ヨシュアの驚く顔が見たくて隠していたことではあった。 初めのころはしばらくしたら打ち明けよう、と思っていたのだけれど。だんだんと、いつも余裕を崩さないヨシュアの意表をついてやりたくなって、ついに今日まで隠し通してきてしまった。 まあ、もともとあまり会える環境ではないから、よっぽどのことがない限りはばれないだろうと思っていたのだが。バイトしてることすら、言うまで気が付かなかったし。 とはいえ正直、ここまで驚いているヨシュアが見られるとは思ってもみなかった。 「……」 驚きで見開かれた瞳はウサギのようで、何かを言おうとして開かれたらしい口は、結局何も言葉を発さないまま再び閉じられる。窓枠から床に降り立った足はその場から一歩も動かず、冷たい空気が流れ込む窓も閉めないままに立ち尽くすばかりだ。 自分の目論見どおりとはいえ、ここまでいい反応をもらえるとは思わなかったから、逆にこちらが困ってしまう。 「……夜逃げ?」 なんとか驚きから立ち直ったらしいヨシュアの口から、ようやく発せられた言葉に思わず脱力した。 「人聞きの悪いこと言うな」 ぱたん、と白い手で窓を閉めるヨシュアを睨みつける。まあ、何も知らないヨシュアからしたら、そう思われても仕方ないかもしれない。 いや、でも普通この状況を見たら引越しか何かだと思うだろ。なんで俺が夜逃げしなきゃなんだよ。 がらんとした部屋にヨシュアの足音だけがぺたり、と響いた。四隅の壁はキレイに白く、その白を隠すものは俺とヨシュアの影の色だけだ。机も本棚も、ベッドも何もない。 あるのは客間から引っ張ってきた一組の布団だけで、慣れない防虫剤の匂いに入っている俺もなんとなくそわそわする。 何もない部屋の中で、落ち着く場所を求めてヨシュアが俺の横に控えめに膝をついた。 「……一人暮らし、するから……引っ越し、した」 まさかヨシュアがこんなに驚くとは思わず、今まで黙っていた罪悪感が今更頭をもたげる。ぽつりと呟きながら、何となくうつむいた。 「いつ?」 「昨日、向こうに荷物着いた」 「そうなんだ?」 「わ、悪い、黙ってて。その、驚かせようと思って」 「ふぅん?」 ちら、と目に入ったヨシュアの口元は笑っていたけれど、その目がどんな感情を乗せているか確かめられるほどには顔を上げられなかった。 「今日来なかったら、僕は置いてけぼり食らってたわけだ」 やばい、どうしよう。ものすごく気まずい。 一人暮らしがしたい、と両親に伝えたのはもう随分前だ。 そろそろ親元を離れて生活してみたい、というのは俺くらいの歳になると誰でも思うことだろう。 まあ、疚しい理由がなかったのかと言われると、それは嘘になるけれど。 『音操もそんな年頃になったのねえ』と母親はあっさり頷き、父親に話を通してくれた。 最初は渋い顔をしていた親父も、母親と二人がかりで熱心に説得すれば、条件付で何とか頷いてくれた。 いわく、今しているバイトで、無駄遣いせずに言われた金額を溜められたら、ということらしい。もちろん今の成績は落とさずに。 毎月CATのCDを一、二枚買うくらいで、元々無駄遣いできるほどの趣味は持ち合わせていないし、計算は得意分野だ。そのおかげか、一年ほどですんなりと目標金額を達成することができた。 少しバイトの日数を増やせば仕送りを貰わずともなんとかやっていけるだろうと思っていたのだけれど、今度は俺が母親に熱心に説得されて、結局受け取ることになる。今は働くよりも勉強の方が大事だから、という言葉はとてもありがたかった。 そんなこんなで部屋の荷物もすべて送り出し、今日までに到るわけだが。 学生向けの安いアパートとはいえ部屋を決めるのは楽しかったし、一人暮らしということ自体が心躍る言葉だ。 けれど、それよりなにより、バイトも勉強も何とかやりくりしてがんばれたのは、ずっと頭の中にヨシュアの顔がちらついていたからなのに。 そんな寂しそうな顔をするのはやめてくれないだろうか。 「ちゃんとメールも、するつもりだったし」 いや、むしろこれは恨めしそうな、といった方がいいかもしれない。 「に……荷物着いてるし、電気とかも通ってるから、ほ、本当はもう向こうに住めるんだけど」 「へぇ?」 