「なんとか撒いた、かな?」 俺を胸に抱きこんだままどうやらレビテーションで逃げていたらしいヨシュアは、独り言のように小さくそう漏らすと、ふわりとコンクリートの地面に足をついた。ゆらゆらと不安定な浮遊感から開放されてしっかりと地に足の着く感触に、ヨシュアの胸に埋めていた顔を上げて、同じくぎゅっと瞑ってしまってた目を恐る恐る開く。 辺りを見回すと、少し離れた場所に繁華街の明るい光が見えた。路地裏に変わりはないけれど、少し大通りの方に近づいたらしい。今が何時かは分からないけれど、眩い街灯に照らされながらも辺りはとっぷりと暮れていたから、今のこんな格好でこんなところをウロウロしていたらすぐさま補導されてしまいそうだ。まあ、ここがRGならば、の話だけれど。 「っていう感じで、芸のないことにさっきからこれの繰り返しなんだよね。だからいい加減手っ取り早く黒幕を引っ張り出したいんだけど……」 続けざまにくるくると展開する現状に頭がついていかなくて、それでも何もなかったかのように再び口を開くヨシュアの言葉をなんとか飲み込もうと身構える。身構えた、のだが。 「とりあえず今日はもう暗くなっちゃったから、明るくなるまでのんびり待とうか」 あっさりとそう言い放つと、ヨシュアはすぐそこにある建物の壁に身体を凭れさせて、そのまま地べたに腰を落ち着けてしまった。せっかくのキレイなスーツが汚れてしまうとか、そんな悠長なことを言っていていいのだろうかと思ったものの、ヨシュアがいいというのに俺が逆らえる理由もなく、おずおずとヨシュアが尻をついたすぐ隣の冷たいコンクリートに座り込む。 「大丈夫、なのか?」 「うん? 何が?」 「こ、こんなところでじっとしてて」 「でも下手に動くとソウルをばら撒いて見つけてくださいって言ってるようなものだし、じっとしてた方が力も隠しやすいから。それに暗いよりは明るい方が断然有利でしょ?」 教育実習生の初めての授業のように優しく丁寧に説明されて、言われてみればそうかもしれないと一人不安で焦れてしまっていたことを恥じた。これは自身の存在が懸かったヨシュアのゲームなのだから、何も考えていないはずがない。 何を言うこともできずに小さくうなずくと、ただむき出しのコンクリートからじわじわと伝わる冷たさに、無意識のうちに温かさを求めてヨシュアの方へ寄り添っていた。 「寒い?」 「ん、少しだけ……」 そう言うとヨシュアはそのスミレ色の瞳を心配そうに伏せ、労わるような仕草で俺の肩に手を回して、こんな風にされたら全人類全女性が間違いなく恋に落ちるだろうと思えるような柔らかい感触でもって抱き寄せてくれる。 「何遠慮してるんだか。ほら、もっとこっちおいで。僕じゃ大してあったかくないかもしれないけど……」 俺はもうヨシュアのその言葉と、抱き寄せてくれたという事実だけで十分だったのだけれど。 「ああ、いっそのこと」 何かを思いついたかのように呟くヨシュアは、そのままこちらのわきの下に手を差し入れたかと思うと軽々と俺の身体を持ち上げ、流れるような動作で膝の上に収めてしまった。 あれよあれよという間にいつも玉座の上でされているような格好へと落ち着いてしまったけれど、ここはいつものような周囲から隔絶された審判の部屋ではなく屋外だ。さすがの俺もそのことへの羞恥が隠しきれずもぞもぞと尻を浮かせようとしたけれど、するりと腰に回されたヨシュアの手で抱き締められれば、そんな抵抗は呆気なく封じられてしまう。 「よ、ヨシュアっ……ここ、外……」 「うん、知ってるよ」 「あ、う、だったら」 「けど、どうせ誰も見てないよ?」 