部屋を出てまず先にネク君を書斎に案内すると、始めは蔵書の多さに驚いた様子だったものの、きょろきょろと興味深げに周りを見渡しながら、彼は何も言わずに本を物色し始めた。どうやら興味を持ってもらえたらしいことに安堵しながら、僕自身は審判の部屋に戻り、仰々しい玉座でせっせと仕事を片付け始めてどれくらいが経ったころだろうか。
 今日の仕事がそろそろひと段落つくかなという頃合に、背後からぱたぱたと聞こえてくる足音でネク君がこちらの部屋に戻ってきたことが分かる。
「読書はもういいの?」
 すぐ隣から落ちる影にちらりと視線だけを上げてみせると、案の定見慣れた色彩のネク君の姿があった。驚いた様子の彼は、僕に近づくでもないような、かといって離れすぎてもいないような、微妙な距離を保ったまま所在無さげに佇んでいる。
「ん、区切りのいいところまで読んで、今日は疲れた、から」
「そっか」
「……アンタのオススメの、本棚」
「うん?」
 物言いたげな声色に思わず顔を上げると、何とも複雑そうな、他人行儀なネク君の表情がよく見えた。
「ジュブナイルじゃないか」
「うん、そうだけど。つまらなかった?」
「……面白かった、けど」
 対象年齢としてはネク君の歳を考えると間違っていないはずなのだけれど、どこか不満げな表情に思わず首をかしげてしまう。
 まあ記憶の欠落を考えると、ゲームの前のネク君は思春期真っ只中といった具合だったから、微妙なお年頃なのかもしれない。純粋にあそこには僕自身気に入っているものを置いてあるからそんなつもりではなかったのだけれど、子ども扱いされたとでも思っているのだろう。
「ごめんね、他に何か娯楽があればいいんだけど……退屈させちゃうかな」
「いや、そんなことない、けど……あ、の」
 おずおずと切り出すネク君は、何か重大な決断をしたかのように思い切った様子で一歩を踏み出し、僕と彼との間にあった距離を詰めた。
「ここで見てても、邪魔にならない、か?」
「うん? 別に見てるだけなら、全然構わないけど」
「そう、か」
 おかしな質問をするものだと不思議に思いながらもうなずくと、ネク君は安心したように息を吐き出して、そのまま玉座のすぐ隣の床へと座り込む。それからじっとこちらを見つめてくる視線を感じて、自分だけが椅子に腰掛けて相手が床に座り込んでいるという奇妙な状況に、さすがに多少なりとも居心地が悪くなり思わず口を開いた。
「あの……ネク君?」
「ん、なに?」
「……床、冷たくない?」
「今のところは、別になんともないけど」
 さらりと受け流す言葉に、果たしてどう言っていいものやらと頭をひねる。
「えっと。そんなところで僕のこと見てても、退屈じゃない?」
「え、あ……俺、やっぱり邪魔か?」
 僕の言葉でびくりと震える細い身体と、見当違いな方向へ行くネク君の返答に、ますます困り果ててしまった。
「ううん、そういうことじゃなくて」
「俺は、全然退屈じゃないし……あの、アンタさえよければ、ここで見てたい……んだけど」
 それ自体は構わないのだけれど、やはり相手を床に直に座らせたままというのは何となく居心地が悪い。
 けれど、おずおずと必死にこちらへ嘆願してくるような瞳で見つめられては、思わず勢いでうなずいてしまう。
「そ、っか」
 どう説得しようにも、他に座るように勧められるものがこの部屋にはなく、ただ僕の許可が下りたことによって曇らせていた表情をぱっと明るく変えたネク君の満足そうな様子に何を言うこともできなくて、結局は手の中の書類に集中するほかなかった。


 仕事を終えて夜も更けて、寝室に戻ってそろそろ寝ようかという頃合で重大な問題に突き当たった。今朝は成り行きというか不可抗力でベッドを共にしてしまったけれど、記憶のない彼と丸きり恋人気取りで同じベッドに寝るのは果たしてどうなのだろうか。
 僕の勧めで先にベッドに入り込んだネク君は、まるで僕が一緒にベッドに上がらないのが不思議な様子で、当たり前のように見上げてくる。
「桐生、さん?」
「んー……と、ネク君は、僕と一緒に寝るの、嫌じゃない……のかな?」
「え?」
 驚いた表情で目を見開くネク君はまったく、分かっているのかいないのか。本当に子どもなのか。
「ネク君からしてみたら、僕とは初対面も同然なわけだし……もし嫌なら、僕は向こうの部屋で寝ようかなって」
 なるべく言葉を選んで言ったつもりだったのに、ネク君はそれを聞いてすぐさま不満そうな表情を露にすると、ぎゅっと僕の寝巻きの裾を引っ張るものだから、油断していた身体は簡単に傾いでベッドの上に膝を突いてしまった。
「っ、ネク君?」
「俺、嫌だなんて一言も言ってないし……! 第一、向こうでって、どこで寝るんだよ」
「それはまあ、昼間座ってたとことかで」
 困惑を隠せないままに告げると、ネク君の表情はますます不機嫌そうに険しくなる。
