母子の光が最後の一粒まで消えて見えなくなると、それまで強く俺の身体を抱き寄せていたヨシュアの腕が、ふっと緩んだ。
「ネク君、もう動けるかい?」
 落とされた言葉に、もう少し余韻を噛み締める……ではないがゆっくりさせてくれればいいのに、情緒のないやつだ。なんて思いもしたが、人の生死が日常のヨシュアはいちいちそんなことをしていては埒が明かないのかもしれない。そう考えると、そのこともなんだか切なかった。
「ああ……大丈夫だ、けど」
「けど?」
「さっきは無理しない方がいいから、とか言ってたくせに」
 わざとヨシュアの口真似をしながら告げると、困ったようなため息と笑いがその口から漏れる。
「うん、本当はもう少しゆっくりさせてあげたいんだけど。UGの空気は、ネク君にいいものじゃないから」
 その言葉に、ああやっぱりここはUGなのかと今更ながら思った。まあ渋谷川にいるということは、そういうことなんだろう。ヨシュアは俺がUGに来ることをなぜか嫌がる。UGに長く滞在することで俺の身体がどうなるのかはわからないけれど、とりあえず悪影響があるらしい。
「まったく、下級ノイズが高位変換なんて大それたことするから……」
 不満そうにぶつぶつと呟くヨシュアは、またよくわからない言葉を口にしている。
「高位……何?」
「ああ、歩きながら説明するよ。こんなところからは早く出なくちゃ。立てるかい?」
 頷きながら、いらないと言ったのにヨシュアの手にしっかりと支えられて、ゆっくり立ち上がった。やっぱり、ヨシュアは過保護だ。支えていた手は、そのまま滑って俺の手を握る。ごく自然につながれた手が、恥ずかしながらやっぱり嬉しかった。
 こんなところ、なんて言っているけれど、渋谷川は間違いなくヨシュアの活動拠点であるはずなのだが。こいつはどこか、自分とUG自体を汚れ役と思っている節がある。今のこの渋谷UGのシステムや土台を作ったのは確かにヨシュアのはずなのに、本人がそのことを好ましく思っていないかのようだ。好ましくない、とまではいかないのかもしれないけれど、皮肉った言葉は俺もよく耳にすることがある。
「高位変換っていうのは、低位同調の逆。RGに存在するものの波動をUGに合わせて、UGでも機能するようにすることだよ」
 長い脚でゆったりと歩き出しながら、ヨシュアは幼い子どもに言い聞かせるような穏やかな声で説明をくれた。ヨシュアに手を引かれて、その隣を歩きながら口を開く。
「それって、かなり無理矢理じゃないか……?」
「うん、かなり無理矢理だよ。死神なりたての子には、まず自分で低位同調と高位変換ができるように徹底的に教えるくらいだし。だから、知能の低い低級ノイズなんかがそんなことしたら、どこかが破綻するに決まってるわけ。元々RGの低い波動で保ってるネク君の身体を、さっきのノイズが無理矢理UGの高波動に引きずり込んだりしたから、負担が全部ネク君に行っちゃったんだね」
 先ほどまで俺の身体を苛んでいた雑音混じりの不快感はそのせいだったらしい。がん、と強く頭を殴られたかのような衝撃は、UGに引きずり込まれた瞬間にそう感じたのだろう。今後頭部を触って撫でてみたけれど、どこも痛くも腫れ上がってもいなかったから。
 RGに戻ってからも、何度か不可抗力でUGに連れ込まれたことはあるけれど、そのときにあんな不快感は一度も感じたことはなかった。俺の負担にならないように、コンポーザーであるヨシュア自ら尽力していてくれていたからだろう。ノイズに無理矢理引きずり込まれたときの不快感は、大人姿のヨシュアから受けるプレッシャーとも、全然違う。身体が重くなるのは同じだけれど、ヨシュアから受ける威圧感はなんだか眠くなるような感じで、抵抗しようとか逆らおうとする気力がなくなるだけだ。身体全体が、ヨシュアの思い通りにしか動かなくなる。
