電車の中でのぼせるという滅多にない、できることなら今後二度と味わいたくない体験を経て、目的の駅に電車が到着したときには本当にほっとした。我先にと開いた扉から出て行く人たちの流れに乗ってヨシュアの体温が離れた瞬間、残念じゃなかったと言ったら嘘になってしまうけれど、それはなるべくあんな心臓の悪い思いをしなくてもいいときにお願いしたい。
「ネク君、こっち」
 改札から吐き出される人の多さに辟易していると、はぐれないようにと前を歩いていたヨシュアの方から手をつないでくれた。これだけ人が多ければ男二人が手をつないでいても変には思われないだろうと、先導するように人の間を縫って歩き出すヨシュアに素直についていく。
 外は既に日が落ちて、夜の闇が空全体を覆っていた。予想よりも随分と近く聞こえる祭囃子に、幼いころ父親と母親に手を引かれて歩いたときに感じた胸の高鳴りがじわりと身体を包んでいく。
 渋谷のコンポーザーだけあって、ヨシュアは人ごみの中を歩くのが上手だ。人と人の隙間を見つけては、巧みに身体をすべり込ませて水中を泳ぐ魚のように優雅に淀みなく歩いていく。俺も流石に物心ついたときからスクランブル交差点を歩いているから人ごみは慣れているけれど、こんなにストレスなく歩けるというのは初めてかもしれない。ヨシュアが手を引いていてくれるからだろう。
 電車が到着してすぐの駅付近は少しごちゃごちゃしていたけれど、しばらく歩いてメインストリートのあたりに出ると多少落ち着いて歩けるようになった。緩やかになる歩幅にほっとしながら、人通りが緩やかになったおかげで自然と離れてしまった手を少し残念に思いつつ、隣に並んだヨシュアの横顔をそろそろと窺う。
「花火、何時からなんだ?」
「んん、八時からかな? 少しゆっくり回れるかな、と思って早めに出たんだけど」
 それなら、夕飯がてら出店をひやかして回る時間は十分にありそうだ。花火大会の花火はメインではあるけれどそれは締めの話で、それまでは道端に軒を連ねる出店を回るのが楽しみの一つだと思う。既に現時点でも出店の明かりと派手な看板がちらほらと見え始めているわけだし。去年はクラスメイトやシキたちに誘われて何回か祭りにも出かけたけれど、まさか今年はヨシュアが誘ってくれるとは思ってもみなかった。
「とりあえず粉モノ食べる。あとかき氷」
「ふふ」
「なんだよ」
「ううん、ネク君もこういうの好きなんだなと思って。安心しただけ」
 本当は、祭りなんて子どものころに親に連れられて行ったきりで、小学校、中学校と通して行ったことはなかった。行くような友達もいなかったし、俺自身くだらないと思っていたからだ。でも、去年クラスメイトやシキたちと行ったときはとても楽しくて、童心に帰るというのはこういうことかと思ったりもした。俺がそんな風に思えるようになったそもそもの原因は、今まさに目の前にいるこいつなのだけれど。
「おまえは好きそうだな、祭り」
「うん? そう?」
「好きだろ?」
 だからこうして、ヨシュアとこの場に来られたことが嬉しかった。オトナのクセに時々びっくりするくらい子どもみたいな顔を見せるヨシュアも、本当の意味で童心に帰ってくれるといいなと思う。
「好きだけど……お祭りっていうか、どっちかっていうと人がたくさん集まってるのが好きかな」
 俺が今こうしていられるのはヨシュアのおかげなんだって、改めて実感するのはこんなふとしたときだ。日常生活の中にあまりにも自然にヨシュアが入り込みすぎていて、なかなか気づくことができないけれど。
「RGには色んな人がいるんだな、って分かるじゃない?」
 そう言って微笑むヨシュアのスミレ色の瞳は屋台の明かりを受けてきらきらと輝いていて、それでも深く底の見えない色からはUGの匂いがする。
「あ、ネク君ほら、たこ焼き」
 その鮮やかな瞳にヨシュアが映していたのは、どうやらたこ焼き屋の赤い看板だったらしい。ヨシュアらしい情緒のなさに苦笑しながら、人を避けて屋台を覗き込む。ソースの香りに食欲をそそられて、八個入りで四百円だったので(個人的にたこ焼きは大きいのが六個入っているより、小さいの八個入りの方が当たりが多いと思っている)買うことにした。
