その日はなんでもない一日で、いつも通りの週末で、いつも通りにヨシュアが俺の部屋を訪れた。ただ、そのときヨシュアに言われた言葉だけがいつも通りではなくて、だからこそ余計に浮いて聞こえたのかもしれない。
「一ヶ月?」
 ヨシュアの薄いくちびるから放たれた言葉はあまり歓迎できるものではなくて、思わずおうむ返しが口をつく。
「うん。たぶんそのくらいかな、しばらく来られなくなるよ」
 もしかしたらもっと延びるかもしれないけど、という言葉もやっぱり聞きたいものではなくて、でもそんなのは俺の都合でしかない。ヨシュアが俺に会うために多少なりとも無理をしていることは知っているから、努めて何でもないような声で問いかける。
「ゲームか?」
「うん、色々準備とか後始末とかあるから。今回はいつもより人数が多くてさ、少し面倒なんだよね」
 ヨシュアも俺と同じように努めているのか、それとも本当にヨシュアにとってはなんでもないことなのか分からないけれど、滑らかに紡がれる声は飄々としていて、いつも通りである。
 コイツが週末に俺の部屋を訪れるようになってしばらく経つけれど、一ヶ月も空くのは初めてだ。毎週会えるわけではないけれど、それでも今まで月に二回はちゃんと会っていた。
 それがどれだけヨシュアに無理をさせているのかなんて、残念ながら俺には想像することしかできない。けれど、それでも俺に会いたいと言ってくれるヨシュアを俺は信じているし、会えて嬉しいのは俺も同じなのだ。
 だから、ヨシュアに会えない一ヶ月というものがどのくらいなのかそのときの俺には分からなくて、どこか遠くの出来事のように感じた。
「そ、か」
 なんと答えていいのか分からなくて、声が喉に引っ掛かる。
 でも、こうして会えるようになるまで俺はコイツに一ヶ月どころでなく待たされていたのだから、それに比べたら何でもないことなのかもしれなかった。一ヶ月、いっかげつ。
 うん、日曜日が四回来たらもう一ヶ月だ。大丈夫、大丈夫。
「分かった。おまえが来ないなら、しばらくはもう休日に寝不足にならないな」
 口をついた憎まれ口は強がりでもあったけれど、それだけじゃなくて、俺はただ本当に分かっていなかっただけなのだ。ヨシュアがいないということが、どういうことなのか。
「ふふ、そうだね。いっぱい寝られるよ」
 それでもヨシュアは笑ってくれて、そのスミレ色の瞳も柔らかな声もやっぱり優しかった。
「死なない程度にがんばれよ」
「もう死んでるから心配しないで」
 俺には笑えない冗談でくすくすと笑うヨシュアの、絡めたゆびをすこしだけ強く握ると、どちらからともなく顔を寄せる。
「来週からは好きなだけ寝られるから、明日の寝不足は我慢してね」
 そう言って押し倒す最後まで俺をからかう声音で、ヨシュアは優しくキスをくれた。


 俺はヨシュアにがんばれと言ったけれど、ヨシュアの仕事はゲームの参加者、死神の双方に試練を与えることだ。
 ゲームが開催されればどちらにも必ず消滅するやつが出るし、参加者に至っては生きのこること自体が難しい。
 そんなゲームを主催するコンポーザーという存在を、確かに俺は憎んでいたはずだ。そのときには知らなかったものの、最低のゲームだと本人に言ったこともある。なのに、俺はもうそいつを以前のように罵れなくなっていた。それどころか、今はヨシュアの無事を祈ってすらいるのだから、自分でも笑ってしまう。あのゲームに無理矢理引き込まれて、散々振り回された記憶は確かなのに。
 あのとき確かに感じていた怒りに、今はもうリアリティがもてない。二回目にヨシュアに殺されたあのときから、以前の俺は幻になってしまったのだろうか。
 実際にミッションを出すのはゲームマスターを任じられた幹部のやつらだし、コンポーザーが参加者に直接手を下すようなこともめったにない。それでもコンポーザーは常に狙われる立場である以上、今回の参加者にそういったヨシュアの命を狙うヤツがいないなんて言いきれなかった。
