結婚式がしたい、と突然ヨシュアは言い出した。
 ヨシュアのわがままはいつも突拍子もないことが多いけれど、今回のそれはあまりにも俺の想像の範疇を超えていて、上手く反応ができなかった。
「へ……え、と……誰と?」
 だから、そんなことを言ってヨシュアに呆れた顔をさせてしまった自分がつくづく情けない。
「僕が、ネク君以外の誰と結婚したいって?」
「え、う」
「き、み。君とだよ、ネク君。決まってるでしょ?」
 第一、僕そこまで浮気性じゃないし、とぶつぶつ不満を漏らすヨシュアにますます混乱する。
 ええと、結婚するっていうのは二人が夫婦になるっていうことで、夫婦になるっていうことは、元々の二人は恋人同士っていうことで……
 恋人?
 予想だにしなかった単語に行き着いて、ぼ、と一気に顔が熱くなった。
 確かに、ヨシュアとはキスもするし、それ以上のこともずっとしてるけど、それはヨシュアが退屈しないように……言うなれば退屈しのぎのおもちゃとして可愛がってくれているんだと思っていた。これは別に卑屈でも何でもなくて、ヨシュアの傍にいるために必要な自戒の気持ちなのだ。
 それなのに、そんな風に言ってもらえるだなんて思ってもみなかった。
 ヨシュアは元天使で、人間とは随分感覚のズレがあったりするみたいだから、俺が思っているような意味ではないのかもしれない。あるいは、別になんということのないただの気まぐれなのかもしれない。
 けど、それでも。
「ネク君? 顔赤いけど、大丈夫?」
「う、え、う……っだ、大丈夫、だから」
「具合悪かったらすぐに言うんだよ? もう、この間みたいなのはごめんだからね」
 この間、というのは少し前に俺が風邪を引いたときのことだろう。あのことがヨシュアにはずっと忘れられないようで、あれ以来ちょっとした俺の仕草に反応して心配してくれるようになった。
 申し訳ない気持ちと恥ずかしい気持ちが同時に湧き上がって自分が情けなくなるけれど、そんな風にヨシュアに気にかけてもらえるのが本当は嬉しい。
「あ、の」
「うん?」
「なんで、急に……け、結婚式とか」
 心配そうに、膝の上に乗ったままの俺の頬を長くて白いゆびがするすると撫でる。けれど、ヨシュアは俺の質問に少し首をかしげたあと、すぐに楽しそうに笑って答えてくれた。
「この間少し用事があって区役所の近くまで行ってきたんだけどね、すぐ向かいにドレス屋さんがあるの知ってる?」
「う、ん……そうなのか?」
「うん、あるんだけどさ。通りすがりに外からちらっと見ただけなんだけど、すごくネク君に似合いそうなドレスがあって。きっと着たら可愛いだろうなぁって」
 そこで切られたヨシュアの言葉に、まだその先があるのだろうとしばらく待ってみたものの、ヨシュアは無垢な瞳で微笑んだまま、一向に口を開かない。
「よ、ヨシュア」
「ん?」
「そ、それだけ?」
「んん、それだけだよ?」
 他に何があるの? とでも言いたげなヨシュアの顔を、今の俺はただ呆然と見つめることしかできなかった。
 やっぱり、ヨシュアは結婚式の持つ本来の意味などわかっていないのかもしれないし、それ以前にどうでもいいのかもしれない。けれど、けれどヨシュアは俺のドレス姿が……花嫁姿が見たいのだという。
 どんな形であれヨシュアに求められているということは俺にとってまぎれもない喜びであって、それ以外の何ものでもない。うれしく思ってしまう気持ちが抑えられずに、言葉にできない感情が溢れて胸がぎゅうっと苦しくなった。
「ネク君のサイズで用意するように言っておいたから、そろそろ出来てくるころだと思うんだけど」
「え、っ」
「ああ、ほら」
 言葉と同時に顔を上げたヨシュアの視線を追うと、俺から見て後ろのほうにある審判の部屋の扉が音を立てずに静かに開いた。ヨシュアにしかノックの聞こえないこの部屋の人の出入りを俺はいつも感知することができなくて、戸惑ってしまう。
「コンポーザー、お荷物が届きました」
 ヒールの音を響かせて少し大きめの箱を抱えながら部屋に入ってきたのは、いつもの涼しげな表情を崩さない指揮者の彼女だ。
「ああミツキ君、ありがと。ついでだから、その箱開けちゃってくれる?」
「はい」
「それから中に入ってるドレス、ネク君に着せてあげて」
「かしこまりました」
