辺りの明るくなった気配に自然と意識が浮き上がって、完全に覚醒する前にはっと目を開く。
 ぼんやりと霞んで見える視界を何度か瞬きすることで意識もはっきりさせると、寝る前に見ていたのと同じ目を引く派手なネクタイが眼前で綺麗に結ばれていた。
 あれだけ意気込んで寝ないと豪語したくせに、いつの間にか俺はあっさりと眠りの中に落ちていたらしい。些細なことではあるのだけれどこれではさすがに自分が情けなくて、なんとなく気まずい気持ちに顔を上げていいものかどうか少し迷う。けれどヨシュアは俺が眠りに落ちる直前までずっと顔のあちこちに口づけたり、身体のそこここを撫でたりしながら、穏やかな声で他愛もない話を続けていたものだから、子守唄のような優しいその響きについ眠気を誘われてしまったのだ。
 ヨシュアの体温を奪おうとしていたのか、はたまた彼を温めようとしていたのかわからないけれど、やっきになって抱きつく俺を包んでくれる温かさと、歌うようなヨシュアの声音に満たされた空間で、眠くなるなという方が無理ではないか、とつい責任転嫁してしまう気持ちも少しはわかっていただきたい。
「ネク君、起きた?」
 とはいえ、顔を上げないままじっとしていたつもりだったのだけれど、聡いヨシュアはもう俺の目覚めに気がついてしまったらしい。観念して素直に顔を上げると、俺の乱れた前髪を直そうとすぐにヨシュアの指先が伸びてくる。
「お、はよう、ヨシュア」
「おはよう、ネク君」
 常と変わらぬ美貌を湛えたヨシュアの何気ない微笑みは朝一番に見るには少し刺激が強すぎて、ドキドキと高鳴る鼓動を自覚しながらほんの気持ちだけ視線をずらして目を伏せた。さらさらと前髪を梳くヨシュアのゆびも壊れ物を扱うかのように優しくて、余計に心臓の音が早くなる。
 けれどそんな風に俺がのぼせている間にもうヨシュアは仕事モードに頭を切り替えたらしく、柔らかく湛えていた微笑を消してさらりと冷たい表情になると、それでもまだ優しいままの仕草で俺を膝の上からそっと下ろして、優雅に立ち上がった。
「さて、と……じゃあそろそろやろうかな」
 んー、と伸びをしてから、長い脚を巧みに操って颯爽と歩き出すヨシュアがぽつりと落とした言葉に、火照ったままの頭を振って立ち上がりながら、思わず首をかしげる。昨日の話では雑魚ノイズや下級死神をけしかけられただけで、まだ黒幕には一度もお目にかかっていない、ということだったはずなのだが。
「何かアテがあるのか?」
 少し声を張らなくては声が届きづらそうな場所まで俺から離れた辺りで、ぴたりとヨシュアは脚を止めた。
「んー、まあ……できれば、あんまりやりたくないんだけどね」
 ということは、ヨシュアはやりたくないと思っていることを、それでもこれからするつもりらしい。いつもなら、やりたくないと言ったらテコでも動かないヨシュアにしては珍しいと思ったけれど、他にやりようがないほど手段が限られているのかと思うと、どんな黒幕が出てくるのだろうかと少なからず不安がよぎる。
「お相手は少なからず僕のこと舐めてかかってるから、昨日みたいに雑魚ばっかり投げてくるわけでしょ。だから、そんなまどろっこしいことしても無駄だってことを思い知らせられれば一番いいんだよね。これだけ広範囲に力を働かせられるくらいの実力はある相手みたいだから、自分が出て行かないと話にならない、って思ってもらいたいのさ」
 くるくるとサイドの髪を玩びながら講義を披露するヨシュアは、す、と細めた視線を何気なく俺の方へ寄越した。目線が合った瞬間に冷たいオトナの表情をしていたヨシュアがほんの少し眉尻をさげて、変化が見て取れるか取れないかくらいの絶妙な困った様子に変わった。
