目を開けると、スクランブル交差点だった。まばゆいネオンに街灯、雑多な人ごみがそれだけでなんだか懐かしい。
 咄嗟にヨシュアの姿を探すと、すぐ隣に佇んでいた。それだけでほっと息をつく。
 ヨシュアも俺を探したようで、お互いに顔を見合わせてしまったのがおかしかった。
 オトナの姿をしているということは、ここはまだUGのようだ。携帯を開くと、もう少しで日付が変わりそうだと示している。
 いつもこのくらいの時間に部屋でヨシュアを待っているから、向こうのヨシュアの言うとおり元の時間に戻ってきたようだ。
 街灯を反射するメロンイエローの髪が絡まる首元には、見慣れたヘッドフォンがかかっている。ちゃんと返却されたらしいそのエントリー料に、密かに安堵の息を漏らした。
「ひどい目にあったな」
「まったくだよ」
 夜でも人通りの絶えないこの道路を何とはなしに歩き出そうとすると、ちょっと待って、と立ちつくすヨシュアに引き止められた。
「?」
 いぶかしげな表情に、また何かあったのかと緊張する。
「どうした?」
「ソウルの結合規律がうまく解けない。チャンネルが合わないのかな?」
 チューニングが、とぶつぶつ呟くヨシュアの言葉の半分も理解できない。
 詳細を問うと、低位同調できない、ということらしい。
「子どもの姿になれないってことか?」
「まあ、簡単に言うとそういうことになるね」
 何でもないことのように言われて、こちらが焦った。
「あいつ、エントリー料返さなかったんじゃ……」
「いや、それはないと思うよ。間違いなくゲームはクリアしたし、『僕』がそんなせこいことするとも思えない。向こうの僕に干渉されたせいで、少し規律がずれてるのかもね」
 明日になれば自然に治るだろうけど……と言いながら、ヨシュアは渋い顔だ。
「なら、いいんじゃないか? なんか、新鮮だし」
「でも、この姿だと制限しきれないから……ネク君にプレッシャーがかかるでしょ?」
 言われると、確かにまだなんとなく圧迫感があって、息苦しい。
「ん……でも、ちょっと慣れたし……」
 でもヨシュアに心配させたくなくて、俯いてなんでもない風を装った。なのに、やっぱりヨシュアにはバレバレだったらしい。溜息が耳に痛い。
「ほら、やっぱりかかってるんじゃないか。せめて家まで送るあいだくらいはと思ったんだけど……僕はまあ楽にはなるんだけどね……」
 呟いてから、ヨシュアがしまった、という顔で口をつぐむ。けど、俺は聞き逃さなかった。
「なんだよ、それ」
「なんでもないよ」
「嘘吐け! 子どもの姿だと、楽じゃないってことか?」
「……」
 無言で歩き出す姿は、絶対に図星だ。逃がすものかと追いかける。
 黙りこくって押し通そうとしてもそうはいかない。いつものらりくらり上手くかわせると思うなよ。
 ぐ、と腕を引っ張って歩みを止めさせると、答えるまでてこでも動かないと睨みつけた。
 すると、案外あっさり観念したようにヨシュアが溜息をつく。
「まあ、いつまでも隠し通せることでもないか……一応低位同調って自分の力を抑えつけてる状態になるから、もちろん負担はあるよ。その辺の死神クラスなら意識しないレベルだろうけど、まがりなりにも僕はコンポーザーだからね」
「っ……じゃあ、俺と会ってるときいつも」
 俺に会うことで、ヨシュアを疲れさせてるなんて。なんて皮肉だろう。
 咄嗟に言い募ろうとすれば、牽制するようにくちびるに触れたヨシュアのゆびに遮られた。
「ネク君。それは言いっこなしだよ。RGの君には、そうしないと僕を視認できないんだ」
「……」
「見えない触れない、じゃ元も子もないでしょ?」
 とん、と一度くちびるを軽く叩いて、ヨシュアのゆびが離れる。
 それはそうなのだけれど。ヨシュアがそうしてくれるから、俺はヨシュアに会えるのだ。
 自分の無力さとやりきれなさに、ぐっとくちびるを噛み締める。
「僕は、ネク君に僕を見て欲しいし、触って欲しい。だから、全然気にすることじゃないんだよ」
 ヨシュアがそうしたいからと言えば、俺には何も言えない。ヨシュアは我侭な自分を装いながら、その実こんな風にいつも俺に優しい。
「あいつが言ってた色ボケって、それか?」
「うん?」
「頻繁に低位同調して疲れてたから、お前の世界に干渉されたんじゃないのか」
「……もうあんな失態は見せないよ」
 否定しない。ヨシュアは本当のことを言わないときはあるけれど、あまり嘘はつかなくなった。
 だから、やはりそれは事実なんだろう。ヨシュアの負担になっている自分が悲しかった。
