駅に着いて、切符を買うために聞いた行き先はやはり、さきほどヨシュアが告げた通り少し遠出になるようだった。普段なら余り買わないような料金の切符を手に、ヨシュアの後を追いかけて改札をくぐる。本当にヨシュアと一緒に渋谷を出るんだな、と思うとなんだかやけにドキドキした。
 ホームへと続く階段を二人で上がるときも、駅のホームで並んで電車を待つ間も、ヨシュアが今この場にいることがとても不思議で、本当にいいのだろうかというよく分からない焦りで変にそわそわしてしまう。その気持ちは時間通りホームに到着した電車に乗り込んでからも、ますます強くなった。
 ヨシュアと一緒に電車に乗っている。渋谷を離れる電車の中にヨシュアがいる。見慣れた車両の見慣れた光景のはずなのに、それだけで落ち着かない気持ちになるのはどうしてだろう。決して変な意味ではなく、こうして一緒に出かけられるというのは単純にとてもうれしいのだけれど。
 渋谷を離れての初めてのヨシュアとの外出ということで浮かれていて気づかなかったけれど、夕方という時間もあって電車は満員一歩手前というくらいには混み合っていた。ちらほらと浴衣を身に着けたカップルや女の子の集団が目に付くから、これから俺たちも向かうという花火大会のせいもあるのだろう。
「結構混んでるな」
「うん、半分くらいは花火大会に行くお客さんじゃないかな? 僕たちもそうだけど」
 そんな状況もあって、乗り込んですぐのドア付近に二人で手すりに掴まって立つ形になった。こちら側のドアは目的の駅まで開くことはないから、回りの乗り降りにそこまで気を使わなくていいのは楽だ。電車の動き出す気配に、無意識に両足を踏ん張る。
「ヨシュア。あの、さ……」
「うん?」
 ぼんやりとヨシュアと中吊りを交互に見ながら、自分でも分からないくらいなぜだかやけにそわそわと落ち着かなくて、ふいに数センチ高い位置にあるスミレ色と目が合ってしまってはどうしても口を開かずにいられなかった。
「おまえ、本当に渋谷離れて大丈夫なのか?」
 柳色の髪をわずかに揺らしながら不思議そうに首をかしげるヨシュアに、この落ち着かない気持ちをどう伝えていいものかと迷いながらも何とか考えついた言葉を口にする。
「その、前……渋谷とか新宿とか、UG同士はエリアごとに隔絶されてる、みたいなこと、言ってたから」
 聞かれてもきっと回りの人間には意味すら分からない話題だろうけれど、なんとなく声高に言っていいものとも思えず、ぼそぼそと声を潜めながら呟いた。先に俺が口出しできるような問題じゃないと思っていたこともあり、それが余計に声を小さくさせる。
 UGを管理するコンポーザーともあろう者が、そんなにほいほいと他のエリアを横切ったり足を踏み入れたりして果たして大丈夫なのかと、俺はそれが心配だったのだ。なんとなく言葉の響きから犬猫の縄張り争い的なものを連想してしまったのもあるだろう。単純に、渋谷とヨシュアが離れるということに実感が湧かなかった、というのもそうだけれど。
「ふふ、ネク君てば心配性だね。別に新宿に入ろうが池袋に行こうが、他のコンポーザーに怒られたりなんかしないから大丈夫だよ」
「……」
「確かにUG同士は隔絶されてるけど、RGに低位同調してる今の僕には特に関係ないから」
 俺が声を潜めた意図に気づいたのか、ヨシュアも声のトーンを落として幾分こちらに顔を寄せながら穏やかに囁いた。それでもなお拭いきれない違和感を感じていることが顔に出てしまったらしく、近い距離にあるスミレ色が困ったように笑う。
 もしかしたら。
 渋谷生まれ渋谷育ちの俺は、生まれたときから渋谷とヨシュアと共にあるのがきっと当たり前で、ヨシュアのこともUGの存在すらも知らなかったときからそれが当たり前で、その渋谷からヨシュアがいなくなるということが無意識のうちに漠然と不安だった、のではないだろうか。
