最近、家に帰ってきてドアを開ける瞬間の俺はちょっと挙動不審だ。
 帰り道も、気が付くとなんだか早足になってしまっていて、揺れる鞄を少しでも軽くするために今まではちゃんと持ち帰っていた教科書類を、何冊か学校の机の中に置いてくるようにまでなってしまった。
 不本意ながらどきどきとうるさくなる心臓を押さえつつ、ゆっくりとドアノブを回す。
 ――開いてる。
 引っかかることなくドアノブはあっさりと全部回ってしまって、朝、確かに施錠して出たはずの鍵が開いている。そのままキィ、と何の抵抗もなく開くドアに思わず安堵のため息が漏れてしまった。
 狭い玄関には行儀よく揃えられた白い靴が端の方に寄せて置かれていて、ヘンな所で几帳面なあいつの性格がよく表れていると思う。
 来てる、とはやる気持ちでにやけてしまいそうな顔を何とか元に戻してから、靴を脱いで玄関を上がった。
 入ってすぐのところにキッチンやらトイレやらがあって、そこを抜けた先の部屋が今の俺の主な生活空間である。
 部屋に入ると、予想していた人物はやけに控えめに、ソファの端に腰掛けて寝息を立てていた。
 あまり広くはない部屋にこのソファを置くのは少し苦労したのだけれど、自分の部屋にソファがあるというのはちょっとした憧れだったのだ。設計ミスか? と思えるような変に狭い空間が部屋の隅にあって、そこにベッドを追いやることでなんとか叶えることができた。
 件の人物は、そろそろと足音を消しながら近づいても、起きる様子がない。てっきり部屋に入ってすぐに声をかけられるものだと思っていたから、拍子抜けした。
 傍らにキレイに畳まれた洋服類が洗濯籠に収まっているのを見ると、どうやら干しっぱなしだった洗濯物を取り込んでくれていたらしい。クローゼットにしまう前にうたた寝してしまったのだろうか。
 この部屋に引っ越してきてから、ヨシュアは休日の夜中だけではなく平日にも顔を出すようになった。以前は両親がいた手前夜中にしか会えなかったけれど、今はいつでも自由に出入りできるから、空いた時間を利用して会いに来てくれているらしい。
 大抵は俺が学校から帰ってくる夕方くらいが多いのだけれど、最近は待ち時間が暇なのか部屋の中が片付いていたり、今日みたいに洗濯物がしまわれていたりする。
 両親が共働きで留守がちだったため、炊事はその辺の男子高校生にしてみたらそれなりに出来る方だ。と思う。
 けれど、掃除というものが俺はどうにも苦手で、つい勉強したままテキストを出しっぱなしにしてしまったり、読んだ本をソファに置き去りにしてしまったりしがちだった。それが綺麗好きなヨシュアには気になるらしい。
 最近は洗濯物にまで手を出すようになって、俺からしてみれば面映いばかりだ。料理はできないと言っていたから、そのうち帰ってきて玄関を開けたら夕食のいい匂いが……なんてことにはならないと思うが。
 起こしてしまわないようにそうっと、ヨシュアの隣に腰掛ける。
「……ただいま」
 小声で呟いてみても、ヨシュアは起きない。こんな時間にうたた寝とは、やっぱり疲れているのだろうか。
 そういえば最近はずっとヨシュアの方が先に部屋に来ていて、俺がヨシュアを出迎えることは少ない。休日の、一日中家にいるときくらいな気がする。
 以前は俺が『おかえり』を言う立場だったのに、なんだか変な感じだ。
 疲れているなら、こんなところで洗濯物を畳んでいる場合じゃないだろうに、渋谷のコンポーザーさまともあろうお方が平民の家で洋服畳みなんて、面白すぎて笑えないではないか。仕事は大丈夫なのか、仕事は。
 ああ、でも最近は人手が増えたって言ってたっけ。
 彼がね、と一言だけ漏らして止めたその言葉と、近頃のヨシュアの変化を見ていると何となく何があったのか分かる。どことなくすっきりした顔をしていて、なんだか……嬉しそうだ。
 最近ヨシュアの空き時間が増えたらしいのも、そのせいかもしれない。
