「お祭り、行かない?」
 からり、と開いた窓から顔を覗かせたヨシュアの第一声はそれだった。
 今日という休日を何の予定もないままだらだらとすごして、少し机に向かったくらいで何の実りもないままベッドに寝転がっていたところだった。階下の母親はそろそろ夕飯の買い物に出かける時分だろう。
 いつもの時間より随分早く聞こえた窓からのノックに(いつもなら聞こえるのは日付が変わるか変わらないかくらいだ)はやる心を抑えながらベッドの上で起き上がったものの、突然の言葉に咄嗟に上手く反応できなかった。
「祭り?」
 結局ひとつの単語をオウム返しするくらいしかできない俺に、ヨシュアは微笑みながらこくんと小さくうなずく。相も変わらず、また我が家の充電器を頼ってきたらしいヘッドフォンがヨシュアの細い首筋にまとわりついていて、開け放たれた窓から、昼間の暑さを覚ますような夕方の涼しい風が流れてきた。
 今は夏休みの真っ最中だから、祭りなんてどこでもやっているのだろうけれど、この辺りで今日祭りがやっているところなんてあっただろうかとつい首をかしげる。
「うん。電車に乗っていくから、少し遠出になっちゃうけど」
 電車という単語に思わず目を見開いた。それはもしかしなくても、渋谷から出るということだろうか。
「おまえ、渋谷離れて平気なのか?」
 ごく当然のように浮かんだ疑問を、気づけば口にしていた。
「平気だよ。ホントはあんまりよくないけど」
「おいっ」
「ふふ、冗談だってば。一日やそこら離れたくらいでどうこうなるような半端な管理はしてないよ」
 いつも通りの悪ふざけの言葉に思わず突っ込みを入れてしまったものの、そんな風に言い切られてしまってはそれ以上何も言えない。俺が口出しできる問題でもないし。
「花火大会がね、あるんだよ」
「花火? 見たいのか?」
 浮世離れしたヨシュアと花火という庶民的な単語が上手く結びつかなくて、なんだか不思議な気持ちになる。コンポーザー様にしては随分とささやかな望みではないか。
「うん。できれば、ネク君と一緒に見られたらな、って」
 けれど、次いで続けられた言葉の意味を考えて心臓が小さく跳ね上がり、さらに優しい微笑みが追い討ちをかけ、俺の体温を急激に上げた。
「ダメかな?」
 そんな風に言われて、俺が駄目とでも言うと思っているのだろうか。
 俺はこうやってヨシュアに会えるだけでも嬉しいのに。一緒に外出するだなんて、滅多にないことなのに。ヨシュアから、誘ってくれたというのに。
「別に……駄目じゃない、けど」
「本当?」
 ただでさえ素直じゃない、俺のたったそれだけの言葉で、ふんわりと花開くような笑顔を見せるヨシュアに、頬が熱くなって思わずほんの気持ちだけうつむいた。動揺を悟られるのは嫌だったけれど、嬉しそうに和らぐスミレ色をまっすぐ見ることなんてとてもできない。
「支度したら、すぐ出るから。玄関の前で待ってろ」
「うん。ありがとう」
 ぶっきらぼうな言い方になるのを自覚しながらもそう伝えると、何がそんなに嬉しいのだろうというような笑顔を浮かべてうなずいたヨシュアは窓を閉め、そのまま屋根伝いにひょいひょいと降りていったようだった。
 人に見られたらどうするつもりなのやら、と思いながら、あまりヨシュアを待たせないように手早く着替えを済ませ、ズボンの尻ポケットに財布とケータイを突っ込んだ。


 台所の母親に夕飯はいらないこと、帰りは遅くなると思うから待っていなくていいことを伝えると、彼女とでも出かけるの? とあらぬ疑いをかけられた。
 興味津々という表情を隠さない母親に、別にそんなんじゃないと言えば、思春期の息子の事情に深入りするつもりはないようで、あっさりと気をつけていってらっしゃいという一言だけが返ってきた。ただ、相変わらず何かを見透かしたような瞳でなぜか楽しそうにしていたけれど。どちらかというと俺の方が彼女的な扱いをされていると知ったら母親はどう思うだろうという考えが一瞬よぎったものの、そんなことを口にするほどバカじゃない。ただ、いつもの調子で低くいってきます、とだけ伝えて玄関を出た。
 外に出てヨシュアを探すと、家の前で柔らかそうな髪の毛を揺らしながらうちの表札を興味深そうに眺めている。
「悪い、待ったか?」
「ううん、早かったね。急いで支度してくれたんだ?」
 ふふ、と笑いを含んだまま言われた言葉に、反射的に別にそんなんじゃないし、と返してから、つい先ほども同じような言葉を口にしたのを思い出す。母親に対するのとは幾分事情が違うけれど、自分は何か本当のことなのに言えないという病気にでもなっているのではないかとバカなことを思った。こいつを相手にしているときは、尚更だ。
「そう?」
 けれど一言だけそう口にして微笑みながら歩き出すヨシュアに、やっぱり何も言うことはできなかったのだけれど。
 駅までは大した距離もないので、歩いていくことにした。ヨシュアがいるから自転車は使えないし(こいつが乗っているところもあまり想像がつかない)、タクシーは一介の高校生である俺が拒否したからだ。
 まだ辺りは夕暮れ時で暗くなってもいないから手をつなぐことはできないけれど、恐らくヨシュアが俺に合わせてくれているのであろう歩幅で並んで歩いた。外を二人で並んで歩くなんてほとんどないことだから気づかなかったけれど、以前よりもヨシュアとの身長差は縮まった気がする。きっとヨシュアが早足で歩き出しても、いつぞやのように足が痛くなってしまうこともないだろう、と思うと、なんとなく面映いような嬉しいような気持ちになった。
「夏休みはどう? 宿題、ちゃんとやってる?」
「もうとっくに終わった。俺、これでも学年トップだぞ」
「へえ、そうなんだ。やっぱりネク君、頭いいんだね」
 ヨシュアとこんな他愛のない話ができることも、単純ながらヨシュアが『やっぱり』と言ってくれたことも、俺にとっては嬉しいばかりだ。子どもっぽいなと自分でも思いながら、今までそういう風に思っていてくれたことが気恥ずかしくもあり、少しどころでなく心が弾む。好きなヤツにはなるべくいいところだけを見せていたいと思うのは、ごく当然のことだと思うのだ。
 けれど、ヨシュアは今日俺があの時間に部屋にいなかったらどうするつもりなのだろうと思うと行き場のない不満がむくむくと胸の中で膨らんでくる。きっと特に落胆することもなく、なんてことない顔をしてあっさりと帰ってしまっていただろう。メールの一つでも寄越してくれればいいのだけれど、そうすると俺はヨシュアとの約束を最優先にするだろうことがヨシュアは分かっているから、俺の私生活を邪魔することはできる限りしたくないと言って、俺のケータイがヨシュアのアドレスを告げることはあまりない。ヨシュアは俺を縛りたくないのだと言いながら、いつも俺を突き放すのだ。



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