この暗闇は今の、感情を顔に出しやすい俺の表情を隠すにはもってこいではあるけれど、こうまで周りが静かだとさすがに不気味だ。聞こえるのは遠くなる水音と、止まない樹木のざわめきだけ。 前を歩くヨシュアも非常時だからか、あまり無駄口を叩かない。すたすたと長い足で歩かれると、通常よりもさらに足の長さの違う俺は自然と早足になる。 いつもなら合わせてくれる歩調も、さすがのヨシュアもそこまで気が回らないのだろう。手も、つながない。 いざというときに、お互いがすばやく自由に動くのに妨げになるからだ。 ただ、こんな夜闇でもヨシュアがいてくれてよかったと思う。もし俺一人だったらと思うと、夜の一人歩きに泣き出すような歳でないとはいえ、本能的にこの暗闇は恐ろしい。 普段なら夜でもジョギングをする人がそれなりにいると聞くが、残念ながら今はそんな人影は見当たらない。 手はつなげないまでも、そんなヨシュアに置いて行かれないようにと追いかけると、自然と小走りになった。 薔薇の盛りの初夏をとっくに過ぎた今の時期は、薔薇の園も棘つきの茎から伸びる葉っぱに覆われた単なる植え込みが並んでいるばかりである。 それでもぽつりぽつりと健気に花を咲かせている薔薇もあるが、こんな夜では遠目に何色をしているのかも分からない。 そんな薔薇の園を横目に通りすぎると、すぐにヨシュアの言うところの渋谷門が見えてきた。 渋谷門は、A地区とB地区を繋ぐ歩道橋の入り口に位置しているのだという。 門、と言っても所詮は単に複数ある公園の入り口を区別する意味合いのようで、それ自体はそんなに大層なものではなくごく普通の出入り口だ。学校の校門が一番イメージに近いと思う。 公共の場として開け放たれているそれが、いつ閉まるのかというのを俺は知らない。 門といわれると、どちらかといえば俺はその奥に歩道橋をまたぐ形である大きなものを想像する。 それを見た俺のごく率直な感想としては、文化祭や体育祭で使用される入場門の巨大なコンクリート版、というかんじだ。 コの字を左に九十度回転させた形で、その両足にあたる部分には赤がメインカラーのグラフィティと、青のグラフィティが描かれている。龍、か何かだろうか。 グラフィティというと真っ先にCATを思い浮かべるが、このグラフィティは別人によるものだろう。 代々木公園には俺自身あまり縁がなく訪れた回数も数えるほどだが、このグラフィティに関しては特に心惹かれるものもなく、俺の頭の中のCAT情報網にも引っかからなかったからだ。 その門をくぐる形で歩道橋があって、階段を上りきった先を渡れば、そこから野外ステージなどがあるB地区に行ける。はずだった。 「壁?」 歩道橋へ上がる階段の少し手前で立ち止まったヨシュアを不審に思い隣に立つと、そんな呟きが聞こえてきた。 ヨシュアが伸ばした手はパントマイムのように一定の場所で止まって、一瞬蜂の巣型の模様の光が見える。 見覚えのあるその光に、俺もヨシュアにならって手を差し出す。 それはやっぱり独特の模様の光を発すると、見えない力に押し戻された。その先には進めない。 「やっぱりね」 納得したように溜息をつくヨシュアは何か腑に落ちた様子だが、俺にはさっぱり分からない。 「どういうことだよ?」 「この先、つまり代々木公園A地区の外は閉鎖エリアってことさ」 閉鎖エリア? この公園から出られないのか。 「何となく閉鎖エリアの匂いはしてたんだけどね。恐らく、他の出入口も同じかな。多分、A地区を囲むように ぐるっと壁が張り巡らされてると見たね」 「おまえの力で開放できないのか?」 ごく当たり前に浮かんだ疑問に、ヨシュアは苦笑する。 「僕自身がマスターキーみたいなものだから、渋谷内で僕に開放できない閉鎖エリアはないはずだよ。ここが僕の渋谷UGならね」 ヨシュアの渋谷なら。