メグミがバッジから出てこなくなって一週間経った。
 彼のソウルは今俺の手の中にある白いバッジに定着してあるのだから、彼にとってはこの中が本拠地と言えるのかもしれない。
 それでも自分の仕事が追い込みのとき以外、なるべく日に一度は彼をバッジの外に呼び出すようにしていた。犬の散歩ではないが、少しくらいは外界の空気に触れさせた方がいいと思ったからだ。
 バッジの中の空間というのは狭いのか広いのか、暑いのか寒いのかすら分からないが、こんな俺の手のひらに収まる程度の場所に閉じこもっていてはカビが生えるに違いない、というのが俺の独断と偏見である。
 なのに、彼の様子がおかしくなったあの一件以来、この手乗り龍はバッジの中に閉じこもったまま呼びかけにすら応じなくなってしまった。
 何度名前を呼んでも答えず、ただ沈黙したままのバッジを前にした俺の心境を誰か察してくれないだろうか。己一人しかいない部屋にこだまする自分の声というは、なんとも空しいものである。
 我ながらちゃちな考えだと思いながら、もしかしたらコーヒーの匂いに釣られて出てきたりはしないだろうかと、丁寧に二人分入れたコーヒーカップとバッジをテーブルに置いたこともある。まあ案の定無駄に終わったのだが。
 出来心だったとは言え餌付けまがいの行動に、自分はもしかしたらどこかで彼を飼い犬と勘違いしているのではないかと頭を抱えたくなったものである。一人で飲む二人分のコーヒーというのも大層空しかった。出来れば金輪際ご免被りたい。
 一週間経った今、仕事が一段落しての貴重な時間に次は何をすればいいのかと思い悩む。
 のは、もう既に飽きてしまっていた。ここまで来ては、残るは実力行使だけだ。
 元々自分が飽き性なことは自覚している。音楽製作、映像設計、創作、カフェ経営と仕事の内容にすら糸目をつけないのがその証拠だ。CATと名乗ったのも、そんな自分と気まぐれな猫がとてもよく似ていると感じたからだったことを思い出す。
 相手が不在のままの追いかけっこにはもうとっくに飽きてしまった。
 いつも彼を顕現させるときは名を呼び、返事を待って、お互いの了承を確認してからという自分なりのルールに基づいていたのだが、もうそんな悠長なことも言っていられない。
 自分は猫なのだ。犬のように、『待て』などという芸は出来ないのだから。
「メグミ」
 手の中の冷たいバッジが、かすかに震えたように見えたのは気のせいだろうか。
「俺ぁもう待たねぇからな」
 とん、とバッジの表面を撫でたゆびの延長でそのまま空間をなぞる。なぞった箇所から裂ける空間の零れる青にも構わず、空間と空間の境界であるその切れ目に手を突っ込んだ。
 腕らしき太さのものが手のひらに触れ、逃げる間を与えぬうちに掴むと力任せに引っ張った。
 そうすると、見慣れた姿の彼が驚いた様子で顔を出し、バランスを崩したらしくそのままこちらに倒れこんでくる。
「お、っと」
「っ……」
 別空間から無理に引きずり出したせいでよろける彼の身体を受け止めると、支える腕を添える暇もなく胸を押され、拒絶された。ずれたサングラスの隙間から覗く金の光が揺れていたのは気のせいではないだろう。
「俺はあんまり気の長いほうじゃねーんだ」
「……」
「一週間も待ったなんて、我ながら快挙だぜ。けどいい加減タイムリミットだ」
 狭い部屋でわずかばかりの距離をとろうと、逃げるように身を離す彼を追わずに見守る。自分との間にソファ一個挟んだだけの、ほんの気持ち程度離れた場所で立ち尽くす彼は、主人を失って行き場を失くした犬のように頼りなく見えた。
「ここにおまえの場所を無理矢理用意したのは俺だが、ワケもわからんまま立て篭もられちゃ気が散ってしょうがない」
 お陰で、ここ最近は仕事の効率にさえ影響が出ている。こんなことで、だ。彼がいつも通りでないだけで、自分は簡単に冷静さを失ってしまうのだと気づかざるを得なかった。CATの名が聞いて呆れるというものだ。
「こんな狭っ苦しい部屋が嫌になったのか、鬱陶しい俺に愛想が尽きたのか、ソウルごと霧散して消えちまいたくなったのか分からんが、なんでもいいからはっきりしてくれねーか」
 消滅したはずの自分とコンポーザーの世界との間で思い悩んでいたのだろう彼が何も言わないのを、これまではそれでも構わないと思っていた。何も言わずにここにいる彼と、何も聞かない自分。だが、その均衡をついに崩したのは彼なのだから。
「だんまりのままじゃ俺にゃわかんねぇんだよ」
 言葉通りそれまで一言も発しなかった彼が、自分がそう言った途端ぴくりと頭を揺らした。
 先ほどまで僅かにその瞳の色が覗いていたサングラスの位置はもう元に戻されていて、今の彼の表情は読めない。
