ノートの文字が薄っすらと霞んで見えて、握っていたペンを一度机の上に置き直す。
 空いた手で重い瞼をこするついでに顔を上げると、時計の文字盤がぼんやりとランプの明かりに照らされているのが見えた。針はそろそろ、一階の食堂が酔っ払いたちの巣窟になりそうな辺りまで差し掛かりつつある。眠りが早いレグリュエルには、少しばかり辛い時刻だ。
 もうそろそろ片づけをはじめないとと思って、開いたままの日記や帳簿に手を伸ばす。
 同行者が帰ってくる気配はなかったが、この時間になればもう帰りはそう遅くはないだろう。
 どんなに遅くなると言っても、サキの『食事』が人間のコミュニケーションに発端する以上、出歩く時間には自然と限りが生まれる。『喜び』と言う感情を食すサキにとってトラブルと言うのはあまり良い要素ではないらしく、ましてや、深夜に出歩く人間など数も柄も大体が推して知れる。特に、次から次へ世界を渡り歩く冒険者のような真似事をしていれば、夜はトラブルの火種の温床だ。
 驚いたことに、サキの日課は朝は早くに起きだして、店の準備をする人たちから簡単な手伝いを請け負ったり朝の早い老人たちに簡単な神聖術をかけたりしながら喜びを集めることなのだ。
 サキ自身が眠りを必要としなくても、街中に足を踏み入れれば自然と、生活の時間を人間に合わせた方が何かと合理的に片がつく。ましてや、行動の根底が基本『効率的に人間の喜びを食う』の一点で説明できるサキのことだ。食事の実りが薄くなれば、さっさと引き揚げて休息時間に入るのは当たり前と言えば当たり前のことだった(眠りこそ必要はないが、あれでも一応、脳や身体を休める休息のようなものは必要らしい。まるで機械のメンテナンスか何かの話のようだとレグリュエルは思う)
 街に入って早々、宿の手続きだけ済ませるとさっさと姿をくらましてしまったから、今日はそれなりに腹を膨らませて帰ってくるのかもしれない。
 相変わらず食欲の権化のように欲求に素直な男だと思うが、考えてみればそれもそうだろう。食欲に対して欲求がひねくれている人間なんて、そう多くはいないはずだ。
 インク式のペンに蓋をして、何冊か出してあったノートをまとめてから鞄に戻す。旅暮らしも長いと荷物も必要最低限のものに絞られてくるし、準備も片付けも癖のように染みつくからそんなに多くの時間はかからなくなってくる。
 後はランプを消すばかりと言う所で椅子から立ち上がると、部屋の窓のカーテンをそっとめくり上げて、窓の外の景色を覗きこんだ。街灯と夜の店の明かりが夜闇に浮かびあがってきらきらと輝いていたが、その抽象的な光景から人の流れを読み取ることは難しい。今日は人の出の多い夜なのだろうか、それとも、静かな夜なのだろうか。
 待っている時間は長く感じるけれど、それは大した問題でもなかった。人間にとっては貴重な時間かもしれなくても、レグリュエルに取っては些細な時間だ。長い時間を生きるレグリュエルは誰かを待つことに慣れていたし、待つために使った時間を惜しむこともなかった。
 実をいえば、今でも「人間」を待つのはあまり得意ではない。人間は自分たちと違って、簡単に死んでしまう生き物だ。自分はどれだけ時間がかかろうとも相手を待ち続けることができるけれど、どんなに自分が待っていようとも、人間の方が帰ってこられなくなってしまえばそれまでだ。
 どんなに「この人が死ぬはずない」と思えるような相手でも、いなくなるときは本当に簡単に人間は目の前から去っていく。唯一、先生と呼んでいたあの男が死んだとき、レグリュエルはそのことを否応なく実感させられた。
 そういう意味で、サキを待つのは気楽だった。
 どれだけ待たされてもサキは必ず、別れた時と寸分たがわない、同じ姿でレグリュエルの前に現れる。
 今もそうだ。
 突如とした開いた部屋のドアから宿の廊下を照らす明かりが差し込んで、一瞬、部屋の中がまばゆく照らし出される。
「おや、まだ起きていたのですね」
 宿の中は様々な人間の生活音に溢れていてあまり耳が利かないせいか、完全に足音を聞き逃していたらしい。差し込んでくる廊下の明かりに、レグリュエルは驚きで目を真ん丸と瞠りながら振り返る。
 ドアから顔を覗かせて入って来たのは、いつも通り穏やかでどこか食えない笑みを浮かべたサキだった。
「先に寝ていて構わなかったのですが……」
「……別に、お前を待って起きてた訳じゃない。今日の分の記帳を終わらせたかっただけだから」
 まだ驚きで目に動揺の色が残った状態のまま、ふいっと視線をそらしてレグリュエルが再び窓の方へと顔を向ける。
 待っていたわけではない、と言うのは本音だ。ただ今日の分の帳簿や日記を終わらせてしまいたかっただけで、そこに他意などない。
