スクランブル交差点の雑踏の中でもあの並外れた容姿を見間違うはずなんてないと思ってはいたけれど、相手が振り返るまでの数秒の間俺は不安でたまらなかった。
 それこそ、常にうるさいこの街の雑音が耳に入らなくなるほどに。
 たしかに彼は人間離れしていると言っていいくらい整った身なりをしていたし、他に同じような人間がこの街にいるとしたら俺はこの世の不平等に卒倒してしまうと思うから間違いないと思うのだけれど、いかんせん一緒にいたのはほんの一日たらずだ。間違いがないとは言い切れない。
 マブスラ大会の騒動の後、グリーンことシキの提案でキャラバンの全員とアドレスを交換してはいるものの、とても彼相手にメールを出す勇気は俺にはなかった。だから、こうして街中でその後姿を見つけられたのは幸運としか言いようがない。
「よ、しや!」
 声をかけてからこの名前で合ってるよなとか、今更苗字呼びも他人行儀だし名前で呼んでも変じゃないよなとか、それはもうありとあらゆる葛藤と俺は戦わなくてはいけなかった。
 幸い信号を渡りきったところで彼はすぐに立ち止まって、繊細な色の見るからにやわらかそうな髪の毛を揺らして振り向いてくれたので、その葛藤は実に一瞬で済んだのだが。
「やぁ、君か」
 追いついてきた俺を見てふわりと微笑む表情は見るからに人好きのするものだけれど、細められた瞳のスミレ色はどこか得体の知れない光を秘めている。初めて会ったときから感じている胸騒ぎを堪えながら、彼が駅の地下に向かう階段の壁に身を寄せたのに合わせて俺も人の流れを遮らない場所に身を落ち着けた。道のど真ん中に立っていては、この街では落ち着いて話もできない。
「学校帰りか何か?」
「ま、まあ……そんなとこ」
「制服姿は初めて見るね」
「う、うん」
 前に会ったときからそうだけれど、彼は上から下から相手を矯めつ眇めつ不躾とも言えるくらいに視線をやることに遠慮がない。着ている夏服の普段なら気にも留めない汚れや皺がないかと変に心配になる。
 今も目の前のスミレ色から逃げるようにちらちらと目線を外して、まともに相手の目を見て話すこともできない俺には考えられない芸当だ。けれどそれが不思議なくらい自然な動作に感じられるのは、彼の優雅な物腰とやわらかな容姿が作用しているのだろうか。
「ふふ、まさか君のほうから声をかけてくるなんて思わなかったけど。意外だね」
「う、それ、は」
 なんだか俺から声をかけたはずなのに、さっきから話を振ってくるのは彼ばかりだ。普段なら口下手な俺には有り難いばかりだけど、このままでは彼のペースで話が終わってしまう。
「俺、義弥に……話があって……」
「あれ、もうピンクはやめたんだ?」
 勇気を振り絞って話を切り出そうとしたのに、さっそく腰を折ってくるとはどういうことなのか。
 いや……いや、彼は初対面のときからそういう人物だった。
「それは、シュウトが言い出しただけだろ……そもそも、俺はそんな呼び方してない」
 色で呼び合うなどと言い出したのはシュウトだけれど、やれピンクだレインボーだと色の取り合いまで始めたのは目の前の人物だと言うのに、さも俺がそう呼んでいたように言われるのは心外だ。そもそも最終決定のレインボーはどこに行ったのか。
「そうだっけ? まあなんでもいいんだけど、それで話ってなんだい」
 いきなり出鼻をくじいておいて素知らぬ顔で本題をふっかけるのは、彼のやり方なのだろうか。ただでさえ口達者な彼の会話のペースに振り回されて、自分の口下手さを痛感しているのだからやめてほしい。
「あ、の……ホントは、メールにしようかと思ってたんだけど」
「うん」
「やっぱり、こういうのは、直接会って話したくて」
 メールをしようとしてできなかったのは本当だけれど、会って話したかったというのは少し語弊がある。正確には、会ってしまえば否が応でも逃げ場などなくなってしまうから、そこまで自分を追い込めば勢いでどうとでも言えると思っていたのだ。
 訥々と言葉を探りながら話す俺の言葉を、義弥は少し首をかしげたり、うなずいたりして大人しく聞いている。いつも人を食ったような態度ばかりの印象が強かったけれど、意外にもきちんと俺の話を聞く態勢を取ってくれていることに勇気を得て、俺もなんとか口を動かすことができた。
「あの、大会の日、の……後から……俺、なんかおまえのことが頭から離れなくなって、て」
「うん?」
「お、おまえの、こと、ばっかり、考えて、る」
