なんだ、これ。
 いつもの定位置で床に座って、玉座に凭れながらいつの間にか眠りこけてしまっていたらしい俺が、目覚めてすぐに思ったことはそれだった。
 見上げる視線の先には、ヨシュアが座っているはずの玉座に彼の人は見当たらず、代わりに見慣れないものが鎮座ましましている。
 一見するとそれは、女の子が着るような紺のワンピース……のようなのだが。
 なんでこんなものが、という思いと共に、思わず身を乗り出してまじまじと凝視してしまった。
 たっぷりの布を使っているらしくふんわりと膨らむ丈の短いスカートに、これまた肩のところが膨らんだ形の……パフスリーブとか、前にシキが言っていただろうか、長袖の袖口は大きく折り返されていて、白い裏地に可愛らしい刺繍が施されている。
 そんな、日常ではあまり目にすることのない形状のワンピースに、これでもかと言わんばかりにフリルがあしらわれた白いエプロンがワンセットで置かれていた。
 これは、現代っ子ならば誰もが知っている、いわゆるメイド服というやつではないだろうか。男なら誰しも一度は可愛い女の子に着せることを夢見る、あのメイド服である。
 ご丁寧に、メイドさんのシンボルとも言える、頭につけるふりふりのカチューシャっぽいアレ(名前は知らない)もエプロンの付属品のようにリボンで括りつけられていた。
 テレビやら、漫画やらで間接的に目にしたことはあるけれど、こうして実物を見るのは初めてである。
 クラスメイトの何人かが面白半分でメイド喫茶に行っただの騒いでいたこともあるけれど、そのときは横目でなんとなく聞いていただけだ。
 そのメイド服が、なぜヨシュアの座るべき玉座に置かれているのか。そもそもこれは誰のものなのか、どこから来たのか、疑問は尽きない。
 そのうちよからぬ想像を始めてしまいそうな頭をぐるぐると悩ませていると、正面の扉が開いてその疑問を唯一知っているであろう人物が顔を出した。
「ヨシュア」
「あれ、起きてたんだ。ただいま」
 考えるよりも先に身体が動いて、立ち上がるとすぐにぱたぱたとヨシュアの元に駆け寄る。
「おかえりなさい。仕事、終わったのか?」
「うん、今日はもう上がり」
 ぽんぽん、とペットにするように俺の頭を撫でると、ヨシュアはそのままいつものように玉座に向かって歩き出す。玉座に置かれたものが目に入った途端、先ほどまでの疑問が頭をもたげて、ヨシュアの後をついて歩きながら恐る恐る聞いてみた。
「あの、ヨシュア」
「なあに?」
「あれ、何だ……?」
 あれ、と指差したのは、もちろん先ほどのメイド服である。あそこに座っていいのはヨシュアだけなのに、我が物顔でそこに陣取っているのがなんとも気に食わない。
「ああ」
 これね、とヨシュアは一人で納得したようにメイド服をひょいと持ち上げると、そのまま胸に抱えて玉座に腰掛けた。
 ヨシュアが腰を落ち着けるのに合わせて、俺もその足元に膝をつく。
「ネク君寝てたから聞いてないんだっけ」
 ふわりと膝に置いたワンピースの布地を弄びながら、ヨシュアはなんとも楽しそうに説明してくれた。
「元々ミツキ君宛てに届いた荷物なんだけどね、自称ファンの人って言うのかな? なんかそんな感じの手紙付きで部屋の前に置いてあったらしいんだけど、差出人不明でさ。怪しいでしょ?」
 渋谷UGの指揮者の元に差出人不明の荷物とは、それは確かに怪しい以外の何物でもない。
「それで、もし危険物とかで万が一のことがあったらいけないからって僕のところに持ってきてくれたんだけど、開けてみたらこれじゃない。ミツキ君もやっぱり女の子だよね、口には出さないけど気持ち悪がってさ。だから、これは僕が処分しておくからって引き取ったんだよ」
 それは、ファンというより変質者に分類されるんじゃなかろうかと、話を聞いただけの自分もぞっとしてしまった。
 あの冷静沈着な彼女を気持ち悪がらせるとは(もっともこれはヨシュアの主観だけど)不謹慎ながら、その場でのうのうと寝こけてしまっていたのが残念だ。
 どんな顔をしていたのか、少しだけ気になる。まあ、ヨシュアから言わせたら、なので実際の彼女は顔色一つ変えていなかったのかもしれないけれど。
「そ、そうか」
 ともあれ、俺の知らない女性のものだろうかとか、もしかしてヨシュアの私物なんじゃなかろうかというよからぬ想像が否定されたことにほっとした。
 俺の考えそうなことなどヨシュアにはお見通しだったのだろうか、あからさまに安堵する俺を見て、優美なくちびるからくすくすと笑いが漏れる。
「一通り調べてはみたんだけど、特に変わったところもないみたい。随分綺麗な仕立てだから、純粋なプレゼントなのかなって思ったけど……女の子からしたら気持ち悪いよね」
 そう言いながらも、ヨシュアの手はそんなことは微塵も感じさせないような手つきでフリルを弄んでいた。
 いつもなら自分の頭を撫でてくれる手が、未使用とはいえ女性の洋服に触れていることに何となくもやもやした気持ちになったものの、なるほど、使われている布地は安っぽさを感じさせない上質なものばかりのようだ。