「まだネク君にも見せたことなかったから、驚かせちゃうかもしれないんだけど」
 一瞬だけ見えたヨシュアの困ったような微笑みは、またすぐに仕事用の顔に変わって掻き消されてしまったけれど、なんとなくヨシュアも何かを不安に思っているのではないかと感じた。何が、とか、どういう風に、ということは分からずに、ただの直感なのだけれど。
「気持ち悪がらないでとは言わないから、できるだけ嫌いにならないで欲しいな」
 独り言のように呟かれたヨシュアの言葉の意味を問おうとしたその瞬間、ヨシュアの背中から以前一度だけ見せてもらったことがある右羽だけの翼が現れて、ばさりと羽ばたいた。
 すらりと伸びたヨシュアの身の丈の二倍ほどもありそうなその片翼が以前見せてもらったものよりも大きく見えるのは、恐らく錯覚ではないだろう。その世にも美しい姿でその純白を晒すヨシュアに見とれる暇もなく、次のときには既に舞い上がる花びらのような羽で視界が覆われていた。
 真っ白な世界の中で咄嗟に両腕で顔を庇いながらそれでもヨシュアを捜すと、さほど長い時間をかけずに舞い落ちる羽は、地面へつく前にみるみるうちに消えていく。途端にくらりと眩暈がして思わず背後の壁に寄りかかった。
 そうして視界が開けたときには、もうヨシュアの姿はどこにも見えなくなっていて、とは言っても、ヨシュアがいたはずの空間にもう何も存在しなくなってしまったのか、というとそういうわけでもなく、正確に言えば『俺が知っているヨシュアの姿』は。
 その代わりのように、俺の知らない『何か』が渋谷の雑多な路地裏にまるで似合わない威風堂々とした姿で目の前に佇んでいた。

「ね? びっくりしたでしょ?」

 ぽかんと、恐らく馬鹿みたいに口を開けて呆然としていただろう俺に、目の前の生き物は至極当然のように話しかけてきた。まさかとは思っていたけれど、本来なら喋らないはずの動物を象るその生き物から発せられる声は、紛れもなく聞き慣れたヨシュアの声だ。
 知的さを感じる面長の輪郭に涙型の柔らかそうな耳、しなやかに筋肉のついた肢体に滑らかな白い体毛が這う四足のその姿は、どこからどう見ても立派な白馬である。ただ、背中からは変わらずアンバランスな右羽だけの片翼が生えているから、馬というよりは神話に出てくるペガサスという表現の方が正しいだろうか。
 豊かに波打つ月色のたてがみや尻尾の先端、脚の関節などはノイズである証のタトゥーになっていて、そのことを頭で認識してからようやくこれがヨシュアのノイズ化した姿なのだと理解した。ゲーム中に何度もノイズ化した上級死神と戦っていたのだから、戦闘態勢になったヨシュアがノイズになることだって十分に予想できたことなのだけれど、今までそのことに思い当たらなかったのはヨシュアが人間の身なりのままであまりに簡単に強大な力をふるっていたからだろうか。
 人間の姿でも俺には到底計り知れないほどの力を持っているヨシュアのノイズ化した波動はあまりに強く、眷属として契約を交わしている俺ですら気を抜けば脚が竦んでしまいそうなほどのプレッシャーをびりびりと感じる。
「ヨ……シュア……?」
「うん、そうだよ。わかった?」
 恐る恐る声をかけると、くるりとこちらに視線を寄越してたっぷりとしたたてがみを揺らしながら振り向くヨシュアは、ぱか、と前足を鳴らしてこちらに歩み寄ってくる。
 空気を震わせて伝わる振動ではなく直接頭に響くような声は、どこか機械を通した音声のような人工的なノイズ交じりの不思議な声色だったけれど、愛してやまないヨシュアの声を俺が聞き間違えるはずなんてない。普段とはかけ離れた姿形をしているけれど、涼やかな優しいまなざしはいつもと変わらないスミレ色を湛えている。
