身体が、重い。全身の血管に鉛を流し込まれたかのように指の先までが重く、ぐらぐらと揺れる頭はあまりの不快さに自分の身体ながらもぎ取って捨ててしまいたいほどだ。
 殴られたような衝撃を受けてからすぐに意識を飛ばしそうになったのだけれど、なぜだか今意識を飛ばしたらその瞬間に自分の身体ごと何もかもバラバラになって消え去ってしまいそうな強迫観念に囚われた。だから、なぜそう思ったのかはわからないけれど、とにかくなんとか目だけは押し開いて意識を飛ばすまいと必死に抵抗したのだ。お陰で自分の身体が何者かの手によって(考えられる犯人は一人しかいないのだけれど)どこかへ運ばれたことは分かったものの、視界はその人物によって塞がれてしまっていて、どこをどう移動したのかまでは把握していない。
 まずその場所を一番に知覚したのは鼻で、不快感を催すその臭いはいわゆる下水道の臭いだ。次に耳を済ませれば、自分を抱えている人物の動く音がやけに反響して聞こえるのと、わずかな水音以外の音がしない。最後にその人物が自分を地面の上に下ろしたらしく、視界が開けるとそこは見慣れた場所だった。見慣れた、というと少しばかり語弊があるのだけれど、かといって初めて見る場所でもない、微妙なところだ。その場所の名前を、渋谷川という。
 なんでこんなところに、と思いながら、あまり綺麗とは言いがたい地面に腰を下ろした俺の上体を抱きかかえている人物を見上げると、案の定というか、予想通りの顔がそこにあった。
「ナナ」
 優しく笑う女性の口から出た名前に、首をかしげようとしたものの、それだけの動作が酷く億劫だ。仕方なく、僅かに頭を揺らす程度で済ませることにした。その言葉でなんとなく事態は把握したのだけれど、どうやら、女性には俺が自分の娘の姿に見えているらしい。
『霊体は意識が混濁してることも多いから――』
 あのときのヨシュアの言葉が頭の中で蘇る。そう考えると、女性の不可解な行動もある程度は納得することができた。娘に対する扱いにしては、いささか乱暴が過ぎるけれど。
 俺の上体を支えている女性の腕はひんやりと冷たい。先ほど冷たい何かに包まれたように感じたのは、これだったようだ。ついでに言うと、視界を塞いでいたのは恐らく顔を女性の胸に押し付けられていたからだろう。けれど、そのことにどこか違和感を感じる。そうだ、たしかヨシュアが、俺は霊体に触れないと言っていた――。
「怖かったね。もう大丈夫よ。今度は迷子になったりしないわ。ずっとお母さんと一緒だからね」
 女性の優しい声音はどこか虚ろに聞こえて、耳から耳へとただ通りすぎていく。それに今は元に戻っているけれど、あんな風に身体が刃物になるなんて普通、ありえるだろうか。いくら意識の混濁した霊体とはいえ、あんなものは死神でもなければ……
 必死で考えようとするのに、ガンガンと頭に響く痛みが邪魔をする。頭だけじゃない、全身が、しっかりと気を強く持っていなければ、今すぐにでもバラけてなくなってしまいそうだ。
「大丈夫よ。お母さんが守るから」
 違う。アンタが守るのは、俺じゃない。俺を守ってくれるのも、アンタじゃない。そう思っても、渇いた喉からはうめき声すら出せなかった。俺は、どうしたらいいんだろう。こんなお荷物みたいな身体で、何ができる? どうしたら。ヨシュア。
「残念だけど、その子を守るのはあなたじゃないよ」
 穏やかで淡々とした声が、冷たい空間に響いた。あまりに俺の望んだとおりの声に、ついにいかれた頭が勝手に生み出した幻聴ではないかと疑ったほどだ。
「どうして……!」