「かといって洋服に罪はないし、どうしようかなーと思って」
「処分するんじゃないのか?」
「一回も着られてないのに、捨てちゃうの勿体無いじゃない」
 そういうものだろうか。こういうとき、ヨシュアの思考はなんとも不可思議だ。まあ、確かに使われた布にも仕立てた人にも罪はないだろう。
 けれど、こんな洋服を着せたいような女の子がヨシュアにはいるのだろうかと、またもやもやとした気持ちになる。優雅な指先が肌触りのよさそうな洋服地を撫でるたびに胸がざわめいた。
「ああ」
「?」
 膝の上のメイド服を見つめながら思案していたヨシュアが、ふと何かを思いついたように声を上げる。同時に、首をかしげながら俺も顔を上げた。
「なんならネク君が着てみるかい?」
 もやもや……していたはずなのだけれど。ヨシュアの口から飛び出した言葉の衝撃に、そんな気持ちも一瞬でどこかに行ってしまった。
「なっ」
「ネク君ちっちゃいから、背丈はミツキ君とそんなに変わらないし」
 何を言い出したのかと、咄嗟に反応することが出来ずに思考が固まる。
「お、女の子の服なんて、入るわけない、だろっ」
「大丈夫だよ。ネク君女の子みたいに細いし」
 そういう問題ではないと思うのだけれど。なんというか、そもそも根本的に何かが間違っていると思うのだけれど。
 ね? と有無を言わせぬ口調でこちらに視線をやるヨシュアは、これは名案を思いついたとばかりににこにこと笑っていた。俺が絶対に逆らえない笑顔で。
「ああ、うん、いいかも。ネク君のメイドさん、見たいな」
 呆然と、縋るようにヨシュアを見上げても、ヨシュアは俺に慈悲を与える気など毛頭ないという様子で脚を組んでいるだけだ。
「え、う」
「見たいな」
 そう言って麗しく微笑むヨシュアの命令は俺には絶対で、逆らうことなど許されない。俺が目の前のメイド服から逃れる手立てなど、この部屋のどこにも見つけることはできなかった。

 着替えさせてあげようか? と実に楽しそうに告げられた悪魔の囁きに、それだけは、と必死で言葉での抵抗を試みる。ヨシュアの手を煩わせたくないし、自分で着られるから、としどろもどろになりながらも伝えると、やけにあっさりと俺の希望は受け入れられた。
「そうだね、お楽しみは後に取っておこうか」
 というヨシュアの言葉に、お楽しみって? やら、後っていつだ? やらの釈然としない疑問に頭を悩ませながら、そそくさとメイド服を抱いて寝室に逃げ込む。
 ドアが一度閉まってしまうとロックがかかってしまうから、部屋の中に転がっていた本をつっかえとして挟んでおいた。
 そうしてベッドの上に落ち着くと、これ付属品だからと渡された小さな包みを開いて絶句すると共に、この上ないほどの絶望を抱いた。
 俺から見るとあまりに小さく、頼りない布地で構成されたそれは、まごうことなく女性物の下着だったからである。
 どこを隠すつもりなのかさっぱり分からないレースのあしらわれた薄い布地に、しかも脇をリボンで結ぶタイプのものらしい。知りたくなどなかったその事実に、俺の絶望は深くなれど、軽減されることはなかった。
 一緒に入っていた黒いものは靴下だろうか。やけに長い。いや、なんというか、今やそんなことは問題ではないのだ。
 付属品、と言っていたからにはこのメイド服に同梱されていたのだろう。こんなものをプレゼントに選ぶなど、送り主はもはや間違いようもなく変質者ではないか、と頭を抱えてしまった。
 ヨシュアはこの中身を知っていたのだろうか。調べた、と言っていたから恐らく知っているのだろう。指揮者の彼女は知らない気がする。なぜなら、こんなものを目にしようものならその瞬間に、彼女は荷物丸ごと火を放っていただろうと思うからだ。
 こんな得体の知れないものを身に着けろとヨシュアは言う。正直泣きたい気分になったのだけれど、ヨシュアの命令は絶対だ。途方にくれた。
 俺がUGで過ごすようになってから身に付けているものは、RGにいた頃に通っていた高校の制服であったり、ヨシュアが買い与えてくれたものであったり、ヨシュアの服だったりする。
 今日はずっとヨシュアの横に座っていて部屋から動かなかったから、着ているのはヨシュアのワイシャツ一枚だけだ。俺が着ると裾で十分に太腿が隠れるくらいサイズが違うから、余ってしまう袖は適当な長さに捲っている。
 かぎ慣れたヨシュアの匂いのするこのシャツを脱いで、よもや女性物の下着まで身に着けなくてはいけないとは。どうしようもなく悲しくなった。
 けれど、ヨシュアは一通り調べたといっていたし、もし変な細工でもされていようものなら俺に着させるなんてしないはずだ。ヨシュアが言うなら、間違いなく疚しい所など何もない新品なのだろう。
 そう自分に言い聞かせながら、包みの中のものを今は見なかったことにして、手始めにやたらとスカートの膨らむワンピースを手にして広げた。



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