RGからUGのものは見えない。それくらいは俺にだってわかる。けれど、見えている俺からしたらそんなのは何の気休めにもならない。時折背後から聞こえる通行人の足音を気にせずにいることができなくて、悪あがきと知りながらもついヨシュアの腕から逃れるように身じろいだ、のだけれど。 「寒いのはネク君だけじゃないんだから、ちゃんと僕もあっためてよ」 ヨシュアの落としたその一言だけで、ぴたりと俺の身体は無駄な抵抗をやめてしまった。 「ね……?」 可愛らしく小首をかしげてみせるヨシュアに、そんな言い方はずるいと内心ため息をつく。ずるいけれど、俺を大人しくさせるのにこれ以上的確な命令はヨシュアにしか下せないだろう。 「コンクリートの上よりは僕の膝の方がいくらかマシでしょ」 「ん……」 コンクリートの地べたと温かいヨシュアの膝の上なんて、比べるのも馬鹿馬鹿しいくらいに天と地ほども差がある。マットも何も用意されていないむき出しの木のベッドが、恐ろしくスプリングの利いたふかふかのマットとさらさらのシーツが備えられた天蓋付きベッドに早変わりしたようなものだ。 大人しくなった俺を見て機嫌よさそうに笑いを漏らすヨシュアの身体へ、渋々腕を回してぎゅっと抱きつくと、なお一層嬉しそうな仕草で優しく背中を撫でられた。 「ごめんね、せっかくのクリスマスなのにこんな夜で」 「そんな、こと」 「本当はさ」 ぽつりと落とされた言葉はそれまでの口調と変わらないようでいて、どこか違う雰囲気を漂わせていたので、思わず顔を上げて下品なイルミネーションに照らされながらもなお気品を漂わせるヨシュアの白い相貌を覗き込む。 「ネク君をあの部屋に置き去りにしたままだと危ないからって言ったけど……あそこは完全に僕のソウルの支配下にあって、空間自体が独立してるから、この渋谷の中で一番安全な場所なんだよ」 「え……?」 難解な単語を並べ立てられてとっさには頭が回らない俺に、ヨシュアはもう一度噛み砕いた言葉で繰り返してくれた。 「あの部屋はRGからもUGからも隔絶されてて、僕以外にどうこうできる固体は存在しないってこと」 ヨシュアは嘘つきだけれど、論理的に間違ったことや矛盾したことを言うことはそうそうない。けれどヨシュアのその言葉が本当ならば、今の彼の行動自体が矛盾していることになるではないか。 「じゃ、じゃあ……どうして……」 なぜ足手まといにもなりうる俺を、あの部屋から連れ出したのか。混乱する俺にヨシュアは優しく微笑むと、少しだけ困ったような瞳の色をちらつかせてのんびりと囁いた。 「クリスマスは恋人同士が一緒に過ごすものだって、本に書いてあったんだよ」 「……へ……」 「確かに思い返してみると、毎年この時期のカップルは楽しそうに歩いてるし、せっかくネク君と僕は恋人同士なんだから、ゲームが被っちゃってもせめてクリスマスは一緒にいたいなって」 思ったんだけど……と、ヨシュアにしては珍しく弱々しい声音で言葉尻を締めると、まるで俺の機嫌を窺っているかのようにスミレ色の瞳が上目遣いに覗き込んでくる。 「嫌だった?」 「は、え?」 「それだけのために、こんな風にネク君を危険に晒すような真似してる僕のことなんか、嫌いになる?」 先ほどから上手い言葉が見つけられず、ただ馬鹿みたいに言葉を詰まらせてばかりの俺をどう思ったのか、ヨシュアの質問はまるで見当違いのものだった。俺がヨシュアを嫌いになるなんてこと、絶対にあるわけがないというのに。というかそもそも、そんな風に告白まがいの甘い言葉を囁かれて、一体どこの誰が目の前の男を嫌えるというのだろう。 