まさかこんなところで出くわすとは思ってもみなかった。
 こんなところがどこかというと、駅前から歩いてすぐ、渋谷モルコのわき道にあたるスペイン坂である。
 出くわすなんて言うとなんだか悪いことのようだけれど、むしろどちらかというと嬉しい方のサプライズであって、なんというか要するにただの照れ隠しだ。
「あれ、ネク君」
 ふわふわと柔らかそうな淡色の髪の毛を揺らして、くるりとこちらを振り向いた顔は、俺の予想通りよく見知ったものである。
「ヨシュア」
「どうしたの。こんなところで」
 スミレ色に透き通った瞳がきょとんとした様子でこちらを見る。まあるくなったその目は相変わらずウサギみたいだと思うけれど。それはこちらの台詞だ。
「別に、学校帰りにぶらぶらしてただけだけど……」
「そうなんだ。ダメだよ、真っ直ぐおうちに帰らなくちゃ」
 おまえは俺の母親か、と言いたくなるような台詞だったけれど、悪戯に微笑む表情を見れば本気で言っているわけではないことくらい分かる。残念ながら、俺は今時学校帰りに寄り道をしないような希少な高校生には分類されない。
「おまえこそ、何してるんだよ」
 目の前に立つヨシュアは見慣れた子どもの姿で、RG仕様だ。俺がこいつを視認できている時点でそれは明らかなのだが、平日の昼下がり、こんな街中のこんな時間にヨシュアがRGにいるなんて珍しい。
 もっとも、別にヨシュアの生活サイクルを細部までつぶさに把握しているわけではないから、珍しいというのはただの俺の主観にすぎないのだけれど。ちょっとした空き時間や週末を利用して俺に会いに来てくれる以外、てっきりUGにこもっているものだと思っていた。そうそうコンポーザー様がUGを不在にしていては困るだろうし。
 渋谷狭しと言えど、こんな雑多な人ごみの中で示し合わせもせずに会えた偶然に思わず感謝する。こんな風に外で会うことは滅多にないから、素直に嬉しい。嬉しいのだが。
「うん、僕はね……んー、迷子センター?」
「はぁ?」
 ヨシュアの物言いは時々ものすごく分かりづらい。今日も変わらないらしいそれに、思わず眉を寄せた。
「この子」
 そう言って、振り返るようにやや下を見るヨシュアの視線を追うと、幼い体躯の見知らぬ少女がひょっこりと顔を出した。どうやら、今までずっとヨシュアの影に隠れていたらしい。思いもかけない、見覚えのない人物の登場につい一歩身を引く。
 引いてから、ちょうど俺の後ろを歩いていた通行人にぶつかりそうになり、寸でのところで慌てて避けた。狭い道を途切れることなく行き交う人の波に、道のど真ん中に立ち止まっていては邪魔になると、ヨシュアたちに倣って道端に寄る。
 それから改めて例の子どもの顔をまじまじと見てみたものの、やはり見覚えはこれっぽっちも、と言っていいほどなかった。このくらいの子どもの年のころなんて俺には判断がつかないけれど、背丈でいうと子どものヨシュアの腰止まりで、当たり前ながら小さい。幼稚園……とかそのくらいだろうか。
 文字通り顔だけを覗かせたその少女は、おずおずと身を隠すようにヨシュアの脚にぎゅっとしがみついている。肩の辺りで切りそろえられた細い髪が、不安を湛える瞳と共に頼りなく揺れた。
「……隠し子?」
「面白いことを言うね、ネク君は」
 思わず口をついて出た言葉に、ヨシュアは楽しそうにくすくすと笑いを漏らす。
「残念ながら僕の子じゃないんだけどね。ママ、ママ、って泣きながらうずくまってる子見たら、放っておけないでしょ?」
 なるほど。
「だから迷子センターか」
「そ」
 ヨシュアの右手がすっと持ち上げられて、少女の柔らかな髪を優しく撫でる。すっかりヨシュアに懐いているらしく、不安げに瞳を揺らしていた少女の表情がすぐに嬉しそうなものに変わった。ヨシュアのその恭しい手つきを見て、どうやって手懐けたのやら、なんて少し面白くないように思ったのはどうしてかなんて、その時の俺に分かるはずもない。
「へぇ。でもそっか、ネク君にもちゃんと見えるんだね」
「見える?」