ということは、ここはこいつの渋谷じゃないとでも言うのだろうか。 「そんなこと、ありえるのか……?」 「ここは渋谷区代々木神園町代々木公園、それは間違いないよ。この渋谷で僕にちょっかいを出せるのは天使か、あるいは……」 天使。またややこしい単語が出てきたな。 「でもプロデューサーでもない天使が許されているのはあくまで観察だから、こんな風に僕の意向を無視した行為は罪に問われるんだ。力が強い分そういった行為は確実に上にばれる。僕が通報することもできるしね。となると」 ふふ、と楽しそうな笑いは、とてもこの場にそぐわない。 「ここは僕の管轄の渋谷じゃないってことだね」 「はぁ?」 「壁を開放できないか少し探ってみたけど、どうも僕の知っている渋谷の波長と微妙にズレがあるみたいだ。鍵穴自体の作りが違う。だから僕には開けられない。ということは、ここは僕の渋谷じゃない」 おまえの渋谷じゃないなら、誰の渋谷だっていうんだ。 「もう一人の『僕』の渋谷さ」 「……」 「そして、こんな風に僕に干渉できるのは天使でもなければ、コンポーザーしかいない。どの世界においても、渋谷のコンポーザーは僕。要するに、犯人はもう一人の僕ってわけさ」 正直な話、もうわけが分からない。 「並行世界って聞いたことあるでしょ?」 ああ、そんな単語、羽狛さんのレポートに出てきた気がする。 「人が瞬間に経験する連続の選択の中で、選択されなかった現実も同時に分離して存在してる……だかなんだか」 「よくお勉強してるね。百点満点だよ」 こんなことで褒められても嬉しくない。それに今のは、ただ羽狛さんのレポートに書いてあった文章をたまたま暗記していただけだ。実際にどういうことなのかは理解しきれていない。 「ここはそのいくつも存在する、僕たちが通常存在してる以外の世界の中の一つ、ってことさ」 「……頭痛くなってきた」 「話半分に聞いてくれればいいよ」 くすくすと笑いを漏らしながら、ヨシュアの大きな手のひらが俺の頭を撫でる。 身長差もあいまって、見下ろされながらそんな風にされると、自分がごく小さな子どものようでいたたまれない。 「コンポーザーになるとね、いくつも並行して存在する世界が分かるようになるんだ。他の世界にはその世界の僕がいて、また他の世界には別の僕がいる。その上で、僕たちはお互いの世界をさほど制限なく行き来することができる」 優しく髪に触れるヨシュアのゆびは心地よくて、あわや今が非常事態だということを忘れてしまいそうだ。 「要するに僕は、どこの世界の僕にも簡単に干渉できるのさ。もちろん、その世界の重要な事柄に関しての権限はすべて、その世界のコンポーザーのものだけどね。まあ、マブスラの対戦くらいは許されるかな」 冗談めかして言っているが、これはものすごく重大な話なのではないだろうか。 何人もいるという自分が、こいつにとっては普通なのだという。そんなこと、俺には到底理解しきれなくて、こいつの言うとおり話半分に聞くことしかできない。 けれど、コンポーザーというのは、俺が想像する以上に人間から離れた存在なんだということだけは分かった。 そのことがなぜだか無性に悲しくて、何でもないようにのたまうこいつが不安になって、頭を撫でるゆびから逃れるようにその手を振り払う。 「それでも、分かった上でお互い干渉しないことにしているのさ。面倒だからね」 「疲れるのは嫌いだから、だろ」 「そう。他の世界の僕に干渉されるなんて、疲れる以外の何物でもないよ。だから自分がされて嫌なことはしない。非常時はまた別だけど、とにかく基本的にはしないんだ。『僕』ならみんなそうだと思ったんだけどね……何が目的か知らないけど、この世界の『僕』は随分と躾がなってないみたいだ」 逃れた俺を追いかけることなくあっさりと手を離したヨシュアの目は、笑っていない。