 けど、ヨシュアは言葉通り今後今回のようなことは許さないだろう。それはますますヨシュアの負担を増やしてしまうようで、やるせない。
 それでもヨシュアに会えるのは嬉しい自分が、情けなかった。けど、ヨシュアも俺に会いたいと言ってくれるなら。
「なら、今くらいそのままでいろよ。ここ、UGだし」
「うー、ん……」
「どうせ今だって俺に負担かからないように制限してるんだろ?」
「……低位同調するときほどじゃないよ。自分でも、気にならないレベルだし」
「やっぱりしてるんじゃないか」
 ヨシュアが素のままでいたなら、俺は立ち上がることさえままならなかったのだ。
 もう、その優しさだけで十分だから。
「……わかったよ。ありがとう」
 そう言って頭を撫でる手のひらは大きくて、いつもよりもずっと見上げる位置にあるスミレ色にやっぱりドキドキしてしまうのだけれど。
「けど、今日はもうRGには行けないね」
「えっ」
 低位同調できないというのはそういうことだ。すっかり頭から抜け落ちていた。
「とりあえず家まで送って行くから、そこまで……」
 ヨシュアの言葉が終わる前に、身体が勝手に動いた。
 歩き出そうとするヨシュアを押し留めるように服の裾を引っ張って、背中に額を押し付ける。
「やだ」
「ネク君?」
 心底不思議そうなヨシュアの声に、情けなくゆびが震えた。こんなの、自分だけなんだろうか。
「今日は、帰りたくない」
 安っぽい、ドラマに出てくる女の人の台詞みたいだとぼんやり思う。
 自分がこんなことを言う日がくるとは、世の中わからないものだ。
「一緒にいたい」
 一緒にいるということは、少なからずヨシュアに負担をかけることだ。なんてひどい我侭だろう。それでも、ヨシュアの背中が俺にはどこか寂しそうに見えてしまった。
 いや、それも言い訳かもしれない。寂しいのはどうしたって俺なのだ。
 本当はヨシュアを困らせるようなことは言いたくない。でも、今日はどうしても離れがたかった。
 どうしてだろう。
 今日はいつもと同じくらい……もしかしたらそれ以上ヨシュアと同じ時間を過ごせた。まあ、予想外のゲームに巻き込まれるという非常事態ではあったけど。
 でも、今触れているぬくもりが手放せない。
 あの世界では、ヨシュアには会えないかもしれない俺がいるという。
 ヨシュアに出会わなかったら、なんて、今の俺には考えられなかった。それはどんなに不幸なことだろう。
「お前に会えない俺って、可哀想だな」
 別の世界の俺でも、どこかで繋がっているんだろうか。なら、この寂しさはあの世界の俺のものなんじゃないだろうか。
 ヨシュアに会えない俺を、俺は寂しいと思った。
 ふ、と優しい溜息を漏らすヨシュアの背中は広くて、でもやっぱりなんとなく寂しそうだ。
「そうだね。僕も、あの世界の僕を可哀想だと思うよ」
 言いながらも、ヨシュアの声は哀れみを感じさせず、穏やかだった。
「でも、今ここにいる僕は僕だけのもので、あの世界の僕は彼だけのものなんだよ」
 その穏やかな声色は誰の心にも染み入るだろうと思わせるもので、ああ、やっぱりこいつはコンポーザーなんだな、となんとなく思った。
「ネク君も、同じ」
 そんなヨシュアの口から、俺の名前が出ることが嬉しい。
 交差点のざわめきも、行き交う車の音もたしかに存在しているのに、俺の耳にはヨシュアの声だけがたしかに届いた。
「あの世界で僕がネク君以外の人を大切に思っていたように、きっとネク君も別の誰かを大切にする日が来るんだと思うよ。だから、可哀想なんていうのは少し傲慢かな」
 最後は少し笑ったようで、揺れる声音が数多の世界を許容する者にしては随分と人間くさかった。
 それが余計に、通常なら理解しがたい複数存在するという世界を、本物だと感じさせる。
「それでも、今ここにいる僕は、ネク君と出会わないなんて考えられないけど」
 どうやら同じ結論に達したらしい。それだけで、なんだか涙が出そうになった。
 ヨシュアに出会えたことは、当たり前じゃない。
 運命じゃない。必然でもない。ヨシュアが俺を見つけてくれた。
 それはきっとただの偶然なのだ。
 運と、ほんの少しのタイミングを味方につけて、俺を見つけ出してくれたヨシュアにどうやって報いたらいいんだろう。
 ヨシュアと出会えた、この幸福をなんと呼ぼう。
「ヨシュア……」
 名前を呼べば、前を見たままだったヨシュアがゆっくり振り向いた。
 宿るスミレ色の光は、困ったように優しい。
