罪深きものの道の先には、境界の川がある。
 彼岸と此岸を分ける川だと笑うヨシュアの足取りは穏やかだ。
 この川がもし本当にそんな役割を果たしているのだとしたら、あのときのように死人ではない自分は、この川を渡ることで何か禁忌に触れるのだろうか。
 あの世界のヨシュアは、ルール違反でも構わないと言っていた。いけ好かないやつだったけれど、今なら俺もそう思える。好きあうもの同士が一緒にいられないなら、そんな禁忌なんてくそくらえと思った。
 今この渋谷の権限はすべてヨシュアにある。それなら、俺を断罪するのもヨシュアなのだろうか。禁忌を犯す俺に、ヨシュアはどんな罰をくれるんだろう。考えると少し、胸が高鳴った。
 ヨシュアのくれるものなら何でも嬉しい俺には、罰になることなんてあるのか想像もつかないけど。
 川を越え存在しないものの道を通ると扉があって、開ければそこは死せる神の部屋だという。皮肉な名前だな、と思った。今は誰が使っているのか俺にはわからない。
 コツ、コツ、と音を立てて歩くヨシュアの足元を、可愛らしくわらわらとついてくるガラスの床下の熱帯魚たちに、誰がエサをあげているのかも、きっとこの先俺が知ることはないんだろうと思う。
 この部屋をそれこそ優雅な魚のように歩いているだろうヨシュアの姿を、今の俺の状況では見ることは叶わないのが、少し残念だった。
 ヨシュアの足取りに合わせて伝わる振動は赤子を包むゆりかごのようで、心地よさに負けてしまいそうだ。それと同時に、触れたところからどんどんと身体が熱を持ち始めるのを俺はもう否定できなかった。
 疼く身体を持て余していると、気づけば裁かれしものの道に入っていた。あの見えない扉はいつのまにかくぐっていたらしい。
 この道に描かれているグラフィティも本当に羽狛さんが描いたものなのか、俺には判断がつかない。もしかしてこいつが描いたんだろうか、と想像するのは楽しかった。
 ふと、気がつくとまた床が変わっている。審判の間に入ったようだ。ヨシュアの、部屋。ほんのりと暗くて、少しだけ涼しい。いや、暗く感じるのは黒い床のせいだろうか。涼しいのも天井が高いせいかもしれない。
 一本の道のように床に描かれた模様を見つめる。大きなドクロの、参加者マークとして俺は認識している図柄を通り過ぎると、三つ又に分かれた。ヨシュアの足はまっすぐに向かっている。
 ふ、と今まで同じ体勢を強要されていた俺の身体が浮いたように感じた。俺を肩から下ろしたらしいヨシュアは、そのまま何かに座らせる。硬くて、冷たい。
「少し待ってて」
 優しい囁きと額に一つだけ口付けを落として、ヨシュアはどこかへ行ってしまうようだ。
 背中から伝わる冷たい感触に、ヨシュアに触れていたぬくもりはあっという間に逃げてしまう。離れがたいと思うのに身体は気だるく、どうにか首だけを動かして視線で追った。
 今の俺からみて右側の柱の前にヨシュアが立っている。
 いや、俺が巨大な柱、と思っていたそれには扉がついていて、どうやら一つの部屋らしい。ヨシュアの寝室と考えるのが自然だろうか。オートロックか何かをいじっているようだ。
 こんなに現実離れした空間なのに、そんなところだけが現実的で、やけにおかしかった。
 ヨシュアからはあまり、というかほとんど生活感を感じることがない。いつもどこかふわふわと浮いているようで、ひどく非現実的な雰囲気をまとっている。そんなヨシュアの居住空間とも言える場所に俺を受けいれてくれたことは、嬉しくてとてもくすぐったかった。
 薄れた記憶を掘り返すと、どうやら今俺が腰掛けているのはこの部屋の中心にある大きな椅子らしい。玉座、という表現がしっくりくるような。
 そんなものに俺は座っていていいんだろうかとか、いやでもヨシュアが座らせたんだし……とぐるぐる考えていると、コツコツと響く靴音が近づいて、ヨシュアが戻ってくる。
「お待たせ」
 俺の横に立ったヨシュアは玉座の肘掛に手をついて、屈んで目線を合わせてくれた。
「もうおねむかい?」
 吐息が前髪を揺らすほどの近さに、知らず知らずのうちにヨシュアの温度を求めて身体が震える。億劫な身体に鞭打って、なんとかヨシュアの首に腕を回した。
 ふとヨシュアが首にかけていたはずのヘッドフォンが引っかからなくて不思議に思うと、それは外されてヨシュアが片手に提げていた。俺の行動を全部見通されていたようで、恥ずかしい。
「ね、むく……な……」
 ぐったりと背もたれにもたれていたからそう見えたんだろうか。そうしたのはヨシュアなのに。
