「ネク君が起きるまで色々と試してたんだけど、どうやらケータイは通じないようだよ。メールも電話もダメ」
 ひらひらと、ストラップも何もない、そっけないオレンジのケータイを握った手が揺れる。
「お前のケータイが通じないなんて、そんなのあるのか?」
 コンポーザーなのに。
「少なくともこんな経験は今までないね」
 ここはUGで、ケータイが通じない。それでは、まるで。
 思考を遮るように、ざー、と一定で途切れない、風の声とはまた違う音が耳に届く。
 どの方向に歩いたのかはわからないけれど、さほど行かないうちにそれは木々のざわめきに紛れてしまっていたらしい、水音であることが分かった。
 本数の少ない電灯と月明かりを頼りにさらに進むと視界が開けて、ゆらゆらと光を反射する黒い水面が見える。
 いくつかの緩やかな曲線に区切られた池の中心から、夜目にもひときわ目を引く噴水がざーざーと音を立てて吹き上げていた。
 噴水の手前には木の手すりが立てられ、地面が一部板張りになっている。
 さらに進むと今度は四角く直線で区切られた三つの貯水地があって、何本も飛び出た小ぶりなパイプからささやかな噴水が作られていた。
 特徴的なこの外観は他の噴水公園でも見受けられる光景なのかは分からないけれど、俺の知っているかぎりではここは代々木公園の噴水池にしか見えない。
「この先に薔薇の園があれば、間違いなく代々木公園だね」
 そう言って、非常時とは思えぬ優雅な足取りでゆったりと歩くヨシュアの横を、何かが横切る。
 動物、の動きでは、ない。
「!」
「っ、ヨシュア!」
 俺が声を上げるよりも早く動いたヨシュアは、俺をかばうように立ちふさがると一瞬にして姿を消した。
 突然目の前にいた人物がその場で消失したように姿が見えなくなれば、誰でも呆然とすると思う。
 瞬間移動を目の当たりにしたというか。いや、たとえが悪いな。
 瞬間移動なら自分もゲーム中にバッジの力で実践したことはあるが、周りを見渡しても移動した後のヨシュアが見当たらない。先ほど横切った影も消えてしまった。
「ヨシュア?」
 不安になって呼びかけると、またしても突然目の前にヨシュアが現れる。驚きのあまり、状況を忘れて大きな声を上げそうになった。が、ぐっとこらえる。
 そんな人間離れしたワザを見せつけられると、RGの日常生活に慣れきっていた今の自分には大層心臓に悪い。
「まさか、今の姿でノイズに襲われる日が来るとは思わなかったよ」
 涼しい顔でパタン、と携帯を閉じながら放たれた言葉は、もっと心臓に悪かった。
「ノイズ?」
 ノイズって、あのノイズか?
 まあ、確かにここはUGだからノイズなんてわんさかいるだろう。でもこいつと一緒だからと、俺も安心しきってしまっていた。
「コンポーザーに襲い掛かるなんて、随分度胸の据わったノイズだな……」
 思わず口をついて出たのは忌憚のない、率直な感想だったのだが、なぜか目の前のこいつには笑われた。
「そうだね。ずいぶん行儀の悪い、躾の行き届いてないノイズだ」
 冗談交じりに囁きながら、ヨシュアの目は笑っていない。
 ノイズは普通、野良にしろ死神作にしろ、死神を襲わないものである。ましてや相手はコンポーザーだ、通常のノイズなら裸足で逃げ出すだろうと思う。
 例外は禁断ノイズだが……
「ごく普通の、よく見るカラフルな子だったね」
 予想通りの言葉にほっと息をつく。まあ、禁断ノイズ精製は相当な重罪らしいから、早々お目にかからないだろう。
 ということは。
「僕たちは参加者、っていうことかな?」
 言われた言葉に、今ついた一息を取り戻したくなった。
「どうやらこれは、誰かさんのゲームみたいだね」


「ゲーム?」
 ざわめく木々の音と、主張を繰り返す噴水の水音が不安を煽る。でもそんな中でも、ヨシュアの声は掻き消えず凛と響いた。
「うん、そうじゃなきゃ僕がノイズに襲われるなんて考えられない」
 そう言われればそうだ。コンポーザーは、この渋谷の最高権力者なのだから。その辺のヒラ死神すら襲わないノイズが、こいつに手を出すとは思えない。
