ピリリリリ、と携帯のアラームが俺を眠りの底から叩き起こした。
 ヴー、ヴー、とバイブレーションを響かせながら、けたたましく鳴るオレンジの機械を慌てて手元に手繰り寄せて、寝ぼけた頭で停止させる。自分の携帯はあの日に置いてきてしまったままだから、こちらにきてからはずっとヨシュアの携帯が目覚まし代わりだ。
 そうっと隣のヨシュアを窺うと、くちびるから漏れる穏やかな寝息と安らかな寝顔が見えて、どうやらなんとか起こさずに済んだらしい。
 その眠りを妨げないように細心の注意を払いながら(布団の温かさもヨシュアの匂いもとても名残惜しくて、多少なりともこのまま包まれていたいという葛藤はあったものの)ヨシュアの腕から抜け出し、掛け布団を持ち上げてそうっとベッドから降りた。おっと、スヌーズで再び携帯が鳴り出さないように、ちゃんと止めておかなくては。
 今日はヨシュアにとっては久々の休日で、疲れているはずだから俺としてはたっぷりと休んでもらいたいのだけれど(それこそお昼くらいまで寝てくれてもいいと思っている)ヨシュア自身はそれで生活のリズムが狂うのが嫌らしく、できれば朝はいつもどおりに起こして欲しいと少し前に頼まれたのだ。
 俺が来るまではヨシュアはこのベッドで眠るということがほとんどなかったようで、睡眠を取るようになってからというもの、休日に何回か寝坊したのがどうやらショックだったらしい。仕事のときは流石に身体に染み付いた習慣からか、自然と目が覚めるようなのだけれど。本当は仕事のときは俺の隣で眠っているようで、単にいつもどおりスイッチを切っているだけなのかもしれない。
 ヨシュアは俺と眠るのが好きだと言ってくれてそれはとても嬉しいのだけれど、なんだかヨシュアの生活を乱してしまっているという責任を感じたので、普段ヨシュアが仕事に出るときは寝坊しがちな俺もなんとか早起きをしようと決心したのだ。うん、まだ少し頭がぼーっとしているけれど、今日もちゃんと起きられた。
 それから、いつもどおりに起こすというのともう一つ、『お休みの日の朝はネク君の作ったご飯が食べたい』というヨシュアのリクエストに答えるべく、俺はこれからキッチンに向かうところなのである。
 本当は今の身体では睡眠も食事も必要不可欠なものではないのだけれど、ヨシュアが望むのなら俺がそれを叶えない理由なんかない。幸い(と言っていいのかどうかはわからないが)両親が共働きで一人で食事することが多かったせいもあって、掃除や洗濯に比べれば料理は得意分野だった。
 ふとベッドから降りて気づいたけれど、そういえば昨日は俺の身を覆う布が邪魔だとヨシュアが言うので、服を着ないで寝たのだった。誰に見られるわけでもないけれど、一応パンツくらいは穿いておこうかといそいそと身に着けてから、そうだ料理をするんだったと寝ぼけた頭でエプロンを探す。
 料理用のエプロンなどという生活感溢れる代物は元々ないので、たまたまちょうどよくクローゼットから出ていたメイド服のエプロンを少し前から使っている。フリルが多くてけして実用的なものではないけれど、していないよりはマシだろうし、新しく買うよりはあるものを使うべきだと思ったからだ。
 もはや慣れてしまった動作でエプロンの紐をぎゅっと結んでから、いつもは指揮者の彼女が管理しているキッチンへと向かう。彼女のいない時間は好きに使えるように、ヨシュアが取り計らってくれたらしい。今日は久しぶりの休日だけれど、ヨシュアは何が食べたいだろう。


 トースト、目玉焼き、オムレツ、と迷った結果、今日の朝ごはんはホットケーキを焼いた。この間はたしか和食を作ったはずだからと洋食を考えたのだけれど、ホットケーキというのは単純に俺が食べたかったからだ。
 ホットケーキミックスも、ボールも、牛乳も、メープルシロップもはちみつも、冷蔵庫や戸棚を探せば大抵のものが見つかる辺りがなんとなく彼女の部屋らしいというか、UGらしいというか、現実味がないなと思う。今俺がいる現実は、間違いなくこちら側なのだけれど。
