※性描写を含みます。ご注意ください。 ヨシュアが壊れた。 「好きだよ」 あまりにも突然のことに、咄嗟にそう思った。 ヨシュアはあまりそういう類のことを言わない。 そういう、というのはまあいわゆる『好き』とか『愛してる』とかその辺のヤツだ。 もともと回りくどい言い回しをするヤツなので、あまり直球にストレートに、という言葉自体が珍しいのだけど、こいつは特に『そういう』言葉は意図的に避けている気がした。 冗談のように会話の中で出てくる単語ではあっても、『そういう』意図で言われたのはこいつが俺の部屋に初めて訪れたあのときが、最初で最後だったように思う。 俺は俺でそういうことは恥ずかしくてたまらないくせに、我慢できずに馬鹿みたいにヨシュアに伝えてしまうのだけど、そんなときもヨシュアはただ知ってるよ、と返事をして頷いてくれるだけなのだ。 直接の言葉がもらえないことに不安になるときだってもちろんあるけれど、そんなことは些細に思えるくらいにヨシュアは態度で表してくれていたから、そこまで深刻に考えたことはなかった。 なかったのだけれど、実際に言葉にされたそれはいまだかつてないほどに衝撃だったのである。 あまりの衝撃に、思わず後ずさって、ヨシュアから逃げるように自分の部屋の壁に背中を預けたほどだ。 ヨシュアが部屋に訪問して早々口にしたのが冒頭の台詞で、あまりにも脈絡という言葉からは程遠いと思う。 なのに、ヨシュアは分かっているのかいないのか、ヘッドフォンを充電器に挿しながら俺の反応に不思議そうに首をかしげるばかりで、言葉の意図がまったく読めない。 何のためらいもなくこちらに歩み寄ってくるこいつから勝手に身体が逃げようとするけれど、悲しいかな、背後はすでに壁で塞がれているのである。 「ネク君かわいい」 これも滅多に言われることのない言葉で、残念ながらまったく免疫がなく、勝手に肩が跳ねた。 先ほどから言われる言葉はあまりにヨシュアに、俺にそぐわない気がして混乱する。 「な、なに……」 怖くて、先ほどからヨシュアの目が見られなかったのだけれど、勇気を出して顔を上げてみた。 一瞬で後悔した。見るんじゃなかった。 いつも射るような視線を寄越すスミレ色が、今は言葉にならないほどに甘く、やわらかくこちらを見つめていたからである。 怖い? 「俺、なんか悪いことした……?」 我知らず怯えたように震えだしそうな身体を堪えるように、ぎゅうと握り締めたこぶしに力が入る。 発した言葉も少し揺れてしまって、ヨシュアに動揺を気取られてしまいそうだ。 「どうして? 可愛いから可愛いって言ってるのに」 そんな俺を知ってか知らずか、目の前に立ったヨシュアがかわいこぶるようにまた首をかしげる。 華やかな容姿のこいつがこういう動作をすると、まあ、多少は可愛い、とか思ってしまわないでもないのだけれど、中身を知っていればとてもそこまで純粋に考えられない。 「か、かわいい、とか、言わないだろ、いつも」 普段とそぐわない言葉を吐き出すこいつが、甘ったるい視線を寄越すヨシュアが、怖い。 怯える身体が逃げ場を探すように、余計に背中が壁にはりつく。 「そうだっけ? いつも心の中で思ってるから、言ったつもりになってたんだけど……可愛いよ?」 発せられる声はまさしく猫撫で声とも言えるほどに甘くて、まるで行為の最中に話しかけられているような気分になる。 膝同士が触れ合うほど近くに歩み寄ったヨシュアの手が、とん、と俺の顔のすぐ横につかれた。 そんな風に壁に手をつかれるともう俺には逃げ場が無くて、ヨシュアの腕という檻のなかでびくびくと怯えるしか術がない。 「言、わないと! わかるわけないだろっ」 寄せられたヨシュアの顔があまりにも近くて、逃げるように虚勢だけで怒鳴った。 「そっか……じゃあ言うね?」 それでも俺の虚勢など知らぬそぶりで、ヨシュアはふんわりと微笑む。目の毒だ。 それ以上近づかれると、先ほどから早鐘を打つ心臓がばれてしまいそうだ。 