 そもそも、サキが「帰って来るときに誰かに出迎えて欲しい」だなんて人間的な考えとは無縁の人間であることを、レグリュエルは嫌というほど熟知している。
 サキは案山子と一緒だ。人間のために作られ、人間のフリをして人間の役には立つけれど、決して人間ではない。案山子に必死になって話しかけた所で、答えが返ってくるはずもない。
 部屋に入ってくるサキの様子を、窓を見つめるふりをして横目で少しだけ伺ってみる。
 何に使ったのか、持ち歩いていたらしい神学の本を宿に備え付けの机の上に載せる表情はいつもの笑顔にくらべてどこか、目元が満足げに見えた気がして何となく、ああ、今日は満腹なんだろうなぁとレグリュエルは直感した。あの本も恐らく、聖職者らしい装いに真実味を出すのに使ったのだろう。それとも、錬金術は医学や占星術の他に神学とも関わりが深いと聞くから、その線もあるのかもしれない。実際問題、サキの学識の深さはそこらの学者など裸足で逃げ出すレベルだ。
 不思議だな、と思う。
 神学では他の生き物を殺して食べることを生まれ持った罪として教えるらしいけれど、サキとその兄弟たちは誰の命を奪うこともなく食事をする。無論、人間と同じようなものを食べることは可能だが、それは機能としてそういうことが可能であるというだけであり、結局はそれも突き詰めれば「食事や食材に『込められた感情』を食べている」だけなのだ。
「……その様子だと、今日の食事は上手くいったんだな。……食べ過ぎたり、変なことして怪しまれたり騙したりはしてないよな? そういうのは、絶対にダメだって」
 サキの食事は、他人の喜びを奪うことで成り立つ。それが命を奪って生きながらえる自分たちの仕組みなどより余程、生き物として優れているのかもしれないと思ってはいても、他人の喜びを守るのが仕事だったレグリュエルにとって、サキの食事はどうしても受け入れ難い抵抗の残る行為ではあった。
 ましてや、情報収集ユニットとして造られたホムンクルスであるサキには人間としての倫理や道徳、常識と言ったものへの意識が薄い。目的の達成に対して合理的であり効率的であり、それが必要だと言う判断さえくだせば、傍から見ていて驚くほど人でなしじみた思考を平気で実行しかける。
 分別を失って一人の人間から喜びを奪い尽くせば、人間一人が簡単に廃人になるだけの力がサキには存在するのだ。喜びを失ったものは生きる意味を、悲しみを失ったものは優しさを、和やかさを失ったものは協調性を、怒りを失ったものは活力をそれぞれに見失う。
 それだけは何としても避けなければならない。犠牲になる人間を生み出さないためにも、化け物としてサキが人間に追われるのを回避するためにも、だ。
「なんだか、子供にでも言い聞かせるような言葉ですね。心配しなくても、下手なことをして厄介ごとを招く方があとあと我が身を不利にすることくらいは心得ていますよ」
 いつもの笑顔のまま、不思議そうにサキが首を傾げる。レグリュエルの曇った表情が何かしらの懸念に起因することをくみ取ったのだろう、まるで猫が仕留めた鼠の大きさを自慢するかのようにぴんと指を一本立てて、にこにことサキは笑って言葉を継ぎ足した。
「素敵にボロい商談でした」
「……せめてもうちょっと色々と包み隠せよ、お前……」
 少なくとも、先ほどまで神学の本を抱えていた男の言う言葉ではないだろう。
 距離を取って外から眺めている分にはどこに出しても申し分ない、品行方正な聖職者だと言うのに、どうしてかこう、端々から綻びのように滲み出る化け物としての本性が隠し切れないのか。長い付き合いになるレグリュエルの密かな頭痛の種の一つがこれだ。
 果たして、こんなことを平然と口にするサキが一体どんな顔でこの本を人々の前で開いて見せるのだろうと興味を惹かれて、レグリュエルは恐る恐ると言うように窓のカーテンを締め直すと机に向かって歩み寄る。当のサキはと言えば、とっくに帽子と外套を脱ぎ終えて部屋のポールスタンドに預けているところだった。
 分厚い革で作られた大判の、端が金属で補強されている本の表紙を開く。中には細かな字でぎっしりと詰め込まれた文章と、所々に挟み込まれる宗教画の挿絵が見て取れた。
 なるほど、あの人形のように整った秀麗さで聖職者の衣に袖を通し、もっともらしい顔でこんな本を開かれたら、確かにそれだけで不思議な説得力を感じてしまうかも知れないと一瞬、サキの中身を嫌というほど知っているはずのレグリュエルですらそう思いかけるだけのものがあった。
 悪魔は人を騙して取り入るために天使のように美しい顔をしていると言うけれど、サキの優美な面立ちはそのためにあるのかも知れないな、と思うと納得できるような気もする。
