「ヨシュアがいなくなった」 それは俺がせかいで一番聞きたくなかった言葉だ。 ヨシュアと最後に会ってからふた月近くになろうとしていた日の夜。羽狛さんからかかってきた電話は俺にとって死刑宣告よりもタチの悪いものだった。 「さっきまではたしかにどっかにいたんだが、引っ掛からなくなった。少なくともこの世界にはいない」 「い、ない」 「消滅したのかと思ったんだが」 思わず携帯を叩き割りそうになった。ぎし、と握りしめた機械が嫌な音を立てる。 「相手してたはずのヤツの気配も一緒に消えた。相討ちか、それとも」 もうとても聞いていられなくて、今度こそ携帯を叩きつける勢いで通話を切った。ごめん、羽狛さん。 靴をつっかけて、玄関を飛び出す。どこに、なんて頭はなかった。ただ、じっとしていたらそれだけで叫びだしてしまいそうだったから。 気が付くと駅を通り過ぎて西口バスターミナルで人にぶつかりながら、ガード下に来ていた。 辺りは暗く、車の音やホームレスの寝息だけが聞こえる。でもそんなものは右から左へ通り過ぎて行くだけで、ただ呆然と目の前の壁を見つめていた。 見覚えのある蜂の巣模様。うっすらと浮かぶそれは、それでも進行を妨げるものではない。手を伸ばせば簡単に、そこには何もなかったようにゆびが通り抜ける。でもそれはRGで、の話だ。この先にはただオフィス街があるだけの。 渋谷川への道が閉ざされている。きっとこの壁は通常なら見えないはずなのだろうけれど、俺には見えた。これではUGに行くことすらできない。 ヨシュアはゲーム中ずっと俺をUGから遠ざけていた。来てはいけないと強く言い含められていたから、こんな状態であることを初めて知った。ヨシュアは俺を近づけまいと思ったら、手を抜いたりしないのだ。 でも今は、そんなヨシュアの優しさが辛かった。 「バ、カヨシュア……」 これではもう、俺はどこに行っていいのかわからない。ヨシュアがいるであろう場所なんて、他に知らないのだから。 この世界にいないと言った羽狛さんの言葉が今更頭に響く。 嘘だ。そんなせかい、俺は知らない。 でも羽狛さんは天使で、俺よりこの世界のこと知ってて。コンポーザーが替わることは世界が変わることだという。今この世界はもう変わってしまったんだろうか。俺の、知らないせかいなんだろうか。俺はここにいるのに。 「よしゅあ」 手の中で何かが震える。のろのろと目をやると、携帯を握りしめたままだったようだ。羽狛さんだろうか。これ以上何か悪い知らせだったなら、俺はこの携帯をコンクリートに叩きつけずにいられる自信がない。 どっちつかずの思いで、携帯を開く。暗闇の中で浮かび上がる液晶画面。見慣れない番号。 ヨシュア。 考えるよりも先に、ゆびが通話ボタンを押していた。 「もしもし?」 喉が渇いて、掠れた小さな声しか出ない。本当は腹の底から怒鳴り付けたかったのに。 『ネク君?』 ヨシュアの声だ。聞き間違えたりなんかしない、ヨシュアだけの声だ。もうそれだけで、その場に座り込んでしまいそうだった。安堵と、不安と、焦りで、何を言っていいのか分からない。 「おま、今どこに」 『んー……もう少し右かな』 「は……」 何言ってるんだ。 『今、ちょっと……動けない、から』 ざざ、と音声が乱れる。どこにいるんだろう。 後ろに一歩、右に二歩。何を言われているのか半分も分からなかったけれど、身体はヨシュアの言葉のままに動いた。それ以外に俺とヨシュアを繋いでくれそうなものなんて他になかったから。 『そう、そこ』 ブツッと通話が切れる。同時に、強い力で腕を引っ張られた。 気付けば膝をついたすぐそばに、ヨシュアが横たわっていた。強く腕を掴んでいた手は嘘のようにするりとほどけて床に落ちる。反対側に、放り出されたオレンジの携帯。