「……僕が渋谷にいないと、不安?」
 まるでそんな俺の胸のうちを見透かしたかのような言葉に、それでもヨシュア相手では今更驚きもできない。
「う、ん……」
「そっか」
「あ、で、でも、こうやって出かけられるのは、その、珍しいし、ヨシュアも外、出た方がいいと思うから、い、イヤじゃ、ないんだけど」
 滅多にないことだから誘ってくれて嬉しい、と、どうして俺は素直に言えないんだろう。それでも柔らかく細められるガラス細工のような瞳は、俺のことなど全て分かってくれているかのように微笑んでいた。
「大丈夫だよ。離れてても、ちゃんと僕は渋谷と繋がってるから」
「……そ、か」
「うん」
 至近距離で頭上から落とされる穏やかな声がじわじわと頭の中に染みてきて、先ほどの不安とは違ったドキドキが俺の胸を騒がせる。胸中に巣食っていた不安はあっという間に見る影もなくなっていて、たったそれだけの言葉で俺を安心させてしまうヨシュアにはやはり敵わないなあと思った。
「う、わ」
「おっと」
 優しいスミレ色を真正面から直視することができなくて、少しうつむきながらつま先に視線を落とした瞬間、がたんと車体が大きく揺れ、慣性の法則に従って危うくバランスを崩しそうになった。咄嗟に後ろの扉に寄りかかって難を逃れると、ヨシュアも同じ方法を取っていたらしい。いつの間にか両手を俺の顔の両脇に突いて、こちらに寄りかかってくる。手、どころか徐々に肘を突くくらいにまで接近されて、近すぎる距離に一瞬何が起きたのか分からなかった。分からなかった、というか、分かりたくなくて思考が停止したというか。
「びっくりしたー。乱暴な運転だなぁ、もう」
「え、あ……」
「ネク君、大丈夫?」
「あ、ああ」
 目の前のヨシュアに塞がれた視界の隙間から回りを伺うと、どうやら先ほどの揺れは乱暴なブレーキのせいで、こんなに視界が狭いのは先ほど停車した駅でどっと人が乗り込んで来たせいらしい。ヨシュアがこんなにも近いのは後ろの人に押されているからで、そのヨシュアの腕にかばわれるように、あるいは閉じ込められるかたちになった俺は身じろぎ一つできなくなる。
「苦しくない? もし息できなくなったりしたら言ってね」
「……」
「ネク君?」
 また大きく車両が揺れて、車内の密度のバランスが変わったのか、ますますこちらに傾くヨシュアの胸にいよいよ顔を押し付けているかたちになった。かしゃ、とヨシュアの首もとのヘッドフォンが俺の額に押されてわずかに身じろぐ。身長差は縮まったとは言え未だヨシュアの背には追いついていないし、顔が見られなくてうつむいている今の俺では尚更だ。
 こんなに近い距離でしかも抱き締められるような格好では、嫌でもヨシュアの花のような匂いを吸い込んでしまって、急激に自分の体温が上がった気がする。いや、けして嫌ではないのだが、二人きりじゃないときにそうなるのは、その、困るというか。ヨシュアのあたたかい胸が呼吸で上下して、穏やかな心音さえ聞こえてきそうだ。そんなの、困るではないか。今はまだ電車の中なのに。回りにたくさん人がいるのに。困るのに、扉に押し付けられている今の格好では逃げ場などなくて途方に暮れてしまった。
「ホントに大丈夫かい?」
 それだけでもう何も言えなくなってしまった俺に、甲斐甲斐しく何度もかけられる心配そうなヨシュアの声は直接身体に響いて、これは何の拷問なのかと逆恨みのような感情まで湧いてくる。それでも車内の喧騒の合間を縫って聞こえてきたアナウンスが告げる駅の名前は、目的地まではまだまだだと一人耳を熱くしている俺を嘲笑うように告げていたのだけれど。



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