「何も……」
「?」
「何も言わないのは君の方じゃないのか」
 ぽつりと呟くように落とされた彼の言葉に首をかしげる。
 その動作が気に食わなかったのか、もどかしそうに握られた彼の拳にぎゅ、と爪が食い込むのが見えた。
「君、が……消滅するはずだった私を、どうして生かすような真似をしたのか……きっと、君の、た、ただの気まぐれなんだろうと思っていた」
 常ならば流暢に、淀みなく言葉を操るはずの彼の声が震えていることに驚く。
「それでも、一度は消えた身なのだから、君が私をどうしようと構わないと……そう思っていたんだ。なのに、君と過ごすうちに、段々分からなく、なって」
「メグミ」
 声をかけても、神経質な動作で額を押さえる彼の言葉は止まらない。
「世界から不要になった私が、どうしてここにいるのか。君が、どうして、私を傍に置いてくれているのか……し、知りたい、と」
「めぐみ」
「き、君といると、私が私じゃなくなるようで……こんなことは、考えないよう、に、していた……はずなんだ、けど、自分から聞くのは、こ、怖くて……君が、どう思っているのか、分からなくて」
 顔を覆うように俯いてしまった彼の表情はやはり見えなかった。けれど。
「あの方の、許しも得ずに、私は」
 彼は恐らく、今にも泣き出しそうな顔をしているのではないだろうか。
「早苗、私は……どうしてここにいる?」
 声というものがもし目に見える形であったなら、それは指先一つで簡単にへし折れてしまいそうなほどか細い響きだった。
 彼の口から紡がれる己の名を聞くのは酷く久しぶりのように感じた。
 彼と自分の間を隔てている距離が邪魔で、ソファを避けると大股で彼の元に歩み寄る。呆然とした体で立ち尽くす彼は逃げ出しもせず、そこから動かずにいた。
 それから彼を驚かせないように慎重に、握り締めすぎて白くなった拳を包むようにそっと手を重ねる。
「っ」
 一瞬逃げるように手を引きかけたけれど、徐々に緊張が解けるようにおずおずと彼の手のひらから力が抜けていくのが分かる。ほぐれた指先を柔らかく絡めながら、頼りなく俯く彼の肩を抱き締めたいと思っている自分をはっきりと自覚してしまった。
 これは、なんというか、参ったな。こんなときに気がつかなくてもいいだろうに、と自分に毒づいてはみても後の祭りだ。
 困り果てた挙句、あー、と言葉に詰まったときのいつもの口癖が口をついた。
 覚悟を決めるように息を吸い込んでから、緩くため息を吐く。
「メグミ、俺は」
 俯く彼の丸いつむじを眺めていると、なぜだか彼が酷く幼い子どものように思える。
「おまえは俺の立場をはっきりとは知らないまま付き合ってただろうが、俺はプロデューサーの目でずっとおまえを見てた。死神から上がって、指揮者としてあの方に、この街に献身するおまえを尊敬してたし、おまえがこの街に抱いてる思いには少なからず親近感も覚えた」
 俺もなんだかんだで結局この街が好きだったしな、と照れ隠しのように口をついた言葉はなんとも気恥ずかしく思えるものだったが、なぜかするすると言葉にできた。
 この後に口にしなければならないことのほうが、よっぽど恥ずかしいものだからだろう。
「あー、だからだな、俺ぁ」
「……」
「おまえに……情が移っちまったっつーか、なんつーか」
 段々自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。
「おまえを、助けたいと思ったんだよ」
 ああ、そうだったのか、と言葉にしてからやっと自分でも理解した。自分は彼を憎からず思っていて、ただ単純に助けたかっただけなのだ。
 彼は俺が何も言わないと言っていたけれど、言わなかったのではなく、言えなかったのだ。なにせ、自分でも自分の行動を計りかねていたのだから。
 それまでの彼を見ていたからこそ、コンポーザーが彼を切り捨てたことをどうしても割り切れなかった。やるせない思いのまま彼のソウルを繋ぎ止めたあのときから、まさか自分がこんな感情を持つことになるとは予想もしなかったが。
「……」
「あー、メグミ?」
「……君が」
 ずっとだんまりを貫いていた彼の突然の呟きに、思わず姿勢を正す。
「君が、そんな風だから……私は……」
 言葉の切れ目と共に、とす、と彼の頭が自分の肩に乗せられるのを、ただぼうっと見下ろしていた。
 艶やかに波打つ髪が頬をくすぐるのを、拒むという選択肢は自分の頭の中にははなからなかった。
「君といると、私が私でなくなるんだ。あの方から最後に頂けた慈悲だけで、十分だと思っていたはずなのに……考えてはいけないことを、考えてしまうんだ」
「めぐ」
「分不相応な望みを、私は……自分が、保てないんだ。き、君が、どんどん私を暴こうとするから」