 先ほどの感覚は、鉛のように重くなった身体の中で延々、テレビの砂嵐じみた雑音が内臓から筋肉から血管までを蝕んで行くようで、じっとしているだけで気が狂いそうだった。きっとあのままヨシュアが助けてくれなかったら、『身体が持たないかもしれない』と言ったヨシュアの言葉どおり、俺の身体を構成するソウルの結合規律はいかれてしまって、バラバラになっていただろう。
「でも、なんで俺だったんだ?」
 あの女性はノイズに取り憑かれてはいたけれど、表層意識や行動は女性自身のものだったように思う。娘を探し求める母親に、俺が娘であるかのように見せたのはノイズの仕業だとしても、その目的がわからない。
「多分だけど、あのノイズはお母さんからネク君に乗り換えようとしたんじゃないかな」
「はぁ?」
 乗り換える? そんなことができるのだろうか。そもそも、俺に乗り換えて何か得することがあるのか。
「元々はナナちゃんの若いソウルを目当てにしていたのかもしれないけど、たまたまついて来たネク君の覚醒が進んだソウルの方が、ノイズには魅力的だったんだろうね。だからお母さんに幻覚を見させて、ネク君をさらわせたのかな……っていうのが、僕の推測」
「ノイズがRGの人間を取り込むなんて、そんなことできるのか」
 できるとしたら、それはちょっと大事なのではなかろうか。ノイズなんて、この渋谷UGには腐るほどいる。
「んー、普通のノイズがRGの人間に干渉できるのは、精々取り憑いてその思考をネガティブにさせる……要するにそうやって自分の仲間を増やすくらいだけど、ナナちゃんやお母さんみたいな霊体はRGとUGの中間を彷徨っていて、どちらにもある程度干渉できる存在だから。そこを上手く利用したんだろうね」
 やれやれ。さっきヨシュアは知能の低い低級ノイズと言っていたけれど、その割にはよくもまあ考えるものだ、と変に感心してしまった。
「ただ……」
「ん?」
「……」
「なんだよ」
 何かを言いかけて開いた口を、結局何も言わずに閉じてしまうヨシュアを不審に思って見上げると、困っているような、申し訳なさそうな、何ともいえない顔で曖昧に笑っていた。
「……ただ、ネク君にはナナちゃんたちの姿が見えてたじゃない? なんだかんだ言ってもう結構な時間僕と一緒にいるから、UGへの感度がよくなってるのかもしれないって言ったけど……そのせいで、霊体に取り憑いただけの不完全なノイズに干渉された、っていう可能性もあるかな……って」
「……」
 後に続けられるであろうヨシュアの言葉が、俺には分かってしまった。
「もし、そうだとしたら」
「謝るなよ」
 だから、ヨシュアがその言葉を口にする前に遮った。ヨシュアのせいで俺がUGのものに敏感になったからって、幽霊まで見えるようになったからって、なんだって言うんだろう。ヨシュアと一緒にいるせいで今回みたいな危ない目に合ったって言うなら、それがなんだって言うんだ。
「ネク君」
「絶対、謝るな」
 謝って、ヨシュアはどうする気なのだろう。もうこれ以上は一緒にいられないと、俺にはもう会わないとでも言うつもりなのだろうか。そんなことが、本当に言えるとでも思っているのか。
「もし、それが本当でも……俺は、それでもおまえと一緒にいたいって思ってるんだから……謝るなよ」
 例え謝られたとしたって、俺はヨシュアと離れる気なんかさらさらない。ヨシュアだってそのつもりのはずだ。俺のことを恋人だと、幼い少女にすら言い切ったのだから。さっきだって、俺は『ヨシュアの』なんだって、低級ノイズにエラソウに言い放ったくせに。
「ヘンな物が見えるようになったって……俺はヨシュアと一緒にいられない方が、絶対ヤだからな……」
 本当は、こんな風に素直にまっすぐ気持ちを伝えるのは得意じゃない。けど、嫌だって言ってもヨシュアが無理矢理そうさせるのだ。ヨシュアが俺から離れようとしているなら、俺はなりふり構わず喚いてでも引き止めるしかないのだから。俺がそうでもしなければ、ヨシュアはきっと簡単に離れてしまう。俺をそんな風に思わせて、不安にさせる、ヨシュアが悪い。