なのに。 「ネク君の、目も、顔も、身体も、全部可愛い……好きだよ」 ヨシュアの言葉は手加減というものを知らないらしく、ゆっくり囁かれた言葉に冗談抜きで心臓が止まるかと思った。 「う、うう……」 途端に情けなくも腰が抜けてしまって、膝からずるずると崩れそうになる。 なんとか壁に寄りかかって座り込んでしまうのを堪えようとすると、差し出されたヨシュアの腕と膝に支えられた。 ますます壁に押さえつけられるような格好になって、あまりの近さに限界まで稼動している鼓動は今にも破裂してしまうんじゃないかと思う。 ヨシュアの言葉はとんでもなく不意打ちで、ヨシュアの声はとんでもなく反則だった。 腰にくる声というのはまさしくこいつのような声をいうのだと思う。やわらかく掠れて、鼓膜に響く低音をお聞かせできないのが残念だ。 できれば、俺も遠慮していたかったのだが。 「いつものすました顔も好きだし、子どもみたいに笑った顔も可愛い。今の、泣きそうな顔もそそるね……どうしたの?」 甘い声と、慣れない言葉に今にも泣き出してしまいそうなのに、ヨシュアはなおも言葉を募る。 こいつはこのままその声と言葉だけで俺を殺すつもりなんじゃないかと思った。 それでも覗き込んできたヨシュアの目はあまりにも邪気がなくて、わざとなのか天然なのか皆目判断がつかない。 「ど、うしたって、お、おまえが、どうした……」 何かに縋っていないと本当に今にも崩れ落ちてしまいそうで、不本意ながらヨシュアの腕を掴む。 そのゆびがぶるぶると震えているのが自分でも分かり、情けなかった。 「僕はどうもしないよ? ネク君こそ、手震えてる……何か変?」 ヨシュアに縋りついているうちの片一方の手をとられ、指先に口付けられる。 そのまま舌が指と爪の間を舐めるだけで、電流が走るような感覚を覚えた。 濡れた指先を熱くする吐息から逃げたくて手を引こうとしても、捉えられた手首はぴくりとも動かない。 「ヘンじゃ、ないけど、っ……やっぱり、ヘン」 そんな風にちろり、と猫のように俺のゆびを舐めるヨシュアの赤い舌など、とても見ていられない。そう思うのに、目が釘付けになる。 「ネク君こそ、ヘンな顔。僕のせいで、そんな顔させてる……?」 そう言って見つめてくるヨシュアの目は、なんというか、いわゆる捨てられた子犬のような目で、こいつがそんな目をするなんて絶対わざとだ、と思う。 思っても、俺にはとてもそれを目の前にして切り捨てることなんてできない。 「ち、ちがうっ! おまえのせいじゃない……お、俺が、なんか、ヘン……」 最後は消え入りそうな呟きになってしまったけれど、ふと漏れた吐息を指先に感じて、ヨシュアが笑ったのが分かった。 そのまま、つ、とヨシュアの舌が指をなぞる。 指の関節を甘噛みされて、手の甲に口付けられただけで簡単に膝が笑った。 ますます支えるヨシュアの膝に身体を預けることになって、こいつの体温に触れている箇所から溶け出してしまいそうだ。 「どこか痛い? どこ? 教えて……撫でてあげるから」 気遣うような声音は疑うのすら申し訳ないほどに真摯に耳に響いた。 けど、心配そうなのはポーズだけで、本当はヨシュアは楽しんでいるのかもしれない、と疑ってしまうのはこいつの日ごろの行いのせいなのだから自業自得だ。 それでも俺はヨシュアの声には逆らえなくて、ぎゅっと目を瞑る。 「わ、わかんな……胸、かも……」 もう身体のどこにも力が入らなくて、自分がどうなっているのかもよくわからないけれど、ヨシュアの声を聞くたびに切なく疼く胸の鼓動が痛いのだけは感じた。 ヨシュアに触れているだけで身体全体がふわふわと浮き立つようで、心地よくて、痛いところなど口に出せる範囲ではそこしか思いつかなかったのだ。 「ここ?」 ぴくりとも動かぬほどに掴んでいた手首をあっさり離して、ヨシュアの手が胸に触れる。 なぶられていた手がようやく離されて、途端に力なくくた、と脇に落ちた。 