「アイツがそんな簡単にやられるとは思わないけど」
 呟きは部屋の中で無造作に散らばっては消えていくばかりで、誰も拾ってなんてくれないのは分かっている。
 こうしている間にも一人、また一人と、参加者の存在が抹消されているかもしれない。あるいは消えたのは死神かもしれない。
 自分の存在をかけたゲームで必死に駆け回る立場に俺もいたはずなのに、それでも思うのはヨシュアのことばかりで、無事を祈るのもヨシュアのことだけだった。
 ヨシュアがいなくなれば、少なくとも倒したその一人は消滅を免れるのかもしれない。あるいは、そいつが誰一人消滅することのないゲームを作るかもしれない。
 けれど、俺にはヨシュアがいなくなることなど考えられなくて、現在の死神のゲームというヨシュアの信念が消えることにきっと耐えられないだろう。
 罪深いことだな、と思う。
 けれども、俺のせかいはヨシュアのいる世界だし、ヨシュアがいなくなることは俺にとってせかいの崩壊と同義にちがいないのだ。


 最初の一週間はいつも通りだった。
 いつものように学校に行って、バイトに顔を出して、家で寝るの繰り返し。シーツに残っていたヨシュアの匂いが洗濯されて消えてしまうのもいつも通りで、ふとした瞬間にヨシュアに思いを馳せるのも同じ。
 ただ週末に、今日は来るだろうか、来ないだろうか、という葛藤をすることもなく会えないことが確定しているのはとても寂しいものだ。
 二週間目はなぜかあまりヨシュアのことを考えることもなく過ごして、ともすればこのまま日常の中に埋もれて忘れ去ってしまうのではないかと思った。思い返しただけで会いたくなってしまうから、なるべくヨシュアのことは考えないようにして、やりすごそうとしていたのかもしれない。
 それでも、忘れることは、俺が何よりも恐れていることだ。最初のゲームで記憶がないために不安を抱いたまま過ごしたことを思い出す。それに何より、ヨシュアと俺では生きている時間の長さが違う。日々変化していく俺と、変わらないヨシュア。そのために、ゲームの後会わないことでヨシュアは俺に自分のことを忘れさせようとしていた。残念ながら、俺のヨシュアに対する感情は募る一方で、忘れようがなかったのだけれど。
 ヨシュアのその望みだけは、絶対に一生叶えたくないと思う。記憶は俺を形作るもので、俺自身だ。失くしてしまえば、それはきっと俺じゃない。ヨシュアのことを忘れた俺などもはや俺とは違う生き物に違いないのだから。
 そんな俺に警鐘を鳴らすかのように、三週間経つとヨシュアのことを夢に見るようになった。具体的な内容はなく、ただ俺にヨシュアを思い出させるだけの夢だ。
 忘れることなど許さないと俺自身が言っているかのようで、そんな自分につい笑ってしまいそうになる。けれど会えない中そうしてヨシュアの存在を思いだすことで、余計にヨシュアに会いたくなって困ってしまった。夢に見るヨシュアはいつも通りで、優しくて、抱き締められた感触すら思い出せる。なのに起きてしまえばやっぱり一人で、いつ会えるのかも分からず冷たいシーツの上でまた眠りにつくのはさすがにきつかった。
 そんな中でようやく残り一週間を切ると、もうすぐ会えるかもしれないという期待にますます日常生活が上の空になった。学校の授業や友人の話ですら集中できないのは自分でもどうかと思う。それでも早くヨシュアに会いたくて、あのスミレ色の瞳が恋しくてたまらなかった。ヨシュアの穏やかな声を思い出すだけで、その腕の温かさを思うだけで胸が苦しくなる。
 でも、最後の日からひと月経ってもヨシュアは姿を現さなかった。

「もしかしたら延びるかもしれないって言ってたし」
 そう一人ごちてみても、こんな狭い部屋の中ですら響くことなく消え去ってしまうくらい、俺の声は無力なのである。
 こんなの強がりだ。ヨシュアは明確に決まっていること以外はやたらと口にするやつじゃない。一ヶ月、と具体的な時間を口にした以上、当初の予定はきっと本当に一ヶ月だったのだ。