 コツ、コツ、とゆったり歩く音が微妙にずれて、時々はぴったりと重なって、薄暗い道に響き渡る。俯いたまま、なんとなくヨシュアの顔が見られなくて、ただ降りてくるはずのヨシュアの言葉だけをじっと待った。ヨシュアはこのまま何も言わないつもりだろうか。自分から話を振ってきたくせに、そんなことが許されるのか。
 コツ、コツ、コツ、とそれから三歩歩いた所で、ふ、と弱々しいため息をつく音が聞こえた。その音を合図に、ちら、とヨシュアの顔を見上げる形で覗き見る。そろそろと覗き見たヨシュアの顔は、俺の予想と寸分違わず、困ったように笑っていた。
「……うん。そっか」
 その、一言だけ。簡素な許しの言葉だけを落として、ヨシュアはもうそのことについて何も言ってくれなかった。ヨシュアはいつも俺の前で困った顔をするけれど、俺にとってはそんなヨシュアの方が困ったオトナだと思う。そんなたった一言だけで、不安に思っていた俺の気持ちを簡単に掬い上げてしまうのだから、本当に酷いオトナなのだ。
「ああ、ほら。もうすぐ、RGに出られるよ」
 渋谷川の長い道のりが終わろうとしている。俺には長く感じられるけれど、ヨシュアの長い脚ではそうではないかもしれない。けど、今は俺の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれているから、もしかしたらこいつにとっても長かったのだろうか。
 ヨシュアはもう先ほどのように申し訳なさそうな、どうしたらいいのか分からないとでも言いたげな、そんな顔はしていなかった。ただ、いつもの様子でにこやかに笑っている。
 俺の手を引いてくれる大きな手のひらや、柔らかい光でこちらを見守るスミレ色の瞳からじんわりと伝わってくる、ヨシュアの優しさを噛み締めながら、UGとRGとの境目をゆっくりまたいだ。


 俺のアパートの階段は、歩くたびにかん、かん、かん、と安っぽい音が、少なくとも俺の部屋の中までは聞こえてくる。アパート中に響いているのではと思うくらいだが、まあ安っぽいというか本当に安アパートなのだから仕方ない。二階部屋に絶賛一人暮らし中の俺は毎回その音を立てなくてはならなくて、なるべくうるさくならないようにいつも気を使う。それなのに、なぜかヨシュアが優雅な足取りで階段を踏むときはびっくりするくらい静かで、納得いかなかった。
 そういえば、ヨシュアが普段俺の部屋を訪ねてくるときも、インターフォンが鳴る前にこの音を聞いたことがない。なんだこの階段は、ヨシュアに媚でも売っているつもりなのか。不満に思って口に出すと、「普段の行いがいいからかな」などと笑われた。なんで普段の行いが階段を静かに上れるかどうかに関係あるんだ。まったく、納得がいかない。
 渋谷川を出て渋谷駅ガード下に出たときには、ヨシュアはもう子どもの姿に戻っていた。繋いでいてくれた手も、オトナ姿のそれと比べると一回りほど小さくなっていたというのに、いつのまに戻っていたんだ、と思わず口にしてしまったくらい全く気づかなかった。けれど、オトナ姿のヨシュアを相手にしていると、見上げてばかりで首が痛くなりそうだったから、少し下に目線をやるだけで済む子どもヨシュアの方が俺には助かる。苦笑しながらも、もう暗いから家まで送るよ、と優しく笑ってここまでついてきてくれたヨシュアは、ごく当然ながら今もいつも通りの子ども姿だ。細い指と華奢ながらも広い手のひらは、オトナ姿の骨ばって大きな手のひらよりも俺の手には馴染み深い。ぎゅっと包み込んでくれる大きな手も、もちろん嫌いではないのだが。
 行こう、と言ってごく当たり前のような顔でここまで送ってくれたけれど、このあとどうするのかまではまだ聞けていなかった。時刻は二十一時過ぎ、今日は花の金曜日だ。いつもヨシュアが週末に訪れるのは土曜日が多いけれど、俺にとっては明日も休日である。ヨシュアが泊まっていっても何の問題もない。けれど、もしヨシュアの予定がこの後詰まっていたらと思うと気が重くて、結局部屋に着くまで言い出せなかった。