「そ、そんなの……嫌なわけ、ないだろ」 心配そうにじっとこちらを見つめてくるヨシュアの視線に晒されたままでやりにくいことこの上なかったけれど、今この気持ちをヨシュアに伝えられないなら、何のために俺の口やら舌やらはこの顔についているのかわからない、と思い切って口を開いた。 「……そう、かな?」 「だ、って……ヨシュアが、そんな風に思っててくれたなんて、知らなくて……それだけで、嬉しいのに……」 少し前までヨシュアは俺のことを単なる暇つぶしのオモチャだと思っていて、俺も自分はヨシュアの持ち物なんだという自覚があった。けれど、それでは嫌だとヨシュアが言ってくれた日から、ようやく俺と彼とは恋人同士と呼べる仲になったのだ。 元天使で現コンポーザーのヨシュアは、人間なら当たり前に無意識で理解している感情のいくつかについての認識がずれているらしく、それでもヨシュアが手探りで見つけてくれた恋人という関係が、たとえ形だけの、言葉だけのものだとしても俺は構わないと思っていた。初めて聞く単語のごとく恋人という言葉の意味を図りかねて、繰り返し子どものように何度もそのくちびるで繰り返し口に出すヨシュアが、今ではそんなことを言い出してくれるようにまでなっていたなんて。 「いま……今日ここで、ヨシュアが俺と一緒にいてくれるだけで十分なのに……嫌、だとか、そんな風に思うはずないだろ」 最後までなんとか言い切ってから、ふと予定通りに進んでいれば今日でゲームが終わっていたらしいことをヨシュアがほのめかしていたな、と思い出す。もしかしてクリスマスに間に合わせるためにヨシュアは今日までコツコツと頑張っていたのだろうか、なんてことを考えてしまえば、もはや湧き上がる気持ちを抑えることなんて俺にできるはずもなかった。 たまらずにぎゅっと抱きついたままヨシュアの襟元に顔を埋めると、さらさらと柔らかな髪がくすぐる白い首筋へと頬を擦りつけた。そうするとヨシュアはお返しのように俺の頭を柔らかく撫でてくれて、ため息が出るような感触に胸が詰まりそうで、どうしようもない気持ちになる。 「それに、ヨシュアが俺のこと守ってくれてるのに、危ないことなんか一つもない」 「そっか」 「そうに、決まってる」 「……ふふ、そっか……」 嬉しそうに笑うヨシュアの声はいつもの自信に満ちたものでも、人を小馬鹿にしたようなそんなものでもなくて、ただ純粋でどこまでも穏やかな、それでいてなぜか胸が詰まるような色を含んだまま俺の耳もとをくすぐってみせるから、聞いているこちらの方が泣きたい気分になるものだった。 けれど俺がそんな顔をしたらきっとヨシュアを心配させてしまうから、そうならないように強く目の前の身体を抱き締めたまま、ただヨシュアの肩口に額を押しつける。 「どうせ僕は起きてるから、ネク君は寝ちゃっても大丈夫だよ?」 そんな俺をヨシュアは睡魔に襲われていると勘違いしたのか、また見当違いなことを言ってきた。人をこんな気持ちにさせておいて次の瞬間にはこれなのだから、本当にヨシュアはわかっているようでわかっていないとため息の一つや二つは吐きたくなってしまう。 「ヨシュアがいない間いっぱい寝たから、眠くない」 「そう?」 「そうだ」 くすくすと漏れる笑いで微かに空気を揺らしながら、そっか、と呟くヨシュアは、やっぱり俺の言葉をどう受け取ったのかわからない。 けれど、ぽんぽん、と子どもをあやすように一定のリズムで背中を撫でてくれる優しい手に俺はまんまと騙されたことにして、もう真冬の寒さもどこへ行ってしまったのかもわからないまま、もたれるヨシュアの身体に身を委ねた。 →次へ |