きちんと制服を着込んで、これで大丈夫だろうと身支度を整えた気になっていると、その格好で出るの？　と胡乱げな視線を寄越したヨシュアにクローゼットの肥やしになっていた学校指定のダッフルコートを着せられ、丁寧に上から下までボタンを留めてからようやく部屋を出ることができた。ヨシュアはヨシュアで、一時的に脱いで玉座の肘掛に掛けていただけらしい、スーツの上から羽織れる暖かそうなコートをちゃんと持っている。
　そうしてヨシュアに手を引かれながら実際外に出てみると、夜の空気はしんしんと凍るように冷えていて、そういえば今は真冬だということをようやく思い出した。今は俺と同じようにコートを着込んでいるヨシュアのくちびるから吐き出される息の白さに、自分の時間感覚が相当に狂ってしまっているらしいことを自覚する。加えて、街中のいたる所できらびやかなイルミネーションが自己主張しているものだから、クリスマスでも近いのだろうかとおぼろげな記憶を頼りに頭の中でカレンダーを数えた。
「ヨシュア、今日何日？」
「うん？　今朝ケータイで見たときは、十二月二十四日だったと思ったけど」
　近いどころか、クリスマスイブどんぴしゃだったらしい。確かに街行く人々を見渡しても、着飾ったカップルがやけに目に付く。そんな人ごみを横目にヨシュアに手を引かれながら、せっかくの恋人御用達イベントだというのに、色気もそっけもない制服で出てきてしまったことを何となく残念に思った。まあ、恐らく今はそれどころではない状況なのだということは、いくらなんでも察しているけれど。
　確かまだ死神のゲーム中だったはずなのだが、しばらく歩いてみても壁らしい壁は見当たらない。というか、ヨシュアが心配していたような死神にも出会わない。ちょうどゲームが終わったところだったのだろうかと思ってはみるけれど、それなら『まだ仕事が終わったとは言えない』というヨシュアの言葉は一体どういうことなのか。
「この辺りでいいかな」
　渋谷川を離れてガード下を潜り抜け、駅から少し離れた人通りのまばらな路地裏に入った辺りでヨシュアはその優雅な足どりを止めた。いつもなら歩幅を合わせてくれるヨシュアにしては珍しく、長い脚で存分に早歩きするものだから、こちらは少しばかり息切れしてしまう。
「ヨシュア、あの部屋にいると危ないって、どういう」
　大きく息をついて乱れた呼吸を整えながら、それでも気になっていた疑問をようやく吐き出せるという機会を逃す手はない。ここぞとばかりに口を開く俺に、ヨシュアは有能な塾講師が生徒を諭すような表情で微笑んだ。
「だって、僕の命を狙う輩がいたとしたら真っ先に渋谷川を狙うでしょ？」
　あっけらかんと言い放ったヨシュアに、思わず言葉を失う。
　ヨシュアはコンポーザーだ。だからコンポーザーの座を狙う不届き者と対峙して処分することなんて日常茶飯事で、対して珍しいことでもないのだろう。けれど、俺は今までヨシュアがそうしていた、という話を後になってから聞いたり、言葉尻や状況からそうだったのだろうな、と想像するばかりで、現在進行形なのだろう真っ只中に今いるということが衝撃だった。
　いつだってヨシュアの作る揺り籠で守られて、甘やかされていた俺の情けなさを痛感するばかりだけれど、一番安全でなおかつヨシュアの邪魔をしない選択肢がそれだったのだから、俺にはどうこうしようなどと出しゃばることこそが厚かましい。
　けれど、そのヨシュアが俺をあの部屋から連れ出したということは、まさしく今が非常事態だということを如実に表しているではないか。
「んー、簡単に言うとね……なんだかここ、渋谷ＵＧが占拠されちゃったみたいなんだよね」
　息を呑んで顔を強張らせているであろう俺に、ヨシュアは内容の物騒さとはかけ離れた優しい声音で説明をくれた。
