれたときから僕は下男で、小作農で、西の土地を開拓しながら貧困に苦しむことが決まっていた。

◇ ◆ ◇

 屋敷から二つほど離れた村でようやく、噂に耳を傾ける余裕が出来たころ、あの屋敷の持ち主だった男爵が謀反の罪で逮捕され、屋敷もあらかた差し押さえの憂き目にあい、一族郎党連行されたらしいと耳にした。

運が悪かったな、坊主。男爵家にご用があったのかい?
ノエル >>
……ああ、商いに。でも、それどころじゃなくなったみたいだ。
まあ、巻き込まれなかっただけ運が良かったと思いねぇ。

 本当に、とミルクを出してくれた宿の主人に相槌を打ちながら、荷物の中から例の革袋をテーブルの上に取り出してみる。
 中身は、二つ葉のクローバーが細工された小箱だった。
 鍵がかかっていて、中に何が入っているのかは分からないが、これを持って逃げろと言うからには何か、あの家にとっては大事なものだったのかもしれない。

ノエル >>
……何で僕なんかに任せたんだろう。

 男爵の元に売り払われ西の土地を耕す傍ら、下男として小作農として仕えて五年。育てた作物も手元に残らず、給金のほとんども借金の返済に目の前で取り上げられ、ただ毎日、くたくたになるまで働き続ける生活だった。
 恩義だとか忠誠心だとか、そういうものを覚えるような生活をさせてもらった記憶はまったくないし、こんなことを任されるほど下男の中で特別扱いをされていたかと言えば別にそんなこともまったくない。

ノエル >>
せめて、何をどうしろ、って指示くらい残してくれれば良かったのに。

 たった一人、屋敷を脱出させてもらったことに感謝はしているが、後生大事に抱え続けるほどの忠誠もなければ、果たすような義理も与えられていない。
 出来ることはと言えば、適当にどこか人目につかない場所にでも埋めるくらいのものだろう。
 高価そうな細工だったから、売り払うという選択肢もまあ、心惹かれないと言ったら嘘になる。とは言え流石に『持って逃げろ、絶対に捕まるな』とまで言い含められた品物を、いくら鍵がかかっているとはいえ売り払う気分にはなれなかった。

ノエル >>
……いまさら、逃がしてもらったくらいで感謝するほど気楽にはなれないけどさ。

 箱は、村から少し離れた森の中に埋めた。

◇ ◆ ◇

 これで後はどこに落ち着こうか、新王が何やら物騒なことになっているらしいが、はたして仕事が見つかるだろうか食っていけるだろうかと心配するだけだと思っていたのに、だ。
 三日たった今、野宿の真っただ中、僕が覗き込んだ荷物袋の中には何故かその箱が入っている。
 焚火の明かりの中、まじまじ見つめても見間違えようがない、二つ葉の細工が施された小箱だ。

ノエル >>
なんで……。

 埋めたはずの小箱が、荷物袋の中を覗き込むと戻ってくる。
 これを繰り返すこと、四回目。

ノエル >>
なんで、捨てても捨てても、戻ってくるんだよ!?

 僕だって馬鹿じゃない。
 一回目で我が目を疑い、二回目でこれは明らかにマズいと思い、三回目には荷物袋を一旦、処分して、箱なんてどこにも紛れ込みようもない状態で埋めに行った。
 けれども、三回目、埋めて戻ってきたはずの手の中に気が付いたらあの箱を持っていたとき、僕はこの箱が間違いのない『曰く憑き』であることを確信した。

ノエル >>
この箱……。

 間違いなく、この箱は呪われている。
 そうでなかったら、こうも続けて流れるように災難の連続に見舞われるはずがないからだ。

……ラノエルージュ・カネルベージュだな?