「今日、おまえ来るかなって思って、待って……」 「……そう」 「きょ、今日来なかったら、週末こっちに来て待とうかなとか、思ってた、し」 「……」 無言の視線が痛い。そりゃ、俺の発想もちょっと子どもっぽかったとは思うけど。 でも、ヨシュアが俺のことでこんな風に子どもみたいな拗ね方をしてくれるとは、少し、いやかなり嬉しいかも。俺のこと、どうでもいいわけじゃない……と思っていいのだろうか。 そんなことを言ったら余計拗ねてしまいそうなヨシュアの視線に耐え切れず、ぎゅ、と手の中に握ったものをおずおずと差し出した。 「これ……」 「?」 突然俺が差し出したものに、ヨシュアはまた驚いたらしい。今日はびっくりデーだな、とかぼんやり思う。きょとんと首をかしげて、なかなか受け取ってくれない。 今日がこの日で、ヨシュアが会いにきてくれてよかったなと思う。まさか俺がこの言葉を口にする日がくるとは。 「く、クリスマスプレゼント」 いいから受け取れ、とヨシュアの手に無理矢理それを握らせる。ゆっくり開かれた掌の上で、小さなそれがきらりと銀色に光った。 「新しい部屋の、鍵」 ぼそりと呟く俺を驚いた様子で見つめるヨシュアと、上手く目が合わせられない。 「お、おまえに一番に渡そうと思って」 まだ親にも渡してないんだからな、ともごもご告げると、なぜかヨシュアは神妙な顔になった。 「……誰の?」 「俺以外に誰がいるんだよ!」 今まで何の話を聞いていたんだ、と憤ると、くすくすと漏れる笑いでまたからかわれていたのだと気づく。 「ごめん、冗談だってば」 「全然笑えないっ」 「いいの?」 いいも悪いもあるか。 「おまえ以外に、渡すやつなんかいないだろ……」 思わずむくれてますますうつむく俺の頭を、ヨシュアがそっと撫でる。 本当はずっと気になっていた。いつもいつも、ヨシュアが俺に会いにくるのは部屋の窓からだ。 両親がいる限りは玄関で迎えるのは到底無理だから仕方ないことなのだけれど(端的に言うと疚しいことをしに来ているわけだし)、入ってくるこいつにしてみたらそれでは嫌な気分になるのではないかと心配になる。 だから、ヨシュアが一方的に会いに来ているのではなくて、ちゃんと俺も待っているのだとなんとか伝えたかった。 「ヘッドフォンも、もう持ってこなくていいし」 彼の首元で細い髪の絡まる機械は、それでもヨシュアなら大事にしてくれると思うから。そんな理由、もういらないのだ。 「つ、次は、ちゃんと玄関から入ってこいよ」 ヨシュアが一人になりたくないときに、帰ってこられる場所が作りたかったから。ちゃんとドアを開けて、堂々と入ってきていいんだって、俺はちゃんと迎え入れてるんだってわかって欲しかったから。 ヨシュアはまた驚いたように息を詰めると、俺の頭を撫でるのを止めて手の中の小さな鍵を恭しく両手で包んだ。 「もしかして……だから、一人暮らし?」 「う」 改めて聞かれるとものすごく恥ずかしいのだが。さすがにそのために一年も頑張ったんだなんてことはとても言えない。 「これは、自惚れてもいいのかな」 自惚れるも何も、それ以外に理由なんてあるものか。 「わかってるくせに、聞くな」 恥ずかしくてたまらないのに、ヨシュアが今どんな顔をしているのかだけが気になって恐る恐る顔を上げた。 上げてから、後悔した。 視線の先にあったヨシュアの瞳はあまりにも優しくて、困ったような、泣きそうなような、嬉しくてたまらないような、とても俺には勿体無い表情をしていたからだ。 「うん。ありがとう」 そう言って微笑むと、ヨシュアはとても大事なものを扱うような丁寧な手つきで、鍵を上着のポケットに落とし込む。外はもう凍るような寒さだから、細身でファー付きの暖かそうなコートはヨシュアによく似合っていた。 当たり前ながら布団の中にいた俺はとっくにパジャマ姿で、今のヨシュアに似つかわしくないのではないかと少しばかり恥ずかしい。 もそもそと布団を握り締める俺をよそに、ヨシュアは鍵を入れたのとは反対のポケットから何かを取り出した。手のひらにおさまるサイズのそれは、ギフト用のちいさなピローボックスのようだ。 「じゃあ、僕からもクリスマスプレゼント」 「えっ」 驚いて思わず漏らした声に、ヨシュアがくすくすと笑う。 