「ヨシュアも食うか?」
「ううん、僕はそんなにお腹空いてないから」
 どうせならまとめて買おうかと思ったのだけれど、小さく首を振るヨシュアを見て結局一パックだけにした。たこ焼き屋の親父が俺が口にした呼び名や、ヨシュアの身なりを珍しそうにしていたのが気に食わなかったのもあるかもしれない。屋台は他にもまだまだあるし。
「腹減ってなくても一個くらい入るだろ。ん」
 通りの邪魔にならないように道端に寄ってから、さっそく爪楊枝を突き刺した記念すべき一個目をヨシュアの顔の前に差し出すと、きょとんとした表情の後すぐに悪戯っぽく微笑んだ。
「もしかして、僕は毒見役かい?」
「……いらないなら俺が食うけど?」
「ふふ、冗談だってば。いただきます」
 頬にかかる髪の毛を片手で押さえながら、ぱくりとたこ焼きを咥えるヨシュアを見て満足したので、残りは自分で堪能しようと次のたこ焼きに爪楊枝を突き立てる。
 ヨシュアがあまりに自然に、丸々一個をぺろりと食べてしまったのを見ていたせいで、油断したのかもしれない。そのまま何も考えずに口の中に放り込んでから、後悔した。
「あ、っち……!」
「大丈夫?」
「……っ!」
「ああ、もう。ほら、口開けて」
 たこ焼き屋から渡されたのは作り置きのパックだったから多少冷めてはいたものの、噛み砕いた中身はまだそれ相応の熱を保っていたらしい。涙目になりながら吐き出すこともできずに右往左往している俺の口を開かせると、熱を冷ますようにヨシュアはそのままふーふーと直接口内に息を吹き込んだ。
 なんかこんなこと昔母親にされた気がするとか、ただでさえヨシュアの外見は目立つのに男二人でこんなことをしていたら余計に目立つではないかとか、色々考えは巡ったものの、俺の口の中を暴れまわっていた熱さが徐々に大人しくなっていったのは確かだったので、お礼は言えども文句をつけるなんてできなかった。
「うぅ……さん、きゅ」
「どういたしまして。ネク君って猫舌だったんだ、知らなかった」
「おま、えが……平気な顔してぺろっと食べてたか、ら」
「うーん、僕はそんなに熱くなかったんだけどね」
 苦笑するヨシュアにそれ以上何を言うこともできなくて、今度は火傷しないようにとたこ焼きを真ん中から割って慎重に冷ましながら、回りの視線を振り返らないようにして黙って歩き出した。


 歩きながら通りすがりに焼きそば、お好み焼き、と順調に俺が食料を調達していると、ベビーカステラを買った辺りでヨシュアの姿が見えなくなった。すぐ隣にいたはずなのに、と焦って回りをきょろきょろと見渡すと、ちょうど今買ったベビーカステラの店とは道を挟んで反対側の屋台に見慣れた生成り色の髪がふわふわと揺れている。こんなときヨシュアの目立つ容姿は人ごみの中でも見つけやすくて便利だ、と勝手なことを思った。屋台の看板には崩れた文字と下手くそな絵で『射的』と書いてある。
「ヨシュ」
 ア、と駆け寄りながら続けて声をかけようとしたら、ちょうど弾を詰め終わったらしくオモチャの銃を構えたところだったので、邪魔をしては悪いかとそのまま口を閉ざした。す、と伸ばした片手で銃を構える姿は何も特別なことなどないはずなのにやけに様になっていて、心なしか回りの客も遠巻きにヨシュアの様子を窺っている気がする。隣で親に手伝われながら子どものラインから銃を構えていた浴衣の少女など、ぽかんと口を開けたままヨシュアの方を見上げていて、あからさまだ。
 結局ヨシュアはそんな周囲に見守られながら、一回三発貰えるらしい弾を全て命中させて、三つの景品をあっさりと落としてしまった。内訳は駄菓子の箱が二つと、ぬいぐるみらしきものが入った小さな箱が一つだ。ゲーム機などの大物を狙わない辺りがいかにもヨシュアらしい。