 茂みから、不審な影が三つ。
 呼ばれた名前は自分のものだったが、ノー、断じてノーだと言い張りたい。

……その箱、もらい受けに来た。

 持って行けるものなら、いくらでも持って行ってくれ。
 こんな何が入ってるかも分からない箱のために、命を犠牲にするつもりなんてこれっぽっちもない。
 心底そう思ったのだけれど、残念なことにやはり世の中、そう甘い話はないらしい。

始末しろ。箱は後でいい。

 ああ、まあ、そうなりますよね、はい。
 抵抗? 反撃? 戦闘?
 ただの小作農に、そんな技術があってたまるか!!

■ 二日目


 人間、必死になれば意外と夢中で走れるものらしい。
 それもそうだ、命がかかっている今、この瞬間に走らないで何のための足だ。
 焚火の薪を投げつけて、不意をついて駆け出してから全力疾走。機転の利かない僕にしては、頑張って手を講じた方だと思う。

 後ろは一度も振り返っていない。が、男たちの気配や足音は一度も絶えたることはなかったし、素人の自分に振り切られるほど相手だって馬鹿じゃないと思う。

 とにかく必死で、夢中で走る。
 息が続かないだとか疲れるだとか、そんなことを考える暇がない。ちょっとでも速度がゆるんだら、何が飛んでくるのか分からない。恐怖だけが原動力だった。
 こんなに強く、絶対に思い通りになってやるものかと思ったのなんて生まれて初めてだ。
 こんな所で死んでたまるか、と思う。

ノエル >>
ゼッタイ、ぜったい絶対こんなところで死んでなんかやるもんか……っ!!

 視界が少し開けてくる。
 茂みが薄くなっていく方へ、とにかく必死で走る。誰か人がいれば、街道に出られればどうにかなるかもしれない。誰か助けてくれるかもしれない、そうでなくても他に人がいれば、あいつらだって堂々と人を殺したりは出来ないかもしれない。
 薄らと見えたのは、たぶん、焚き火の明かりかランタンの照明か。

ノエル >>
た、助けて……っ!!

 誰でもいい、あいつら以外の誰かがいてくれれば。
 そう思って、明かりの方へ飛び込むように駆け込む。

ノエル >>
……へ?

 なんだ、何か……踏んだ?

ノエル >>
え、え、え?

 視界が開けて一番最初に見えたのは、なんか、すごい間抜けそうな驚いてる顔。
 そのまま何かを踏んだ勢いのまま、思いっきり体勢を崩して――そいつのいる場所に向かって、僕は思いっきり転んだ。
 一瞬、金属がはじけるような、綺麗な澄んだ音が聞こえた気がする。

◇ ◆ ◇

トム >>
あ……表。

 自分じゃない人間の声。一瞬、目を回しかけていた意識がすぐに戻り始める。

ノエル >>
……は? おもて?

 赤みの強い茶髪に、目は焦げ茶。
 身なりはいかにも農民といった具合で、荷物は旅の途中と言わんばかりの軽装。
 あまり印象に残らなそうなあっさりとした顔立ちの中で、ぱっと目についたのは顔のそばかすだろうか。

ノエル >>
……コイン?

 倒れ込んだ僕に思いっきり、巻き込まれる形で地面に倒れているそいつはどこにでもいそうな、そして特に強そうとか頼れそうという訳でもなさそうな、同い年くらいの男だった。
 じっと見つめているのはノエルの顔の目の前に落ちている通貨だろう。

トム >>
あー!! ボクの夕飯……!
ノエル >>
……へ?

 あ、さっき踏んだのってもしかしてそういう……?
 と、思考が繋がりかけたところで中断する。茂みから現れる人影が、一瞬、ターゲットを見失ったのか、僕ともう一人の顔を交互に見比べた。

……ガキが一人増えたか。
まとめて始末しろ。

 やっぱり、そうなりますよねー!!

トム >>
……ナニコレ。
ノエル >>
……巻き込んで悪いと思う。でも、取りあえず、

 目をそらしたら殺される、という訳ではなかったのだけれど、やっぱりこの状況で男たちの一挙一動から目が反らせるほどの度胸はない。
 だから、手探りでなんとか、目の前のコインと隣のやつの手を掴む。

ノエル >>
死にたくなかったら逃げろ!!
トム >>
えええええええー!! なんでボクまでぇー!?