何もない空間に冷たい床が広がっている。 「よ、しゅあ」 ヨシュアだ。薄暗い中で浮かび上がる淡い髪も、清潔さを感じさせる白いシャツも、ふた月ぶりに見る俺の知っているヨシュアだ。けど。 「ごめん、ね」 床にばらけた髪と、掠れた声。元々白い肌が青白く見えるのは、光が足りないせいなんかじゃない。 「ちょっと、ヘマしちゃって」 「どっか……痛いのか?」 は、と吐き出される息に背筋が寒くなる。 「ん……少し、膝、貸してくれる?」 何か言いたいのに、何も言葉が出てこない。ただ見上げてくる瞳が霞んで見えるのが気になって、慌ててその場に腰を下ろした。這うように身を寄せるヨシュアが俺の膝に頭を乗せるのを手伝いながら、信じられない思いで見つめる。 こんなヨシュア、見たことない。俺はどうしたらいいんだろう。 「さすがに、床よりは……ネク君の膝の方、が、やわらかい、ね」 ふふ、と力なく笑うヨシュアの憎まれ口に、何も返せる言葉が見つからない。普段なら、きっと痩せぎすの俺の身体を揶揄っているだろうことに、文句のひとつも言えたのに。ただどうしていいのか分からないまま、ヨシュアの頬に伸ばした自分の手が震えていることに気づいた。 「ヨシュア、喋らなくていいから」 どのくらい痛いんだろう。どこを怪我したんだろう。血が出ているわけでも、どこかをかばっているわけでもない。 「一応、最終的には……仕留めたと、思うんだけど」 「ヨシュア」 「こんな状態で、帰れないでしょ」 でも、青白い肌は冷たいのに汗ばんでて。 「けどネク君、来てくれた、から」 ヨシュア、苦しそうで! 「ヨシュア!」 細く吐き出される息も掠れた声も、とても聞いていられない。 「もうしゃべるなっ……頼むから……!」 気づけば俺の口から漏れだした声は涙声だった。 「ネク君、泣かないで」 喋るなって言うのに! 「泣いてないっ」 「大丈夫、だから」 「何がだよ!」 喉の奥から無理矢理ひねりだした声はもはや誤魔化せないほどにひび割れていて、情けない水滴がぱたぱたとヨシュアの頬に落ちる。 「今、治してるから……そんな顔、しなくて、いいんだよ」 じゃあどんな顔しろって言うんだ。 ヨシュアの額に貼り付く前髪を引き剥がしたゆびはやっぱり情けないほどに震えていて、俺の落とした水滴が伝う頬を拭うことしかできない。 「ねくくん」 「しゃべるな、って、言ってるだろ」 治していると言うヨシュアの言葉が嘘か本当かは分からない。けど、嘘でも本当でも、何もできない自分が心底憎かった。目の前にヨシュアはいるのに。こうして、触れているのに。どうして何もできない俺がここにいるんだろう。 他の死神なら。羽狛さんなら。あの、指揮者なら。 「ふふ……なんか、ネク君がいてくれる、と……安心、しちゃって」 きっと、少なくとも俺がいるよりもヨシュアの苦しみを取り除いてやれるのに。 「ヨシュア」 「うん」 「ヨシュア……」 「っ、ネク君」 ヨシュアが苦しそうに眉をひそめる。ただ、その額を撫でるしかできなくて、もう片方の手はぐったりと床をさまようヨシュアの手のひらを探した。 ぎゅ、とゆびを絡めて、その冷たさに泣きそうになる。俺の体温でいいなら、いくらでもヨシュアにやるから。 「大丈夫、死んだりしないよ」 もう死んでるし、という言葉は全然笑えなくて、ヨシュアのユーモアセンスのなさにまた涙がこぼれた。 「ネク君」 もう俺は絡まる喉に言葉もつむげないのに、どうしてヨシュアはその喉を震わせるのをやめてくれないんだろう。 「ねくくん、が」 俺は、何もできないけど。ヨシュアの住む次元に、手も届かないかもしれないけど。 「ネク君がいてくれて、よかった」 ヨシュアがそう言ってくれるのなら。 この冷たい手を握る役目を、俺は絶対誰にも譲り渡したりしないから。 →次へ |