ヨシュアの唾液で濡れた皮膚が空気と触れて、すーすーする。 でもそんなことも一瞬で忘れるくらい、胸元に触れたヨシュアのゆびが優しくて、その手で痛む胸を撫でられたらどんなに気持ちいいだろうと思った。 だから早く撫でてほしくて、恐る恐るまぶたを持ち上げると、はやる気持ちのままにこくこくと頷く。 「じゃあ、いたいのいたいの、とんでけ」 「っ……」 耳に触れそうなほどにくちびるを寄せて囁かれた言葉は、幼子にするまじないの言葉で、やっぱりこいつは俺を幼稚園児か何かと勘違いしていると思う。 それでも直接鼓膜を揺らす声音と吐息に、簡単に背筋が震えた。 言葉と共に、触れた指先がゆっくりと胸の中心をたどる。 しばらくゆびだけで探るように触れてから、今度は手のひら全体を押し付けて、鼓動を確かめるように撫でた。 その感触のあまりの優しさに勝手に吐息が震えて、全力疾走のあとのような自分の鼓動をヨシュアはどう思うだろうかと不安になる。 それでも、ヨシュアは何も言わずに穏やかな仕草で触れて、俺の鼓動を慰めてくれた。あまりにも心地よくて、自分とこいつの間を邪魔する服の布地がもどかしく思えるほどに。 こんなに優しい触り方ができるなんて、ヨシュアはひどいとおもう。それでも、自分などにヨシュアがそんな風に触れてくれることが嬉しくて、くすぐったかった。 俺を甘やかすそのゆびの動きは見とれるほどに優雅で、もしかして舐めてみたら甘いんじゃないだろうか、ととりとめもなく考える。 ヨシュアの言葉も、触れる体温も、全部が甘くて、今日のこいつは砂糖で出来ているに違いないと思った。 それでもこれだけ美しい砂糖細工を作るのは、上等な職人が何人必要だろう。 この胸を痛ませるのは間違いなくこいつの甘い声なのに、痛む胸を慰めるのもやっぱりこいつの甘い手のひらなのだ。 しばらく手のひら全体で胸を撫でると、少し場所をずらして、ゆびさきが心臓の上をなぞる。 そこは少し前に突然現れた、あの傷アトが残る場所である。 ヨシュアに打ち明けたこととでショックがやわらいだのか、時間の経過と共に傷アト自体はだいぶ薄くなったはずだった。 本当は消えてほしくなどないのだけれど、それをヨシュアに言うと悲しそうな顔をするので、ただ元通りになっていく皮膚を受け入れるしかできない。 それでもまだそこは、服の上から撫でられただけで簡単に身体を跳ねさせる。 「んっ……う、ゃ」 ヨシュアの指が触れるたびに走る感覚は紛れもなく快感で、逃げるように身をよじらせた。 けど、壁に押さえつけられている今の状況では何の抵抗にもならない。 始めはゆびの腹でやわらかく触れたと思えば、爪の先で神経質にくすぐられる。 布一枚隔てた感触がじれったくて、余計に鼓動と身体の震えばかりが大きくなった。 「……ふふ、とんでった?」 最後にふわりとおでこにキスをされて、ヨシュアの指が傷アトから離れる。 それでも手のひらは胸の上に置かれたままで、荒くなった息はきっとヨシュアの手にかかっているだろうと思った。 「……も、もう、へいき……」 何をされたわけでもないのに上がりっぱなしの呼吸が恥ずかしくて、整えようとしても上手くできない。 身体は熱くなるばかりで、ヨシュアの膝に触れた下肢が甘く疼く。 ヨシュアの手のひらに押さえられていなければ、今にも口から心臓が飛び出てしまいそうだ。 「平気? もう撫でてほしいところない? ……ここ、ドキドキしてるよ……?」 それなのにヨシュアのゆびが悪戯に胸元をくすぐるから、余計に疼きが強くなる。 もう身体が言うことを聞かなくて、ふるふると首を振った。 「そこ、ちが……っ」 「じゃあどこ?」 囁かれる声音は怖いほどに優しいのに、ヨシュアは全然優しくない。 「ネク君にそんな顔させたくないんだよ。教えてくれる?」 また俺は、泣きそうな情けない顔でもしているのだろうか。 これだけ身体をくっつけているのだから、自分の状態などヨシュアには手に取るようにわかるはずなのに、知らないふりをする。 