「俺はっ、全然嫌じゃないし、大体この部屋の持ち主は元々アンタなんだから、そんなことさせられない!」
 一体何がそんなに彼の琴線に触れてしまったのか分からないけれど、とりあえずネク君は僕がこのベッドで寝ないと納得できないらしい。かといってネク君を追い出すわけにもいかないから、結局はいつものように二人一緒で寝ることになる。いつものように、なんて現状はまったくいつもどおりでも何でもないのに、おかしな話だ。
 けれど彼がそれでなくては気が済まないというのなら、特に僕の方でそれを拒む理由は何もなかったので、崩れた体勢を持ち直すと改めて布団の中へ潜り込んだ。安心したようにほっと表情を崩す彼は何となく目の毒だったので、分かりづらい程度に目をそらす。
「アンタはさ……」
「うん」
 同じ布団に入っておいて何を今更とは思ったものの、ネク君であってネク君でない今の彼と抱き合って眠る気にはとてもなれず、ただ向かい合うだけでもひどく心がざわめく心地がしたので、彼に背を向ける形で横になった。
 すると先ほどの剣幕が嘘のように、今度はどこか頼りなさげな声を出す彼に思わず苦笑しながらも、まだ眠ってないよと返事を返す。
「俺と、その……こい、びと? なんだろ……?」
「うん、一応」
「じゃあ、その……し、したくなったり、しないのか」
「え?」
「ん、と……だから、そういう、こと」
 おずおずと切り出された言葉に、どうしてそんな話になるのかと思わず目を丸くした。信じる、と言ってくれたのは聞いたけど、まさかそんなことまで言い出すくらい彼が自分とのことを噛み砕いて飲み込んでいたことに驚く。そもそも本当にものすごく今更な話だけれど、どう見たって間違えようもなく僕は男で、ネク君も男の子だというのに。
「アンタが、したいなら……俺は、べつに」
 人を拒絶して生きてきた彼は、もしかしてその辺りの概念が希薄なのではなかろうかとあらぬ心配までしてしまう。そんなわけの分からないことでも考えていないと、自分を納得させられそうになかった。
 とは言え、そんなことを言わせてしまった手前、あまり軽薄な返事は返すものではないだろうと思いふと考える。僕は、今の彼を抱けと言われて、抱くことができるだろうか。
 僕との思い出を持たない、隣の幼い少年を。
「今日会ったばっかりの子に、そんなことしたりしないよ」
 答えは否だ。考えるまでもなくそれは明白だった。彼は間違いなく桜庭音操本人ではあるけれど、僕が好きになったネク君かと言われると、そうではないからだ。
「余計なことは考えなくていいから、今日はゆっくり休んで」
 こんなことまで言い出すなんて、もしかして彼なりに気を遣ってくれたのかなと思うと、くすぐったいような、申し訳ないような気持ちで思わず苦笑してしまった。確かにネク君の立場から僕の話を反芻してみると、もうこちら側の身体になってしまった彼は、僕に見捨てられればどこにも行き場のない存在になってしまう。RGの彼の居場所は、僕がこの手ですべて消し去ってしまったのだから。
「……わかった。おやすみ、なさい」
「うん、おやすみ」
 思いのほか素直な言葉とは裏腹に、背中にじっと注がれる視線を感じながら、僕がネク君を見捨てる可能性など万に一つもありえないのだから安心していいのだと、傲慢にも言葉一つで伝わればいいなという気持ちを込めて一日の終わりの挨拶をする。
 瞼を閉じながら、出だしからいきなりこれでは前途多難この上ないと思ったけれど、ネク君が僕の元から逃げ出したりしなかっただけよしと思うことにした。


 それから二、三日はどこかぎこちないながらも、何事もなく平穏に過ぎた。何事もなく、というのはネク君の記憶が戻ることなく、というのと同義だ。
 ネク君は僕が相手をできない日中相変わらず書斎を出たり入ったり、何が面白いのか僕の隣で座り込んだりしていた。けれど日が経つにつれてネク君は読書をするよりも僕の隣にいることを好むようになって、その顕著な変化の意味に気づかないほど僕も鈍くはない。
 この短期間で、けれど確実に、どうやら僕はネク君から好意を寄せられているらしい、ということに。
 元々僕もネク君も好き合ってこんな関係になったのだけれど、ネク君に記憶のない今、どちらかというと戸惑いの方が大きかった。僕との思い出が、今のネク君には数日分しかない。僕が覚えているのに、ネク君は覚えていない。その事実は日々の会話の端々から徐々に現れて、少なからずダメージを受けている自分を否定できなかった。
 だからこんな気持ちでネク君をどうこうしようという気持ちは全くなくて、時折物言いたげに視線を向けてくるネク君にも、何も言わずに微笑みを返すことしかできないでいる。
 前はネク君の心に僕など微塵も残らなければいいなどと思っていたくせに、皮肉なものだ。いや、裏を返せばこれはその報いとも言えるのだろうか。