 三つ目のぬいぐるみを落としたときなど、周囲から軽い喝采と拍手まで巻き起こった。やはり回りの連中も気のないふりをしていながら、しっかりと見守っていたらしい。しかしながら、手に入れた二つの菓子をあっさりと隣の少女に渡してしまったヨシュアに(少女は結局一発も当てられなかったらしい)甲高い口笛まで吹いてみせたやつはどこの誰だか知らないが、やりすぎだと思う。
 俺ならばすぐさまその場から逃げ出しているだろう状況にもヨシュアは顔色一つ変えず、呆然と突っ立っている俺を見つけるとにこにこと微笑みながらこちらに駆け寄ってきた。
「兄ちゃん、今度は大物も狙ってくれよな!」
 喧しい声でひやかしをよこす店主にひらひらと手を振るヨシュアは涼しい顔で、一緒にいる俺の方が恥ずかしくなってくる。本当にこいつは、何をしていても目立つのだ。何もしていなくても目立つのだから当然かもしれないが。
「はい、これ。あげる」
 すたすたと早足で歩き出した俺の横に難なく並んだヨシュアは、先ほどの景品の小さな箱をこちらにぽいとよこした。思わず受け取ると、前面部の透明なセロハンからいかにも幼い少女が好みそうな可愛らしいぬいぐるみの顔が覗いている。ネズミかと思ったが、くるりと巻きを作る大きなこの尻尾は、リス、だろうか。
「なんだよ、これ」
 なぜこんなものを渡されたのかが理解できなくて、思わず顔をしかめた。それこそ、先ほどの少女の方がよほど喜びそうではないか。
「ネク君てさ、リスに似てるよね」
「は……」
「景品にそれが並んでたから、これは落とさないとって思って」
 もしかして俺に似ているから、撃ったとでもいうのだろうか。一体このげっ歯類と俺とにどんな共通点があるのかというのは甚だ疑問だったけれど、それよりも。
「……悪趣味」
「そうかな? 可愛いと思うけど」
 そういう意味で言ったんじゃない。
「はぐれたかと思って、焦って探してみれば」
「うん、ごめんね? でも一応声はかけたんだよ」
 それでは俺が屋台の食べ物に夢中で聞いていなかったみたいではないか。本当にそうだったのかもしれないけれど、だからと言って俺に似ていると言ったものを射的で狙うなんて、となんとも言いがたいもやもやが胸の中に残る。それなのに結局手にしていた箱をお好み焼きの入ったビニールに律儀にしまう辺り、俺もダメだなあと思った。だってヨシュアから貰ったものなのに、突っぱねることなんてできるわけないではないか。哀れヨシュアの弾丸に撃ち抜かれた、俺と同じ境遇のそのぬいぐるみになんとなく仲間意識が芽生えてしまったというのもあるかもしれない。
「……どうした?」
 複雑な気分を抱えたまま人の波の流れのままに足を進めていると、ふとヨシュアの歩みが止まった。つられて立ち止まってからスミレ色の視線の先を追うと、風船のように膨れたキャラクターものの袋が並ぶ見慣れた屋台。看板には丸っこい文字で『わたあめ』と書いてある。
「わたあめ、食べたいのか?」
「……ううん」
 見上げたヨシュアの顔からは、先ほどまでのにこやかな笑みは消えていた。どこか違う場所を見ているような、何かを懐かしむような、それは、まるで遠い世界の出来事のような。
「昔、……と一緒に」
「?」
「ううん、なんでもない」
 首を振りながらの否定の言葉は俺に対してのものではなく、自分の中の何かを吹っ切ろうとしているかのようだった。それでも微かに空気を揺らした声は、父さん、と言っていたのか、母さん、と言っていたのか。くちびるの動きだけでは判断することができない。
 それでも、そんなヨシュアの顔を見ていたらいてもたってもいられなくなってしまって、気づけば甘いにおいの漂う屋台に向かって駆け出していた。
「ネク君?」
「おまえはそこで、ちょっと待ってろ」
 浴衣を着た親子連れがキャラクターもののわたあめを買い終えるのをじりじりと待ってから、屋台の若い男に金を払って出来立てのわたあめを手にヨシュアの元にもどる。きょとんとした顔で俺が言ったとおりにじっと待っていたヨシュアはなんだか子どものように見えて、ひどくおかしかった。