 ばっと顔を上げて信じられないようにその先を見つめる女性の視線を、のろのろと首を捻って追いかける。薄ぼんやりと、その人物の周りだけが白く浮き上がるように光って見えた。携帯を片手に長い腕で幼い少女を抱きかかえる、暗色のスーツを身に纏ったヨシュアは、見慣れないオトナのかたちをしている。それでもその人物がヨシュアだとわかったのは、以前も同じ姿のヨシュアと行動を共にしたときの記憶の賜物だ。
「渋谷は僕の領域だからね。あなたの行く先なんて、手に取るように分かるのさ」
 コツ、コツ、と革靴特有の音を鳴り響かせながら、歩み寄るヨシュアの顔がようやく見える位置に来る。
 その瞳を見て、絶句した。
 今までに見たこともないような色を湛えて鈍く光る、底冷えするようなスミレ色。透き通っているようでどこか薄暗い、UGの空の色だ。口許は釣り上がったように歪められているけれど、笑っていないことだけは分かった。
 ヨシュア、怒ってる。
 こんなに怒ったヨシュアなんて見たことがないけれど、張り詰めたものが今にも爆発しそうなこのピリピリとした空気を肌で感じれば、嫌でも分かる。穏やかに聞こえた声は、溢れ出そうな感情を押し殺しすぎたせいでそう聞こえただけだったらしい。
「RGの人間に手を出すなんて、死神の子たちにだって認めてないんだよ」
「来ないで! ナナを連れて行くのはやめて!」
「ああ、あなたには彼がナナちゃんに見えるんだ。でも、その子は僕のだから。返してもらうよ」
 ヨシュアらしからぬ言葉を吐き出しながらゆっくりと、けれど歩みを止めることなく距離を詰める。そんな彼の周りには、先ほどからゆらゆらと浮遊する白い光が三つ、ぴったりとついて回っていた。漂白しすぎたような青白い光に包まれているそれは、手のひらサイズの、小さな人型を取っている。赤ん坊に羽の生えた姿のそれは、端的に言うなら天使という言葉が一番ふさわしい。暗色のスーツを見に纏ったヨシュアがこの薄暗い空間に紛れてしまわないのは、天使のようなものの光のお陰だったようだ。その小さな天使を、俺はゲーム中に何度も目にしたことがある。可愛らしい姿をしていても、それらが導くのは唯一つ。消滅のみ、だ。
「本当はナナちゃんのお願い、叶えてあげたかったんだけど……早くしないと、彼の身体が持たないかもしれないんだ。悪く思わないでね」
 す、とヨシュアがそのしなやかな腕を真っ直ぐ前に向ける。その白い指先は、迷うことなく女性の顔に向けられていた。ひ、と声を上げた女性が、それでも抱きかかえた俺を離すまいとそのゆびに力を込める。ぎり、と腕に食い込む痛みに、思わず眉を寄せながら女性の手に目をやると、五本の指先が鋭い刃物のように黒く変形していた。
「……その手を離しなよ」
 そのことにヨシュアも気づいたのか、冷え切った声色が怒りを宿したように一段低くなる。けれど、それでもまだ行動を起こさないのは、俺と女性が密着しすぎていて手が出せないのかもしれない。コツ、と一歩前に出る靴音に、女性は俺をかばうようにばっと身を乗り出した。
 違う、ヨシュア。これは。
「ヨ、シュア……っ!」
 渇いて閉じた喉を無理矢理こじ開けるように、必死で声を絞り出す。その瞬間、今動かなければ俺は何のためにここにいるのか分からないと、鉛のような身体に鞭打って起き上がった。びりびりと痛みとは違う不快感が全身を駆け抜けて、意識が飛びそうになる。それでもなんとか歯を食いしばって、先ほどから俺を苦しめる目の前の女性をかばうように抱き締めた。
「ネク君!?」
「ヨシュア、ちがう……っこの人は……!」
 一言一言声をひねり出すたびに、ざらざらとした違和感で吐き気を催しそうになる。まるで全身が電波障害でラジオに紛れる雑音に邪魔されているようで、目の前に時折ジジ、とノイズが混ざる。
「ネク君、動かないで……! 今の君はっ」
「聞、けよ! ヨシュアっ……!」