 宇田川町で初めて会ったときのわけの分からない印象も、渋谷川でした不思議な体験も、マブマニの舞台裏日誌の筆者だと分かったときのことも、もう何日も経っているはずなのにまるで昨日のことのように鮮明に思い出せる。スクラップしたコラムの記事を何度も捲りながら、繰り返し思い返していたせいだ。
 そのうちに段々あのとき言われた言葉が頭から離れなくなってしまって、いてもたってもいられなくなってしまった。
「ふぅん?」
「だ、から」
「うん」
「俺も、おまえと……一緒にいたいな、って……思って」
 果たしてこんな言い方で通じるだろうかとか、いやでもあのときこいつが言った言葉を借りたんだしとか、ついに言ってしまったという気持ちがぐるぐると頭を回って今にも破裂してしまいそうだ。気がつけばばくばくと心臓も早鐘を打っていて、生まれて初めての告白を今しているのだという実感が急速に湧いてきた。
「も?」
 だというのに。
 清水の舞台から飛び降りる、くらいの気持ちで言った言葉だというのに、目の前の人物の反応は俺が想像していたどんなものとも違いすぎていて返答に詰まる。
「君、も?」
「うっ……も?」
「君も、ってことは、僕も君と一緒にいたいってこと?」
「う、うん?」
 おかしい。訝しげにこちらを見る義弥は明らかに困惑した様子で、どう見ても話が通じていない。というか、俺も義弥の言っている言葉の意味がよくわからない。お互いにお互いの意図が見えていない。
 これではまるで。
「僕、君にそんなこと言ったっけ?」
 お互いの記憶に齟齬があるようではないか。
 そう思った矢先の余りにも残酷な一言に、一瞬頭が真っ白になる。けれど、ここまできて俺も引くに引けずに、躍起になって声を荒げた。
「え、う……お、おまえがっ」
「僕が?」
「おまえが言ったんじゃないか!」
「いつ?」
「大会の日! 渋谷川のとこで!」
 急速に顔に熱が集まってくるのを感じながら、必死でうったえる。すると義弥は分かったような分かっていないような、あー……などという曖昧な声を上げて胡乱げにこちらを見た。
「もしかして君、あんなのを本気にしたの?」
 一番聞きたくはなかった言葉をさらりと告げられて、もうどうにも顔を上げていられずにうつむく。
「それで、僕のこと好きになっちゃったんだ?」
「っ……」
 ふふ、とお決まりの笑声を小さく漏らしてから、義弥は本格的に声を上げて笑い出した。
 余りの仕打ちにうつむいた頭がびくりと震えて、経験のないことに対する耐性がほとんどない俺は身動き一つ取れなくなってしまう。
 この街の雑踏の中では人一人の笑い声なんて簡単に紛れて消えてしまうけれど、俺の頭には何より大きく響いた。
「は、ははは、それじゃあ童貞の中学生みたいだよ」
「なっ」
「ああごめん、みたいじゃなくて本当に童貞の中学生なんだよね」
 童貞、という言葉の意味がよくわからなかったけれど、褒められていないことだけはなんとなく感じ取れた。
 怒りたいような泣き出したいような、けれどどうしていいのか分からないような気分のまま身を固くしていると、義弥は突然俺との距離を詰めてこちらを覗き込んできた。
 身を屈めるようにしてじろじろと不躾に、品定めするような視線で俺の顔を舐め回してから、義弥は何か面白いことでも思いついたかのようにいやらしく微笑む。
「ふぅん、君ってただ人付き合いが苦手な、小難しくてつまらない子どもだと思ってたけど」
「え……」
「今のはなかなか面白かったから、その君がそこまで言うんだったら……少しくらい僕のこと教えてあげてもいいけど?」
 夜の前触れに似たスミレ色の瞳が妖しい光を湛えて、いつの間にか釘付けになってしまった俺の視線を離さない。
 人の目を見て話すのは、苦手だ。そのはずだ。
 けれど、眼前に迫る夜の予感から目を逸らしてしまったらその瞬間に取り殺されてしまいそうな、あるいはもう二度と目の前の存在に触れることができなくなるような、漠然とした恐怖がゆっくりと甘やかに俺の背中を伝っていた。
 じりじりと、ひたひたと俺の中身を支配していく得体の知れない感覚に抗うことができない。
「どうする? 来るかい?」
 恭しく目の前に差し出される、芳醇でこの世のものではない蠱毒のような誘惑に、じわじわと頭の中まで焼けついていくようで、気がつけば俺はこくりと深く頭を垂れていた。



20120120

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