 それでも少し距離を測りかねているかのように、触れられるほどの距離までは近づいて来てくれないヨシュアの元へ、今すぐ駆け寄って、手を伸ばして、触れて、安心させてやりたかった。今まで俺に見せたことのない姿を晒していることで、少なからず不安を感じているらしい様子が手に取るように伝わってくるのに、指先一つ満足に動かせず、思うようにならない身体がもどかしい。
「ごめんね。プレッシャーがかかってちょっと不快に感じると思うけど、少しだけ我慢して欲しいな」
 そんな俺を見てやっぱりヨシュアは、分かっているようで分かっていないような言葉を投げて寄越すと、瞳だけでうっすらと微笑んで見せる。
 と、次の瞬間、唐突に何か得体の知れない気配が過ぎるのを敏感に感じ取ったらしいヨシュアの蹄が、素早く地面を蹴った。
 ごしゃ、と鈍くけして愉快ではない音が響いたかと思うと、つい数秒前までヨシュアが立っていた場所に大きなひび割れが出来ていて、瞬きをする僅かな間にもうそこのコンクリートは見るも無残な姿に砕け散っていた。べこりとへこんだ地面は果たしてRGにどの程度まで影響するのだろうかとつい見当違いなことを考えてしまったけれど、俺をかばような位置にふわりと降り立ったヨシュアの羽ばたきの音ではっと頭を切り替える。
「ほら……そんなこと言ってる間に、早速お出ましみたいだよ」
 ヨシュアの声に導かれるまま砂埃の立つ地面のへこんだ辺りへと目を凝らすと、ふわ、と砂埃とは違う白い煙のようなものが渦巻いて、見る間に人の形になった。
 とは言ってみたものの、背中から左右きちんと揃った鳥のような白い翼が生えているのを見ると、人の形というのは少し語弊があったかもしれない。その姿を的確に表す単語を述べなさいと言われたなら、天使という他に俺は言葉を知らない。
 ただ、その人物の顔や容姿などは全体的に薄ぼんやりと靄がかったようにしか見えなくて、身につけているものも含めてはっきりとした姿形はわからなかった。
 俺はゲーム中にヨシュアの力の影響を強く受けていたり、パートナー契約を結んでいたこともあって低位同調していないオトナ姿のヨシュアもRGにいたときからはっきりと視認することができたのだけれど、何の関連もない天使では流石に波動の違いからその姿を認識することすらできないらしい。
 元天使のヨシュアと現天使の羽狛さん以外の天使なんて俺は始めて見たけれど、プロデューサーである羽狛さん以外の天使がUGに現れるなんて、どういうことなのか。
「あれ、君って……」
 俺をかばうように前に立ちながら不思議そうな声を上げるヨシュアに、ゆらりと佇んでいた例の天使は続きを言わせる暇も与えず、容赦なくその腕を振り上げて襲い掛かった。
 がぎ、と嫌な音を立てたものの正体は、腕から生える禍々しい色の鎌だったらしい。死神でもあるまいし、天使が鎌とはどういうことなのか。それを、ヨシュアはいつの間にかノイズタトゥーに早変わりさせた風切羽の先端で受け止めている。
「わあ、ちょっとちょっと、待ちなよってば」
 きん、きん、と今度は両手で息つくまもなく切りかかってくる相手に、まるで緊張感のない声を上げながらもじりじりと後ずさるヨシュアは背後にいる俺の身を危惧したようだ。小気味いい音を立てて蹄を鳴らすと、素早く相手を飛び越え少し離れた場所に着地した。
 結果、俺と例の天使は真正面から対峙することになったのだけれど、目が合ったと思った次の瞬間には(実際相手の瞳までは視認できなかったけれど)唯一おぼろげに認識できる茶色の髪を揺らして、天使はすぐにヨシュアの方へと身体を翻した。