 そう言いながら俺を膝から下ろすヨシュアを、え、と戸惑いを隠せないままに思わず見つめてしまった。いつもなら、俺を着替えさせてくれるのはヨシュアの手なのに。
 そんなことを考えながらおろおろしていると、ヨシュアは俺の戸惑いなどお見通しだったのか、幾分か困ったような表情で笑われた。
「さすがに僕もウェディングドレスは着せたことがないからさ」
 苦笑するヨシュアの手に背中を押されて、もう既に梱包を解き終え、白いドレスを抱えて待機している彼女の元に、おずおずと歩み出る。
「失礼します」
 軽く会釈をしてから一言そう告げると、彼女の白魚のようなゆびが俺のシャツのボタンにかかった。長く伸ばされた爪は綺麗に整えられていて、ヨシュアの骨ばった男っぽい手とは違う美しさの指先に、なぜだかやけにドキドキしてしまう。
 自分で脱げる、と言いたかったのだけれど、有無を言わせぬ彼女の挙動に結局何を口にすることもできないまま最後の一つまでボタンを外されて、身に付けていたヨシュアのシャツをするりと脱がせられた。
「それじゃ、僕は先に行って待ってるから。ネク君のことよろしくね」
「えっ」
「はい、お気をつけて。準備が出来次第、すぐにご案内致します」
「うん、また後でね」
 それだけ言うと、ひらひらと手を振りながらヨシュアはさっさと審判の部屋の扉を開いて出て行ってしまった。二人の間だけで会話が済んでしまって、あれよあれよというまに進んで行く事態に頭がついていかない。ついでにいうなら、あられもない姿を彼女の前に晒してしまっている今の状況すらも、どうしていいのかわからない。
「下着もきちんと変えるように、と仰せつかっておりますので。よろしいですか?」
 そんなことを平気な顔で口にする彼女にますます困惑ばかりが大きくなったけれど、拒否権などない俺にはただ小さくうなずくことしか許されていなかった。


 着替え終わったあと彼女に連れられて案内されたのは、渋谷川を出てから歩いてすぐの場所にある教会だった。
 外に出てみてわかったけれど今は夜中らしく、大通りを車の走る音以外は教会内はしんと静まり返っている。まあ誰かがいてもいなくても、俺たちが今いるUGにはあまり関係がないのだけれど。
 ウェディングドレスと言われて、俺は床までふんわりと裾の広がる長いドレスを想像したのだけれど、彼女の手で着せられた純白のそれは短い膝丈のものだった。発注に立ち会っていた彼女によれば、ヨシュアいわく『ネク君じゃ足に引っ掛けてすぐ転んじゃうでしょ?』だそうだ。その気遣いが嬉しいような、そうでもないような。
 胸のすぐ下からたっぷりと裾まで広がる布地が肌に触って、そわそわする。首元は襟の詰まったホルターネック状になっていて、腰が見えてしまいそうなくらいに背中が大きく開いているのがなんだか落ち着かず、首の後ろで結ばれた幅広のリボンが丸出しの背中を撫でてくすぐったかった。ウェディングドレスを着てはいるけれど、もちろんヨシュアからもらった首輪はつけたままだ。
 ドレスの丈が短い代わりに頭に乗せたベールの裾は床に届くくらい長くて、今はその裾を後ろについて歩く彼女が持ってくれていた。眼前を薄く覆うベールの白さに、思わずぴんと背筋が伸びる。
 けれど、穿かせられた下着は女性のもので(ついでにいうとまたしても紐付きだった)当たり前のように白い太腿丈のストッキングと同じく白のガーターベルトが付いてきた。それだけでも窮屈な思いをしているというのに、用意された靴には高めのヒールが付いていて、履き慣れないせいで道中何度も転びそうになったのをヨシュアは知っているだろうか。
 これからの時間を思うと不安な気持ちでいっぱいになったのだけれど、これ以上ヨシュアを待たせるわけにも行かずに、どきどきと高鳴る胸を押さえながらゆっくりと礼拝堂の扉を開いた。

「ああ、よかった。道に迷ったのかと思って心配したよ」

 そう言って礼拝堂内に響く声で笑うヨシュアは、祭壇の上、聖書台のすぐ前に優雅な所作で佇んでいる。その身に纏っているものはいつもの暗色のスーツではなく、まさしく新郎が着るような白い礼服だった。
 膝まである裾の長い上着も、麗しい仕草の手を覆う白い手袋も、全部が真っ白な中で控えめに存在を主張する胸元のグレーがかった薄紫のタイも、すべてあつらえたかのようにすらりと背の高いヨシュアの身体にぴったりと合っている。天窓から差し込む月明かりにふわふわした淡色の髪の毛と白い肌が照らされて、この世のものではないような美しさを醸し出していた。
