「やぁ」 聞き覚えのある声に振り向くのを躊躇った。 聞き覚えがある、どころか、もう耳に入れたくないとまで思ったほどに聞き飽きた声だ。 それなのに、あの日から毎日、ずっと聞きたくてたまらなかった声だ。 振り向くべきか否か、目の前のグラフィティを見つめながら考える。 あのゲームが終わってから、この壁グラは俺にとってとても複雑な場所になった。 真実を知ってなおもCATを敬愛する気持ちは変わらなかったし(たとえこの感情が仕組まれたものであったとしても、だ)、この場所に来てグラフィティを眺めているとやはり心が落ち着く。 それでもこの場で自分が殺された記憶は今も鮮明だし、あの柳茶の色彩と過ごした日々や真実は強烈すぎて、今も上手く受け止められない。 本当はこの場所に訪れるのにもいつも躊躇している。 躊躇しても、結局毎日足を運ばずにいられないのだが。 あいつは俺に何を求めて、奪って、放り出したのか、俺はあいつのことを忘れられもしないまま、どうしたいのか、毎日模索するために訪れているのだろうと自己分析する。 それでも当の本人がいなければ、解決のしようなどなかったのだけれど。 あれからあいつは一切姿を見せなかった。俺はずっとその面影を求めて渋谷中を探してた。 あんなことをしておいて俺に見せられる顔などないのかも、と一瞬考えたが、あいつがそんな殊勝なこと思うわけがない。 ただ、あいつにとって俺は駒の一つで、用が済めば空き缶のように簡単に捨てられる程度の存在であっただけなのだろう。 分かっているのに、そう思うたび、ないはずの撃たれた胸の傷が痛んだ。 俺はその程度の存在であったはずなのに、今更顔を見せるなんてどういうわけだろう。 不安と、憤りと、期待で、全てがごちゃ混ぜになって平均化されて、やけに冷静に考えている自分がいる。 言いたいことは山ほどあって、今すぐにでも胸倉掴んで、殴って、問い詰めてやりたいはずなのに、あまりにも予想外の事態に遭遇すると、人間が咄嗟のハプニングに対応するのはとても困難なんだなとよく分からないことを考える。 少しでも身じろぎすればすぐにでも後ろの人物が動き出しそうな強迫観念に襲われて、知らず知らずのうちに身を固くした。 声をかけられたのは先の一言だけだが、気配は消えていないので件の人物は変わらず後ろに佇んでいるようだ。 今振り返らなければ、もう二度と会えないかもしれない。 あいつはとんでもなく気まぐれなのだ。 そう思うと一刻も早く動かなければとものすごく焦った。その気まぐれに縋るような思いで、振り向く。 「……?」 俺に声をかけた人物は、確かにそこにいた。見慣れた所作と佇まいで。 ただ、予想していた人物の姿形そのままではなくて、戸惑う。 確かに面影は残っている。立っているだけで優雅さを感じさせる雰囲気もそのままで。 なのに、明らかに別の人物だ。なぜなら自分の知っているそいつの背丈は自分より少し高い程度で、同い年だったから。 目の前の人物の身長は、自分とそれなりの距離を置いていても、頭一つ分以上は高く見える。 その上、明らかに年上だ。 年齢を感じさせない、というより年齢不詳といった方がしっくりくるような雰囲気を漂わせているが、二十代半ば頃だろうか。 暗色のスーツと対照的にラフな柄のシャツと、鮮やかな色のネクタイがよく似合う。似合いすぎてなぜか腹立たしいほどだ。 あいつじゃ、ないのだろうか。 確かにメロンイエローの髪の色も整った顔立ちも、そっくりなのだけれど、これほどに外見年齢が違えば人違いと言わざるをえない。 「……どちらさまですか?」 ひとまず相手が誰であれ年上なことは変わりないので、念のため敬語を使った。 