 ヨシュアのおかしな物言いに思わず首をかしげる。すると俺の訝しげな様子に気づいたのか、ヨシュアはすっと一歩横に身を引いた。
「こういうこと」
 ヨシュアが立ち位置をずらせば、当然ながらその身体を盾にしていた少女の全身が露になる。
 ヨシュアに手を離されて、再び不安げな表情に変わる顔。子どもらしく、パステルカラーでまとめられたワンピースを身に付けていて、そのまま自然に視線を下ろした先には……足が、ない。
 スカートから伸びる脚の膝下辺りがうっすらと透けていて、足首から先は完全になかった。あまりのことに絶句していると、ヨシュアが困ったようなため息を漏らす。
「たまにいるんだよね、成仏しないでUGとRGをうろうろしちゃう子。規定年齢に達してないから、ゲームに参加してるわけでもなさそうだし」
「……幽霊、ってやつか?」
 驚きのあまり、発した声が少し震えてしまったのは不可抗力だと思う。おばけが怖い、なんていう歳でもないが、嫌というほど死神の羽を見てきた俺にもこの光景はさすがに衝撃的だった。
「うん、いわゆる浮遊霊かな。この子は低位同調が出来てるわけじゃないから、足がないように見えるでしょ? UGの波動はRGだと変換しきれないから、そう見えるんだよね。浮遊霊って、何かしら未練を残して死んだ人がなりやすいんだけど……」
「……」
「これじゃ警察に届けるってわけにもいかないでしょ」
 迷子は速やかに警察へ、が基本とはいえ、それが成り立つのはこちら側だけでの話だ。あちら側の、幽霊の迷子の面倒を誰が見るのかなんて、俺にはわからない。きっとそこらを歩いている渋谷中の人に聞いて回ったってわからないだろう。
「それでコンポーザー様自ら、迷子センターってわけか」
「そういうこと。あんまりこういう子が増えるとRGとUGのバランスが崩れちゃうし……それに、こんな小さい子じゃ尚更放っておけないしね」
 思わずまじまじと凝視してしまった俺の視線から逃げるように、少女は再びヨシュアの影に隠れた。怯えが見え隠れする瞳の、いたいけな視線が痛い。
「ああ、大丈夫だよ。このお兄ちゃん、悪い人じゃないから」
 なんだそのフォローの仕方は。ヨシュアの手が宥めるように再び少女の頭を撫でても、依然消えないままの怯えた視線に、俺はいじめっ子かと落胆する。
 そうして、ジーンズの生地が伸びてしまいそうなほどにぎゅっとヨシュアの脚を掴む少女を見ていたら、ふとした疑問が頭をよぎって、思わず俺もヨシュアの腕を掴んだ。
「何?」
 白い腕は低めの体温のせいかひんやりとしていて、思わぬ自分の行動にどぎまぎしてしまう。
「あ、いや、お前はちゃんとRGにいるのかな、とか、思って……わ、悪い」
 慌ててぱっと手を離すと、ヨシュアは出来の悪い生徒にするように優しく微笑んだ。
「僕はちゃんと低位同調してRGにいるけど、この子の足まで見えてるし、触れるよ。一応コンポーザーだからね。ネク君は多分、この子には触れないと思うけど……」
 そう言われて、試しに触ってみたら漫画のようにこの手がすり抜けるのだろうかと考えたものの、考えただけでやめた。それはこんな幼い子どもにとって、少し酷な気がしたからだ。
「どうして見えるのかは、僕にもちょっと分からないな。僕の波動に影響されて、ネク君のUGへの感度がよくなってるのかも……っていうくらい」
 俺自身今までに『見えた』ことなんてないし、生前のヨシュアのように霊感が強かったわけでもないから、それが一番近いのかもしれない。波動の影響云々がどういうことかは分からないけれど、それなりの時間をヨシュアと一緒に過ごしている自覚は、ある。
「……手伝ってやろうか?」
 曖昧に微笑むヨシュアを見据えながら、口をついて出た言葉に、深い意味なんてなかった。と、思う。
「え?」
「迷子センター」
 このまま家に帰って一人の時間を過ごすよりも、ヨシュアと二人で迷子を連れて渋谷をあてどなく彷徨うほうが有意義に思えたのは、けしておかしいことではないと思う。少なくとも俺にとっては。
 それに、不安そうで頼りなげな目の前の子どもを見てそ知らぬフリが出来るほど、俺は冷血にはなれなかった。