 切実な声で諭そうとするヨシュアの声も必死だったけれど、潰れたカエルのような声を上げる俺も必死だった。最後まで聞かずに言葉を被せると、困ったようにヨシュアが押し黙る。だって、このままじゃ、この人が。
「この、人は……自分の意志で……こ、なこと……してるんじゃないっ……」
 俺の腕を掴んだ女性の手が、ますます俺の腕に食い込む。痛みに意識を持っていかれそうになったけれど、おかげで全身を苛むノイズが少し紛れて、無理矢理でも踏ん張れた。だって、この人はこんなに、自分の身体すらコントロールできていないのに。
「意識の、混濁、だけじゃなくて……他に、何かっ」
 言いながら、その何かがなんなのかなんて、俺にも分からない。けど、何かあるはずなんだ。
「だから……他の……ほうほ、う……で……」
 思い上がったことを言っている自覚は痛いほどにある。ヨシュアは大抵のことができるけれど、何でもできるわけじゃない。コンポーザーという立場はこの渋谷の中では万能に思えても、本当はそうじゃないのだ。ヨシュアにだって、できないことはある。ヨシュアならどうにかしてくれるなんて、とんだ勘違いだ。
 それでも、母親が本当の自分の子どもを認識できないまま消滅してしまうなんて。あの幼い少女が、もう二度と母親の腕に抱かれることがないだなんて。そんなのって、ない。あってたまるか。これが俺とヨシュアだったとしたらどうか、と考えてしまう。未練を残したまま、お互い会うことが叶わずにどちらかが消滅してしまったとしたら、考えただけで俺の胸は潰れそうになるのに。
「よしゅ、あ……おねが、ぃ、だから……!」
 今この場で、それをどうにかできる可能性があるのはヨシュアだけだ。この空間では俺はあまりにも無力で、だからヨシュアに向かって必死に嘆願の声を上げるしかなかった。
「ママ……」
 これまで口を開くことすらできなかったのだろう、幼い少女の消え入りそうな声がぽつりと落とされてから、数秒間沈黙が落ちた。ともすればすぐにでも霞んでしまいそうな視界を無理矢理持ち上げてヨシュアを見ると、何かを考え込んでいるかのように自身のくちびるをゆびで撫でている。それからふと何を思いついたのか、くちびるから手を離し、ゆっくりとため息をついた。
「……」
「よ、しゅあ」
 俺にはヨシュアのその行動が、女性を消滅させる決意をしたのではない、ということを祈るしかない。
「……音痴だって思っても、笑わないでよ」
 気まずそうに呟かれて、どこか間抜けに聞こえるヨシュアの言葉に、申し訳ないながらも思わず拍子抜けしてしまった。呆然とその瞳を見つめると、ヨシュアは一度だけこちらを見て、小さく笑った、のだろうか。その鮮やかなスミレ色の瞳が白いまぶたで覆われて、すう、と大きく息を吸い込む。そうして一呼吸おいてから、細身ながらがっしりとしたしなやかな身体を存分に使って、ヨシュアは歌い始めた。
 低すぎず耳に心地良い柔らかな声が、がらんとした空間に響き渡る。優しい声音でありながらその声量は身体のどこから出ているのかと思うくらい十分なほどで、腹の底まで響いて聞こえた。歌詞のないその歌は、それでもどこか懐かしく感じられるメロディを奏でる。不思議な音色に、俺の身体を蝕んでいた雑音も少しばかり鳴りを潜めたような気がする。心地良さに身をゆだねようとした次の瞬間、腕の中の女性の体ががくん、と痙攣した。
「……!」
 声にならない悲鳴を上げて、俺の腕を掴んでいた手を離し、自身の頭を抱え込む。ヨシュアの歌声に呼応するようにびくん、びくん、と身体を跳ねさせては、掴んだ頭に変形したその指先が食い込んだ。
「っ、おい!」