 手を引いて、へっぴり腰ながらなんとか駆け出すと同時に、男たちがこっちの方に何かを投げる。
 けれども、投擲用のナイフは僕たちに届く前に何か、薄いガラスのような光に弾かれたようだった。

トム >>
うわあああ、どうしようどうしようどうしよう……!!

 こいつ、エンブリオ持ちか!
 どう見ても家出途中の農家の息子と言った風情だったのに、意外や意外、エンブリオの契約主だとは思わぬ幸運だった。
 走りながら、ちょっとだけ振り返りつつ確認の声をかける。
 一人で逃げてる時よりも、少しだけ気が楽になった。

ノエル >>
お前、エンブリオ、持ってるのか?
トム >>
へ? あ、うん、まあ、一応、持ってるけど……。

 口調から察するに、あんまり戦闘は得意ではない部類だろうか?
 それだって、いるのといないのとでは雲泥の差だ。

ノエル >>
僕は何も持ってない。素手だし、エンブリオも。だから、何かあったら悪いけど、頼りにさせてもらうと思う。
トム >>
って、言うか君、なんで追われてるの? アイツら、悪い奴らなの?
ノエル >>
なんで追われてるのかは、僕の方が聞きたい。でも、いきなり人を、目撃者も含めて殺そうとするやつなんて一般的には悪人なんじゃないのか?
トム >>
て、テキトーだなぁ……。

 そうは言ったって、本当に何も知らないのだ。
 そんなことを言われても困る。

トム >>
でも、なんか、ちょっと、すごいなっ!
ノエル >>
……すごい?
トム >>
悪い奴に追いかけられて逃げるなんて、物語の中だけだと思ってた!
ノエル >>
……いや、どう考えてもこれ、そんなこと言ってる場合じゃないと思うんだけど……。

 緊張感がないのか、事態に理解が追い付いてないのか、その両方だろうか。
 まあ、普通はいきなりこんなことに巻き込まれて、実感が追い付く方が稀なのかもしれない。

ノエル >>
言っておくけど、追いつかれたら本当に殺され……

 そこで言葉が途切れたのは、別に決して悪気があったわけじゃない。やむを得ない事情があったからだ。

トム >>
うわ……崖……?

 茂みで先がよく見えず、夜闇の中をがむしゃらに走ったのがよくなかった。
 よくなかったのだろうけど、他に手なんてなかったのだ。
 こればかりは、選んだ方角と走ったルートと、もう、まとめて運が悪かったとしか言いようがない。

トム >>
ど、どどどどどうしよ……。
いたぞっ!!

 もう、何もかもが最悪だった。

ノエル >>
……エンブリオは?
トム >>
……回復と、防御しかできない……。
ノエル >>
……万事休す、なんて言いたくなかったな……。

 最悪、回復と防御に特化したエンブリオと、あまり強そうに見えないこいつと、武芸の心得もない僕とで、あの男たちを何とかしなければいけないのだろうけど、残念なことに何とかなる未来がまったく、想像できそうにない。

トム >>
む、向こう岸まで、跳べるかな……?
ノエル >>
……。

 普通に考えたら、跳ぼうだなんて発想がまず出てこない距離だった。
 でも、この状況でこの距離なら、思いっきり飛べば、足場さえ崩れなければ、と言う誘惑が頭をよぎる程度の距離でもあった。

ノエル >>
……自信はある?
トム >>
じ、自慢じゃないけどボク、運動とかそっち系はさっぱりで……。
ノエル >>
……奇遇だな、僕もだ。

 不思議なもので、一人で逃げてる時は不安だけで頭がいっぱいだったのに、隣に人がいるというだけで空笑いが出てくる余裕が生まれるらしい。

ノエル >>
……せえの、で飛ぶぞ!