「メグミ」
「どうしていいのか、もう、わからないんだ……」
 助けを、求められているのだろうか。何も言わずに、ただ気丈に佇んでいた彼の、これはSOS信号なのだろうか。
 そうじゃなくても構わない。それでも、ただ俺がしたいことはもう決まっているのだから。
「メグミ、俺はおまえを助けたい。それは今も変わらない」
「早苗……」
「だから、まだ隠してるもんがあるなら言え。全部吐いちまえ」
「だが、私は」
「あの方に不都合なことだって構わない。あの方の一存なんか関係ない。おまえが言ったことは、俺が全部責任取ってやる」
 ここは俺のテリトリーだ。あの方に遠慮する必要など、どこにあるだろう。
「だから言え」
 そのせいで彼の胸のつかえが取れないようなことになるならば、それこそあの方へ反旗を翻すことになったとしても構わないと思った。
「わた、私は」
 ぎゅ、と絡めたゆびを強く握ってから、しばらく間があった。言おうか言うまいか、言葉にしても許されるのかどうか迷っているのが指先から伝わってくる。大きく呼吸を整える彼に、促すように強くその手を握り返してやった。
「私は、ここにいたい」
 震える声は、それでもまっすぐ俺の元に届いた。
「君と、二人で……もう一度あの方にお仕えしたい」
 あまりの畏れ多さからか、最後は涙声に近くなった彼の言葉を、今すぐこの羽で飛んで行ってあの方の元に投げつけてやりたかった。

「ああ、やっと言ったね」

 突然舞い降りた柔らかな声音に、弾かれたように彼が顔を上げる。思わず自分も声の聞こえた方向に振り返った。
「僕はずっと聞いてたのに。メグミ君、心の中でも何も言わないんだもの」
 ずかずかと、文字通り他人の心に踏み入るようなこんな発言が平気で出来る人物を、俺は今この渋谷では一人しか知らない。
 モノトーンでまとまった部屋の中に、白く浮き上がる影。
「あ、羽狛さん。お邪魔してるよ」
 ひらひらと手を振る人物の背格好は幼く、それでも多少見上げなくてはいけない位置でふわりと浮いている。
 この方が多少突飛な行動をとったところで今更さほど驚きはしないのだが、今回ばかりはさすがに肝が冷えた。
 こんな所までやすやすと入り込まれながら、声をかけられるまで気づかないとは。末恐ろしい方だ。それとも自分の天使としての勘が鈍ってしまったのか。やれやれ。
 俺に凭れるように身を寄せていた彼はすぐに一歩後ろに下がると、恭しい動作でその場に跪いた。それまでの動揺した様子の彼からは想像もつかないような滑らかな動作に、それはもはや身体にしみついているのだろうと思わせた。
「お久しぶりです、コンポーザー」
「ああ、やめてよメグミ君。そんなに畏まっちゃって。ここ羽狛さんの家なんだからさ」
「申し訳ありません、私は……」
 尚も顔を上げない彼の元に、ふわ、とコンポーザーが舞い降りる。地に足をついたコンポーザーの身の丈は、自分の頭一個分も小さい。幼い子どもに彼のような大人が跪いている光景というのは、なんとも奇妙な絵面だ。
 それでもこの方が有する力は強大で、もっとも恐るべき方だということは彼と俺が一番よく知っている。
「もういいんだよ」
 そっと、コンポーザーの小さな手がメグミの頭を撫でた。
「悪かったね、メグミ君」
「コンポーザー、何を」
あんな表情で謝罪をするコンポーザーを、俺は初めて見る。
「ちゃんと全部見てたし、聞いてたから」
 その表情は教会に安置された聖母像を髣髴とさせて、ああこれは俺の出る幕はないなと悟った。コンポーザーは俺にこの場を見届けろと仰っている。
 メグミも早く顔を上げりゃいいのに。滅多に見れないぞ、あの顔は。
「メグミ君がいないとね、書類の整理が面倒なんだよ」
 メグミがゆっくりと顔を上げたときには、もう既にコンポーザーの表情は悪戯な子どものそれに変わってしまっていた。相変わらず、変に運がないやつだ。
「随分遠回りしちゃったけど」
「……」
「また僕の役に立ってくれるかい?」
 それは随分と傲慢な言葉として俺には響いたのだけれど、メグミにはそうではなかったらしい。水を求めて砂漠を延々と放浪した先にオアシスを見つけたヤツは、きっとこんな顔をするんじゃないだろうか。たぶん。呆然とコンポーザーを見上げるメグミの表情を見て、なんとなくそんなことを思った。
「この命に、換えましても」
 メグミは再び頭を垂れると、はっきりとそんなことを宣言した。
 ああ、またそんなこと言っちゃって。そんなんだからこの方が付け上がるんだぜ。
「ありがとう」
 はぁ、と思わず漏れるため息と共に、やれやれと肩をすくめた。これでひとまず落着ってことでいいんでしょうね?