「別に、この後暇だし、ブラブラしてただけだし……目と足が四つあっても困らない、だろ」
 少しでもヨシュアと一緒にいたい、ヨシュアの役に立ちたい、と正直に言ってしまえたならどんなにいいだろうと思うのに、素直じゃない俺の口はぶっきらぼうな可愛くない言い方しかできない。自覚はあっても実際どう伝えればいいのかが分からなくて、ヨシュアの反応が不安になっておずおずとその顔色を窺ってみる。
「いいの?」
 けれど、俺自身が聞いたって腹立たしいに違いない物言いに対して、ヨシュアは驚いたようにきょとんと目を丸くした後、優しく微笑んでくれた。
「い、いいから、言ってる」
 ああ、まったく、どうして俺はこんな言い方しかできないんだろう。子どものようにひねくれた態度を取る俺にも笑いかけてくれるヨシュアの表情は、その外見よりもずっとずっと大人に思えた。
「ふふ、ありがとう。助かるよ」
 コンポーザーであるヨシュアにとって、俺なんかのちっぽけな協力が実際どれだけの役に立てるかなんてわからない。けれど、ヨシュアがそう言ってくれるのなら、俺はいくらでもその言葉を信じられる。わからなくたって、それならそれで少しでも役に立てるように頑張ればいいのだから。
「ん……じゃあ、決まりだな。おまえ、名前は?」
 いまだヨシュアの後ろに隠れたままの少女に向かって言ったのだが、びくっと小動物のように怯えられたかと思えば、ついにこちらを窺うように覗かせていた顔すらモグラ叩きのモグラのようにヨシュアの身体に隠れてしまった。
 なんだ、なんなんだその反応は。
「ああ、ダメだよネク君。そんな怖い顔したら」
 怖い顔? 失礼な、俺は至って普通の顔をしていたつもりなのに、と憮然としていると、ヨシュアは少女と目線を合わせるように恭しい身のこなしでしゃがみこんだ。
「ねえ、このお兄ちゃんがお母さん探すの手伝ってくれるんだって。お名前、さっき僕に教えてくれたよね? さっきみたいに、お兄ちゃんにもお名前教えてくれる?」
 その言葉に、知っているならヨシュアが教えてくれればいいのに、と思ったものの、ヨシュアと俺の顔を交互に見比べながら口を開こうとしている少女の様子に、ぐっと堪えた。
「わたし、ななちゃん」
「そう、ナナちゃんだね。ありがとう」
 文字通り、幼子を褒める手つきでヨシュアが頭を撫でると、少女の顔が嬉しそうにはにかむ。
「おにいちゃんは?」
 子ども特有のたどたどしい口調で尋ね返されて、なんとも言えない居心地の悪さに少したじろいだ。考えてみれば、小さい子どもの相手なんて今までにしたことがなくて、多分どう対応していいのかが分からなくなっているのだ。
「……桜庭音操、だけど」
「さく、ら?」
 告げてから、名前だけでよかったかもしれないと思ったものの、案の定不思議そうな顔で首をかしげられてしまった。
「ネク君でいいよ、ナナちゃん」
 すっと立ち上がりながら当たり前のように口にされたヨシュアの言葉に、思わず顔をしかめる。なんでおまえがそれを言うんだよ。
「おい、勝手に」
「ねくくん」
「そうだよ」
 だから、お前が言うなって。
「よしやおにいちゃんと、ねくくん」
 おいこら、なんでヨシュアにだけお兄ちゃんが付くんだ。そう言いかけたものの、目の前の二人にそれを言ってもただの徒労に終わる気がして、結局開きかけた口からため息を漏らすしかない。
 実際に接してみて分かった。俺は、子どもが苦手だ。


「それで、これからどうするんだよ?」
 じゃあ行こうか、と何の説明もなしに少女の手を取って歩き出したヨシュアを追いかけながら、ふわふわと揺れる生成り色の頭に向かって尋ねる。狭い道幅にも関わらず人の通りが激しいため、並んで横を歩くわけにもいかなくて、ヨシュアのすぐ後ろについて歩く形になった。
「うん、とりあえずもう少し人の少ない所に行こうかなって」