俺自身に向けられているわけでもないのに、その視線の冷たさに背筋が凍りそうだ。 「お仕置きが必要かな」 続いた言葉に、間違いなく俺は凍りついた。こいつだけは絶対に敵に回したくない、と思う。 「ああ、それから僕のエントリー料がわかったよ」 切り替えの早いこいつは、話題転換と共にあっさり表情を塗り替えた。いつも通りの飄々とした笑みに、知らず知らずのうちにほっとする。 「やっぱり取られてるのか、エントリー料」 「参加者として、今ここにいるからにはそうだろうね。本人の了解もとらずにゲームにエントリーさせるなんて、ナンセンスにもほどがあるけど」 エントリー料。その人の大切なもの。ヨシュアの、大切なもの? 「実はさっきから試してるんだけど、どうも今の僕は子どもの姿を取れないみたいなんだ」 「そう……なのか?」 「うん。ネク君の負担が軽くなるように、と思ったんだけど、何度試してもできない」 それならば、ヨシュアのエントリー料は。 「子どもの姿の自分、か?」 「……まあ、端的に言えばそうなるかな」 なんだか意外だ。ヨシュア自身、見た目に意味はないと言っていただけに。 いや、まあ、本人の大切なものだし、ヨシュアにはヨシュアなりの事情があるのかもしれない。 「んー、僕が子どもの姿を取れないってことは、さ……わからない?」 「?」 ヨシュアにしては珍しく言い淀むような問いかけに、首をかしげる。 「まあ、わからないならいいけど」 「なんだよ、それ」 「ネク君のエントリー料はなんだろうね」 自分から質問しておいて答えないままの強引な話題転換に、少なからずむっとする。でも、伺うとそれはむしろヨシュアのほうがどこか拗ねているかのような様子で、戸惑った。 どうしていいか分からなかったので、とりあえずヨシュアの振った話題に乗ってやることにする。 俺自身、気になるし。 「俺のエントリー料、か」 自分の大切なもの、と考えて真っ先に思い浮かぶ人物は、今まさに目の前にいる。ので、なし。 エントリー料はゲームの前に徴収されるのが通例だから、こんな風にゲームに放り込まれてしまってからだと意外に本人でも気づけなかったりするのだ。 徴収されたもの、今ここにないもの。 『何かなくなってるものはない?』 ヨシュアの言葉を思い出す。あの時点でなくなっていたもの。寝巻き……がエントリー料なわけはないから、それ以外。 『――僕は、ヘッドフォンがなくなってるみたいだよ』 思い至った考えに、はっとヨシュアの顔を見上げる。 「ヘッドフォン……」 「え?」 「ヘッドフォン、おまえ、なくなったって言ってた」 俺とヨシュアをつなぐ、あの青いヘッドフォン。ヨシュアはどこかで落としたのか、と言っていたが、なるほど、エントリー料にはおあつらえ向きだ。 一人うんうんと納得していると、ヨシュアは不思議そうな顔でこちらを見ている。 「あのヘッドフォンそんなに大事だったんだ? 取り戻したら、返したほうがいい?」 あまりに見当違いな言葉に、どうしてわからないのかとむっとなった。おまえが持ってなきゃ、意味ないのに。 「別に、いらない」 ふん、と顔を背けても、ヨシュアはますますいぶかる様子を見せるだけだ。 「何ふてくされてるの」 「誰が! ふてくされてたのはおまえだろっ」 「今ふてくされてるのはネク君でしょ。僕、何か変なこと言った?」 「答える義務はない」 「どうして?」 「知らない!」 尚も追求してくるヨシュアに食って掛かろうとすると、ピリリ、と短い電子音が響いた。 「!」 メールの着信音だ。さっきヨシュアがケータイは使えないと言っていた。ということは。 もどかしくケータイを取り出すと、急いで画面を操作する。 『園内に潜むゲームマスターを見つけ出せ。制限時間は百二十分。未達成なら崩壊』 差出人不明。ミッションメールだ。 