 視線の先のコンポーザーは満足そうな顔をしている。はぁ、とまたため息が漏れた。
 遠回りか。それはまた、言い得て妙というか、上手いこと言ったものだと思う。コンポーザーとメグミの関係は、まさしくその一言に尽きる。見ているこちらの方が焦れてしまうほどだった。お互いに相手のことを気にかけていながらも、あのゲームの一件があってはお互いに自分から手出しすることなど出来なかったのだろう。それなら、自分の仲介も少しは意味のあるものだったのだろうと一人満足することにする。
「羽狛さんもね」
 膝をついたままのメグミを立たせながらそんなことを言うコンポーザーに、疑心から思わずいぶかる顔になった。
「別に、俺は何も」
 言いかけて、ああいや、と思い直す。ここで自分が遠慮しなければならない謂れなど、何もないではないか。
「まあ……多少小細工はさせてもらいましたけど」
「ふふ」
 この方には変に畏まった物言いよりも、正直に接した方が喜ばれる。
「羽狛さんにはお世話になってばっかりだなぁ」
 メグミに居場所を与えることが出来るのはこの方だけだ。
 それでも、この方がどんなに許そうと、彼が望まなければ叶わない。
 その彼に望みを持たせることができたのは、自分なのだと。そのくらいは自惚れても構わないだろう。
「全くです。今度メシのひとつでも奢ってもらわにゃ、割に合いませんよ」
 それでこそ、わざわざ規律を犯してまで彼を繋ぎ止めた甲斐があったというものだ。
「……コンポーザーは」
 コンポーザーと俺のくだけたやり取りを見て多少緊張がほぐれたのか、メグミも遠慮がちに口を開いた。
「うん?」
「少し、お変わりになられましたね」
「そうかな?」
「以前より、雰囲気が柔らかくなりました」
 その言葉に、コンポーザーの表情が困惑したものになる。言われてみれば、以前のこの方はもう少し張り詰めてはいなかっただろうか。どこの誰がこの方を解きほぐしたのやら。
「僕ってそんなにピリピリしてた?」
「いえ、そういう意味では」
「でも、メグミ君だって変わったよね?」
 今度は逆にメグミが首をかしげる番だ。
「んー、なんていうか、前は血統書付きのお高くとまった高級犬っていう感じがよかったんだけど、今は何となく飼い犬ならではのよさがにじみ出てるっていうか」
「は……」
「メグミ君、可愛くなったよね」
 何を言っちゃってるんだこの人は。
 呆然とするメグミをよそに、呆れる俺に意味ありげな視線を送られても困るのだが。
「うん、でもメグミ君の責任は羽狛さんが取ってくれるんだっけ」
 そんなことも言いましたけど。この方が全部聞いているといったら、本当に最初から最後まで余す所なく全部なのだ。今更驚きも出来ない。
「じゃあ、メグミ君はここから通いってことでいいかな」
「は?」
「うんうん、そうだ、そうしよう。じゃあ、よろしくね」
 メグミ君はまた明日いつもの時間にねー、と適当なことを言いながら、爆弾を投げた本人はあっさりと姿を消してしまった。消えてしまったからには、メグミを持って帰る気はない、らしい。
 あの方が去った後はさながら焼け野原……ではないが、呆然と立ち尽くす男二人はなんとも間抜けだったことだろう。気まぐれという意味で言うならば、一番の猫は自分よりもあの方なのではないか、という疑念が頭をもたげてはぐるぐると離れない。
 責任、ね。
 いくらか不安げな面持ちでこちらを見上げてくる彼と、思わず顔を見合わせてしまった。
 とりあえず、今現在目下のところ、自分と彼の望みは合致しているとは思うのだが。
 ……さて、どうしたものやら。



メグミちゃん、内縁の妻になるの巻。 20090124

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