不信感を隠そうともしない声色に、こちらの戸惑いは駄々漏れだったのだろう。 一瞬驚いた様子を見せると、おかしそうにくすくすと笑い出した。 「どちらさまだと思う?」 質問に質問で返されても困るのだが。 その受け答えも、湛える笑みも、ますます件の人物にそっくりで戸惑う。 「俺のこと知ってるんですか?」 相手がそのつもりなら、無礼を承知でこちらも同じように返した。相手は何も答えない。 物言わぬまま、ゆっくりした足取りでその人はこちらに近づいてきた。 一歩一歩、その人が長い脚を動かすたびに、離れていた距離が縮まる。 その都度なぜか、軽い眩暈を覚えた。 「俺に、何か用事でも……?」 ぐらつく頭を振って、相手を見つめる。それほど長い間ここにいたつもりはないのだけれど、直射日光にやられたんだろうか。 その人が近づくたびに、今すぐにでも逃げ出したくなるような感覚が背筋を駆け上がる。なのに後ずさろうとした足は、動かない。 あと一歩、相手が踏み出せば簡単に手が触れる距離だ。 「よ……」 こちらが呼びかけるより、彼の足が動く方が早かった。 最後の一歩を踏み出したそいつは、子供にするように屈んで、おれの顔を覗き込んだ。 網膜に焼きつくような、スミレ色。 その瞬間、がく、と俺の身体は膝から崩れ落ちた。 「あっ……?」 何が起きたのか分からない。 ただ全身に力が入らなくて、固いアスファルトの上にへたりこむ。へたりこんで尚も支えきれない身体は、今にも地面に倒れてしまいそうだ。 頭がぐらぐらする。 「あは、さすがに代理人とは言え、やっぱりこの姿の僕の波動は強すぎるんだね」 思い通りにならない身体に鞭打ってなんとか見上げると、嫌と言うほどに見慣れた、天才的なくらいこちらの神経を逆撫でする笑顔。 無邪気に破顔する様子は子供っぽさを増して、記憶の中の笑顔と重なった。ますます疑いは確信に変わる。 見下ろすスミレ色と目が合うだけで、びくりと身体が震えた。 「でもちゃんと僕の姿は見えてるみたいでよかったよ。死神の中でも、弱い子は僕を視認することすらできないらしいから」 おかしい。何かが、変だ。空気が。 吸い慣れない、でもよく知っているこの感じ。 スミレ色の空。 「気がついた?」 悪戯な微笑みに細められる、スミレ色。 「ここはもう僕の領域だよ」 UGだ。いつのまに成り代わっていたんだろう。 同一空間でありながら、RGとUGはどこか空気が違う。ゲーム中嫌と言うほど肌で感じたからよく分かる。逆にいうと、ゲームを体験していなければ分からない。説明しようにも、まさに空気が、としか言いようがないから。 三回連続でゲームに参加した自分でさえ、今の今まで分からなかった。 人気のないこの辺りでは、明確な判断材料である人々の視線も乏しいのだから当然だ。 「さすがに向こうでこの姿を保つのは骨が折れるからね。RGの波動だと変換しきれないところも出てくるし」 難しいことは分からないが、彼がこの場に現れた時点から、すでに自分はUGに取り込まれていたということだろうか。 なら今の自分は限りなく霊体に近いものなのかもしれない。俺の肉体は今どこで何をしているのかと疑問が頭をよぎるが、頭がぼーっとして上手く働かない。 波動、と言う言葉で羽狛さんから送られた大量のメモを思い出した。羽狛さんがレポートと称していたそれ。 それはどう読んでもあのゲームの観察記録で、そこに書かれている俺はまるで実験対象そのものの、モルモットのようだった。 敬愛するCAT本人である羽狛さんの正体にも、淡々と実験結果をつづるその文章にも衝撃を受けたけれど、何よりも、きっとあいつも羽狛さんと同じように俺を道具としてしか見ていなかったんだろうと思った、そのことのほうがショックだった。 