 ホットケーキはキレイなキツネ色で焼けたし、上に乗せたバターがとろけて美味しそうだ。冷めないうちに、とお盆の上に皿とフォークを乗せて、いそいそと審判の部屋まで運ぶ。メープルシロップもはちみつも用意したから、もしヨシュアが我儘を言っても大丈夫だろう。
 美味しく食べてもらえるだろうかとドキドキしながら、仕事中ヨシュアが愛用している玉座の横に置かれた丸テーブルにお盆を置いてから、まだ起きてくる気配のない主の元へと急いで戻った。
 寝室の扉が閉まってしまわないように(一度閉まるとロックがかかってヨシュアじゃないと開けられないのだ)挟んでおいた本を、部屋の中に入ってからも忘れずに元通り挟み直してから、緩やかに上下する掛け布団の動きで未だヨシュアは眠りの中らしいと分かるベッドに、恐る恐る歩み寄る。
 その寝顔を覗き込むと、先ほど俺が抜け出たときと違わず、横向きになって何かを抱いているような格好のままだった。気恥ずかしいような嬉しいような気持ちと、天使のような寝顔で安らかに眠るヨシュアをいつまでも見ていたい気持ちとで、そんな彼を起こすのはとても心苦しかったのだけれど、ヨシュアの頼みごとは俺には絶対なのだ。
 名残惜しい気持ちを振り払ってから、そうっとヨシュアの肩に手をかける。
「ヨシュア、ヨシュア」
「……ん、う……?」
「ほら、朝だぞ。起きろよ」
 手のひらから伝わってくるヨシュアの温かい体温にドキドキしながら、その細い肩を控えめに揺さぶると、たっぷりとした淡い色の睫毛が重そうなまぶたを震わせて、そのスミレ色の瞳が細く顔を覗かせた。
「んー……」
 それでもまだ夢うつつといった体でぼんやりと瞬きを繰り返すヨシュアに、もっとちゃんと声が届くようにと身体を屈めて顔を近づける。
「ヨシュア、起きて」
「ね、くく……?」
「うん、ヨシュア」
 ようやく返ってきた自身の名前が嬉しくて、やっと起きてくれたのかとほっと息をつきながら、おはよう、と続けようとした次の瞬間、大きな手に強く腕を引っ張られた。
「ふ、えっ」
「ねくく、ん」
「ん、んん、ぅ……っ」
 突然のことに、上半身を大きく倒すかたちでヨシュアの上に覆いかぶさると、そのまま有無を言わせずにくちびるを塞がれた。寝起きの乾いたくちびるからぬるりとはみ出したヨシュアの舌が、無防備に開きっぱなしだった俺の口内へ無遠慮に入り込む。
 咄嗟に逃げようとした身体は大きな手のひらで背中と後頭部を押さえられ、惑う舌も難なく捕まえられて、くちゅ、くちゅ、と音を立てて絡められた。
 敏感な口腔を何度も撫でられる感触と粘膜の擦れる淫猥な音に、じん、と頭の奥が熱くなってきて、絶え間なく背筋を走る快感に喉がぎゅっとひくつく。
「ん、んく、ぅ……はふ、あぅ……んん、ぅ、しゅ……ん、ちゅ……」
 頭の中が痺れて、自身の身体さえも支えられずにがくがくと膝が笑ってしまうのを必死で堪える。
「ふぅ、っんん……!」
 けれどやんわりと歯を立てたまま強く舌を吸われた瞬間、抵抗も空しくかくりと呆気なく膝は崩れてしまった。上体をベッドの端にもたれさせるように床に膝を突いて、その場に座り込む。そのまま自然と離れたくちびるに、ようやく解放された安堵感とどこか名残惜しいような残念な気持ちとで、頭の中がごちゃごちゃになった。
「おはよう」
「ぅ……お、は……よ……ふ、うゅ」
 枕元にもたれるようにして必死で息を整えていると、ヨシュアの声もすぐ頭の上から聞こえた。そろそろと顔を上げると、先ほどまでの眠たげな様子よりは多少ましになったかもしれない、という程度に開かれた瞳がぼんやりとこちらを見つめている。
「ん、今日もちゃんと起こしてくれたんだ……ありがと。いい子だね」
 ゆっくりと身を起こしながら枕に背中を預けるヨシュアにやわらかく頭を撫でられて、その優しい感触に思わずほう、とため息が漏れてしまった。
「だ、って……ヨシュアのお願い、だろ」
「んん、そっか」
 鼓膜を震わせる穏やかな声と、先ほどのキスの余韻でじくじくとした熱が下半身に集まってしまいそうになるのを、今はまだだめだから、と必死で意識をそらす。ぎゅ、と両手で押さえ込んだ下腹部が、それだけで切なくうずくのがたまらなかった。
「あ、の……朝ごはん、できてる、から」
