「落し物を届けにきたよ」

 何しにきた、とつっけんどんに発した第一声に返ってきたのはそんな台詞だった。
 相変わらずにやにやとイヤミな笑顔でそう言う奴の表情は、嫌になるくらい見慣れたもので、同時に痛いほどに探し求めたものだ。
 あのときから。
 そいつは風に揺れるカーテンが視界にちらつく俺の部屋の窓枠に、月をバックに楽しそうに腰掛けている。
 寝る前の戸締りはいつもちゃんとしてるんだけどな。
 こいつに常識などは通用しない、ということはいつの間にか開錠された窓の鍵が物語っていた。
 寝ようとしてベッドに腰掛けた体勢で止まった俺を、こいつは楽しそうに眺めている。
 俺は、視線を逸らして窓枠を見つめた。

 今更。
 本当に今更何をしにきたんだ、と意思表示するように顔をしかめてやる。

 ところがこれもいつものことで、俺が嫌そうにするほど、こいつは楽しそうに笑顔を輝かせるのだ。
 嫌なやつだ、本当に。
 前代未聞の3回連続で行われた死神のゲームから、もうそれなりの時間が経っている。
 それはつまりこいつがコンポーザーという正体を明かし俺の前から去ってから、ということだ。
 それなりというのは、学ランだった俺の制服が、ブレザーに変わる程度に。
 俺はこいつにゲームをしかけられ、否応なくグリップを握らされ、そして銃口を向けることすら躊躇った俺に引き金が引けるはずもなく負けた。
 負けたはずなのに、渋谷を崩壊させたがっていたこいつの意思に反して渋谷は今だ健在のままだ。
 単に気が変わっただけなのか、それとも渋谷を崩壊させようとしたことすらこいつの気まぐれだったのか、俺には分かるはずもない。
 分からないまま、ただ渋谷を歩き、家に帰り、日常を過ごした。
 いつだって俺にはこいつが何を考えてるかなんて分からなくて、振り回されておしまいなのだ。
 だからUGからRGに帰ってきたあとも、姿を見せないこいつを探して、求めて、渋谷を彷徨った。
 戻ってきた日常に追われながら、シキたち新しい友人に恵まれながら、いつだってどこかにこいつを探している俺がいた。
 あの時、何のためらいもなく俺に銃口を向け、引き金を引いたこいつの姿を俺は絶対に忘れない。笑っていた、こいつの顔を忘れない。
 忘れようとしたって、その瞬間は未だに夢に見るほどで、忘れさせてなどくれない。
 悪夢といって差し支えないものである。
 いつでもこいつを探して、ときに安眠すら妨げられて、うなされて、俺はもうほとほと疲れてしまっていたのだ。
 こいつが何を思っていたかなんてどれだけ考えても分からなくて、今更こうして俺の前に現れた目的なんて知る由もない。
 引き金を引く瞬間のこいつの笑顔の理由すら俺に計れるキャパシティを超えていて、だから、今のこいつの笑顔の意味だって分からない。
 分からないから、ただ窓枠を睨みつけて言葉を待つしかなかった。
「ネク君の新しい門出だったから喜ばしいことだけど、不法投棄はよくないな」
 聞き捨てならない言葉に思わず顔を向ける。
 にこにこなどと可愛らしいものではなく、やはりにやにやと嫌な笑いを浮かべたまま発せられた言葉は咄嗟には把握しがたいものだった。
 どうしてこいつはいつもこう回りくどい言い方をするんだ。直球じゃだめなのか。
 そういえば落し物とか言ってたな。最近落としたものなどあっただろうか。
 もともと自分の私物にさほどこだわるタチではないため、何か落としていても気づかないかもしれない。
 が、よく見るとこいつの首筋に似つかわしくない見慣れたものがまとわり付いているのに気がついた。
 ヘッドフォンだ。俺の。
 夜特有の暗さやら、逆光やら、突然現れたこいつに驚かされたなんてもんじゃないやら、こいつの嫌味な笑いに気を取られたやらで目に付かなかったが、たしかにそれは以前まで俺の身体の一部とも言えるほどに馴染んでいたあのヘッドフォンである。
 少し前に、UGからRGに戻ってきたあのとき、今まで他人を拒んできた自分への決別の意を込めて外した。
 それがなぜか、こいつの首元に納まっている。
「落し物って、もしかしてそれか?」
 いつ縮められるとも知れない、やつがぶらぶらと足を揺らしている窓枠との距離を測りつつ首元を指差してやると、満足そうな笑みで返された。
 やめろ、お前のその笑いはむかつく。
「ネク君の決意の表れはもちろん尊重したいところだけど、僕、煙草のポイ捨てとか許せないたちなんだ。特に、僕の渋谷ではね」
 俺の身体の一部は捨てられた煙草と同レベルか。
「でも今更ネク君には不要なものだし、かといってそのままにもできないから僕が貰うことにしたんだ。今日はその報告ってとこかな。あと、充電器がないからそれも貰いにね」
 なんともばかばかしくて、呆れて、思わず溜息が出てしまった。
 そんなことのためにこいつは俺の家まで来たのか?
