渋谷門を離れ、薔薇の園を通り過ぎる。
　先ほど通りがかった噴水池に戻ってくると、二股に分かれた道をヨシュアは右に進んだ。
　さきほど歩いてきた道はたしか左からだったから、俺たちが倒れていた場所とはまた別のほうに向かっていることになる。
　多い茂る木々とコンクリートで舗装されただけのそっけない道のりだったが、噴水の涼やかな水音は遠くなっても絶えることなく聞こえてきた。
「百日紅までならそんなに歩かないから、正解であれば疲れないで済みそうだよ」
　隣を歩く、冗談交じりのヨシュアの声に返事をしようと口を開きかけた、そのとき。
「――！」
　目の前に、ノイズシンボル。咄嗟にヨシュアに声をかける暇もなかった。
　触れた途端、身体ごとどこかに引き摺られる感覚に振り回される。
　空間を移動する衝撃に耐えるように反射的に瞑っていた目を開くと、ヨシュアはいない。
　代わりに、獣型のノイズ。一、二……三体。
　ぐ、と地面を踏みしめた。久しぶりのノイズの空間の感覚に少し頭がぐらついたが、二本の足はちゃんと地についている。深く息を吸い込んだ。
『しっかり頼むよ、ネク君？』
　頭の中に直接聞こえるヨシュアの声は、懐かしい響きだ。バッジを握り締めた手に、ぐっと力を込める。
　そんなの、言われるまでもない。
　目の前のノイズが動く前に、地面を蹴った。
　二体から若干距離を空けて唸りを上げている一体に狙いを定め、駆け出す。
　射程距離に入ると勢いを殺さないまま、斬りつけた。腕の動きを追いかけるように衝撃波が発生する。
　わずかに掠めたものの、獣らしい機敏な動きで避けられた。無意識に舌打ちが漏れる。
　一度に三体も相手にしていられないので、その一匹を引きつけるように距離をとった。案の定、こちらに駆け出してくる気配。
　ギリギリまで引き付けてから、振り向きざまにバッジを振るった。しゅ、と微かな音しかしないその衝撃波は、どことなくマヌケだ。
　それでも目標に衝突すればバシッと大きな音を立てて、先ほどとは違う確かな手ごたえに直撃を確信する。
　致命傷を負ったらしいそのノイズに続けて斬りつけると、そのまま目の前で霧のように掻き消えた。
　一体やった。あと二体。
　全身をアンテナにして辺りの気配を探ると、左手に一体、右手に一体。どちらも視界に入る。
　と、右手側の一体が先ほど倒したノイズと同じように消え去った。ヨシュアだ。
　相変わらずそつがないなと思いながら、残る一体に狙いを定める。
　射程距離内に捉えようと駆け出した瞬間、ぐら、と頭の奥が揺れた。久しぶりのサイキックに、身体がついていかないのだろうか。やばい、なんでこんなときに。
　ずきずきと痛む頭に気を取られた一瞬、その油断が命取りだった。俊敏な動きで、目の前にノイズが迫る。
　無理矢理身体を捻って避けたものの、鋭い爪がふくらはぎを掠めた。そのままバランスを崩して倒れこむ。
　幸いコンクリートではなく、柔らかい土の上に倒れたおかげで衝撃は少ない。が、首を捻れば再びこちらに駆け出してくるノイズの影。
『大丈夫かい？』
　全然心配そうに聞こえない相変わらずのヨシュアの声に返事をするヒマもなかった。立ち上がっていたら間に合わない。咄嗟にもうひとつのバッジを握る。
　意識を集中させて、イメージする。地を這う赤い炎。
　ふわ、と身体が浮き上がる感覚に目を開けると、目の前でノイズが立ち昇る炎に包まれていた。
　高く喚きながら暴れるノイズから距離を取って対峙すると、一層意識を集中させる。間に合うだろうか。あまり威力の強いサイキックではない。持続時間も長くない――切れる。
　舞い踊る炎は瞬く間に消えて、バッジがリブートに入った。まだトドメには至っていない。
　再びこちらに向かってこようとするノイズに斬りかかる構えを取った途端、そいつは一際大きな叫びを上げて消滅した。
『安らかにおやすみ』
　ヨシュアの声が頭に響く。まったく、いつもおいしいところを持って行くやつだ。
　飄々としたヨシュアの声を聞いて気が抜けると同時に、また自分の身体が空間を移動するのがわかる。
　気がつくと、すぐそばにヨシュアがたたずんでいた。
「呆気なかったね」
　ふふ、と微笑混じりにそんな言葉を口にするヨシュアは息一つ切らせていない。
　ノイズとの戦闘中はお互い別の空間に存在してはいるものの、なんとなく感覚で相手の様子は分かる。声も聞こえる。
　当然先ほどの失態もこいつにはばれているだろう。多少なりとも息を荒げている自分はなんとも言えず、気恥ずかしかった。