 そんな風に曖昧に濁したまま過ごしてきたのだけれど、今になって一つの問題が浮上し始めた。ネク君のソウルの問題だ。僕のソウルに依存しているネク君は定期的に僕のソウルの補給を受けなければいけないのだけれど、その一番確実な方法が肉体交渉だったりするのである。
 ネク君と僕との間で何度も性行為を通したソウルの受け渡しが行われていれば自然と円滑なソウルの通り道ができて、そのうち傍にいるだけで自然にネク君の身体には僕のソウルが流れ込むようになるのだけれど、残念ながらソウルの受け渡しという意味での性行為は殆どしたことがない。
 彼の健康なRGのソウルを、僕の瘴気で汚すようなことはあってはならないと思っていたからだ。
 たとえソウルの塊とも言える精液を直接ネク君の身体に注ぎ込んだとしても、僕が望まなければそれはネク君の身体に取り込まれることはない。それこそ僕が自ら望んでしていたことで、こんな状況になるとはついこの間まで思ってもみなかったわけだけれど、今回だけは仇になったとしか言いようがなかった。
 そのこともあって最近は終始ネク君の様子には気を配っていたのだけれど、恐れていた事態はやはり起こってしまうものらしい。
 その日の職務を終えて、隣に座り込んでいたネク君に「終わったよ」と声を掛けると、彼はいつものように(顔には出さないように努力しているらしいものの)嬉しそうに立ち上がった。
 いや、立ち上がろうとして、ふらりとまるで眩暈でも起こしたかのように僕のほうへ倒れこんできた、と言ったほうがより正確だろうか。
「あ、れ……?」
「っ、ネク君、大丈夫?」
 咄嗟に抱きとめた身体は相変わらず細くて、ここしばらく触れていなかったその感触だけでいたたまれない気持ちになる。けれど、思うようにならない自分の身体に戸惑っているネク君に自分がしてやれることは、何もないのだ。以前の僕ならただの肉体交渉だと割り切れただろうことがどうしてできないのかなんて、考えるのもばかばかしい。
「うう、悪い……おれ、なん、で」
「ごめんね、ネク君」
「え?」
「ネク君のそれ、たぶんソウルが足りてないからなんだけど……」
 今の彼の状態を説明しなくてはならないとは思いながら、口を開くのはなかなかに気が重かった。ネク君は確実に僕に好意を寄せてくれているのに、それに応えることはできないのだと告げなくてはならないからだ。好き合っているもの同士だというのに、なんと皮肉な話だろう。
「その、僕のソウルをあげるには、そういうことをしなくちゃいけなくて」
「う、ん」
「でも、僕は……」
 自分で身体を支えることもおぼつかずに危なっかしく僕に寄りかかったまま、それでもネク君は分かりにくい僕の物言いから察したらしく、たどたどしい動作で僕を見上げながら微笑んでくれる。
「そっか……でも、アンタは、今の俺にそ、ゆこと……したくないんだろ?」
「……」
「俺、このままだと消えたり、する、のか……?」
 ぽつりと余りにも軽々しく落とされた言葉に驚いて、慌てて否定した。
「っ、それは絶対にないよ。僕が傍にいれば、最低限のソウルは保たれるはずだから……ただ、ちゃんと補給しないと、今のまま動けなくなっちゃう……んだけど」
 たったそれだけの僕の言葉で、あからさまに安堵したように綻ぶネク君の表情に、紛い物のはずの心臓がひどく痛む。僕はネク君にこんな思いをさせるために今の選択をしたわけじゃない。
「そんな顔、するなよ」
「ねく、く」
「悔しいな……俺が、ちゃんと覚えてれば……アンタにそんな顔させないのに」
 僕は。
「ごめん、ね……ネク君……」
「きりゅ、さ」
「ごめん……」
 ぱちぱちと何も知らない瞳で瞬きを繰り返す幼い仕草を目にすると余計に胸の軋みが大きくなって、とても直視していられず、かと言って寄りかかる細い身体を無責任に抱き締めることもできずに、骨ばった肩にそっと顔を埋めた。
「忘れないで、ネク君」
 今更何を、と自嘲する気持ちは大きかったけれど、その言葉は驚くほどすんなりと僕の口から出て行った。
「僕のこと、ネク君と二人だけの思い出のこと、ずっと覚えていて」
 僕とネク君の記憶を、僕だけのものにしないで。
「そのためなら、何だってするから……ぼくのこと忘れないで、ほしい……よ」
 ぽたり、と。
 気づけば僕のまぶたからあふれた何かが、ネク君の華奢な首筋へとこぼれ落ちていた。これは何の水だろうと考えても、一向にその正体がわからない。
「……よ、しゅあ……?」
 だから、こんなときだというのに全く関係のないことばかりが気になっていて、次に聞こえたネク君の言葉がまるで幻聴のようにすら感じてしまった。



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