 そのことに疑問を感じてよくよく自分の周りを探ってみると、うっすらと全身がヨシュアのイマジネーションに包まれていることに気がついた。今まで気取らせもしなかったけれど、どうやらいつのまにかヨシュアは俺の身体に結界のようなものを張っていてくれたらしい。恐らくあの天使に俺の姿を見えなくしているとか、そういう類なのだろう。
 ノイズ化したヨシュアの波動に得体の知れない天使のものまでが加わり身動きの取れない俺を知っていて、ヨシュアがぬかるはずなかった。
「もう、人とコミュニケーションを取るのにまず話を聞くっていうのは大事なことだよ? まあ君も僕も人じゃないみたいだ、けどっ」
「あなたと話すことなど何もない」
 おどけるヨシュアの言葉を最後まで待たずに飛びかかる天使の初めて発した声は、中性的な、女性とも男性とも取れぬ不思議な声色で、性別までは判断できない。都会の街並みにまるでそぐわない斬り合いを惜しげもなく披露しながら、ヨシュアは膝を突き合わせての話し合いを諦めたらしい。
「はあ、できれば疲れない方法で落ち着いて話がしたいんだけど、君はそんなつもりないみたいだから勝手に喋るね。君の顔随分前にどこかで見た気がしてるんだけど、どこかで会ったことあるかな?」
「……」
 だんまりを決め込む相手にも、ヨシュアは相変わらずのマイペースでお構いなしだ。
「僕も全然人の顔覚えないからなぁ……って、あ、思い出した」
 何を思ったのか、ヨシュアは唐突にタトゥー化させていた羽を元に戻すと大きく羽ばたかせ、そこから生まれた白い衝撃波で目の前の天使を吹き飛ばした。吹き飛ばされた相手は流石に多少怯んだらしく、少し間合いを置いた場所に着地すると、先ほどまでの勢いを潜めて睨みつけるようにヨシュアの様子をじっと窺っている。
「その鎌、たしか君って一時期上で騒ぎになってた堕天使君じゃない?」
「……へえ、ご存知でしたか」
「これでも一応、上からの情報は大小問わずチェックしてるつもりだよ。ふぅん、君が例のねぇ……なんで君みたいのが、僕の渋谷に……」
 そこまで言ってから、不自然に数秒ほどヨシュアの言葉が途切れた。人間の姿をしていない今表情を探るのは難しかったけれど、なんだかすごく嫌そうなことくらいは今までの付き合いから雰囲気で見て取れる。
「……君って、たしか堕天させられたのが納得いかなくて、上で散々ごねてたっていう話じゃなかったっけ」
「それもよくご存知で」
「今まで処分されずにどうやって生きのこったのか知らないけど……っていうことは、もしかしてまだ上に戻りたいとか思っちゃってたりする?」
「……」
「うーわー、やだやだ。すっごい嫌なこと思いついちゃったじゃないか。うわー」
 お得意のだんまりでやり過ごそうとする相手を尻目に、ヨシュアはとてもこの場にそぐわないような、かしましい女子高生のような声を上げるものだから何事かと思わず面食らった。
「堕天したくせにまだ上に戻りたいっていうのがそもそも理解できないけど、うわ、君みたいなのが考える思考に辿り着いちゃったことが僕自身すごい屈辱だよ、うわー」
「……なんのことでしょう」
「もーやめてよ、口に出すのも腹立たしいよ。大方、お上が大事にしてる渋谷っていうエリアを人質にとって、堕天の取り消しを迫ろうとでも思ってたんでしょ?」
「……」
「わーもう。ほら、どんぴしゃだよ。最悪、ほんとサイアク」
 ヨシュアのふざけているようで大真面目な、おどけた口調はそこまでだった。
「……最悪の気分だよ」