 これはまずいのではなかろうか。いくら霊体とはいえ、人体の中枢である頭を傷つけても大丈夫とは到底思えなかった。咄嗟に女性の手首を掴んで押さえ込んだものの、ろくに力の入らない自分の身体ではいつまで持つか分からない。歌詞のない歌を続けるヨシュアを見上げると、青白いまぶたで覆われていたはずのその目はいつのまにか開かれて、困ったようにこちらを見つめていた。
 この歌が何の歌なのかは分からないけれど、恐らく女性を消滅させずに理性を取り戻す打開策として、ヨシュアは今歌っているはずだ。けれど、もしかしたらヨシュアの力は女性には大きすぎるのではないだろうか。彼は最初からこの歌を歌おうとはしていなかった。俺が懇願したから、苦肉の策としてこの方法を選んだのだ。それは、自身の強大すぎる力をコントロールできるかどうか、ヨシュアにも分からなかったからなのかもしれない。
『大きい力を使う分には大きければ大きいほど得意なんだけど、細やかにコントロールするのって苦手なんだよね』
 それは、ほんの少し前にヨシュアから聞いた言葉だ。あのときヨシュアはどうしただろうか。俺に、何と言っただろう。
『ネク君の持ってるソウルは細かいコントロールが得意だっていうことになるわけ』
 すう、と息を吸い込む。そんなことができるのかどうか、自分でもわからない。ヨシュアが歌っている歌が何なのかすら、検討もつかなかった。
『僕のソウルと、ネク君のソウルを合わせるとちょうど具合がいいんだよ』
 けど、俺はヨシュアのパートナーだ。RGに戻ってから今までもずっと、それは変わらないと思っている。ゲーム中、ノイズとの戦闘ではヨシュアが今何をしているのか、何を考えているのかまで手に取るように分かった。契約なんかしてなくたって、俺はヨシュアのパートナーなのだ。きっとできると思う、できるはずだ。いや、できる。そんな都合のいいことがあってたまるかと頭のどこかが告げたって、俺はそう思い込むことにした。
 ヨシュアの紡ぐメロディに耳を済ませる。時折砂嵐の混じる邪魔な視界はまぶたで覆う。今はヨシュアのことだけ、ヨシュアが俺にどうして欲しいと思っているのか、それだけを考える。それからタイミングを計り、思い切って響き渡る歌に自分の声を乗せた。
 閉じたがる喉から上手く声を出せるのかどうか心配だったのだけれど、ヨシュアの歌声に促されるようにあっけなく、俺の声帯は通常営業を開始する。ヨシュアの大きすぎる力が負担にならないように、ちょうどいいバランスで目の前の女性に届くように祈りながら口を開くと、紡がれる声が勝手にメロディを作った。ヨシュアの声に合わせて歌っていると、まるで知らない歌だったはずのものが、どうしてか昔から耳馴染んだ曲のように感じられる。少し低めの俺の歌声も、ヨシュアの高音がさりげなくフォローして、心地良い音に変えてくれた。
 そうして完全に俺とヨシュアの声が重なると、大きく痙攣していた女性の身体がぴたりと静かになる。そっと目を開けて様子を窺うと、見開かれていた瞳も徐々にまぶたが下りてきて、今ではまどろんでいるかのようにとろんと中空を見つめていた。それから突如、黒い靄が女性の身体から逃げるように飛び出していく。頭を抱え込んでいた両手もするりと脇に落ちて、意識を失ったかのように女性の身体がくたりと俺の上に倒れこんできた。もちろん、最後の力を振り絞って気力だけでなんとか体勢を保っていた俺も耐え切れずに、そのままあっさりと床に崩れる。同時に、歌が止まった。
「ああ、やっぱりノイズが取り憑いていたんだね」
 動かない頭に目だけでそちらを追うと、片腕に抱いていた少女を床に下ろして、ヨシュアが素早く動く。
「おまえはもういらないよ」