 今まで散々人に探させて、影すら掴ませなかったくせに。
 あまりに脱力して頭を抱え込みたい気持ちをこらえつつ、こめかみを押さえた。
 ああ、そう、そうだな。不法投棄は悪いことだよ。全くもって一分の反論の隙すらないよ。
 もちろん俺だって、道端にヘッドフォンを置き去りにするなんてこと煙草のポイ捨てよりも非常識だと把握している。
 けれど、あれには俺なりの意図があったのだ。
 だってあれは。
「……おまえが」
「うん?」
 首を傾げるこいつを逃げられないようにまっすぐ見据えて、言ってやった。
「あれは、お前が拾って俺に届けに来ないかと思って、あそこに置いてやったんだ」
 一瞬スミレ色の瞳が大きく見開かれた。お、あんまり見ない表情だな。
「……まさか本当に来るとは思わなかったけど」
 正直な話、俺だって驚いているのだ。まさか俺の目論見どおりにこいつが動くとは。
 ただ、ほんの少しだけ。たった一握りの希望を込めてやっただけだった。
 いつも俺にはひねくれて先手を打って、しっぽすらつかませなかったこいつが、なんでこんなときだけ俺の思ったとおりになるんだ。
 まあ、時間の経過と共にやっぱりだめだったなと諦めていたところなのだけれど。
 来るならもっと早く来いよ。ばかやろう。
「……く、」
 くくく、と珍しくこいつが喉で笑ったのが分かった。
 いつだってフフンと嫌味に鼻で笑うのが常なのに、これは本当に珍しいかもしれない。
 なんだ、マジ笑いか?
「く、はは……っこれは、とんだシンデレラだね」
 笑いを噛み殺しながら言われた言葉に、思わず眩暈がする。
 シンデレラだって? 俺のことか?
 相変わらずわけのわからない気障な言い回しにこめかみを押さえるゆびに力を込めつつ、心の奥底でどこか安心した。
 変わってない。俺の知ってるヨシュアと、何も変わってない。そんな些細なことでこいつを許しそうになる自分を、必死に戒める。
 許してないのだ。俺はまだ、全然こいつを許してない。

「じゃあ、そんな計算高いシンデレラにぴったりかどうか、ガラスの靴で確かめてみようか?」

 窓枠から、律儀に靴を脱いだこいつが室内に下り立つ。
 向けられた視線にあのときの銃声がフラッシュバックして、身構える。
 縮まる距離に、後ずさろうとして座った体勢が少し崩れただけだった。足が上手く動かない。気持ちばかり、後ろに手をつく。背筋が震えた。
 まだ、距離がなくなることに心の準備ができていない。
 今まで散々手の届かないところにいたのに、あっさりこんなに近くに来るなんてずるいじゃないか。
 ぐるぐると葛藤するこっちの気持ちなんて知ったことかと言わんばかりにさらりと無視して、伸ばされた手が頬に触れた。
 びくりと震えてしまった肩に、こいつは気づいただろうか。
 ちらりと目を向けると、膝が触れそうなくらい近くにたたずんでいる。ゆっくりと耳にかかる髪を掻き上げられた。思わず溜息が出そうな感触に、ぎゅっと目を瞑る。
 そのまま離れたと思ったら、すぐに何かが頭に乗せられて、耳を塞がれた。耳を覆うクッションと、少し頭が圧迫される懐かしい感触。
 ヘッドフォンに押された髪を後ろに梳くのは、こいつのゆびだ。
 やわらかく。壊れ物を扱うように。こんなに優しい感触を、俺は知らない。
 無意識にふるふると頭を揺らすと、そのままヘッドフォンの上から耳を押さえられる。時々、乱れたらしい髪を撫でられる。
 俺に引き金を引いたその手で、こいつはこんなに優しく俺に触れるのか。
「……たかった」
 ……?