 いっせえの、で踏み切る予定だった。
 予定だった、と言うのはうかつにも僕が手を引いたままの状態だったことで、そして、お互いが思っていたタイミングがワンテンポずつズレていた、と言うことだ。
 僕はせえの、を終えてから飛ぶつもりで、あいつはせえの、の『の』に合わせて踏み切ろうとした。
 結局のところ、お互い、極限状況であまり頭が回っていなかったのだろう。

ノエル >>
な……!?
トム >>
へ!? なんで君、跳ばな……!

 見事に息が合わなかった僕らは、お互いの跳躍を邪魔し合う形で空中に飛び出す羽目になってしまった。
 どう考えても、まっさかさまルート。もっとも、頭でそれを考えてる暇なんてないくらい、頭の中は混乱でパンク寸前だった。
 だから僕は全然、まったく気が付かなかったのだ。
 僕の持った荷物の中から、這い寄るようにじりじりと滲み出していく影の存在に、だ。

ノエル >>
うわああああああああああああああああああああああああああっ!!

 そのまま僕たちは崖にまっさかさま、の予定だった。
 予定だった、と言うのは要するにまあ、そうはならなかったということだ。

 崖の暗闇に飲み込まれていくはずだった僕たちの身体は、次の瞬間、僕の鞄の中から一瞬で巨大な姿を現した何とも言えない、不定形の影の、何だかよく分からない赤い空洞の中にバクリと、一口で飲み込まれていった。

 もしかしなくてもこれ、口、なんじゃないのか?

■ 三日目


 降り積もった真っ白な雪の中に、どろりと真っ黒な沼地が広がっていた。

 タールピット。
 コールタールでできたこの底なし沼は、かつてこの辺りで暮らしていたのだろうサーベルタイガーや小鳥たちの化石を抱え込む毒の沼だ。

『焼け落ちた星』

 父も母も叔父も祖母も、この沼のことをそう呼んでいた。
 生き物の近づけない、落ちればその重さと粘質にただ沈んでいくだけの天然アスファルト。けれども不思議なもので、その沼に落ちた生き物は腐敗することもなく、綺麗な化石のような状態で発見される。防腐効果があるのだ。

 ぶくぶくと耳障りに泡立つ音はメタンガスだ。
 これは『魔王の足音』と呼ばれていて、現在進行でこの沼にタールが今も湧き出している証拠なのだという。

 タールピットの表面は水で覆われているから、当然、冬が来れば『焼け落ちた星』には氷が張る。
 それを放っておくと氷の下でどんどん、メタンガスが溜まって爆発を起こすので、僕たちの一族は冬になるとかじかんだ手で竹槍を持ち出し、荒野の一番奥へと氷を割りに歩く。
 そうして、わざと割った氷の隙間から吹き出したメタンガスを燃やすのだ。
 これが僕たちの一族に課された、巨大な賠償義務の一端だった。

 エンブリオに守られているとはいえ、生き物に有害なタールピットでの作業を、雪に凍った土地で行うのはとても危険が伴う。
 だから、僕がはじめてこの作業に同行させられたのは、一通りの手伝いが出来るようになった10才になった時だった。

 普段は立ち入ることすら禁じられた土地だ。
 体の弱い母に代わって作業に同行した僕は、大人の持つものと同じ竹槍と、防寒用の装備を持って引きずるように歩いた。荷物が大きすぎて上手く背負えないせいで、ときどき、従兄が荷物を背負い直すのを手伝ってくれる。

 手がかじかんだ、凍えそうな寒い冬の日だった。
 人の立ち入りを拒むような厳しい景色は美しかったが、そこら中から漂うタールの匂いがその神秘性を打ち消していた。
 取り分け、嗅覚の良い僕たちの一族にとって、この匂いのせいで鼻が利かなくなるのは致命的でもある。魔物の接近に気が付けないのだ。

 大人はこの作業に必ず、エンブリオを同行させるから、僕はほとんど荷物持ちであり、もっと言ってしまえば見習いの立場に近い。
 やがては大人になれば、僕が彼らの立場に立つことになるのだろう。