「力の弱い下っ端の死神の子たちは洗脳されちゃうわ、普通のノイズですら僕に襲い掛かってくるわ、極めつけに禁断ノイズまでお出まししてくれちゃうわでさ。なんかもうフルコースって感じ」
　明るい声音で冗談のように投げられた説明は思った以上に物騒で、なおかつあまりにも俺の想像を超えている。だから、咄嗟に上手い切り返しができなかったとしても、なんら恥じることではないと思うのだが。
「……渋谷ジャックは、おまえの十八番じゃなかったのか？」
「あは、流石にネク君は賢いだけあって、なかなかウィットに富んだジョークだね」
　ヨシュアにおまえ、だなんて口を聞いたのはなんだか久しぶりな気がする。なんとなく、ＵＧ全体の雰囲気があの頃のゲームを思い出すからだろうか。いかに普段自分がヨシュアに慣らされて甘やかされきっているか分かってしまって、なんとなく気恥ずかしい。
「幹部レベルの子たちは多分大丈夫だと思うんだけど、様子を窺ってるのか隠れて出てきてくれないんだよね。僕が今回のこれで上手いこと消滅するのを高みの見物、っていう線もありえるだろうけど」
　ヨシュアの言葉は自分を問題にしているというのに、あまりに軽々しく残酷だったけれど、それこそ簡単に否定してしまえないのが悲しい。なぜなら、それがＵＧだから、の八文字で済んでしまうからだ。
「一応ネク君を迎えに行くまでに襲ってきたノイズは蹴散らしたし、洗脳された子たちも気絶させてエリアの端っこに送っておいてあげたから、しばらくは平気かな」
　なるほど、ここまでの道すがら特に危険分子に遭遇することがなかったのはヨシュアが労力を割いてくれたからこそだったらしい。戻ってきたときに珍しく着崩れていた身なりにも納得がいった。
「本当に、低級の死神が全部……？」
「全部かどうかはわからないけど、ほぼ危ないと考えていいだろうね。参加者のいなくなるゲーム終わりのタイミングを、今日ちょうど見計らってたみたい。参加者はＲＧの波動が残ってて洗脳しきれないから、単に邪魔だったんじゃないかな」
「なんか、いやに計画的だな」
「うん、随分念入りに準備したんだと思うよ。さすがに渋谷全体に及ぶような力を一度に使われたら僕が気づかないなんてことないけど、多分ゲーム中から少しずつこつこつ撒いてたんじゃないかな。可憐な花を咲かせる健気な種をさ」
　それがゲーム終わりのタイミングで一気に開花というわけだ。以前のゲームで、指揮者が地道にレッドスカルバッジを行き渡らせていたのと似たようなものだろうか、と懐かしい思い出がなんとなく頭をよぎった。
「まあそれにしたって、ここまで大きなソウルを動かすなんて……コンポーザーでもなかったら……」
「……？」
「うーん、まあとにかく、そんな厄介な相手が渋谷川を狙うのがわかってるのに、あの部屋にネク君を置いてけぼりになんてできないから、こうして連れ出したってわけ。あの部屋自体に結界を張ってはあるけど、相手が相手だし……どうなるかわからないから、それなら一番安全な場所は僕の隣かなって」
　さらりと言ってのけるヨシュアの言葉が傲慢ではないのは、彼が持つその強大な力に裏付けられた自信あってこそだ。ヨシュアのいない部屋で寂しく暇を持て余していた俺からすれば、願ったり叶ったりとも言える。
「とりあえず大まかに言うとこんなところかな。それで、これからどうするかなんだけど……」
　そう言いかけたヨシュアのすぐ横を、何かが掠めた。街頭に照らされてシャンパンゴールドに光る髪を無邪気に揺らして首をかしげながらも、ヨシュアの表情が一瞬で険しいものに変わる。
「……！」
　ＵＧで暮らしていれば、嫌でも匂いで分かる。ノイズシンボル。しかも、それなりに団体様で。
「まったく、しつこいなぁっ」
　不機嫌も露に、珍しく舌打ちなどしてみせるヨシュアの声を聞きながら、そのまま別の空間へと引きずりこまれた。なんだか久しぶりだなどと思ってしまう、耳障りなノイズ音。