 ヘッドフォンに、こいつのゆびに阻まれて、聞こえない。くちびるを読む術なんて知るわけもないし、そもそも目だって開いていない。聞き返そうとすればこいつ自身の言葉で遮られた。
「やっぱり、これはネク君によく似合うね」
 今度はくぐもった声が直接響くように聞こえる。近くないか? これ?
 恐る恐る目を開けると、予想以上の近さにスミレ色がある。跳ね上がる心臓を抑えるために、何か言わなくてはと思った。
 こんなことで動揺してるなんて悟られたくない。
「お、お前は、全然似合ってなかったな」
 失敗した。乾いた喉につっかかってどもった上に、声が震えてしまった。
 くすくすとわざとらしく笑われる。ああ、くそ、ばればれだ。
 顔を逸らそうとしても、ヘッドフォンを抑えられているということは顔を両手に挟まれているわけで。
 尚且つこいつはわざとらしく、覗き込むように屈んで目線を合わせやがる。
 あとはもう、必死でこいつの愉快そうなスミレ色から目を逸らすしかなかった。
「うん、残念ながらね。でも返されても困るだろうから、これは僕が貰うよ。音楽は聞けなかったけど、会えない間、これ見てずっとネク君のこと考えてた」
 何を言ってるんだこいつは。
 全然こいつらしくない甘ったるい言葉ばかり並べられて、逆にそれがものすごく癪に触った。
「っ……だったら……!」
 感情が決壊するのがわかる。抑えられない。
「だったら、なんで今まで……! 顔も見せなかったくせに、なんで今更!」
 こんな風に声を荒げたのはいつぶりだろう。
 あの、最後のとき以来だろうか。
 いつだって、こいつは俺にとっての非日常を連れてくる。
「うん、それは僕も悪かったと思ってるよ。あの後色々と忙しくてね。僕、一応コンポーザーなんかやってるからさ」
 うさんくさい。
 こいつの言ってることなんて、嘘か本当かわからない。俺に都合のいい言葉なら、尚更。
「俺がっ、どんなきもちでいたかなんて分かってるだろっ」
 こいつは俺のパートナーだから。今だってやっぱりこいつを信頼してるし、言葉も全部鵜呑みにして信用してしまいたい。けど。
 ヨシュアはパートナーだけど、どうしたってあのときの記憶がちらつくから。
 また裏切られるんじゃないかと疑う自分がいて、こいつはこいつで全然信用させようとしてくれない。
「もっ、離せよ……!」
 熱いものが込み上げてきたのが分かって、悟られたくなくて、乱暴に手を振り払った。拍子に外れたヘッドフォンがシーツを転がる。
 ぐるぐると考えたってやっぱりヨシュアを疑ってしまうばかりで、どうしたらいいか分からない。
「悪かったよ」
 うるさい。そんな言葉が聞きたいんじゃない。何を言えばいいかなんて自分でも分からなくて、でもとにかく何か言ってやりたくて口を開きかける。
 が、こいつの手が動く方が早かった。
 再び伸びてきたその手が、今度はヘッドフォン越しではなく直に耳に触れて頬を包まれる。ひんやりした感触に思わず首を竦めた。
 わけが分からなくて、振り払ってやろうと俺が動く前に、目の前にヨシュアの顔があった。
 近い。さっきよりもっと近くないか?