 どうしてそうなったのかまでの経緯を俺は知らないし、彼に関しての思うところなど俺にはありすぎて自分でもワケが分からなくなるから、ヨシュアは具体的なことは何も言わないのだろうけれど、そんな変化を見せられては俺だって気にしたくないのに気になってしょうがないではないか。
 彼はヨシュアにとって大切な部下で、それは俺も分かっているし疚しいことなんて何もない。けれど、あの嬉しそうな顔をヨシュアにさせているのは俺ではなくて、そこには俺が介入できる余地などどこにもないことが俺はきっと気に食わないのだ。俺はRGの人間で、今はUGのことについてわからないことだらけなのもあるかもしれない。彼はヨシュアの仕事を助けることが出来るけれど、俺が出来ることは少ない。
 少しは大人になったと思っていた。駄々をこねるだけの、子どもだったときから。けれど、これではあのころから俺は何も変わっていないではないか。
 もやもやとした自己嫌悪に陥りながら、隣ですやすやと暢気に寝息を漏らすヨシュアの顔を見つめる。
 淡い色の睫毛は伏せた頬に影を落とすくらい長くて、整いすぎた造作は作り物めいて見えるけれど、滑らかな白い頬はあどけない子どもの寝顔だ。だけど、俺には滅多に見せることのないオトナの顔をちゃんと持っていて、そのことがまた俺をもやもやとさせた。透き通るような淡色の柔らかな髪に触れようとした右手は、目的を果たさないまま膝の上に落ちる。
 空き時間を犠牲にしてここに来ているくせに、いつまでも寝こけているだなんてあんまりじゃないだろうか。少しはじっくりと俺の顔を見ていけと言ってやりたい。きっと、情けない顔をしているに違いないのだけれど。
「……」
 敵前逃亡した臆病な右手を眺めながら、ふと思い立って、今度もヨシュアを起こさないようにして慎重に立ち上がった。


 浮上する意識の中で、肩にかかる心地良い重みを感じる。
 ゆっくり目を開けると、僕に凭れる格好でネク君が寝息を立てていた。明るい栗色の髪の毛がさらさらと首筋を撫でて、くすぐったい。お互いの膝にかけて、覚えのない毛布が一枚被さっている。
 ぼんやりした頭で時計を見ると、僕が今日この部屋に訪れてから随分と時間が経ってしまっていた。洗濯物を畳み終えて、少しだけ腰を落ち着けるつもりでソファに座ったのは覚えているのだけれど、隣で寝ているネク君を見るに僕は随分と寝坊してしまったようだ。
 これでは何のために来たのかわからない、と思わず溜め息を吐く。それでも彼には申し訳ないけれど、そろそろ行かなくては。
 そうっと、慎重に彼を支えながら立ち上がり、そのままソファの上に寝かせた。
「ん……」
 起こさないように細心の注意を払ったつもりだったのだけれど、毛布をかけ直す間にむずがるように身じろぎしたネク君はすぐに目を覚ましてしまった。
「……ヨシュ、ア」
「ごめんね、起こしちゃって」
 ふるふると首を振りながら身を起こして、目を擦る彼は小さな子どものようだ。そんな彼を見てつい抱き締めたくなったりもしたのだけれど、そろそろタイムリミットだ。
「も、行くのか?」
「うん……すぐ出て行くから、寝てていいよ。毛布ありがとう」
 そう言ってから玄関に向かうと、焦ったような彼の声が背中から聞こえる。
「あ、メシは?」
「ごめん、今日はちょっと」
 もう行かなくちゃ、と言いかけて、目に入った玄関の様子に言葉が途切れた。
 別に、扉が消えてなくなっていたとか、不審者が立っていたとかそういうことではないけれど、普通の家のドアがこんなことになっていたら多分誰でも自分と同じような反応をするだろうと思う。
 内側から扉を施錠するためのつまみからドアノブ、扉と扉横の壁にかけて、大きくバツを描くようにべったりとガムテープが貼られていた。