 以前のゲームの際、参加者として俺のパートナーだったこいつが普通にノイズと戦っていたことを考えると、たとえコンポーザーでも参加者として認定されていればノイズにとっては関係ないようだ。
 でも。
「おまえの知らないゲームが開催されるなんて、そんなのあるのか?」
「うーん……」
 その上、こいつが巻き込まれるなんて。それはあまりにも理解に苦しむ。
 ヨシュアもまだ状況を把握しきっていないようで、考え込むように腕を組んで、口元に当てた手でくちびるを撫でた。こいつのいつものクセだ。
「まあそれはひとまず置いといて、ネク君、契約しよう」
「え?」
 考え込んでいた表情をくるっと一転させて言われた言葉に驚く。ずいぶん懐かしい言葉を聞いた。
「契約?」
「そ。さっきの子を相手したときだけどね、どうやら今の僕はうまく影が作れないみたいなんだ」
「かげ……」
「死神は一人でもノイズを消滅させることができる。自分の影を作れるから、二つの空間に同時に存在するノイズを相手にできるのさ。けど、今の僕は参加者みたいだからね、それができないみたい。さっきはたまたま一瞬だけ影が作れたけど、すぐに消えてしまった。次はたぶん無理だと思うよ」
 今日はやけに難しい話が多い。でも、それは普段知り得る機会のない、死神としてのヨシュアの側面を知ることができるということでもあって、不謹慎ながら俺には嬉しいことだ。
「今の僕に君を守れるとは言いきれないし、ネク君も自分の身は自分で守れたほうがいいでしょ? 契約してない参加者は、野良ノイズにも狙われて面倒だしね。だから、契約しよう」
 まっすぐな声音で言われた言葉はまるでプロポーズとでも錯覚してしまいそうなほど真摯で、勝手に耳が熱くなった。馬鹿か俺は、こんなときに!
 以前のゲームの際、ヨシュアは俺の承諾など関係なしに無理矢理契約を結んだ。双方の了解を得ない契約と言うのは、コンポーザーだからこそできた荒業だったのだと思う。
 そんなヨシュアが、今は俺の返事を待っている。ああ、ヨシュアも変わったんだな、と思うと、その変化は俺にとって嬉しい以外の何ものでもなかった。
「わかった」
 そんなヨシュアに応えるようにまっすぐな視線で返事をすると、目の前の表情は嬉しそうに破願した。
「ありがとう。じゃあ、目閉じて」
 言われるままにまぶたを閉じると、ひやり、と冷たい感触が額に触れる。ヨシュアの手だ。
 ふ、と身体が浮いたように感じると同時に、とても言葉では言い表せないような感覚に包まれる。
しいて言うなら、身も心もすべてがヨシュアと重なったような、とでもしておこうか。そのあまりの心地よさに、得体の知れない声が漏れそうになった。
 そんな時間も一瞬で過ぎて、ヨシュアの冷たい手が離れる。
「契約完了、だね」
「……ん」
 久しぶりの契約に、こんな感覚だっただろうかとなぜか鼓動が早くなった。火照る顔が熱い。
 もう身体のどこもヨシュアとは触れていないのに、どこかで繋がっているような感覚が残って、気恥ずかしかった。
 ヨシュアも俺と同じように感じているのだろうかと思って様子を伺っても、涼しい顔に感情が読めない。
「あと、ネク君にはバッジが必要だよね……んー、急ごしらえだから、ろくなの持ってないんだけど……」
 そう言ってヨシュアはポケットを探ると、出てきた二つのバッジを渡してくれた。衝撃波で敵を切りつけるタイプのものと、パイロキネシスのバッジである。最初に参加者に配られるバッジの名残のようだ。
 参加者バッジもくれないなんてケチなゲームマスターだね、とヨシュアは笑う。
「この先は薔薇の園みたいだね。やっぱりここは代々木公園で間違いなさそうだよ」
 続けられる言葉はどこまでも冷静で、自分ばかりが振り回されている気分になった。
「ネク君、渋谷門のほうに行ってみよう。少し気になることがあるんだ」
 歩き出すヨシュアに、少ない電灯の頼りない光の中では、火照った顔もばれずに済みそうだ。辺りを覆う暗闇に、今ばかりは少し感謝した。



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