 間近にみるこいつの顔は恐ろしく綺麗で、長い睫毛が髪に透けるのに見惚れてしまった。閉じられたまぶたに、あのスミレ色が見たいと思う。
 それもすぐに見えなくなって、視界がぼやけるほどに近い距離とふんわり、くちびるに温かい感触。あっけにとられていた俺は、何をされたのか一瞬分からなかった。
「やだなあ、ネク君。目ぐらい閉じてよ。キスするときのマナーでしょ?」
 何をされたのかも、何を言われたのかも分からない。ただ呆然と、目の前にあるスミレ色を見つめる。
 キス? 誰が? 誰に?
 こいつが、俺に?

 ぼんっ、と幻聴すら聞こえそうなほど、顔が熱くなった。

 俺、今爆発したんじゃないか? なんて馬鹿なことしか考えられない。
 落ち着け、落ち着け。
「な、なん……今……!」
「今日は落とし物報告もそうだけど、ネク君にちゃんと伝えたいことがあって来たんだよ」
 わたわたとみっともなく取り乱す俺に構わず、ヨシュアは言葉を続けようとする。
 待てよ、こんなことされて落ち着いていられるやつがあるか。頬を捕まえる手はそのままで、顔の距離だって近いままだ。
 ええい、うるさいぞ俺の心臓。
「んだよ、なんで、こんなっ……つか、お前、今何したか」
「うるさいなあ」
 奇しくもついさっき、俺が俺自身に思ったことと同じことを言われた。
 でもさすがに心臓の音まで聞こえるはずはないから自分でも何が言いたいのか分からないまま発せられている、俺の言葉に対してだろう。
 こいつの突拍子もない行動に慌てる暇も与えられないとは、こいつ相変わらずゴーイングマイウェイだな。
 己の立場に自ら同情しそうになったが、そんな間もなくこいつの顔が近くなって、あっという間に視界がぼやけた。
 くちびるにさっきと同じ、温かい感触。いや、同じじゃない。ぬるりと、湿った感触に口をこじ開けられる。
「ん、や……!」
 思わず逃げるように引けた腰を掴まれ、抱き寄せるように押さえ込まれる。いつの間にか、ベッドに片膝を乗せたこいつに抱えられる形になっていた。
 顔だけじゃなくて色んなものが近い。
 何だこれ、なんなんだ。
 考えのまとまる暇があるはずもなく、入り込んだ、たぶんこいつの舌がこちらにはお構い無しに口内を蹂躙する。
「ん、んんぅ……!」
 体勢的に上を向かざるを得なくて、苦しい。呼吸もままならない動きに混乱する。こんなときの息の仕方なんて、知らない。
「ふ、はぅ……あっ」
 舌が歯列をなぞる度に、逃げる俺の舌を追いかけて絡められる度に、ぞくぞくと背中をかけ上がってくる感覚にぎゅっと目を閉じた。
 ふわふわと浮くような気分に、だんだん頭がぼうっとしてくる。
 しつこく追いかけられて、無意識に縋るものを探してこいつの服を掴もうとした一瞬前にくちびるが解放された。
「は、はぁっ……」
 咄嗟に酸素を求めて、貪るように呼吸をする。
「な、ぁ……なん……っ」
「悪いね。何だかネク君が素直に僕の話を聞いてくれなさそうだったから、喋れないようにするのが早いかと思って」
 さらっととんでもないことを言うやつだ。
 悔しいことにこいつの言う通り、呼吸に忙しいやら痺れて舌も動かせないやらで喋る気にもなれなかったので、大人しくしてやることにする。
「あのゲームが終わって、ネク君をRGに戻したらもう会わないつもりだったんだよ。ここに低位同調するのはなかなか骨だし、会う理由もなかったし。何よりネク君はもう僕の顔も見たくないだろうと思ってたからね」
 勝手なことを言っている。勝手な奴だ。こいつは、本当に勝手な奴だ。
 勝手に人の気持ちを決めつけて、なんなんだ。俺が今までどれだけ探したと思ってるんだ。
「でも、RGに戻った君の様子がおかしくて、しばらく見てたんだ。日常に戻りながら、ふとしたときにいつも何かを探してたね。最初は何を探してるのかと思ったよ」