 ――祖父が残した負の財産は、それだけ巨大なのだ。

 叔父がつれたシルフの力に守られながら、生まれて初めて、タールピットを目にする。
 真っ白なキャンパスの中に、黒々と妙に油っぽい泥を突然、塗りたくったような不自然な景色と、鼻をつく強烈な刺激臭。
 慣れた要領で手分けをしてエンブリオに指示を出す叔父たちの作業を、すこし離れた泉が良く見える場所から見守る。

 雪の中、吹き出したメタンガスによって激しく燃え盛る真っ黒なその巨体は、まるでそれ自体が一つの大きな魔物のようだった。

◇ ◆ ◇

 歌が聞こえる。
 どこかで聞いたようなメロディーと、あんまり聞いたことがない声。
 昔、よく聞かされた子守唄かとも思ったけど、聞きなれたあの歌ともまたちょっと違う。

その瞳は青く燃え上がり 見るもの全てが凍りつく…… 

 聞いてるうちに、なんだか、やたらと胸がムカムカしてくる。

……その先触れは光の奔流 英雄の再来はここに成された 

 小さいころ、近隣の村まで降りたとき、石を投げられて村の子供たちにバカにされたのと同じような気持ち。
 見知らぬ大人から指を差され、ひそひそと聞こえない声で噂話をされた気持ち。
 同行している一族の大人たちは何も言わず、背中を丸めて足早に立ち去る。

 どうして誰も怒らないのだろう。
 どうして誰も、それを当たり前のような顔をしているのか。
 小さかった僕には、その意味が分からなかった。

――ついに魔王へとたどり着く 

 ああ、そうだ、これはあの歌だ。
 僕が、世界で一番きらいな歌だ。

◇ ◆ ◇

 目を開けたとき、一番最初に飛び込んできたのは夜が明けたばかりの空だった。
 日の出からは少し時間が経ってしまった空の色を見て、それから、前後の繋がらない記憶に苛立ちを覚えながら上半身を起こす。
 場所は、開けた平野だった。
 見覚えのない場所に、前後が繋がらない時間感覚、それから唯一かすかに見覚えのある人の顔。

ノエル >>
……勘弁してくれ。
トム >>
……え?

 少し離れた木の根元に座り込み、あまり美味しくなさそうな草を猫じゃらしか何かのように振っている人影に声を掛ける。
 誰が聞いているとも思っていないのか、呑気な歌声だった。特別なものなんてどこにもない、声量だけはそれなりの、どこにでもいる農家の歌だ。
 そう言えば、こいつ、なんて名前なんだっけ。

ノエル >>
その歌、嫌いなんだ。

■ 四日目


 ギャーっ!!と言う、耳をつんざく様な悲鳴が辺りに響き渡る。
 それを聞いてトムが、あれは新鮮だ、あっちはちょっと鮮度が悪い、なんて簡単な評価を下す。農家の性みたいなものなのかもしれない。

トム >>
揚げじゃがはやっぱり、ケチャップが一番いいと思うんだ。

 王城前の炊き出しは大盛況だった。
 炊き出しがあるなんて知らなかったから、そこら中の大鍋から漂うおいしそうな匂いで胃の中がさっきから落ち着かない。
 ざっくり、揚げたてのマッスルポテトをトムがフォークで突き刺す。

トム >>
うちのマッスルポテトはいくじなしでさ、兄さんたちに蹴られてようやく地面から出てくる体たらくで。

 マッスルポテトは、普通のポテトを植えたら五つに一つくらいはマッスルポテトになると言われてる。熟したら勝手に土の中から逃げ出して、逃げ出したマッスルポテトは大体、旅人を襲って返り討ちに合い、そのまま旅人に食べられる。
 だから農家の人間はマッスルポテトを旅人が飢えないようにっていう神様のおぼしめしなんだって思ってる。
 僕はこのマッスルポテト料理が、実はあんまり得意じゃない。
 原因は味とかじゃなくて、この悲鳴。豚汁の鍋や揚げじゃがの釜から上がるマッスルポテトの悲鳴のラッシュが、耳に辛いのだ。