ヨシュアのほうを見ると、俺と同じように携帯を確認していたらしく、開いた画面をこちらにむける。 「同じ内容みたいだね」 ヨシュアがくすりと笑うと同時に、手のひらに鋭い痛みが走った。懐かしい感覚だ。 手のひらを開くと、血のような禍々しい赤のデジタル時計。 「タイマーか……」 「僕がここの壁を調べると、ミッションが届く仕組みだった……ってところかな」 僕の考えはお見通しってわけだ、と呟くヨシュアはどこか楽しげだ。その『僕』がどちらのものかは判然としなかったけれど。 「さて、それじゃあどうしようか」 「どうするって?」 パタ、と器用に片手でケータイを閉じると、ポケットに落とし込む。ヨシュアのその一連の動作は流れるようで、こっそり見惚れた。 「このゲームを受けるか受けないかってこと」 「受けない……なんてことできるのか」 「できるよ。僕もコンポーザーだからね。理不尽なゲームを跳ね除けて、エントリー料を奪い返すくらいなら。ただ……」 言葉を途切れさせるヨシュアはやっぱり楽しそうで、こんなゲームを仕組むコンポーザーというのは根本的にゲーム好きなのかと思う。 意図的に途切れさせたのであろう言葉を、仕方なく促してやる。 「ただ?」 「僕自身、この世界の僕がどうしてこんな無茶をしてまでゲームをしようとしてるのか、興味があるんだよね。単なる好奇心なんだけど。ああ、もちろん僕の好奇心のためにネク君を危険に晒すのは僕の本意じゃないから、ネク君が嫌なら諦めるけど」 「……」 目の前のヨシュアではないヨシュアがこの世界にはいて、そいつが望むこと。 俺の知らないヨシュア。 「……俺、も……興味ある」 「そう。じゃあこのゲームは受けることにしよう」 ヨシュアは先ほどから微笑を絶やさないけれど、今の表情はどことなく喜んでいるように感じられた。ごく、ささいな変化ではあるけれど。 ヨシュアも、多少は俺に自分のことを知って欲しいと思ってくれているんだろうか。 そうだとしたら、俺のほうが嬉しい。 「それに、ゲームをひっくり返すような力を使うと、こっちの世界にどう影響が出るかわからないしね」 飄々と、とんでもないことを言い出す。 「別にこの世界にどんな影響が出ようが、ここの僕の自業自得だから構わないんだけど……この世界にもいるはずだから」 「誰が?」 さっきから話の規模が大きすぎて置いていかれそうだ。まったく、目の前の人物はやっかいな役職についていると思う。 「君だよ。この世界のネク君さ。ネク君はネク君でも、別人ではあるんだけどね……仮にも君の名前を持つ人物に影響の出る可能性のあることは、あんまりしたくないな」 言われた言葉を飲み込むのに、少し時間がかかった。 この世界のヨシュアがいるなら、たしかにこの世界の俺もいるのだろう。ただ、それは先ほどからのヨシュアの口ぶりで、どちらも別の人間だということも分かる。 それでも、そんな別の人間でも。 「俺のこと、心配してくれたのか」 「うん。別人ではあるけど、全然関係ない……とも言えないからね」 当たり前のように頷かれて、勝手に顔が熱くなる。電灯がすぐ近くにある今では、そんな変化もばれてしまいそうで顔を背けた。 「ネク君、変な顔」 「……」 しっかりとばれていたらしい。聡いこいつに、今の自分をどう誤魔化したらいいのかなんて分からなくて、苦し紛れに開きっぱなしだったケータイの画面に目を落とす。 「しかし、ノーヒントだな」 そんな俺の様子がおかしかったのか、ヨシュアはまだくすくすと笑い声をあげている。ああもう、笑うな。 「そうだね。ずいぶん制限時間に余裕があるから、園内をくまなく探せってことかな?」 「この中をか……」 公園という区切りがあるとはいえ、ここの敷地はそれなりに広大である。その上、この夜闇の中をあてどなく彷徨えというのか。 「疲れそうなミッションだね」 普段から疲れるのは嫌いだと豪語しているだけに、ヨシュアの表情はそれはもう嫌そうだ。