「せっかくだから、そっちはネク君に任せるね」
　頭の中に流れるヨシュアの声も、やっぱりどこか懐かしく感じるものだ。ヨシュアは影を作れば一人でも戦えるのだけれど、せっかく隣にパートナーがいるのだから、この場は任せてくれるつもりらしい。ヨシュアとは永久的に契約を結んでいるようなものだから、こういうときは手間がなくていいのかもしれないと暢気なことを考える。
　そんなこんなしているうちにノイズの空間にも身体が慣れて、手早く周りの様子を窺ってみると、なんとも散々な光景が広がっていた。やれ一部では白黒のノイズが色つきのヤツを捕食しているわ、かと思えば白黒同士で共食いするところもあるわで、もはや何でもありという様相だった。
　見ているだけでこちらのやる気が殺がれてしまいそうだったけれど、きちんと自分の役割を理解してこちらに襲い掛かってくるノイズももちろんいたので、なんとか気持ちを奮い立たせて右手に力を集中させる。それはそのまま衝撃波のような形になって、思うままに襲い来るノイズへと斬りつけた。
　ヨシュアのソウルを借りている今バッジはもう必要ないけれど、なんだかんだでやっぱりこのサイキックが一番使い勝手がいい。当然ながらソウルの純度からして違うので、予想はしていたもののあの頃との威力の違いに少なからず驚いた。俺が始末した以外にも、周りでお門違いの共食いをしていた連中やらがバラバラと霧散して行くのを見て、ヨシュアもちゃんと働いているらしいことが窺える。
「ったく、ヨシュアに手間かけさせるなっての！」
　そうすると、理不尽に自分たちに襲い掛かってきた目の前のノイズが急に憎らしく思えて、手当たり次第に蹴散らした。本当なら今日でヨシュアの仕事は終わっているはずなのに、ヨシュアだって疲れてるのに。
　そうこうするうちにあっという間に周囲のノイズは尻尾も残さず全て消え失せていたようで、ぐら、と身体が揺れたかと思うと、不快なノイズの空間から開放されて元いた路地裏に戻ってきていた。
「ふぅ、やれやれ……なんだかやけに張り切ってたみたいだね？　ネク君」
　口ではため息をつきながらも毛ほども息を乱していないヨシュアが、戦闘の前と変わらぬ優雅な立ち姿で口元に笑みを湛えたまま、こちらを見やる。俺はそんなヨシュアとは対照的に久しぶりの運動に肩で息をしながらも、覗き込んでくるスミレ色の視線を真っ直ぐに見つめ返した。
「だって、こいつらがヨシュアの休暇を邪魔してるんだと思ったら、急に腹立ってきて……」
　別にヨシュアを喜ばせるつもりで言ったわけではなかったのに、その言葉を聞いた途端ヨシュアは機嫌よさそうにくすくすと笑いを漏らすと、ぽんぽん、と優しく俺の頭を撫でてみせる。
「ネク君はいい子だね」
　さらさらと柔らかく髪を梳く優しい指先に、意図せずともドキドキと胸が高鳴ってしまうのは、だって俺なのだからしょうがない。
「とまあこんな感じでさ、いくら雑魚の相手してもキリがない、から……っと」
　不意にすぐ近くで触れていたヨシュアの体温がなくなるのを感じて、こちらに襲いかかる何かを咄嗟に飛び退ってかわしたらしいということを数秒遅れて認識した。
　ああ、本当に、まったくしつこい。ほんの僅か、息をつく暇もないとは。
「とりあえず、この子たちは撒いちゃおうか」
　すぐさま戦闘態勢を取ろうとすると、それを制するように、まるでこの場にはそぐわないような優美な動きでヨシュアは俺に向かってすっと手を差し伸べる。
「おいで」
　頭で考えるよりも早く身体全部でその命令を認識すると、一も二もなく差し出された白い手を取って、温かなヨシュアの胸の中へと飛び込んだ。



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