トム >>
ゲッ……この豚汁、ダンディ人参が入ってる……。

 おまけに、炊き出しのおばさんがよそってくれた揚げじゃがには、見たことがないくらいたっぷりバターと塩がのっている。
 男爵の家で働いていたころは味のないスープや茹でただけのじゃがいもが、僕の食事だった。

ノエル >>
なんか……いいのかな、お金もないのに食べ物、もらっちゃって……。
トム >>
炊き出しってそういうものなんじゃないかな。それにほら、腹が減っては戦はできないってよく言うし。

 トムはこの環境にも特に気後れしていないのか、のんびり、豚汁の中から人参を避ける作業に熱中していた。嫌いなんだって、さっきそう言ってた。
 トム。トーマス・アンダーソン。
 年は僕と一緒で、……僕とは違って普通の農村出身。髪の色は同じような色だけど、身長は10cm近く違う。たぶん、食べてるものが違うんだと思う。
 目的は、まあ、農家なんだから当たり前だけど、一揆に参加すること。大家族らしい。食い扶持が減るからって喜ばれたって、ちょっと複雑そうな顔をしていた。

トム >>
食べ終わったら、あそこに返してくれだってさ。あっちが門だって。
ノエル >>
……字が読めるのか?
トム >>
読み書きなら少しできるよ。神父様に教えてもらったから。

 僕と同じくらいの農民で、学校に行ってる訳でもないのに読み書きができるとは思わなかったからちょっとビックリした。頭がいい……風には見えないから、意外にこう見えて努力家?

トム >>
英雄の詩も、神父様のところで読んだんだ。
ノエル >>
……。
トム >>
……別に、そこまで嫌そうな尻尾しなくたっていいだろ……。

 嫌そうな顔をしたつもりはなかったのだけれど、尻尾が硬直してしまっていたのでバレたらしい。……不便だ。

トム >>
……そんなに嫌いなのか?
ノエル >>
……嫌いだよ。アイツと同じ耳としっぽがついてるってだけで、僕たちは一気に肩身が狭くなるんだ。

 実際には耳しっぽどころの話じゃない。

ノエル >>
お前の方こそ、なんでそんなに勇者が好きなんだ? アイツのせいで西の土地がどうなったか、知らない訳じゃないんだろ?
トム >>
え……。

 ちょっと悩むような素振りを見せて、トムが首をかしげる。

トム >>
うーん、でも、命をかけて魔王を封印したんだよ? そりゃ、犠牲は出ちゃったかもしれないけど……そのお陰で大勢の人が守られた訳だし。

 なんか、本当に何も考えてなさそうな『それって格好いいよね』って言わんばかりの物言い。
 こいつはきっと知らないのだろう。その家族がいったい、どれだけの額の負債を背負わされて、どんな義務を課されたのか、なんて。

トム >>
あ、あっちでポテトサラダ配ってるって。

◇ ◆ ◇

 ポテトサラダを取りに行ってしまったトムの背中を見送りながら、ようやく、揚げじゃがの最後の一口を詰め込む。
 アイツ、よくあんなに食べられるよなぁ……こんなに沢山の量を出されたのなんて初めてだから、とてもじゃないけど僕はこれ以上、食べられそうにない。
 でも確かに、ここで食べておかないと次はいつ、食べられるのかも分からないのだ。

ノエル >>
食べ物、どうしようかなぁ……。

 ぐるりと辺りを見渡せば、どこからこんなに集まったのか人だらけ。
 一揆に参加する地元民から他の世界から来たのだろう救援者まで、これだけいたら確かに新王だって訴えを無下にはできないんじゃないだろうかって数だ。
 と、草影で何かが動いてた気がして、目を凝らしてすぐに気が付いた。
 マッスルポテトが一匹。たぶん、炊き出しの材料から逃げ出してきたのだろう。
 と、そのマッスルポテトが突然、地面から生えた黒い手にバスン、と包まれた。

ノエル >>
!?