さきほどまであんなに優しかった指先が今は意地悪く、また傷アトに触れてきた。 「そこ、じゃ、ない……! いい、別に、触るなっ」 それでも、どこ、と問われて答えられるはずもなくて、涙目になりながらも頑なに否定する。 本当に触れてほしいところなんて、ヨシュアにわからないはずないのに。 と、今まで俺の脚の間に割り入って身体を支えていた膝が、別の目的を持って、俺の股間を押し上げた。 「なら、ここかな? あれ……ネク君、やらしー……どうしてこんな風になっちゃったの?」 硬い膝にぐ、ぐ、と押されて、圧迫感に息が詰まる。 わざとらしい言い方が余計に羞恥を煽って、はしたない自分に泣きたくなった。 「やめ……お、おまえの、せいだ!」 びくびくと跳ねる身体に、勝手に開いた口からはぁはぁと息が漏れる。耳が熱い。 「僕のせい? 僕がしたから、こうなったのかい? ふふ、そうなんだ……じゃあ、どうしようか?」 そう言うと胸に置かれていた手が離れて、そのゆびが俺のくちびるをゆっくり撫でた。 「ちゃんと、セキニン……取れっ」 するするとくちびるに触れるゆびを、反射的に咥える。ねだるように指先を舐めると、ヨシュアが嬉しそうに笑った。 無意識にすり寄せた腰が揺れてしまうのを、恥ずかしいと思う余裕なんてもうない。 「そうだね、ちゃんといたいのいたいのって、してあげないとね?」 言いながら、口腔をくすぐるゆびの動きに喉がひくついた。 ぐいぐいと押し付けられる膝に、ぐずぐずと思考がとけていく。 「んく……ヨシュアのゆび、すき……」 舌をなぶる細いゆびに吸い付いて、ちゅ、ちゅと恥ずかしい音を立てる俺は俺じゃないみたいだ。 甘いんじゃないかと思ったヨシュアのゆびは、いくら舐めても少ししょっぱいだけで、砂糖でできてはいなかった。 でもヨシュアが溶けて消えてしまったら困るから、甘くなくてよかったなと思う。 「そう? じゃあ、もっと噛んでみる……?」 囁かれた言葉に、ひやりと背筋が冷たくなった。 「や、やだ、絶対、無理!」 「どうして? 簡単だよ、ほら、ちょっと力入れればいいだけ……噛み千切ってもいいんだよ」 くすくすと笑う声に泣きそうになる。 ヨシュアは人を傷つけることをためらわない。同時に、自分が傷つくこともためらわないのだ。 だから時折、こんな風に冗談めかして俺にヨシュアを傷つけることを強要するときがある。 どうしてなのかはわからないけれど、俺はそれに一度も応えられたことがない。 何かを確かめているのだろうヨシュアに、何を確かめているのか問うことすらできない。 ただそんなときに、ぼんやりと、ヨシュアを撃つように強要されて、出来なかったあのときのことを思い出す。 あのときから俺は変わっていないのだろうか。ヨシュアはそれを確かめているのだろうか。 でもヨシュアを傷つけるくらいなら、そんなもの、変わらないままでいいと思う。 「出来るわけないっ」 ふるふるとゆるく首を振ると、いつのまにか溜め込んでいた涙が零れそうだ。 零れないように、必死で堪える。 「どうしてそんな顔するの? ネク君だからいいのに」 ヨシュアはときどき、聖母のように慈愛に満ちた表情で恐ろしいことを言う。 どこまで俺が受けいれられるか、試してるみたいだ。 「お、俺は、大切なのは、壊したくない……から……っ」 いつヨシュアに見捨てられてしまうか怖くて、それでも正解なんてわからないから、ただ思うままを口にする。 するとヨシュアは一瞬驚いた顔をして、困ったように溜息をつく。 それでようやく俺は、ああまた間違えずに済んだ、とほっとするのだ。 「ネク君……ごめんね、冗談だよ。泣かないで」 ヨシュアはいつも冗談を本当のように、本当を嘘のように言うからわからなくなる。 きっとまた情けない顔をしていたのだろう俺の口からゆびを引き抜くと、代わりにふわりとくちびるが落ちてきてキスされた。 「じゃあ、ネク君もいたいのいたいの、できるように教えてあげるね」 →次へ |