 ちらりとこちらを振り返ったものの、すぐに少女の様子を気遣うようにヨシュアの視線はそちらを向いてしまう。行き交う人にぶつかってしまわないようにエスコートしながら、負担にならないように少女の小さな歩幅(とは言っても、足はないが)に合わせて歩く様子はやけに手馴れて見える。いつもの調子で歩いていた俺は、何度かヨシュアの背中に追突しそうになった。
「おまえ、やっぱりどっかに隠し子でもいるんじゃないか……?」
 思わず降り積もる疑念を声に出すと、振り返ったヨシュアは不思議そうに目を丸くする。
「どうして?」
「なんか、子どもの扱い、妙に手馴れてるっていうか……」
 胡乱げな視線をやれば、ヨシュアは再び前に向き直りながらくすくすと笑い声を漏らす。
「ふふ、ネク君って疑り深いなあ。僕ってそんなに子ども似合わない?」
「似合わない」
 きっぱりと言い放つと、ヨシュアはますますおかしそうに肩を震わせた。
「さすがに隠し子はないなあ……ないはずだよ、うん」
 冗談めかした言葉が、ヨシュアにかかるとあまりにも胡散臭くて、本気なのかそうじゃないのか分からない。疑わしげな俺の視線を感じ取ったのか、ヨシュアが困ったように笑う。
「まあ、伊達に長いことコンポーザーやってないしね。それに」
 くるりとこちらを振り向いたヨシュアの手が、すっと俺の頭を撫でた。歩きながらだったから、一回だけ、それでも手つきは限りなく優しく。
「子どもの相手ならいつもしてるじゃない?」
 ふんわりと一瞬だけ柔らかく微笑んだ表情は、すぐに前に向き直ったせいで見えなくなってしまう。それでも甘く蕩けたスミレ色の光が目に焼きついてしまって、その子どもはもしかして俺のことかとか、誰が子どもだとか、子ども扱いするなとか言い返してやりたかった言葉はぐるぐると頭の中を渦巻いただけで外に出されることなく消えた。
 優しく頭を撫でたヨシュアのゆびの感触に思わず熱くなる頬を押さえながら、綺麗に伸ばされた背筋をじっと睨みつけることしかできないのが悔しい。
 ヨシュアがこちらを見ないうちに、赤くなってしまったであろう顔はなかったことにして、本来ならヨシュアと手をつないでいるのは俺なのに、と幼子に対して抱いてしまったみっともない感情も見なかったことにして、まっすぐなその背中を見失わないようにスペイン坂のコンクリートを蹴った。


「ふわふわ」
 ちょうどスペイン坂のふもとに差し掛かった辺りで突然発せられた少女の声に、ヨシュアも俺も立ち止まる。
「どうかした?」
 柔らかな髪を揺らしてヨシュアが首をかしげると、少女の小さな手が何かをうったえるようにヨシュアの服の裾をぎゅっと掴んだ。
「あまくて、ふわふわなの」
「ふわふわ?」
 甘い?
「なんか、食べ物のことじゃないか?」
「食べ物? お腹空いたの?」
 その言葉でこくんと頷く少女に、思わずヨシュアと顔を見合わせる。
「幽霊も腹減らしたりするのか?」
 当然のはずの俺の疑問に、おかしそうにするヨシュアがなんとなく解せない。
「やだなあ、ネク君だってゲーム中にラーメンとか食べてたじゃない」
 そう言われると、確かにその通りなのだが。
「ふわふわってなんだろ?」
「……綿飴とか?」
 甘くてふわふわ、だけの情報では、俺はそれくらいしか思いつかない。
「うーん、この辺にそういう出店はなかったはずだけど」
 いつも考えごとをするときのように、ヨシュアが自身のくちびるをゆびで撫でる。なんてことのない仕草だけれど、ヨシュアのいつものクセだ。そうして首をひねるヨシュアのシャツを、再び少女の手が引っ張った。
「あまくて、しろくて、ふわふわなの」
 ヨシュアのシャツを引っ張る手を離すと、少女が道の反対側を指差す。井の頭通りに面した角地、宇田川町交番の斜め裏。柱いっぱいにメニューの貼られたピンク色の建物は、俺にはすっかり見慣れたものである。
「クレープ屋さん?」
 驚いたようなヨシュアの声に、少女が再びこくりと頷いた。
「あのね、このこね。ふわふわ、たべたいみたい」
 たどたどしく告げる少女の言葉に、再びヨシュアと顔を見合わせてしまった。あまくて、しろくて、ふわふわって。
「クレープってふわふわか……?」
 思わず口をついた疑問に、さすがのヨシュアも苦笑している。