 別人のような低い声でぼそりと囁いてから、それまで身動きせず静かに佇んでいたヨシュアは、ばさ、と大きな音を立ててその翼を翻す。そうして舞い上がった一枚一枚の羽は地面に落ちることなく、それぞれが別の生き物のように鋭い動きで真っ直ぐに堕天使の元へと向かっていった。刃物のようなそれを間一髪でかわして飛び退る堕天使の背後で、いつの間に移動していたのかヨシュアの舞い散る羽とやわらかなたてがみがふわりと揺れる。
 次の瞬間には、大きな鎌のように変形したヨシュアの翼によって、茶髪の堕天使は地面へと叩き落とされていた。
「見たところ君は広い範囲で力を行使するのに長けてるみたいだけど、一対一の戦闘はあんまり得意じゃないみたいだねぇ。その程度で僕の首を取るつもりだったの?」
 うずくまる天使の横へ音もなく降り立つと、見下ろすヨシュアの視線は馬特有の優しげでつぶらな瞳に反して恐ろしく冷たい。
「まあ、タイマンで勝てないと思ったからあんなまどろっこしいことしたんだろうけど……戦略も甘いし、黒幕がほいほい出てきちゃうのもいただけないね。0点だよ、0点」
 その黒幕をホイホイ引っ張り出すために今の姿を取らざるをえなくなってしまったヨシュアは、ひどくご立腹のようだ。思わず俺まで息を飲んで見守っていると、既に戦意喪失したかに見えた天使が唐突に動いた。何かのサイキックを使ったのか、ヨシュアが反応するよりも早く俺の背後に回り、ぐ、と拘束するように首元を腕で押さえ込まれる。
 しまった、と思ったのだけれど、未だ周囲を取り巻くプレッシャーに動くことの出来ない俺にはどうしようもなかった。
「この程度の結界、見破るくらいワケないんですけどね。相手にするまでもないかと思って無視していましたが、あなたのことを見くびりすぎたようです。なので、遠慮は無用かと判断しました」
「……はぁー……」
 首を押さえられた苦しさから逃れようと俺がもがいていると、ヨシュアはそれはもう深い深いため息をついて首を振った。人間の姿のヨシュアなら、ひどく面倒そうに長い前髪を掻き上げて頭を押さえていただろう姿を何となく思い描く。
「もうホント最悪、0点どころか追試の余地もなく落第だよ。むしろ退学だよ退学、分かる?」
「なっ……」
「ネク君ごめんね、ちょっと身体借りるよ?」
 ヨシュアはそう断ってから、瞬き一つしなかった。けれど何秒も立たないうちに俺の後ろから鈍いうめき声が聞こえて、いつの間にか自由になった身体で振り向くと、俺の背中から飛びだした羽のような衝撃波にすっぱりと胸の辺りを斬られて地面に倒れこむ哀れな天使の姿が目に入る。
「どう、して……ぐッ!」
 無様に寝そべった天使の元へヨシュアはすかさずそのしなやかな四足を駆ってマウントポジションを取ると、不思議な色合いの綺麗な蹄に似合わない残酷さで、がす、と今にも千切れそうになっている肩を踏みつけた。
「この子にはたっぷりと僕のソウルを送り込んであるから、この身一つで僕の刃なんだよ。残念だったね」
 既に決着の見えた勝負の結末を息を飲んで見守っていると、相変わらず細やかな表情などは視認できないものの、恐らく相手の顔は絶望に引き攣れているだろうことが俺にも分かる。
「一介のコンポーザーが……なぜこんな力を……」
「あれ? 知らなかったの? はぁ……ホント、君って、この姿で始末する価値もないね」
 そう言ってヨシュアがため息をついた瞬間、ヨシュアの身体はしゅるりと毛糸がばらけるようにほどけて、みるみるうちにいつも通りの人の形に戻っていた。淡い色の波打つ髪を揺らしながらスラックスに包まれた長い脚を存分に伸ばして、硬い革靴の底でぐりぐりと踏みつけた傷口を抉る。