正直、俺もげんなりしている。 と、またピリリ、というメールの着信音にはっとする。 一端待ち受け画面にもどし、Eメール一件という項目で決定ボタンを押す。 『追伸。僕の色を探してごらん』 思わずヨシュアと顔を見合わせた。 「早く会いにおいで、ってことかな?」 「自分で時間設定したくせに、ずいぶんせっかちなやつだな。しばらく待ちぼうけ食らわせてもよくないか?」 「せっかくの『僕』からのラブコールなのに、無下にしないでよ」 くすくすと楽しそうに笑いながら、ヨシュアが俺のケータイ画面を覗き込む。自分のケータイで見ればいいのに。肩が、ぶつかる。 「ふーん……僕の色、ね」 「白……とか?」 「なあに、僕のイメージカラー?」 触れたまま離れないヨシュアの体温に、距離の近さにドキドキした。 「ピンク」 「うん?」 「いや、なんでもない」 どこか違う世界から声が聞こえた気がした。ピンクって。そんなわけないだろう。 「どっちかっていうと、おまえは半透明っぽいけど」 「なんか、ネク君から見た僕はずいぶん曖昧な存在なんだねぇ」 くらげじゃないんだから、とスミレ色の瞳が悪戯に笑う。そういうつもりではなかったのだけれど。俺から見た、ヨシュア。 でも、このメールを寄越しているのは暫定ではあるけれど、もう一人のヨシュアの可能性が高い。そうなると、俺からの視点ではなく、ヨシュアの視点で考えたほうがいいんじゃないだろうか。 「ヨシュアから見て、俺は何色だと思う?」 聞いておいてなんだが、なんだか恥ずかしい質問だ。どこが恥ずかしいのかは自分でもよく分からないけど。 「ネク君? んー……青、かな」 なるほど。青はたしかに俺が好んで身の回りに配置する色だ。 「服が?」 「ううん、目の色が」 予想外の答えに驚いた。目の色。じゃあ、ヨシュアの色は。 「スミレ色だ」 「何が?」 「お前の目の色」 驚いたようにヨシュアが目を見開く。まあるい瞳の全貌が顔を出して、その目はなんだかウサギのようだといつも思う。 「スミレ色……」 そう呟くと、ヨシュアは何かを考え込むように口元に手をやり、そのゆびでくちびるを撫でる。あ、まただ。 「おまえ、それクセだよな」 「え?」 「考え事するとき、いつもくちびるいじってる」 だからどうだとか、別にやめろとか言うつもりはないのだけれど、なんとなく指摘したくなった。 んー、と少し考えるように間をおくと、こいつはとんでもないことを言いだす。 「キスしたくなっちゃう?」 「はぁ?」 あまりにも予想ナナメ上の切り返しに、思考が固まった。次いで、こいつの思うツボだと思うのに、ぼっ、と火がついたように顔が熱くなる。 「そんなわけあるか!」 「違うの? 僕のクセに気がつくくらい僕のこと見ててくれたなら、そういうことかと思ったんだけど」 フフ、と嫌味に笑うこいつは本当にタチが悪いと思う。ああ、もう、心臓がうるさい。 からかわれるのが分かっているのに、こんな反応を返してしまう自分の身体が恨めしかった。 「ネク君もあるよね、クセ」 「何がっ」 ふてくされたような声音しか出せない自分は完全に子どもで、これではヨシュアに毎度からかわれてしまうのも仕方ない。 「考え事するとき、いつも前髪いじってるでしょ」 「っ……」 言葉と共にヨシュアのゆびが俺の前髪を掬う。 「あんまり引っ張るとはげちゃうよ?」 「誰がはげるかっ」 にやにやとこちらをからかうヨシュアにそれ以上言い返せなかったのは、髪を梳くようにして離れたゆびが思いのほか優しかったからだとか、俺のクセに気がつくくらいこいつも俺のことを見ていたらしいというのが嬉しかったからだとか、ではない。断じてない。 「さて、ネク君とのお喋りのほうがこんなミッションよりずっと楽しいんだけどね。