 真っ直ぐ前に突き出した腕を、優雅な動きでゆっくりと振り下ろす。その瞬間、ばち、と白い閃光が走った。三つの白い光が黒い靄に一斉に群がって、それ自体が一つの大きな白い光に変わる。一瞬だけ見えたそれは、言うなれば女神のような姿をしていただろうか。大きな青白い槍に貫かれた黒い靄は、ギャア、と耳障りな音を立ててあっけなく消え去った。ひらひらと舞う数枚の白い羽だけが残って、それも床に落ちる前にふわりと形をなくす。
「安らかにおやすみ」
 憐れみの欠片もない冷たい声音が下水道内に反響して、それから母親が目を覚ますのは早かった。ば、と俺の上から身を起こすと、きょろきょろと辺りを見回し、視界に見つけた少女に向かってふらつきながら駆け出した。
「ナナ!」
「ママっ」
 そのまま少女は母親の腕の中に飛び込んで、母親はそんな少女をぎゅっと抱き締める。
「ごめんね、ナナ……ごめんね……」
 その光景を今にも薄れてしまいそうな意識で見守っていると、息つく暇もなく、駆け寄ってきたヨシュアの腕が俺の上体を優しく抱き起こした。
「ネク君……!」
 壊れ物を扱うような手つきで俺の肩を掴んで、ゆっくりと抱き寄せるヨシュアの顔をなんとか首を捻って見上げると……あれ、なんだかヨシュアがヨシュアらしからぬ顔をしている。いつもの余裕ぶった微笑みはどこへ行ってしまったのか、どこか必死そうで、眉尻の下がったなんとも情けない顔だ。ヨシュアの端正な顔立ちはそれでも崩れることはなかったけれど、俺が原因でそんな顔をしているのかと思うとなんだかおかしかった。俺の身体を支える腕も、なんとなく……震えているのだろうか。
「よ、しゅ……あ」
「ごめんね、辛かったでしょ? 今楽にしてあげるから……」
 そう言うヨシュアの方こそが辛そうな顔をしながら、ひたりと大きな手のひらを俺の額に宛がう。低い体温が、ひんやりと気持ちいい。心地良さに思わず目を細めた次の瞬間、長い間俺の身体を苛んでいた不快感が嘘のようにすうっと消えていった。鉛のようだった身体がふわりと軽くなり、視界の端をちらついていた砂嵐すら跡形もなくなっている。
「ネク君、どう?」
「ん……だい、じょ……ぶ……」
「本当に?」
 情けない顔をしたヨシュアはやけに疑り深くて、心配性だと思った。
「……しゅ、あ……りが、と」
 そんなヨシュアをなんとか安心させたくて、先ほどよりは楽に動くようになった手を伸ばし、子ども姿のときよりも丸みをなくした滑らかな白い頬を撫でる。その瞬間ぎゅっと強く抱き締められ、ヨシュアの胸に顔を押し付ける形になってしまって、結局その顔は見えなくなってしまった。
「……よかった……」
 けれど、俺も聞いたことがないような弱々しい、心底安堵したというような声を上げるヨシュアは、きっと俺には見られたくないような表情をしているんだろうと思い、ただその広い背中に腕を回して強く抱き締め返した。


「本当にありがとうございました」
 そう言って、少女の母親は深々と頭を下げた。背の低い細い肩からは、先ほどまでの変貌が嘘のように女性らしい丸みと優しい物腰が感じられる。
「沢山ご迷惑をおかけしてしまって……」
 立ち尽くす母親と、隣でぎゅっと彼女の手を繋いでいる少女を前に、俺は未だヨシュアの腕の中で支えられて座り込んだままだ。もう立てると言ったのに、「無理しない方がいいから」と心配顔のヨシュアが許してくれなかった。
「いいよ、そんなに畏まらなくても。僕はこれが仕事だし」
「俺も……別に、好きで手伝っただけだから」
 ヨシュアと視線を交わしながら言った言葉に、女性はますます恐縮した様子で再び頭を下げる。
「本当に、なんとお礼を言っていいのか……」
 女性は節目がちな視線で俺の腕に目を留めると、痛ましそうな、申し訳ないといった表情で俺の前に膝をついた。刃物を強く食い込ませられた傷口は、さすがにまだ血が固まりきらず生々しい。