 使われているのはたった二枚のガムテープで、ぐるぐる巻きにされていないだけマシなのかもしれないけれど、明らかに扉を開閉するのを阻害する意図が感じ取れる。
 恐る恐る近づいて凝視してみたものの、触った感触も本物でどうやら見間違いではないらしい。
 誰がこんなことを、というのは愚問だ。この部屋の中には自分ともう一人だけしかいないのだから。
「ネク、く」
 呆然と立ち尽くしたまま振り返ると、部屋の境目にネク君が立っていた。先ほどまで自分の膝にもかかっていた毛布を片手に引きずって、なんだか酷く悲しそうな顔をしている。
 ぺた、ぺた、とこちらに歩いてくるネク君を見ても、どうしていいやら分からず動けない。
 ネク君の足が玄関マットを踏んだ辺りで、掴んでいた毛布がぱさりと落ちた。
「ご、めん」
「ネク君?」
「自分でも、なんかもう、よく分かんなくて」
 泣きそうな声でそう呟くネク君の頬に手を伸ばそうとした途端、飛び込むように彼が抱きついてきた。
 バランスを崩しかけて後ろの扉に凭れると、かたん、と頼りなく金具が軋む音がする。
 驚いて何か言おうと口を開きかけると、寄せられたネク君のくちびるに塞がれた。ついばむように何度か触れ合わせて、すぐに舌を絡め取られる。
「ん……んぅ……」
 いまいち状況が把握できずにいたのだけれど、何度かくちびるが離れた際に目に入った彼の膝は震えていて、思わず抱き締めるように背中に腕を回してしまった。随分前にもこうして玄関先でキスを強請られたことがあるけれど、現在は彼の方が子どもの姿の自分よりもわずかばかり背が高い。今の彼はあの時のように爪先立ちになる必要がないのだな、と思うと何となく感慨深かった。
 そのまま、ちゅ、ちゅ、と音を立ててしばらく口づけを続けると、彼は俯くようにしてくちびるを離した。
「……どうしたの?」
 下から覗き込むように顔を見上げても、やっぱりネク君は悲しそうな顔をしている。は、とわずかに上がった息を漏らす彼に何も言えずにいると、唐突に腕を引っ張られた。
「う、わ」
 そのまま後ろに倒れこもうとするネク君を、咄嗟にかばうように頭の後ろに腕を回す。反射的に身体が動いたからよかったものの、倒れた彼の背中の下には玄関マットに重なった毛布しかないのだから、危ないことこの上ない。
「ネク君、危ないよ……何して」
 言いながら、彼の上にのしかかる形になってしまった体勢から身を起こそうとすると、今度はそれを阻むように彼の腕が僕の首に巻きついた。ぎゅ、としがみつかれると、身動きが取れない。
「ヨシュア」
「ね、ネク君」
「行くな」
 そのまま緩く開いた僕の襟元を探るようにちゅ、と首筋に口づけられて、さすがに焦った。見上げてくる彼の青い瞳は、欲情したように熱っぽく潤んでいる。
 もう随分と当初の帰る予定時間をオーバーしていた。このまま彼を引き剥がして、ベランダから出て行くこともできるだろう。ガムテープ二枚だけの抵抗なのだから、玄関から出て行くのだって容易なはずだ。
 けれど。
「行かないで」
 積極的に求める動きとは裏腹に、しがみついた腕が震えている。
 切実で泣きそうな声音と、零れそうに揺れる青を振り払って仕事に戻れるほどには、自分は冷徹にはなれないらしい。
 困り果てた挙句、吐き出す溜め息と共にずれ込んだ仕事を事務的に計算しながら、組み立てた予定を頭の中で書き換えた。
「ここでするのかい?」
 苦笑しながら呟いた僕の言葉に一瞬ネク君は驚いた顔をしたけれど、すぐに縋るように胸元に額を押し付けてくる。
「ん……」
 こくりとうなずく動きに今度は僕の方が意外に思ったのだけれど、彼がそうしたいのならば構わない。
「そう」
 もう一度だけ緩く溜め息を漏らすと、ぎゅうぎゅうとしがみついてくる腕を緩めさせて、行為の始まりを告げるようにそっと彼のくちびるに口づけた。



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