タイマーもうるさいし……話を戻そう」 嫌味な笑いをすっと引っ込めたヨシュアにならって、わたわたと動揺する自分をなんとか落ち着けた。 カチ、カチ、という耳障りなタイマーの音は、それでなくてもこちらを焦らせる。 「この公園で色を探せ、っていうのも、それだけで限られると思うんだ。ここで色とりどりのもの、なんだと思う?」 周りを見渡しても、木々の緑、土、コンクリート、色あせたベンチ……と、際立った色彩というのは見当たらない。あるとすれば。 「花?」 「正解。この公園には薔薇の園、花の小道、梅の園なんかがある。他にもいくつか、よりどりみどりだね。探す色はネク君の意見を尊重して、スミレ色と仮定しておこう」 梅、はスミレ色ではないし、季節も違う。可能性がありそうなのは種類の多い薔薇の園だが。 「薔薇、あんまり咲いてなかったよな」 「薔薇の盛りは初夏だからね。今咲いてるのは四季咲きのケアフリーワンダー、カクテルあたりかな。ピンクの花と、赤い花だね」 どちらも違う。では花の小道だろうか、と考えて違和感を感じた。色を探せ、というには。 「こんな夜じゃ、色なんてわからなくないか?」 先ほど薔薇の園を通り過ぎたときに、ぽつぽつと咲いている花を目にしたものの、暗くてその花が何色かなどわからなかった。今ヨシュアに言われて、そんな色だったのかと思ったくらいなのだから。 「いいところに気がついたね」 出来のいい生徒を褒める教師のように、ヨシュアはうれしそうだ。 「今の季節それなりに花は咲いているだろうけど、残念ながらこんな暗さじゃ色で識別するのは難しい。ということは、この出題者は今この公園を歩き回って探せ、というわけではなく、僕らの記憶しているものの中から探せ、と言っているのかもしれない」 「記憶の中からって……」 数えるほどしかこの公園に来たことのない自分には、何も心当たりなどない。 「この出題者は十中八九『僕』だからね。自分が知っているものは、僕も知っていると思ったんじゃないかな」 「知ってるのか?」 「まあ、心当たりはあるね」 自信ありげに述べるヨシュアを頼もしいと思うのが悔しいのは、日ごろのこいつの行いのせいだと思う。 「この公園には百日紅が植えられている一角があるんだけどね。赤ともピンクともいえない、キレイな花だよ。今はちょうど見ごろかもね。その数多く植えられている中で、一本だけ違う色の百日紅があるんだ」 ここまでの会話の流れで、それが何色かなんて確認するまでもない。 「後から知ったんだけど、百日紅は紅色と白色の二種類なんだって。でも、僕が見たときは紅色に混じって咲いているその色を、キレイなスミレ色だなって思ったんだよ」 それなら。 「ゲームマスターはそこにいるんだな」 「確証はないけどね」 囁かれる言葉とは裏腹に、やっぱりヨシュアの表情は自信満々だ。 「とにかく歩いてみよう。色を探せ、っていうのはあくまで追伸だから、ヒント程度にしかならないよ。万が一わからなければ自力で練り歩いて探せって、ゲームマスターさまは仰りたいわけだ」 歩き出すヨシュアの足取りは迷いがなくて、いつも面倒くさそうに俺の後ろをついてきていたゲーム中が嘘のようだ。そんなヨシュアの姿は新鮮で、いつもと違う外見にも少しだけ鼓動が高鳴る。そんなこと、絶対言ってやらないけど。 置いて行かれないように、早足で追いかけた。 「それにしても、おまえなんでそんなこと知ってるんだよ」 薔薇の種類をさらさらと上げたときも思ったけれど、この公園に詳しすぎないか。 滔々と花について述べる様子は、こいつだからこそいやに様になっていて、そう思わされたのがなんとなく腹立たしい。 「渋谷の散策が僕の趣味だからね。コンポーザーとして恥ずかしくないよう、日々努めてるのさ」 にこやかな笑顔と共に告げられた言葉は、こいつにかかるとあまりにもうさんくさかった。 →次へ |