 脚が震えてしまいそうになるのをなんとか踏ん張って立ち上がると、まだどこかぼーっとしているヨシュアの腕を控えめに引っ張る。俺の促すまま従順にベッドから降りるヨシュアは親に手を引かれる小さな子どものようで、なんだかヨシュアじゃないみたいだ。
「ふあ、ぁ。うん、食べる……今日はなあに?」
 寝癖のついた髪もそのままに、あくびを噛み殺しながらぺたぺたと部屋を歩く姿がたまらなく愛おしい。休日はこんなヨシュアを一人占めできるというのだから、少しの早起きくらいなんてことないのだ。
「ん……見てからのお楽しみ」
 俺の手には収まりきらないヨシュアの大きな手を精一杯ぎゅっと握って、審判の部屋まで十歩足らずの散歩を楽しめるのは俺だけなのだから。


「……ネク君、何その格好」
「へ?」
 ヨシュアは自分が食事をするときは必ず俺にも食べさせたがるから、朝ごはんを食べるときはヨシュアの膝の上が俺の定位置だ。今日はメープルシロップよりもはちみつの気分だったらしく、ヨシュアの優雅な手つきでかけられた金色に、それだけであまり形の均一ではないホットケーキすらもなんだか美味しそうに見える。
 ナイフも使わずにフォークで器用に切り分けられたホットケーキを自分と俺の口に何切れか交互に運んだあと、食べ物を口に入れて多少目が覚めたのか、しっかりと意思を持った瞳が不審そうに俺を見て眉を寄せていた。
「え、あ! こ、これは、その、あのっ」
 言われて自分の格好を振り返ってみると、辛うじて下着は穿いているものの、それと首輪以外にはただ裸にフリルのたっぷりとしたエプロンを一枚身に着けているだけというなんとも奇妙な格好だったことに気がつく。これで普通に料理をしていたとは、俺も随分と寝ぼけていたらしい。というか、なんというか、ものすごく恥ずかしい格好をしているような。
「ち、ちがくて、えと」
「あっ」
 混乱と羞恥でわけも分からずに腕をばたばたと動かした瞬間、振り上げた手が何かに当たり、次いでぱりん、と耳をつんざくような大きな音がした。思わず反射的に肩を竦めてから、恐る恐る背後を振り向いてみる。そうして背後に広がっていた光景が信じられなくて、自分の血の気が引く音すら聞こえてきそうな気がした。
「ああ、割れちゃったね」
 先ほど大きな音を立てたのは、今床で粉々になっているはちみつの瓶だったらしい。派手に床に飛び散った金色の液体の中に無数のガラスの破片がぷかぷかと浮いている光景は、もはや惨状と言って差し支えないものだと思う。
「う、あ、ご、ごめん! 今片付ける、からっ」
 頭の中が真っ白で、わけもわからずにヨシュアの膝から降りようとすると、長い腕にそっと優しく制された。
「いいよ、僕がやるから。ネク君は動かないで」
 そのままヨシュアの温かな膝から離されて、玉座の肘掛に座らせられる。いい、と言われても、自分の不手際だというのにヨシュアに始末を任せるのはどうしても落ち着かなくて、でもヨシュアの言葉は命令の色を含んでいたから、勝手に動くようなことはできなかった。
 ヨシュアはそのまま立ち上がっていくつか広い範囲に飛び散った破片を蹴って一箇所に集めてから、はちみつでべたべたの床の前に屈みこむと、汚れた場所へ満遍なく手をかざしていく。そうするとまるで魔法のように、ヨシュアが手をかざした場所からガラスの破片も、はちみつの残骸も見る間に跡形もなく消えていった。
「怪我、しなかった?」
 それからゆっくりと立ち上がって再び俺の顔を覗き込んでくるヨシュアの顔を、申し訳なさのあまり見ることができない。
「う、うん……ありが、とう。ごめん、なさい……」
「ううん、怪我してないならよかった」
 責めるでもなく、叱るでもない、ただ優しく労わるようなヨシュアの声音に、ますます顔が上げられなくなる。とてもその場に留まっていることができなくて、居てもたっても居られずに急いで玉座から降りた。
「ネク君?」
「あ、の、俺、あたらしいやつ、取ってくるから」
 そうだ、ホットケーキはまだ残っているのだから、ヨシュアに美味しく食べてもらうためには、はちみつがないと困るのだ。そんな言い訳を無理矢理自分に取り付けると、逃げるようにばたばたと死せる神の部屋へ駆け出した。



→次へ