 何をだと? わざとらしい。お前に分からないわけないだろ。
 俺をさんざん利用した、お前が。
「……僕を、探してたんだね。それに気付いたら、なんだか些細な雑事なんて放り出して、君に会いたくなった」
 なら、もっと早く来いよ。ぼーとする頭で苛立ちながら、顔をしかめた。
「そんなに嫌そうな顔しないでほしいな」
 苦笑したようなこいつの吐息が前髪を揺らす。あんなに遠かったこいつが、今はこいつの気分一つでこんなにも近い。
 悔しい気持ちと、やるせない気持ちとが綯い交ぜになって泣きそうになる。何より俺を惨めにさせるのは、この距離を嬉しいと思ってしまいそうになる俺自身だ。
「なんでゲームに勝ったのに、渋谷を崩壊させなかったのかって、思わなかったかい?」
 思った。
 スクランブル交差点で目覚めたあのとき、人々の視線が素通りすることなく俺に向けられていたとき、そばにもうお前がいないのが分かったとき、何より強く思った。
 俺は、ゲームに負けたのに。
 お前を撃つことなんてできなかったのに。
「ほんとはね、最後のあのゲームを持ちかけたときは、もう渋谷を崩壊させる気なんてなかったんだ」
 は? 何言ってるんだ、こいつ。
 こいつの言葉はもう俺の許容できるキャパシティを完全に越えていて、ただ呆気にとられるしかなかった。
 何だよ、それ。
「ゲームの中でどんどん変化していく君を見てたら、いつのまにか気が変わったんだ。最初は他人を拒んで世界を閉ざそうとしていた君が、少しずつ自分に向き直って世界を広げようとしてるのを見てね」
 なんとなく手持ち無沙汰だったのか、ヨシュアの手が俺の髪を弄んでくすぐったい。
「君を代理人に選んだとき、とても強いイマジネーションの可能性を持っているのにソウルはすごく不安定で、まあそれも面白いかと思って半分賭けみたいな気持ちだった。でも、彼女たちと出会って徐々に変化する君を見たら、渋谷もまだ変われる気がしてさ」
 梳くように地肌をすべるゆびが気持ちいい。くそ、だまされないぞこんなことで。
「渋谷は上の連中も注目するくらいにめまぐるしく変化しているように見えて、本当は徐々に混乱を生み出しながら、停滞し始めてた。もう『未来』への変化の希望も消えかけていたから、メグミ君とゲームすることにしたんだ。でも、ゲームの間に渋谷が変われる可能性に気づいた。君が、変わったから。メグミ君じゃなくて、君が教えてくれた」
 ふと、俺に向けられているスミレ色が、これまでになく柔らかく、優しい気がした。
 なんだ、これ。こんな色、俺は知らない。
「渋谷自体、UGに引っ張られてあのゲームで色んなものが変わったと思うよ。何より、君みたいな人がいるなら、まだ渋谷を残しておいてもいいかなと思って」
 崩壊させるのはやめたのか。じゃあ、なんで。
「最後のあのゲームは、なんだったんだよっ……」
 ようやく動くようになった舌を駆使して、声を絞り出す。すると、見たこともないようなその瞳の色は隠して、あっさりと言い放った。
「だってあのゲームで僕が負けたら、ネク君がコンポーザーになっちゃうでしょ? それに、ああでもしないと、騒がしい彼がコンポーザーになろうとしてあがきそうで面倒だったし。混乱してる渋谷にも、ゲームにも決着着けないといけなかったしね。残念ながら、まだこの座を譲る気はないよ」
 憤る暇もなかった。とどめに。
「それに、しばらくネク君にはUGじゃなくてRGでもがいてもらおうと思ってさ」
 脱力。なんてまさに、今の俺の状態のことかと身をもって言葉の意味を思い知った。辞書を引くより明確だな。さっきのもっともらしい理由はどこにやった。
 まさか、さっきまでただ煙に巻くためにそれらしいことを言っただけで、本当は今の下らない理由で崩壊を取り止めたんじゃないだろうな。
 有り得る。こいつならやりかねない。