たとえ羽狛さんが俺をそういう目で見ていたのだとしても、今までの彼の創作で受けた感銘は変わらなかったし、ゲーム中に受けた恩も忘れない。最後のメモの言葉は紛れもなく彼の本心だと信じられる。 何よりも、羽狛さんは違う世界の住人なのだから、元々の考えが違うのだろう。相容れない考えの人たちと衝突して分かり合おうとするのが、今を楽しむということ。 教えられたその通りに考えれば、ごくごく冷静に受け入れることができた。 じゃあヨシュアは? 分かり合う前に、ヨシュアは何も教えてくれなかった。 ゲームが終わる直前のあの行為にはどんな意味があったのか。俺の言葉は何も伝わらなかったのか。 どうして今更、俺に会いにきたんだろうか。 とりとめのないことばかり考えて、目の前の事象をうまく受け止められない。 ただ、ずっと呼びたくて、呼びかける相手のいなかった名前が、するりと漏れた。 「ヨシュア……?」 幼子を褒めるように、スミレ色が優しい微笑みに変わる。 「ご明答。ちゃんと覚えててくれたんだ、いい子だね」 忘れるわけがない。忘れられないようにしたのは、ヨシュアなのに。 俺の気持ちなんて知ったことかというひどい言葉に、ぎゅうと心臓が狭くなった。 褒めるように伸ばされたゆびが頬に触れて、身体が跳ねる。 「そんなに怯えなくても、この場で取って食ったりしないよ」 ゆっくりと撫でるゆびの動きに、がくがくと身体が震えた。くちびるから細く息が漏れる。 ずっと会いたかった。目の前にあるスミレ色に射抜かれてしまえば、今までの葛藤など紅茶に溶けいく角砂糖ほどに脆いものだ。 すぐにでもその胸に飛び込みたかったのだけれど、身体が言うことを聞いてくれない。 戸惑うように見つめると、ああ、と気付いたようにヨシュアが呟く。 「あんまり波動が離れてるとプレッシャーがかかっちゃうんだよ。まあ、でもいいよね。今のネク君、おとなしくて可愛いし」 どうでもよさそうに一蹴されてしまえば、俺はヨシュアの次の言葉を待つしかできない。 そろそろ思考が鈍くなってきて、正常な受け答えができるかわからないのだけれど。 「さて、挨拶も済んだし……ネク君てばいつも僕を探してるのに、本当の僕も知らないままじゃ可哀想かと思って会いに来たんだよ。用事はそれだけ。だから、このままネク君をRGに戻すこともできるんだけど」 羽狛さんのレポートの『若年化』という単語が頭をよぎった。 ああそういうことか、と頭のどこかで納得する。 あの文章には難しい言葉が多すぎていまいち理解しきれなかったのだけれど、目の前のヨシュアの姿を見てやっと分かった。百聞は一見にしかずとはよく言ったものだと思う。 首をかしげて問いかけるような視線は、間違いなく俺の答えなど分かりきっているはずなのに。 「僕はそろそろ帰ろうと思うんだ」 悪戯な微笑みに、風に遊ばれてキラキラと光る柳茶の髪。 間違いなく、その色に遊ばれているのは俺なんだってこと。 「ネク君はどうする?」 ヨシュアはいつもそうだ。 自分で誘って、導いて、銃を持たせるくせに、最後に引き金を引くかどうかは俺次第なのだ。 そして、あのとき引けなかった引き金を、俺は今引こうとしている。 一も二もなく、スミレ色を見つめたまま叫んだ。 「つ、連れてってっ……」 叫んだつもりの声は、腹に力の入らない今では弱々しいものになった。 それでも見上げた瞳は優しくて、よくできました、と聞こえない声に囁かれた気がする。 「物わかりのいい子は、好きだよ」 伸ばされる腕は俺の知らないオトナのもので、でも間違いなくヨシュアの腕だ。 言うことを聞かない身体を叱咤するように、抱き上げる長い腕にしがみつく。 じく、と撃たれた心臓が痛んだ。 →次へ |