 ビックリして、目を瞠る。何度か、箱を追いかけてきた追っ手と交戦した時に目にはしているけど、今でも突然、こいつが現れるとものすごくビックリする。
 箱の中から現れたり消えたりする、黒い影だ。

ノエル >>
あ……お、おい!

 声を掛けると、マッスルポテトを捕まえたままの手が地面から生えたまま、こっちの方に近づいてくる。
 そのまま、僕の前で止まるとマッスルポテトを掴んだまま停止した。
 まるで、穀物庫の鼠を捕まえて、自慢する猫みたいに。

ノエル >>
……。

 もしかして、受け取れって言いたいんだろうか?
 食べ物に困ってるって言ったから?

ノエル >>
……あ、いや……それは、僕たちの物じゃないから……。

 ちゃんと返してこないと、と言った途端、影はすっと地面の中に消えた。
 と、思った途端、すぐ近くで女性の悲鳴が聞こえる。
 例の炊き出しを手伝っているらしい、割烹着姿の女の人だった。

きゃ!?

 何かと思ったら、すぐ近くを歩いていた彼女のところにマッスルポテトを持って行ったらしい。
 逃げ出そうともぞもぞしているマッスルポテトを彼女に渡すと、黒い影はまたスッと地面の中に消えて行った。

ああ、ビックリした……貴方のエンブリオだったのね。
ノエル >>
……エンブリオ?

 言われて、ちょっとビックリする。
 エンブリオ。この世界では当たり前の、土地や生活を豊かにするための相棒。メルンテーゼの生活基盤。
 でも、僕はエンブリオなんて一体だって持ったことはなかった。
 だから僕は、こいつはずっと、ネザーシャドーが僕の所にやって来たのだと思っていた。
 女の人が去った後、誰もいない地面に向かって、ちょっとだけ声を掛けてみる。

ノエル >>
……お前、ネザーシャドーじゃなかったのか?

 小さいころよく聞いた、大人たちの言葉が脳裏によみがえる。

早く寝なさい、ノエル。でないと、ネザーシャドーが悪い子を食べにやってくるよ。

■ 五日目


ノエル >>
あー……死ぬかと思った……。

 水辺の原っぱで大の字に寝転がりながら、命からがら、何とか生き残った実感を噛みしめる。

ノエル >>
……トム、生きてるか?
トム >>
な、なんとか……。

 隣で、僕と頭を突き合わせるようにして転がっているトムの方から疲れたため息が聞こえるので、お互い、なんとか死闘を乗り越えられたらしい。
 まさか、練習試合で軽トラを時速150kmでかっ飛ばしてくる無免許野郎と戦う羽目になるだなんて、できればそんな現実信じたくなかった。

トム >>
君、ボクより前で戦ってたのに、よくあの軽トラ相手に生きて帰れたよね……。
ノエル >>
本当にな……なんで僕、時速150kmの軽トラ相手にしてたんだろうな……そもそもこれって本当に練習試合として意味があったのか?

 闘ってるのは僕ではなく、殆どネザーシャドーだったのだけれど、ネザーがいなかったら三回くらいは死んでいたと思う。
 ぐだぐだ文句が弾む僕らの横から、やけに爽やかな男の声と、妙になまりの強い地方方言がエンジン音に混ざって聞こえてきた。

トート >>
いやぁ、天晴あっぱれ、ラノカネ君とトム君にはすっかりやられてしまったなぁ。
トラ吉 >>
なんや、もうヘバっとるんか? 最近の若いモンは根性がなくてアカンなぁ。