「ふふ、意外だった?」 「いや……こういうの、興味ないと思ってた」 「心外だなぁ。ぼく、こういうイベントごとはちゃんとするほうだよ? 去年は忙しくて会いに来られなかったけど……ちゃんと用意したんだよ」 そのまま優雅な細い指が箱を開けると、中から出てきたのは一組のフープピアスだった。小ぶりで銀とも金ともつかない不思議な色のそれが、ヨシュアの手の上できらきらと光る。指先ほどの大きさの胴体に細やかな彫り模様が入っていて、どう見ても安物には見えない。 「ネク君、あんまりピアス替えてなかったでしょ?」 「へ……あ……」 「ケーキもロウソクもないけど、そこはちょっと我慢して欲しいな」 ものすごくプレゼントらしいプレゼントが出てきたことに驚いて、気の利いた言葉は一つも出てこなかった。セカンドピアスから替えていなかったのは、ただ単に無駄遣いできなかったから、だけど。 考えてみたらプレゼントなんて貰うのは初めてだ。 ヨシュアがくれたプレゼント。ヨシュアが俺のために選んでくれた。ヨシュア、が。 「さ、さん、きゅ……」 単純な感謝の言葉すら喉に引っかかって、上手く言えない。やばいどうしよう、うれしい、めちゃくちゃ嬉しい。 「これ、外してもいい?」 する、とヨシュアの手がピアスの嵌った耳元を撫でて、冷えたゆびの感触に思わず首をすくめた。 「あ、ああ……」 「痛かったら言ってね」 それくらい自分で外す、と言おうとして言えなかった。それはヨシュアの手つきがあまりに優しかったからで、何も言えずにされるがままになる。 「ん……」 キャッチが外されて、す、とスタッドがホールから抜ける感触になぜかぴくりと肩が跳ねた。 「ぅ、……?」 「はい、これ」 「う、うん」 外したピアスを渡されて、とりあえずパジャマの胸ポケットに押し込んだ。 ピアスの抜けたあとをヨシュアのゆびがゆっくりと撫でて、は、と無意識に息が漏れる。 「ネク君の耳、かわいい」 「あんま、触るなって、ば」 爪の先でピアスホールをくすぐるように遊ばれるたびに、ひく、と身体が勝手に揺れた。ヘンだ。自分で付け外しするときは、こんな風に感じないのに。 「ふ……ん、ん……っ」 今度は少し穴を広げるようにして、フープピアスが挿し込まれる。縦長のスタッドがホールに通されて、慣れない感触にちょっとばかり身体が逃げた。ずるずると薄い皮膚を引きずられるような感覚は、どうやっても慣れない。ヨシュアの手でされるなら、尚更。 「ネク君、動くと危ないよ」 「だ、って」 「ほら、留めるよ?」 ぱち、と小気味いい音がして、ヨシュアの手が俺の耳から離れる。あ、と離れる手を追いかけるような声を出してしまいそうになって、慌てて飲み込んだ。絶対おかしい。名残惜しい、なんて。 もうとっくにホールは安定しているはずなのに、じくじくと熱を持っているように感じるのはどうしてだろう。 「ん……」 そのまま俺の反応を待っているかのように動かないヨシュアに焦れて、長いコートの裾をひっぱった。そのまま寄りそうように胸元に額を押し付ける。白いふわふわのファーが頬を撫でるのがくすぐったかった。 「どうしたの?」 「べ、つに……」 「……感じちゃった?」 笑いを含んだ声音で囁かれて、ああまたからかわれてるなと思ったのだけれど、どうにも胸がいっぱいで憎まれ口の一つも出てきやしない。だから正直に、こくん、とうなずいた。 「あれ、素直だね」 意外そうなヨシュアの声音に、俺は普段どれだけ天邪鬼なんだと呆れそうになる。けれど、それも今更だろうか。 ケーキも、ロウソクだっていらない。ただ、ヨシュアの気持ちがうれしいから。それ以上にうれしいものなんて、他にないから。 「お、まえに……ウソついても……どうせばれてるだろ」 「それもそうだけど、ね」 コートにかけた手でヘッドフォンを外して、もぞもぞと脱ぐように促すと、ヨシュアは素直に応じて袖から腕を引き抜いた。そのまま袖畳みで床に放り出されるコートが気になったのだけれど、残念ながら今のこの部屋には服をかけられるようなハンガー類が何もない。 申し訳ないとは思いながらも、俺の背中を支えながら押し倒す優しい腕の感触に、すぐにそんなことも気にならなくなってしまった。 →次へ |