「うーん、生クリームのこと……かなあ、っ、と」
 微笑むヨシュアに焦れた様子で、少女がヨシュアの手を引っ張って駆け出した。小さな手に引きずられるように歩き出すと、ヨシュアがこちらを振り向きながら告げる。
「ごめんネク君、ちょっと買ってくるから待っててくれる?」
 わかった、と頷きつつ目で告げると、バナナにする? イチゴにする? などと微笑ましいやり取りを交わしながら注文待ちの列に並ぶ二人を見送った。
 やれやれと小さくため息を吐きながら、近くにあった標識のポールに寄りかかる。遠目から見るとヨシュアと少女は、微笑ましく妹の面倒を見る兄の図、のような仲のいい兄妹に見えなくもない。髪の色も顔の造作ももちろん全然違うが。
 もしこれがオトナの姿のヨシュアだったなら、よもやいたいけな少女を連れた誘拐犯に見えるのではないだろうか。なんて想像するとなかなか面白いかもしれない。と、そこまで考えてから、周りからは少女の姿は見えていないのか、と気がついたところでヨシュアと少女は戻ってきた。
 ヨシュアの両手には、イチゴとバナナのクレープが一つずつ。こいつ、ちゃっかり自分の分も買ってきたな。
「はい、落とさないようにね」
 少女が人の目に触れないよう、自分の身体で死角を作ってからクレープを渡すヨシュアに、やはり周りの人間に少女の姿は見えていないんだな、と改めて確認する。まあ、見えていても困るのだが。足、ないし。
「なあ」
「うん?」
「周りから見たら、クレープだけ浮いて見えたりしないのか?」
 ふと思い付いた単純な疑問を口にすると、ヨシュアは今気がついたかのように、ああ、と声を上げてから説明してくれた。
「この子が持った時点で見えなくなるから大丈夫だよ。ネク君だって、ゲーム中にホットドッグ食べながら歩いてても誰も気にしてなかったでしょ」
「なるほど」
 それならいいのだが。
「納得してくれた? それじゃ、はい」
 はい、と言って目の前に差し出されたのは、生クリームで飾られたバナナのクレープ。ふわりと漂う甘い匂いが美味しそう、だけど。
「は……」
 予想外のヨシュアの行動に、受け取ることも突っぱねることも出来ずにいると、俺が受け取らないことこそが不思議なようにヨシュアは首をかしげた。
「あれ? ネク君、甘いものはキライじゃなかったよね?」
「キライじゃない、けど」
 疑問に思うところはそこではないと思うのだが。てっきり、ヨシュアが自分で食べる分を買ってきたんだと思っていた。食べたいなんて、俺は一言も言ってないのに。
「いらないなら、僕が食べるけど」
「あ、いや、た、食べる」
 少女の世話を焼いてばかりいたヨシュアが、ちゃんと俺のことも考えてくれていたことが本当は嬉しかったりしたのだけれど、そんなことが言えるわけもなくて、おどおどしながらもとにかく目の前のクレープを受け取った。
「さ、さんきゅ」
「ああ、それともあーんってして欲しかった?」
「ばっ……じ、自分で食える!」
 ヨシュアがバカなことを言ったものだから、危うく手にしたクレープを取り落とすところだった。いちいち真に受けていては身が持たないと、手の中のクレープにかじりつく。生クリームの甘さとバナナの香りが口の中に広がって、美味しい。
 クレープをぱくつきながらヨシュアの方を窺うと、生クリームでべたべたになった少女の口周りを拭ってやったりしていて、相変わらず甲斐甲斐しく世話をしている。その様子を見ていたら、以前ヨシュアの手で似たようなことをされた記憶がなぜか唐突に掘り起こされて、気恥ずかしさになんだかドギマギしてしまった。俺の場合は口元を拭われたのではなく、鼻をかまされたのだが。
 幼い子どもに対する扱いと、俺に対する扱いとがヨシュアにとっては同列なのかとか、やっぱりあいつは俺のことを幼稚園児か何かと勘違いしているに違いないとか考え始めたら尚更だ。
 思わず目を逸らしながら、そういえば少女の姿は常人の目には映らないのに、果たして男二人でクレープのやりとりをしている今の状況は周りからどう見えるのかと考えると、余計に挙動不審になってしまう。