「この上情報収集も甘いなんて、もう救いようがないじゃない。じゃあ冥土の土産に教えてあげるから、覚えておきなよ」
「う……が……」
 仕事中に電話がかかってきたときのような優雅な仕草で、ヨシュアはポケットから取り出した携帯をぱかりと開きながら、絶対零度の瞳で微笑んだ。
「渋谷のコンポーザーは、元天使だって」
 ヨシュアがそう言い終えた途端、もう用済みだとばかりに派手に天使の胸の傷から光の柱が上がって、見る間にその身体が広がる光に覆われたかと思うと、もう瞬きをしたときには跡形もなく消えてしまっていた。
 ヨシュアがあの光の柱を呼び出すときにいつも現れる赤ん坊のような天使の姿も見えたものだから、まるであの堕天氏は彼らに導かれて消滅への扉を叩いたようにも思える。
「ふふ、まあ消えちゃったら意味ないんだけどね」
 哀れむように微笑んだヨシュアは、それからくるりと表情を一転させて心配そうな顔で俺の方に向き直ると、すぐさま俺の元へと駆け寄ろうとした。ようなのだが、踏み出したその足が地面に着く前に、まるで先ほどの再現がごとくヨシュアの周りをきらきらと光の粒が舞う。
「あれ?」
 気がつくとヨシュアは元通りのペガサスノイズの姿に戻ってしまっていて、ふわふわのたてがみを揺らして首をかしげる仕草は当たり前のことなのだけれど酷く人間くさくて、なんだかおかしかった。
「ああ、やっぱり戻っちゃうみたいだね……まあいいや。ネク君、大丈夫?」
 それでもそのことはヨシュアにとって取るに足りない些事に過ぎなかったようで、へたり込む俺の元へぱかぱかと音を立てながら歩み寄って首を屈めると、心配そうに覗き込んでくれる瞳が嬉しい。
「あ、ああ……このくらい、全然……へいき」
 あの天使の波動が消えたのとヨシュアのノイズの波動に徐々に慣れてきたらしいこともあって、なんとか自力で立ち上がることができた。ほっとしながらヨシュアの方を見ると、なんだか困っているらしい雰囲気がなんとなく伝わってきて首をかしげる。
「ヨシュア?」
「んー、ネク君……少しだけ、触ってもいいかな」
「へ?」
 思いも寄らない言葉に、ますます首をひねってしまった。そういえば先ほどからヨシュアは俺の元へ歩み寄ってきてくれてはいるものの、一定の距離を保って触れては来ない。
「どう、して……?」
 俺からするとどうして今更そんなことを聞くのか、の意だったのだけれど、ヨシュアの寂しげな瞳は何か違う風に捉えたようだった。
「一度ノイズ化すると、普段あんまりしないせいか波動のチューニングが難しくてさ。戻るのに時間がかかるんだよ。だから、ネク君の持ってるノイズ化してない僕のソウルを少し貰いたいんだけど」
 だめかな? と困ったように問う声色に、むしろどうしてダメだと思うのか俺にはわからなくて、でもとにかくヨシュアが必要だというなら、全然ダメじゃないの意を込めてふるふると首を振った。
「ありがとう。ごめんね」
 不可解な謝罪を口にしてヨシュアは俺との距離を詰めると、どこか恐る恐ると言った様子で控えめにその鼻先を俺の頬に擦りつける。ペガサスという形をとりながらもヨシュアからは動物らしいにおいがまるでせず、いつもと変わらぬ花のような匂いが鼻腔をくすぐった。
 でもそれからすぐに離れてしまうヨシュアの温度に、あれだけ念を押したくせにそれだけなのか? と思わず疑問を抱いてしまったのも仕方がないと思う。
「うん、これですぐに戻れるはずだから」
「なん……で……」
「え?」
「なんで、謝るんだよ」
 先ほどからのヨシュアの不可解な言動や仕草に耐えられず口を開くと、ヨシュアのスミレ色の瞳は尚更きょとんとした無垢な光を湛えて不思議そうにこちらを見た。