 だとすると、何かイレギュラーな事態が起きたのだと考えざるをえない。そんなの、想像したくもなかったけど。もしかしたら、とヨシュアは言っていた。その、ヨシュア自身もあまり歓迎してはいなかったのだろう、もしかしたらが起きたのだ。
 ベッドの上で抱き締めた枕を握ると、ぎゅ、と小さく悲鳴が上がる。こんな無機質なかたまりではあいつの代わりになんてなりようがなくて、でもそれ以外に俺の腕の中の空間を埋めてくれるものはなかった。
 ヨシュアの代わりなんて、世界のどこを探したっていやしないのだ。俺が抱き締めたいのはヨシュアだけだし、ヨシュアが抱き締めるのも俺だけであって欲しい……というのは俺の願望だけれど。
「ヨシュア……」
 勝手に口から零れた声が泣きそうだなんて認めたくない。
 普段からそんなに頻繁に会っているわけではないし、一週間も一ヶ月もさほど変わらないものだと思っていた。なのに、今は胸が苦しくてたまらない。ヨシュアと俺の間に入り込んだ空白が大きくなれば大きくなるほど、不安や懸念ばかりが増えていく。
 生きのこったやつがいたんだろうか。ヨシュアが相手してるのかな。怪我なんてしてはいないだろうか。ちゃんとゴハン食べてるのかな。今ごろ誰かと戦ってるんだろうか。誰かの存在を、消してるんだろうか。俺のこと、忘れてたりしないかな。ああもう、なんで俺がこんなこと考えないといけないんだ!
 ぱか、と手持ち無沙汰にケータイを開く。つい最近買い換えたから、ゲームのあと壊れてしまった接続部が引っかかることもない。いつもの待ち受け画面。時刻は二十三時五十分。いつもならヨシュアがくる時間だ。なのにいつもヨシュアが出入りする窓が開くことはないし、その脇のカーテンも身じろぎひとつしてはくれない。
 ヨシュアはメールがあまり好きではないから、このケータイにあいつの名前が表示されることは滅多にない。かといって電話はしてくるのか、といえばまったくそんなこともなかった。むしろメールはほんのたまに、あいつが気まぐれを起こしたときだけ寄越すことがあるけれど、電話は一度としてかかってきた記憶がない。声を聞くと会いたくなるから、というわけのわからない恥ずかしい理由でかけてこないらしく、そんな風に言われると俺からかけることも躊躇ってしまうから、この中にヨシュアの番号とアドレスが入っている意味を考えるとつい疑問に思ってしまう。
 開いたまま何の操作もしない俺に焦れたように、画面の照明がふっと消えた。特に意味があってケータイを開いたわけではないし、ケータイからしても俺に用なんてないのだろう。来るはずのないメールを思いながら、のろのろとその役立たずの機械を閉じた。ヨシュアとつながってないケータイなんて意味がない。
「はあ」
 ヨシュアがいなくなってから独り言が増えた。抱き枕がないと寝られなくなった。それでもなかなか寝付けなくて、睡眠時間が減った。ヨシュアがいなければいっぱい寝られるなんて嘘だ。どっちにしろ寝られないのなら、ヨシュアがいてくれたほうがずっといい。
 生活の全部があいつに振り回されていることに思わずため息が出てしまう。けれど、俺はそれが嫌じゃないのだ。嫌じゃないから、困る。
 このまま寝転がっていてもいっこうに睡魔が訪れる気配はなかったから、勉強でもしようかと起き上がった。ヨシュアのことばかり考えて、授業に集中できずに成績が下がったなんて言ったらあいつに笑われてしまう。とりあえず明日の予習。
「はあ……」
 本日何回目かも分からないため息がシャーペンの軸を滑って、ノートの上にこぼれる。
 何をしていても頭の中はヨシュアのことばかりで、頭がおかしくなりそうだ。いい加減にして欲しい。それでもやっぱり、どうしても、ヨシュアに会いたい。
 物言わぬそれに罪はないけれど、八つ当たりに細い罫線をにらみつけた。早く会いにこいよ、ばか。



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