「ヨシュアっ……」
 ともすれば力の入らない腕はしがみつくこともままならなくて、ずるずるとヨシュアの首から滑り落ちてしまいそうになる。それが嫌で、うったえるように名前を呼んだ。
「なあに?」
 そうすると何も言わなくてもヨシュアはわかってくれて、ふ、と身体のだるさが軽くなる。本当はヨシュアに負担をかけるのは嫌なのだが、こればかりはどうしようもない。
 多少力の入るようになった腕で、遠慮なくぎゅっとしがみついた。こつ、と額がぶつかる。
「ヨシュア……」
「うん?」
 幼子に問いかけるような甘い声音に、ひく、と背筋が震えた。
「ん、んぅ」
 頬にかかる吐息に我慢できなくて、自分から口付けた。くちびるを舐めては何度も何度もついばむのに、ヨシュアは口を開いてくれない。
「ぅ、ゃ……」
 触れるだけの幼いキスに、焦れる身体はどんどんと熱くなるばかりだ。ふふ、と笑うヨシュアの吐息が唇を撫でて、それだけで簡単に肩が跳ねた。
「ちゃんとキスしたい?」
「ふ……ぅ、し、した……」
 がくがくと震える身体はもう限界なのに。何も考えずに答えようとするくちびるを、ヨシュアのそれが押し留める。
「よく考えて答えて? ちゃんとしたら、もう止められないよ?」
「ん、ん……っ」
 言葉の合間合間にもヨシュアのくちびるは触れて、そのたびに漏れる息が熱くなった。そんな風に聞くなんてずるい。
「今の僕は子どもの身体じゃないんだ」
 言葉と共に離れたくちびるに、閉じかけていたまぶたを持ち上げる。
 射抜くような、スミレ色。
「意味、わかるよね」
 そっと頬に触れたゆびがすべって、耳の輪郭をなぞる。それだけで勝手に変な声が漏れた。
「そ、そんなの……」
「ネク君の負担が大きくなるよ? それでも大丈夫?」
「いぃ……からっ……」
「本当に?」
「だ、だって……」
 何度もしつこく確認するヨシュアに、泣きたくなる。
「ヨシュアなら、ぉ、大人でも、子どもでも、どっちも知りたいっ」
 必死でうったえた声は本当に泣きそうなものになってしまって、恥ずかしかった。
「……」
 俺の言葉にヨシュアはなぜか驚いたようで、またあのウサギの目をしている。
 それから少し考えるそぶりを見せると、しがみついた俺の手をそっと解く。そうしてから、それはもうこちらが見惚れるような見事な動作で、床に膝をついた。
 不思議に思いながら足元に跪くヨシュアを見つめていると、ヨシュアの白い手がそっと俺の足を持ち上げる。ノイズとの戦闘で傷を負わされたほうの足だ。
 その傷に、ふわりとヨシュアのくちびるが触れた。
「っ……ゃ……!」
 びく、と足が跳ねたが、ヨシュアは気にせずそのまま舌を這わせる。傷口をえぐるように舌先が触れて、生乾きの傷がじくじくと熱を持った。
「やっ、ヨシュ……ぁ……ぃ、たっ」
「こんな傷より、もっと痛い思いするかもしれないよ?」
「う、ぅー」
「それでもいい?」
 上目遣いに寄越されるスミレ色の視線が、直視できない。ヨシュアが傷口に歯を立てるたびに、びく、びく、と全身が跳ねた。本来この玉座に座るべき人物は今俺の足元に跪いていて、あまつさえそんな行為をしているのかと思うと、あまりにも倒錯的で眩暈がする。
 それでも熱を持ったそこから伝わる痛みが、徐々に快感へ変わっていくのが信じられなかった。
「いい?」
 すでに痛みではなく快感に震える身体に、ヨシュアは念を押すように再度問いかける。
 あまりにあさましい自分の身体に泣きそうになりながら、それでもちいさく、こくりと頷いた。
「そう……」
 妖艶に笑うヨシュアはそっと壊れ物を扱うように俺の足を下ろすと、再び優雅な動きで立ち上がる。そのまま長い腕に背中と膝を掬われて、恭しく抱き上げられた。
 今度は色気もそっけもない俵担ぎではなく、正真正銘お姫様だっこである。日付は変わっているものの、気持ちとしては本日二度目だ。でも、恥ずかしく思うような余裕はもう俺には残っていない。
「こんなところじゃ、身体が痛くなりそうだからね」
 そう笑いながら、先ほどの部屋へ歩き出した。
 その言葉に、なんとなくだがヨシュアはこの玉座があまり好きではないんだろうか、と思う。そうだとしたら、渋谷を管理するものにあるまじきだな。
 あの長い脚を組んでこいつが玉座にふんぞり返ったなら、さぞかし似合うだろうに。そう思いながら、不安定な身体を預けるようにその首にぎゅっとしがみついた。



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