「ネク君、怪我してる」
　言われてヨシュアの視線を追うと、ハーフパンツからむき出しのふくらはぎに裂傷ができている。
　流れ出た赤が、その先の靴下と靴を汚していた。
　言われるまで意識していなかったが、自覚した途端じくじくと傷が熱を持って痛み始める。でも、そんなに深い傷でもなさそうだ。
「大丈夫かい？」
　落とされた言葉は先の台詞と同じものなのに、本当に心配そうだった。そのギャップに、戸惑う。
「ああ、別にこれくらい……」
「ダメだよ、ちゃんと手当てしないと」
　ぐ、と腕を掴まれると、そのまま歩き出したヨシュアに引っ張られた。
「噴水池のほうにトイレがあったはずから、そこまで戻ろう。歩ける？」
「でも、制限時間が」
「まだ余裕あるから大丈夫だよ。それよりネク君の怪我のほうが優先」
　ヨシュアの手は掴んだ俺の腕を簡単に一回りしてしまうくらい大きくて、込められた力の強さに驚く。それはそのままヨシュアがどのくらい俺を心配しているかということに直結しているようで、反論しようとした口は閉じるしかなかった。


　噴水池まで戻ると、ヨシュアの言うとおりにトイレがあった。
　そこまではよかったのだが、そのトイレの水道で傷口を洗浄すると、俺の片方脱いだ靴下と靴を片手に持ったヨシュアに抱き上げられたのはどういうことだろう。いわゆる、お姫様だっこだ。
　あまりの急展開に、思わず大きな声を出してしまった俺を誰も責められないと思う。
「おい！」
「暴れると落とすよ？」
　何でもないように言ってのけるこいつは、俺が少しでも暴れたならその言葉を本当に実行するだろうことは想像に易い。
　人気がないとはいえ、屋外でそんな醜態を晒す自分が心底情けなかったが、湧き上がる羞恥をぐっと堪えて耐えるしかなかった。
　トイレを出てすたすたと歩くヨシュアは、そのまま噴水池のほとりにあるベンチの上に俺を座らせる。
　とんだ羞恥プレイだったが、思いのほか短い時間で済んでほっとした。
「ヒーリングは僕の管轄外だからね。バッジがないと、これくらいが精一杯だよ」
　そう言ってヨシュアはポケットからキレイなハンカチを取り出すと、俺の前に膝をつく。
　そのまま、洗浄して濡れたままのふくらはぎと、傷口周りにまた新しくにじみ出た血を丁寧に拭ってくれた。
　布地に、にじむ赤。
「ヨシュア、ハンカチ汚れる」
「いいよ、別に」
「別にって……」
　言い返そうとしても、傷口に視線を落としたままのヨシュアはかたくなに動こうとしない。見えない表情に、なんとなく憮然としているようにも見える。
　さっきまで俺を見下ろしていたヨシュアが、その身体を折りたたんで俺の足元に跪いている今の状況は、なんというか、ものすごく気まずかった。
　噴水の立てる水音だけが辺りに響いて、いたたまれない。
「変に何か巻いたりすると傷口にくっついちゃいそうだから、このままの方がいいね」
　静かに俺の足を拭うさまに身を固くしていると、放たれたヨシュアの言葉も、声の調子もいつもの通りでほっとした。
　それならと、俺もいつも通りの声が出せる。
「だから、別に大した傷じゃないってのに……」
「ばい菌が入ると怖いんだよ？　帰ったら、ちゃんと消毒してね」
　上目遣いに寄越されたスミレ色の視線に、胸がぎゅうと苦しくなる。
　そのままうやうやしく靴下と靴まで履かされて、ご丁寧に靴紐まで結んでくれた。冷えた足に伝わる体温と優しい手つきに、おかげで俺の心臓はとても休まるときがない。
　すっと立ち上がったヨシュアは、汚れた面を内側にしてハンカチを几帳面にたたむと、またポケットに押し込んだ。
　そのハンカチのクリーニング代、とか、新しいハンカチ、とか言ってもこいつにはきっと聞き入れてもらえないのだろう。だから。
「……さんきゅ」
　落とした言葉は消え入りそうなものになってしまって、噴水の音に掻き消えてしまわないか心配になる。
　でも、そんな俺の言葉をヨシュアはいつでもちゃんと拾ってくれるのだ。
「どういたしまして」
　笑って言われた言葉に、また胸が苦しくなった。やっぱり俺、こいつのこと好きだなぁと思う。絶対言わないけど。
「さあ、そろそろ行こう。あの場所にノイズが配置してあったってことは、僕らの予想もあながちハズレじゃなさそうだよ？」



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