「とても、痛そうだわ……私がやったんですよね。本当に、ごめんなさい」
 すっと伸ばされた女性の手は俺の腕に触れようとしたけれど、もうノイズの干渉を受けていない身体ではするりと、それこそ漫画のようにすり抜けただけだった。触られているという実感こそないものの、どこかひんやりと冷たい温度だけが微かに伝わってくる。体温は、ない。ソウルをある程度自分の思うとおりに構築できるヨシュアなんかと違って、彼女たちはただありのままのソウルのかたちなのだ。それでも、温かい母親の手だと思った。
「別に、アンタがやったんじゃなくて……ノイズのせいだし。もうそんなに痛くない」
 大丈夫だから気にしないで欲しい、と言いたかったのだけれど、上手く言えなかった。けれど、安堵したように表情を緩める母親に、少しは伝わっただろうかとこちらもほっとする。
「よしやおにいちゃん、ねくくん、おかげでママにあえました。ありがとう」
 少しませた表情で畏まったお礼を口にする幼い少女のあまりの愛らしさに、思わずヨシュアと二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
「お礼なんて、僕はもうナナちゃんのその言葉だけで十分だよ」
 ヨシュアの大きな手のひらで頭を撫でられて、少女が嬉しそうに笑う。ヨシュアの優しい手はそれはもう気持ちいいだろう、と自慢したい気持ちを堪えて心の中だけでこっそりと呟いた。
「ああ、時間だね」
 ヨシュアのその言葉に、二人の姿がどこかうすぼんやりと光っていることに気がついた。浮遊霊は、未練を残した霊がなりやすい。母親は娘に、娘は母親に会いたいという母子お互いの未練が晴れたからだろう。女性も自身の変化と、これから自分たちがどうなるのかということに気がついたようで、ふ、と柔らかく笑ってからゆっくりと立ち上がる。
「そうね。私たち、もう行かなくちゃ」
「ママといっしょに?」
「ええ、ママとナナちゃん、一緒によ」
 母親の言葉に無邪気に笑う少女とは対照的に、女性の表情はどこか切なげだった。幼い少女を共に連れて行かなくてはならない罪悪感が、そこには混じっていたのかもしれない。なぜ、この狭くはない渋谷で彼女たち二人以外に同系統の波動の持ち主がいないのか、なぜ母子二人だけが今この姿でいるのか、俺には知りようもないことだけれど、きっと彼女には彼女なりの理由と悲しみがあったのだろう。
「気をつけて、な」
 思わず口をついた言葉は、彼女たちのソウルはこれからもう霧散するだけだと知っているくせに、と、自分でもどこか滑稽に聞こえた。天国への旅路なんて、本当はないのかもしれない。それでも、言わずにはいられなかった。
「うん、お気をつけて」
 けれど、俺の言葉を聞いたヨシュアが同じように続けてくれたから、俺は例えありもしない天国の存在だって信じられると思う。
「じゃあね、ばいばい」
 そう言って、少女が小さな手を振る横で母親が再び深く頭を下げながら、二人の姿はまるで風に流れる霧のようにふわりと消えて行った。二人の手は、最後までずっと繋がれたままで。
 少女はまたね、とは言わなかった。簡素な別れの言葉に深い意味はなかったのかもしれないけれど、あの幼い少女は、もしかしたら自身の『消滅』という言葉の意味を最後に理解したのだろうか。そう考えると、無性にやるせなく、切なくなる。
 そのソウルが散り散りになっても、いつかまた命が宿るときが来たなら、母子二人がどうか近しい場所で生まれますように、と心から願った。



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