 優しい光を湛えたスミレ色の瞳が、ふわりと笑う。十字架の下に立つその姿はあまりにも様になりすぎていて、なんというか、その場に立ち尽くしたまま動けなくなってしまうくらい見惚れてしまった。
「お待ちかねですよ」
 だから、背後の彼女からかけられたその言葉と、困ったように微笑んだままこちらを見つめるヨシュアの顔を見て、ようやく俺の足は歩くことを思い出すことができる。
 慣れない踵のヒールに苦戦しながら歩く赤いカーペットの敷かれたこの道は、いわゆるバージンロードというやつだろうか。両脇に白い花が道なりにずっと散らされているのを見て、思わず首をかしげる。もしかしてこの花は、ヨシュアが用意してわざわざ撒いてくれたのだろうか。
 祭壇のすぐ傍まで歩いてくると、どうしてかそこにいるであろうヨシュアの顔が見られなくなってしまった。うつむきながら段差を昇ろうとすると、目の前にす、と手袋を纏った白い手が差し出される。
「足元、気をつけて」
 それでもやっぱり顔を上げられないままおずおずとその手を取ると、俺が段差を昇り終えるのをゆっくり待ってから、ぐ、と引き寄せられた。その手に素直に身を任せながら、俺も肘を越える丈の長い手袋をはめているせいで、繋いでいる手から伝わってくるはずの温度が感じられないことが少し寂しい。
 それからヨシュアが反対の手を軽く手を上げた先、俺の背後を見ると、持っていたベールをそうっと床に置いてから、一つだけ軽く会釈をして指揮者の彼女は静かに礼拝堂を後にした。着替えやら案内やらのお礼を言う暇もなかったけれど、それは帰ってから改めて伝えればいいだろう。
「思った通り、すごくよく似合ってる……よかった」
 繋いだ手に引かれるままに身を寄せると、当たり前のように腰に手が回されて、思わずびくりと身体が震えた。いつもの格好じゃない俺と、いつもの格好じゃないヨシュアと、いつもの部屋じゃない場所。それだけなのに、まともにヨシュアの顔が見られないくらい緊張してしまっているのが自分でも分かる。
「よ、ヨシュア、も……似合ってる……」
 だから、それだけを言うのにも精一杯で、少しだけ声が震えてしまって、それでもばくばくとうるさく響くこの鼓動がヨシュアに聞こえていませんように、と祈った。
「そ? ありがとう。ネク君だけに着替えさせるのも何かな、と思って」
「こ、この教会って……」
「ああ、ここの礼拝堂にだけ壁張ってあるから誰も来ないし、心配ないよ」
「そ、そっか……」
「うん」
 必死に口を開いてはみるものの、自分でも何を言っているのかわからなくなってくる。それでも優しい声で答えてくれるヨシュアに、なぜだか泣きたくなった。
「……ん、と……」
「緊張してる?」
 もはやヨシュア相手に隠し通すことなんてできなくて、素直にこくんとうなずいた。ふふ、と苦笑いのような、困ったような笑い声が聞こえて、優しい指先が背中を撫でてくれる。むき出しの背中に手袋越しのヨシュアの手が触れる感触に、なんだか不思議な気持ちになった。
 その感触に促されるように、ふと気になっていた疑問がするりと口をついて出る。
「ヨシュア、も」
「うん?」
「ヨシュアも、神さまに……誓ったり……する、のか?」
 教会に来たということはそういうことだろうかと思ったのだけれど、なんだかそれは普段のヨシュアとは似つかわしくないな、という気持ちもあった。拙い俺の質問に、ヨシュアが不思議そうに首をかしげたのがわかる。
「誓わないよ、神さまになんて」
「えっ」
「神さまなんて当てにならないんだから、ネク君は僕に、僕はネク君に誓えばいいの。そうでしょ?」
 あっけらかんとした声で言われて、気が付けばずっと見られずにいたヨシュアの顔を見上げていた。きょとんとした瞳がじっとこちらを見つめている。
「へ……う……う、ん」
「審判の部屋みたいな、あんなしみったれた部屋で結婚式するの嫌じゃない? ここに来た理由は、それだけ」
 さらりと言ってのけるヨシュアに、ずっと緊張で強張っていた身体からゆるゆると力が抜けて行く。緊張していた自分が馬鹿みたいで、思わず弱くため息を吐いた。
「納得した?」
「ん……」
「それじゃ、いいかな? ネク君」
 背中を抱いていた手が滑ってするりと俺の肩を掴むと、ヨシュアは始まりの合図のように小さく息を吸い込んだ。