 ……なんで負けた相手の方が元気そうなんだ?
 僕にはさっぱり、分からない。

トート >>
いや、でも本当に良い経験になったよ。

 恐怖と混乱の勢いで勝ってしまった手前、ちょっとこそばゆい部分もあるのだけれど、それ以上にこの男がなんていうか、爽やかすぎてちょっと恥ずかしく感じる部分もあるのだと思う。
 なんていうか、こう、直線すぎてちょっと恥ずかしい感じ。男だったらもうちょっとくらい、こう、色々とオブラートに包み隠したり、工夫してねじったりすればいいのに。
 僕にはちょっと、苦手な人種だ。

トート >>
150kmは気持ちがいいね、やっぱり!
ノエル >>
そこか!? アンタの視点はそこなのかやっぱり!?
トート >>
アクセルを踏み込む瞬間は癖になるぞぉ。
ノエル >>
中毒者かよっ!? 教習所からやり直せっ!! せめて免許は取ってこい!!

 僕の怒鳴り声にもまったく、怯んだ風がなくて、ひたすら爽やかなはっはっはっはっはという笑い声が返ってくるだけだった。
 もう嫌だ、この練習試合……。

トラ吉 >>
動きはまあまあやったけどな。せやけど、砂糖なんぞ入れても無駄やで。ワイの燃料は水やからな、クリーンエネルギーっちゅーヤツや。
トム >>
えっ!? 何だよそれ、水素エンジンとか完全にチートじゃないか……。

 トムの声が悲しげだ。
 そういえば練習試合の終わりに、トムが砂糖を用意してたっけ。
 僕は知らなかったのだけれど、車の給油口に砂糖を入れるとエンジンが焼け付いて動けなくなってしまうものらしい。

トート >>
いやぁ、でも本当に良い練習になったよ。俺もタイガーも、まだまだ課題が山積みだな。……やはり 180km/hは出ないと。
トム >>
……なにこの人こわい、狂気を感じる……。

 トムの顔が真っ青に青ざめている。
 ……たぶん、僕も同じような顔をしていると思う。

トラ吉 >>
ワイ軽トラや言うてるやろ、180kmも出ぇへんぞ。ってか150kmもそもそも出てへんからな?
ノエル >>
へ? そうなの?

 思わず、聞き返してしまった。
 だって、あんなに鬼気迫る顔(ちょっと狂気を感じる)で150km/hとか叫ぶから、てっきり勘違いしてしまった。

トラ吉 >>
最新型で120kmちょっとってトコなんやないか?
ノエル >>
……案に自分は最新型じゃないって言ってるようなもんだよな、それ……。
トート >>
だが、収穫も多かったよ。君たちは、俺の見込み通りとても良いコンビらしい。同じ村から出てきたのかい?
ノエル >>
……。

 相変わらず、無駄に爽やかで悪意のかけらもなさそうな笑顔で尋ねられて、ちょっと返事に困り、思わずトムの方を見てしまう。
 僕と同じように、トムも僕の方を見て、ちょっと困ったような顔をしていた。
 そんな風に見られても、現実と実情はかけ離れているのだ。

ノエル >>
残念だけど、つい数日前に会ったばっかりだよ。一揆に来るまでの道で会って、たまたま、一緒になったんだ。
トート >>
おや、そうだったのかい? 良い友人を持っているな、と思っていたのだけれど。

 そうは言われても、実際、それが現実だ。
 あれからずっと一緒に動いてはいるけれど、会話はぽつぽつ、弾みもしないけど特に気まずくもないくらい。
 会った経緯が経緯だから、何となく、引け目もあるし気まずさもある。
 ……トムの方だって、いきなり会ったばかりの僕に自分の好きな英雄詩吟を否定されて、良い気分はしてないはずだ。
 あの時、目覚めた勢いであんなこと言わなければよかった。

トート >>
まあ、付き合いに時間の長さなんて必要ないさ。俺とタイガーだって、この間会ったばかりだがこの通り息はピッタリ幸先良好だ! 大事なのは、ハートだからね。
ノエル >>
ハート……ねぇ……。

 そういえば、僕、なんでトムと一緒にいるんだろう。
 別に、王城前に案内してもらって、一揆の人混みに紛れられればいいや、としか思っていなかったのだけれど。