「ん」
「え、っと」
「いいから、食え。わざわざ俺が買ってきてやったんだから」
 戸惑うヨシュアに反論を許さないよう、わざとつっけんどんに言ってやると、困ったように眉尻を下げていたヨシュアも結局根負けしたようで、素直にわたあめの絡まる割り箸を受け取ってくれた。俺が子どものように振舞えば、ヨシュアはそれを受け止めようと聞き分けのいい大人にならざるを得ない。普段はそのことが嫌になることも多いのだけれど、今この場だけではどうしてもヨシュアに俺の我儘を受け取って欲しかった。
 親と祭りに出かけた記憶など、俺にはほんの何年か、あるいはせいぜい十年前のもので、そのときに感じた不思議な高揚も、買ってもらったものの記憶もしっかりと残っている。けれど、ヨシュアにとってはそれがどのくらい前のものなのかというのを俺は知らなくて、それでも少なくとも俺より遥かに昔であろうことを思うとなぜだかやけに切なくなった。きっと十年や二十年ではきかないだろう。その記憶自体、ヨシュアにとってはひどく曖昧なのかもしれない。でも、一本のわたあめでその曖昧な記憶の端っこを捕まえることができたのなら、何事もなかったかのように取り繕って、いつもの顔で通りすぎるなんてことはして欲しくなかったから。
 もしかしたら、こんなのはただの俺の勝手な感傷かもしれないけれど。
「ネク君」
「なんだよ」
 なんとなく気恥ずかしくてうつむけていた顔を上げると、ヨシュアのスミレ色が不思議な色を湛えている。
「変な顔」
「なっ」
「……ありがとう」
 それでもそう言って笑ってくれるヨシュアの表情は、先ほどのような悲しげなものよりもずっと好きな表情だったので、自分勝手に満足することにした。ヨシュアにはいつでも笑っていて欲しいというのは俺のエゴだけれど、それでも。
「じゃあ、買ってきてくれたネク君が先に一口食べて」
 先ほどまでの殊勝な表情からくるんと一転させた悪戯な表情で、ずい、と差し出されたわたあめに思わず目を丸くする。
「なんで、俺が……これはおまえに」
「いいから」
 突然のヨシュアの要求に驚いたものの、俺の言葉をさえぎるような有無を言わせぬ口調に結局押し切られる形で目の前に差し出された白いかたまりに口をつける。唾液に触れた途端じわりと形を無くす甘いかたまりを噛み千切る寸前、ヨシュアが形のいいくちびるを開いて大きく膨らんだわたあめの反対側に齧りつくのが見えた。
「……!」
「あは、これも間接キスっていうのかな? 一回やってみたかったんだよね」
「ば、かヨシュア……!」
 あまりにも恥ずかしい言葉に、みるみるうちに顔が熱くなるのがわかって、咄嗟にそっぽを向いた。先ほどまで感傷的な表情をしていたと思ったらこれだ。あまりのことにうまく言葉が出てこなくて、でも口の中に残る飴の味はやけに甘ったるい。誰かに見られたのではないかと思うととてもヨシュアの隣にはいられなくて、二、三歩先を行くように歩く俺をくすくすとヨシュアが笑っているのが分かると、まるで振り回されてばかりなことが悔しかった。
 だからしばらくは放って置いて欲しかったのに、すぐにその長い脚で隣に並んできたヨシュアに、一言くらい文句を言ってやろうと顔を上げて言葉に詰まる。その瞳の色は驚くくらいに穏やかで、どこか悲しげだったから。
「……僕が生まれたころはさ」
 ぽつり、と落とされた呟きは独り言なのかと思うくらいに唐突で、でもヨシュアは瞳をしっかりとこちらに向けたまま話し始めた。ほんのさっきまで悪戯におどけていたくせに、こんなのずるいではないか。
「こんな髪の色とか、目のいろとか、顔立ちもかな……珍しくて。母さんは色白で黒髪のキレイな人だったんだけど、母方の祖母が海の向こうの人だったらしくて、僕のは隔世遺伝みたい。母さんはダブルでさ。父さんはいわゆる地主さんで大きいお屋敷に住んでてね、お金には不自由しなかったんだけど」