「……もう、ネク君がそんなこと言うから僕も離れがたくなっちゃったじゃないか」
 そっと抱き寄せられる肩に、胸がぎゅうと狭くなる。いつもならきっとこつん、と額を合わせていたんだろうけど、身長差がありすぎて叶わない。ただ、目の前にある胸元に頬をすり寄せた。
 あんまりこっち側に引き摺られて欲しくないんだけど、と不満そうなヨシュアから、俺は離れる気なんてさらさらない。
「いいよ。じゃあ、僕の部屋にでも来る?」
 なかったくせに、予想外の言葉に驚きが隠せなかった。
「いい、のか?」
 まさか叶うと思っていなかった俺の表情を見て、ヨシュアが苦笑する。
「ただし、ちゃんと親御さんに連絡して了解もらってからだよ? ただでさえ、もうこんな時間だし」
 ヨシュアの手首に巻かれた腕時計は、もう日付を越えたことを示している。
 いつも人の家に上がりこんでいるくせに、そんなことを気にするヨシュアがおかしかった。
 まあ毎回キレイに痕跡一つのこさないから、俺でさえ本当にこいつがいたのかということを疑ってしまうくらいなのだけれど。
 今日は家にいるわけではないから、万が一母親が鍵のかかっていない部屋を覗いてベッドが空では、心配するだろう。メールの一つでも入れておけば問題ないと思う。
『友達の家に泊まる』と言えば、今時俺の歳では心配すらされない。
 そう説明しても、ヨシュアは俺の携帯がメール着信を知らせるまで歩き出すことすら許してくれないのだ。
『ご迷惑にならないようにね』との母親の返信メールを見せると、ヨシュアはやっと納得してくれた。
「過保護」
「なんとでも。だって、どうあがいたってネク君はまだ子どもなんだから」
 オトナの微笑で返されて、俺は何も言えない。
 ふてくされる俺に、微笑を苦笑に変えたヨシュアからごく自然にその手が差し伸べられる。
「おいで」
 そう言うと、ずっと繋げずにいた手を、ヨシュアのほうから繋いでくれた。


「なあ、制限全部解くのはやっぱりダメなのか?」
「ダメ。今だってネク君にも負担かかってるんでしょ? 僕もネク君も、負担は半分ずつ。おあいこだよ」
 渋谷駅を通り過ぎて、ガード下をくぐり抜ける。
 渋谷川へ向かう道のりで繋いだ手はあたたかくて、くすぐったい気持ちにさせてくれた。
 オトナの足で歩くヨシュアも、公園での足取りとは打って変わって緩やかだ。俺が早足にならずに済む歩調は、優しい。
 そんな中申し出た俺の精一杯の提案は、すげなく一蹴される。
 まあそりゃ、そんなことしたら俺は歩けなくなるから、どちらにしろヨシュアの手を煩わせなければいけないのだけれど。どうにもならない事実が、歯がゆかった。
「ああ、でもネク君怪我してるんだっけ」
 唐突にぴたり、とヨシュアの足取りが止まる。
「え?」
「ごめんね、いっぱい歩かせて」
 言葉と共に立ち止まったヨシュアの顔を、不審に思いながら見上げる。にこやかなその表情は、何かをたくらんでいるようにしか見えない。
「ああ……でも、もう血も止まってるし」
「いいよ、ネク君の望みは承諾可能だ。叶えてあげる」
 どこかで聞いたような口調に嫌な予感を覚える暇もなく、がく、と膝が崩れた。
「な……」
 そのまま倒れこみそうになる身体を、そつなくヨシュアに抱きとめられる。
 状況を把握する間も、反論する間も与えられずに、そのままひょいっと肩に担ぎ上げられた。
 まるで、米俵みたいに。
「ヨ、シュア……!」
 自分では怒鳴ったつもりの声も、腹に力が入れられずただただ弱々しい。
 ヨシュアが制限を解いたのだ、と気づくのには遅すぎた。
「罪深きものの道も存在しないものの道も、そんな足で歩くには長すぎるよね。ごめんね、気づくの遅くなって」
 殊勝な口調で謝ってみせているが、どう見てもその様子は楽しんでいる以外の何ものでもない。
 お姫様だっこだけに留まらず、こんなことまで軽々とやってのけるなんてひどいではないか。ずるい。ずるすぎる。
 ひと一人担ぎ上げて揺るがない体躯も、くっついたところから服越しに伝わる体温も、何もかもがずるいと思った。
 制限を解けとは言ったけれど、この展開はあまりにも理不尽だ。
 そううったえようと手足をばたつかせたつもりなのに、気だるい体は動かない。
 本日二度目の「暴れると落とすよ」を聞くまでもなく、ヨシュアの横暴を受けいれるしかなかった。



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