 もはや脱力して、呆れて、文句の一つも出てこなかった。もう許すも許さないもどうでもいい気がする。よくないけど、断じてよくないけど。
 完全に俺の負けだ。戦意喪失だ。棄権する。
「ネク君があの時引き金は引けないだろうなって、なんとなく分かってたんだ。でも、そこまで君が僕に思い入れてるかどうかまでは確信が持てなくて、それも半分賭けのつもりだった。本当は、あのままネク君が引き金を引いてもそれはそれでいいかなって思ってたんだよ」
 俺の髪を弄っていた手が止まる。顔を上げると、思いの外まっすぐな視線とぶつかった。
「でも僕が望んだとおり、君は引き金を引かなかったね。それが、無性に嬉しくて。君を打つ瞬間に笑うだなんて、不謹慎だって怒られるだろうなって思ったんだけど」
 不謹慎? そんなものじゃなかった。
 夢に見てはうなされるくらい、いくら記憶に沈めても浮き上がってくるくらい、悪夢だった。けど。
「もう、いい……お前のしたことは本当に腹が立ったし、今でもむかつくけど」
 せめてもに、目の前のすました顔を睨み付けてやった。

「今ここに、渋谷も、俺も……お前もいるのは確かだから、いい」

 もう、なんだってよかった。
 ここにお前がいるから。
「……あの時、ネク君が勝ったらネク君の好きな渋谷、僕が勝ったら僕の好きな渋谷だって言ったよね? 僕の好きな渋谷は、君のいる渋谷だよ」
 嘘吐き。お前のことを信じたくたって、その瞳にはいつだって嘘が隠れているのだ。そんなやわな関係、望んでないくせに。
 こんなのこいつの気まぐれだ。俺を喜ばせるようで嫌がることが分かりきっている言葉で、俺をからかおうとしてるんだ。
 でも、それなら、もう。その通りに、乗ってやる。
「ずっと、お前を探してた」
 面と向かってはさすがに言えなくて、すこしだけ俯いた。
「けどいくら探してもお前はいなくて、辛いなら忘れてしまえって何度も思った。なのに、気がつくとまたお前を探してて。お前のいない渋谷は、なんだか色あせて見えた。だから、」
 恥ずかしくて、早口で続けようとした言葉はこいつに持ち上げられた視界に阻まれた。
 楽しそうな、スミレ色。あのときの渋谷の空の色と同じ。
「やだなあネク君。変な顔。そんな顔されると、困るよ」
 押されて、軽い衝撃と、背中に柔らかい感触。
 気がつけば、こいつの頭の向こうに見慣れた天井があった。
「っよ、ヨシュ……」
「本当は」
 抵抗しようとすれば手首を掴まれて、こつん、と額をぶつけられた。
「最後のゲームで、君の中に憎しみの一つでも残ればいいと思ってた。もう会わないつもりだったから、せめて。なのに、RGに戻った君がもっと複雑な顔してるから、会いたくなったんだ」
 そんな顔をされたら何も言えない。俺がこいつの顔に弱いことなんて、もうとっくの昔にわかってた。
 どんな顔かなんて、俺からはとても説明できない。
「実はね。落し物もつまらない与太話も口実で、今日は君をもらいに来たんだよ。代理人としてじゃなくて、君自身を」
 とても説明できないとおもった表情をあっさり引っ込めて、飄々ととんでもないことを言われた。
 その言葉の意味くらい、今の状況を見れば推して知るべし、だ。
「ま、待っ……!」
「待たないよ。ネク君が嫌がらないことくらい分かるからね」
 悔しいけれどその通りだ。誰より、こいつに会いたかったのは俺だから。
 けど、今まで振り回された分、せめてもの抵抗に。
「俺は、まだ許してない……!」
 許さないと思った。こいつを。
 そう思ったあのときの自分を、裏切らないといけない。たとえ、おれ自身が望んでても。
 そこまで踏み込むのにまだ、足りてない。言葉が、足りない。
 そのために、聞いておかないといけない。
 奴が口を開くまでやけにゆっくりと、スローモーションのように見えた。
「好きだよ。会いたかった」

 その言葉だけで。
 もう、全部許してしまえ。