「……もういらない」
 二口、三口とかじったものの、こんないたたまれない心境で食が進むわけもなく、食べかけのクレープをヨシュアの手に押しつけた。
「もういいの?」
 ん、と頷いてみせても、ヨシュアは押しつけられたクレープを手にしながら、じーっとこちらを見ていて、口をつけない。
「なんだよ」
「ここ」
 ヨシュアのクレープを持っていない方の手が、自身のくちびるの端をとんとんと指差す。
「?」
「ついてるよ」
 言われて、俺が自分のゆびで拭おうとするよりも早く、流れるような動作でヨシュアに腕を掴まれた。そのまま引き寄せられて、ぺろ、と濡れた感触が口端を撫でる。
 一瞬何をされたのか分からなくて、呆然とヨシュアの顔を凝視することしかできない。
「これじゃどっちが子どもか分からないなあ」
 くすくすと笑いながら、ヨシュアは至って何でもない顔で俺の腕を離し、ぱくりと手にしたクレープをかじる。そうしてからようやく、先ほどの濡れた感触がヨシュアの舌であったということを理解して、あまりのことに全身の血が顔に集まってくる音すら聞こえたような気がした。
「ばっ……な、っ……! お、おま、何して……!」
「うん?」
 どうしてしでかした本人が、平然とした顔でクレープをぱくついていられるのか、俺にはとても理解できない。
「ま、ま、街中でこういうことするなっ」
「大丈夫だよ、誰も見てなかったから」
「そういう問題じゃない!」
「あれ、じゃあ街中じゃなければしてもいいってこと?」
 そういう問題でもない!
 全く悪びれる様子のないヨシュアに、何とか言い返してやれないものかと言葉を捜していると、既にイチゴのクレープを食べ終えたらしい少女がてこてこと歩いてきて、ヨシュアの顔を見上げた。次いで告げられた幼い声が、俺に追い打ちをかける。
「おにいちゃんたち、こいびとどうしなの?」
 全く邪気のないたどたどしい口調で発せられた言葉に、比喩でなく俺の身体は凍りついた。
「は!?」
「だって、こいびとって、いっこのものを二人でたべるんだって。テレビでやってたよ」
 純粋な疑問を乗せた視線が、不思議そうにヨシュアのクレープに向けられる。
「そうだよ、よく知ってるね」
 クレープの皮からこぼれ落ちそうなクリームを舐めながら当然のように答えるヨシュアに向かって、その場の衝動のままに拳を上げなかった自分を褒めてやりたい。
「子供にヘンなこと吹き込むなっ!」
 拳を上げなかったというか、殴らなかったというか、あまりにも自分の許容範囲を超えた事態に身体が反応してくれなかった、というのが正しいのだけれど。
 それに、真っ赤になってしまったであろう自分の顔を隠すことで俺は精一杯だった。もうヨシュアには完全にばれてしまっているのかもしれないけれど、せめてもの抵抗に背を向けて、とにかく熱くなった頬が常温を取り戻してくれることを祈るしかない。
「あ」
 ふと、何かに気づいたかのように発せられたヨシュアの声に、これ以上何を言うつもりなんだと身構える。が、ヨシュア相手では、そんな抵抗など無駄だったと言わざるを得なかった。
「ほら、これってあれじゃない?」
 知らない。聞こえない。聞きたくない。
「間接キス?」
 思わず振り返ってヨシュアの顔を睨みつけてしまったのは、やはり失敗だったとしか言いようがない。赤くなった顔は当然ばれるわ、にやにやと嫌な顔で笑われるわでなんだかもう最悪だった。
「っー……もう、おまえは喋らなくていい!」
 咄嗟に手を伸ばしてヨシュアから食べかけのクレープを奪い取ろうと悪戦苦闘したものの、ひらひらと巧みにかわされている間に、すべてヨシュアの腹の中に収まってしまったのは言うまでもない。
「おにいちゃんたち、とってもなかよしさんなのね」
 結局ヨシュアの行動すべてに翻弄される結果になってしまい、脱力する俺に浴びせられた無邪気な言葉には、もはやため息すら出てこなかった。



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