「汝、桜庭音操は」
 さくらば。久しぶりに聞く姓名だな、とぼんやり思う。
「この者をパートナーとし、良きときも悪きときも」
 ヨシュアの柔らかな声はしんとした礼拝堂内に凛と響いて、それが何よりも神聖な儀式であることを知らせてくれているみたいだった。
「富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも」
 共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで。
 ううん、死すらも、俺たちを分つことなどできやしないけど。
「愛を誓い、この者を想い、この者のみに添うことを誓いますか?」
 だって、もしヨシュアが消えるときが来たとしても、それは俺が消えるときでもあって、俺の魂はとっくにヨシュアのものなのだから。
「ち、ちかい、ます……」
 なのに、いつの間にかからからに渇いた喉からは消え入りそうな掠れた声しか出せなくて、情けなく足が震える。
「聞こえないよ。もう一回言って?」
 笑い混じりで囁かれた声に、こほ、と小さく咳払いをして、なんとかもう一度息を吸い込んだ。
「誓い、ます」
 今度こそ、ちゃんとした声が出せたと思う。その証拠にふんわりと優しくほころぶスミレ色に、ほう、とため息が出そうになった。
「じゃあ、ネク君も言って」
「えっと」
「難しかったら、最後の方だけでもいいよ」
 出来の悪い生徒に根気強く教える教師のような声音で言われて、それじゃあと一番頭に残っていたところから始めることにする。
「病めるときも、健やかなるときも」
「うん」
「共に歩み、他の者に依らず、死が……二人を分けたとしても」
「ふふ……うん」
「愛を誓い、この者を想い……この者のみに添うことを、誓いますか?」
 このときのヨシュアの柔らかなスミレ色と妖艶な微笑を、俺はこの先一生忘れたりしないだろうと強く思った。
「はい、誓います」
 頭の中に響くヨシュアの穏やかな声を、信じられない気持ちで噛み締める。どうしよう。女の子の気持ちなんて、きっと俺にはわからないけれど、それでも今の俺はこれ以上なんてないくらいに幸せだと思った。
「それでは、誓いのキスを」
 仰々しく囁きながら、ヨシュアの手が俺の眼前を覆うベールをそっと持ち上げる。手袋に覆われた手のひらが頬を包んで、間近にヨシュアのスミレ色が迫った。
「ん、っ……」
 ちゅ、と軽く音を立てて口づけられただけで、ぎゅう、と胸の奥が苦しい。
 始めは優しくついばむように、段々と角度を変えて深く触れ合わせられて、薄く開いたくちびるの隙間からぬるりとヨシュアの舌が入り込む。
「ふ……ん、ぅ……く、んく、ぅ……」
 くちゅ、くちゅ、といやらしい音を立てて舌を絡ませられるだけで、かく、と膝から崩れ落ちてしまいそうだ。神聖な場所でそんなことをしている背徳感と踵の不安定な足元が心配になって、ぎゅう、と目の前のヨシュアの身体に必死でしがみつく。
「ん、く……はぁ、は……はぅ、はぁ……」
 最後にぺろり、と口蓋をひと舐めしてからヨシュアの舌が出て行っても、くちびるはつかず離れずの距離で何度も触れ合わせられて、薄い皮膚を繰りかえしなぶられた。その感触にみっともないくらい脚が震えてしまっているのに、ヨシュアの手は先ほどのように腰に回したり、俺の身体を支えたりはしてはくれず、するすると頬と顎のラインを緩く撫でる。
「指輪、はいいかな。これ、あげたし」
 ヨシュアは頬からそのままゆびを滑らせて、首輪の鑑札をちゃり、と鳴らした。
「へ、う」
「なんてね、冗談だよ。ちゃんと用意してあるけど……」
 つう、とうなじから背筋を撫でる感触にがくん、と腰が抜けてしまって、咄嗟にヨシュアの首にしがみつく。
「ぅ、あ……やぁ、あぅ……っ」
「ネク君、立てなくなっちゃったでしょ?」
「ん、んん……んぅ、う……」
 肩甲骨や脇腹をくすぐりながら、びくびくと身体を震わせる俺をただ楽しそうに見ているだけのヨシュアは意地悪だ。もはや首に回した腕にすら力が入らずに、解けて本格的に座り込んでしまいそうになってから、ようやくヨシュアの腕が強く支えるように俺の身体を抱き締めてくれた。




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