「だって、気持ち悪いかなって」
「え、っ……」
「いつもの僕じゃない上にノイズの姿だなんて、触りたくないでしょ?」
 さも当然のように口にされるその言葉を聞いた瞬間、かっと頭に血が上ったのが他人事のようにわかる。
「そ、んなわけ……」
「うん?」
「そんな、こと……あるわけないだろ!」
「わ、ちょ……ねく、くっ」
 余りにも馬鹿馬鹿しいヨシュアの答えに憤慨するあまり、頭で考えるよりも早く身体が勝手に動いていた。
 有無を言わさず手を伸ばしてヨシュアの太い首周りに目いっぱい腕を回してから、ぎゅう、とこれでもかというくらい抱きつく。見るからにつややかなヨシュアの毛並みは触れてみると見た目以上に滑らかで、夢のようなさわり心地に思わずため息が出てしまいそうだった。
「どう、し」
「だって、そんなの……ヨシュアはコンポーザーなんだから、死神なんだから……当たり前だろっ……」
「ネク君?」
「俺は! ヨシュアが、子どもになったり、大人になったり……そういうのひっくるめて全部、ヨシュアのこと好きになったのに……!」
 元天使で、現コンポーザーで、人知を超えた力をその身に湛えるヨシュアのことを、人間のことを知っているようで知らない、人間ではないヨシュアを、俺は丸ごと好きになったというのに。
「今更……ノイズ化したくらい、どうってことないだろ……」
「……ネク君……」
「気持ち悪いとか、思うはずない……だって、ヨシュア……こんなにキレイなのに……」
「……」
「なんでそんなこと言うんだよ……」
 滑らかな毛並みも、その下の温かいしなやかな筋肉の感触も、硬さを伝える骨格も、触れる全てから俺には愛しさしか感じられないというのに。
 そういえば以前、ヨシュアは俺に初めてその片翼を見せたときも、なんだか似たようなことを口にしていたことを思い出す。ヨシュアは人間ではない自分の人間らしくない部分を(ただしそこにネガティブな印象はあまりなく、あくまでポジティブに)どこか蔑んでいるように感じるけれど、そんな風に思う必要なんてどこにもないのだ。
 少なくとも、ヨシュアという目の前の男を構成する要素で俺が嫌いになれそうな部分など、恐らくいくら捜しても一つも出てきやしないのだから。
「そう、なのかな?」
「……そう、だ」
 ぎゅうぎゅうと力任せに俺がしがみついている間に、しゅるしゅるとヨシュアの身体から解けるように光が霧散し始めて、そうするとヨシュアが元の姿に戻るまではあっという間だった。
 元に戻ったヨシュアの、ネクタイを結んだ胸元に顔を埋める形になっていた俺がそろそろと見上げると、ノイズ化していたときよりも変化が見て取れるようになったいつものヨシュアの表情は、やっぱり困ったように笑っていてなんとも言えず胸が苦しくなる。
「うん……ごめんね?」
「バカ、ヨシュア……」
 どうしてヨシュアはそんな変なところで俺を悲しい気持ちにさせるのだろう。ヨシュアのことが好きで、好きで、たまらなくて、ヨシュアの存在がなければ俺がここにいる意味など何もありはしないというのに。いつものように悠然と立ち振る舞って、王の権限で俺に強く命令すればいいのに。
 こんなの俺の胸を痛めつけるばかりで、上手くヨシュアに気持ちを伝えることのできる言葉を持たない自分を思い知らされて、辛いばかりで、ヨシュアは本当に酷い男だと思う。
「ありがとう、ネク君」
 けれどそんな風に残酷で、無邪気なナイフを俺の心臓に突き付ける目の前の男が俺はたまらなく大好きなのだ。



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