 わたあめをかじりながら話すヨシュアの横顔を、息を飲んで見つめる。ヨシュアの生い立ちなんて、話してくれるのは初めてだ。どうして、とか、なんで、とか色々なことが頭をよぎったけれど、せっかくヨシュアがしてくれている話を止める気はなくて、黙ってヨシュアの言葉を待った。
「母さんはいわゆるお妾さんでさ。妾腹の子だし、僕の見た目もこんなだから、周りはみんな腫れ物に触るみたい……っていうのかな。自由にはさせてもらってたけど、好んで寄ってくる人はいなかったよ」
「……」
「それに物心ついたときには、僕にはもう『視えて』たから、気味悪がられるばっかりでね。ずっと居場所がなかったから、僕が居てもいい場所を見つけたみたいで、UGのことを知ったときは嬉しかったんだけど。まあ、そのことは自分にとって不利な情報なんだなって思って、自然に他の人には言わないようになってた。それでますますふらふらするようになって、羽狛さんに会ったんだけど」
 ゲーム中の羽狛さんの言葉を思い出す。もしヨシュアについてのあの話が本当だったのなら、あの七日間がその再現なのだとしたら、その後に生き人のままゲームに参加して、コンポーザーになったのだろうか。ヨシュアはよく自分のことをあちら側の人間だとか、死人みたいに言うけれど、どちらともつかない雰囲気を漂わせるヨシュアは生きたままコンポーザーに、UGの住人になったのだと言われた方が素直に納得できる気がした。
「誰とも触れ合えなかった分逆にさ、他人と関わることの大切さっていうのがわかるんだよ。だから、まだ幼かったネク君に、未来のある君にそのことに気がついてほしくて……もしかしたら僕は君を選んだのかなって……なんて、今更君を巻き込んだ言い訳に聞こえるかもしれないけど」
「そんな、こと……」
「ふふ、話がずれたね」
 ふわふわと捉えどころのない雰囲気をいつも漂わせているヨシュアの片手にわたあめとは、なんだか似合いすぎていて、出来過ぎな気すらしてくる。その白い歯でかじるやわらかい塊は、ヨシュアにとってどんな味なんだろう。
「本妻に煙たがられるからさ、父さんにもあんまり会えなかったよ。でも、僕が小さいときに一度だけ……どうしてかは分からないんだけど、父さんと僕の二人だけでお祭りに連れて行ってくれたときがあって。あんまり覚えてないんだけど、小さい神社でやってるホントに小さいお祭りだった。でも、そのときに父さんが買ってくれたわたあめだけは、なんだかやけに覚えてて」
「うん」
「すごく甘くて、美味しかった」
 ヨシュアは先ほどからなんでもない風に、世間話でもするかのように話しているのに、それが逆に俺には苦しくて、ヨシュアの顔が見られない。どうして、ヨシュアは俺にそんなことを話してくれるんだろう。そんな、大事なこと。
「あのときのわたあめを食べなかったら、僕は本当に人の温かみのかけらも知らないで育ってたかも、とか、大げさかもしれないけど」
「……う、ん」
「だから今、ネク君が走って、わたあめ買ってきてくれて……すごく嬉しくて」
 そんなの、俺は何も考えないで走っただけなのに。ただ、ヨシュアが見たこともない表情をしていて、そのことが見過ごせなかったから。
「ありがとう」
「そ、か」
「うん」
 何を言うことも、きっとやわらかく微笑んでいるのであろうヨシュアの顔を見ることもできなくて、ただ穏やかに落とされる優しい声を聞いていた。きっと、俺は何も言わなくていいのだろう。ヨシュアは恐らく何の言葉も望んではいないから。だから、一刻も早くいつもみたいに振舞わなくてはいけないのだ。
 けれど、大切な思い出を打ち明けてくれたヨシュアに、大切な気持ちをそっと教えてくれたヨシュアに、どうしても胸がいっぱいで、いつものつんけんした態度で接するにはまだ少し時間がかかりそうだから、どうかそのわたあめを食べ終えるまで待っていて欲しい。
 そうしたら、きっとまた育ち盛りの俺のお腹はすぐに空いて、いつものように振舞えるから。



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