「ヨ、シュア」
「うん?」
 けれど、もう目の前には俺の部屋のドアがあるだけで、部屋の鍵を取り出してドアを開けるまでの間にちゃんと聞くしかない。俺が何も言わなければ、きっとヨシュアは帰ってしまうだろう。
「あの、今日……は」
 歯切れの悪い声でおずおずと告げると、ヨシュアは何を言われているのかわからないように、きょとんとした表情で目を丸くした。ウサギのようなその瞳が、ちくちくと俺の心臓を突き刺す。
「えっと、もう帰るのか?」
 違うだろバカ。こんな風に言ったら、ヨシュアは帰った方がいい? とかなんとか言い出すに違いないのに。
「帰った方がいいの?」
 ほら見ろ。俺のバカ。なんでわかってるのに、もっと上手く言えないんだ。
「ち、ちがくてっ」
「うん」
「そうじゃなくて……この後、予定ないなら……その」
 ざく、と重い気持ちで鍵穴に鍵を刺す。鍵を開けたらその瞬間にこの会話は終わってしまう気がして、けれど鍵を取り出したのにそのままドアを開けないでいるのは不自然な気がしたからだ。でも、そのまま鍵を回すことができない。結局鍵をドアに突き刺したまま動けなくなってしまった俺の不自然な格好を、ヨシュアはどう思っているだろうか。
 一緒にいたいと、さっきまではごく自然に口にすることができたのに、どうしてだろう。ヨシュアのスミレ色がまっすぐに俺のことを射抜いているからだろうか。ううん、きっとUGでは何か特別な魔法がかかっていたに違いない。だから、あんな恥ずかしいことも当然のように言えてしまった。けれど今俺がいるのはRGで、UGではどんなに強がっていても今の俺は意気地なしの酷い臆病者だ。口下手で、姑息で、一緒にいたいのだと、ただそれだけの一言が言えない。
「ふふ」
「っ……」
 それまで神妙な顔で俺の言葉を聞いていたヨシュアが、堪え切れなくなったかのように噴き出した。なんだよ、その笑いは。
「あんな目に会わせたのに、このままネク君一人にしたりすると思う?」
「え……」
「今日はずっと、一緒にいるよ」
 繋いだ手の甲を、ヨシュアのゆびが優しく撫でてくれる。少しくすぐったいその感触は、ものすごく恥ずかしくて、けれども同じくらい嬉しい。あまりの嬉しさに、かーっと自分の顔がおかしいくらい熱くなったのが分かってしまった。
「それに……」
 その手を、ヨシュアが少し強めにぐい、と引いた。不意打ちに、抵抗する間もなく前のめりになって、ヨシュアの顔がいきなりアップになる。
「な、っ」
 驚きのあまり目を剥くと、そのままヨシュアは俺の耳の下あたり、というか肩口付近に顔を近づけて、すんすんと鼻を鳴らした。犬のようなその動作に、もしかして匂いを嗅がれているのだろうかと気がつく。もう随分と陽気は温かいし、汗くさいって思われたらどうしようと思いながら、ヨシュアに手を掴まれたままでは動けなかった。
「うん、まだ少しUGの匂いが染み付いてるね」
 こんなに近くては先ほどからどきどきとうるさい心臓の音すらヨシュアに聞こえてしまいそうで、まだかまだかと焦れていると、ようやくヨシュアは気が済んだように寄せていた顔を離してくれる。安堵のあまり、思わずほう、とため息をついてしまった。
「UGの匂いが残ってると、ヘンなのが寄り付きやすくなるから」
「ヘン、なの……?」
「ノイズとか、あんまりよくないのがね。だから、この匂いもちゃんと消さなくちゃ」
 そんな匂い、どうやって消すのかなんて俺にはわからないけれど、聞こうとはしながらもなんとなく口を閉ざしてしまい、聞けずじまいだ。ただ、ヨシュアがちゃんと俺の言葉を拾って一緒にいると言ってくれたのが嬉しくて、とりあえずは刺しっぱなしだった鍵をがちゃんと回した。



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