 だが同時に、それでも、サキのあの人形じみた静かな微笑みの後ろに地獄の炎が広がる光景がどうしても上手く想像できなくて、レグリュエルは一度だけ困ったように自嘲じみた笑みを浮かべた。サキならきっと、天使だろうが悪魔だろうが神様だろうが欺けるに違いない。
 いくつかページをめくって見ると、ウサギや動物の乗った船が焼け落ちる、地獄絵図と思しき宗教画のページが見えた。
 レグリュエルはさして神学に詳しい訳ではなかったけれど、自分はきっと、地獄に落ちるだろうなと言う自覚はある。
 思い返してみても、あまり褒められた人生を送った覚えはない。それどころか、自分が先生に拾われてからこの方、あまりにも多くの人を死なせてしまったような気がする。先生も、隣の店に住んでいたおばさんも、はす向かいのバーの姉さんも、情報屋のトニーも、みんなとても良い人たちばかりだった。あんな、何の罪もなく巻き込まれて死んでいくような死に方をしていい人たちではなかった。
 あの人たちを死なせてしまった自分はきっと、とてもではないけれど天国に召し上げてはもらえないのだろう。何年先になるかも分からない話ではあるのだが、この男に連れられて歩いていけば、どんなに遠くてもいつかは必ずやってくる未来だ。
 ふと、この男は自分を地獄に突き落とすときもこんな風にいつも変わらない笑顔のままなんだろうかと本を閉じて顔を上げると、探していた姿は意外なほど近くにいた。
 あまり足音や気配のしない、独特の足取りで近づいてくるサキがぴたりと隣で足を止めると、普段は見上げる位置にあるその顔が、レグリュエルの顔を覗き込んで来るかのように近くなる。
 予想しなかった行動に、ぽかんと口を開けて呆然とするレグリュエルの間抜け面をいつもと同じ笑顔で眺めながら、サキがマイペースに口を開く。
「顔色が少し悪いですね、少し疲れが出たんでしょうか? 下で宿の主人にお茶を頂いて来ましょうか」
「え、あ、」
 いいよ、とレグリュエルが断りの言葉を口にするよりも、サキが踵を返す方が早かった。背を向けてドアの向こうへと歩き去ってしまったその背中を、レグリュエルはただ見送ることしかできない。
 ぱたん、と閉まったドアに廊下の光が遮られて、部屋の中は再びランプの薄明かりに照らされるだけになった。どうすればいいのか、ただただ立ち尽くすだけのレグリュエルを置いて足音が雑音の中に紛れて消える。訳もなく身体中から力が抜けて、そのまま近い方の寝台の上に腰かけるとぺたん、と傾れ込むように横になる。
 もう五十年は一緒に旅をしているんだろうか。
 単にこの行為が「同行者に体調を崩されると自分の目的・行動完遂に差し支える」と言う、ひどく合理的な思考の元に導き出されているだけなのだと、レグリュエルはもう随分と昔に思い知っているはずだった。
 意識も自我も、確かに存在する。サキを作った教授は確かにそう明言していた。ただ、そこから綺麗に感情だけが抜け落ちている。彼らは自分たちの手で収集した感情からしか感情を知ることができない。
 例えそれがどんなに慈悲深く優しい行為に見えるとしても、例えそれがどんなに身の毛のよだつような残酷で非人道的な行為だとしても、サキにとってそこに「目的を達成する手段」と言う意味以外の価値は存在しないのだ。
 聖職者の衣に袖を通して、聖人のように振る舞いはするけれど、それは自分の目的の完遂に一番適した行動を取っているだけで、そこには優しさや思いやりと言った人間的な感情はなにも介在してはいない。癒しの法は人が喜ぶ。光を灯せば人が喜ぶ。ただ効率的だと言う、ひどくシンプルな条件だけでサキはすべての物事を判別する。
 端麗な笑顔の下に隠れているのはただただ残酷なまでに正確な、目的を完遂するためのからくり仕掛けの歯車だ。
 今すぐ毛布をかぶって、眠ったフリですべて見なかったことにしてしまいたいと言う気持ちもある。もっとも、戻って来たサキが飲む相手のいないカップを片手にどんな顔をするのだろうかと考えるとそういう気持ちはすぐに薄くなって、代わりに身体を起こさないと、という使命感に駆られる。
 きっとあの男はいつものように、笑顔の印象を崩さないままはて、とちょっとだけ困った顔をして首をかしげるのだろう。その表情の下に感情なんて宿っていないことを、自分はもう随分と昔からよく知っていた。
 知っているからこそ、自分にも何度も言い聞かせ続けてきたはずなのに、閉じたドアの向こうの遠ざかっていく靴音を聞いていると、どうしてか、まるで人間に振り回されているかのように無性に泣きたい気分になるのだから、本当に自分は頭がおかしくでもなってしまったのかもしれない。
 自分はきっと、地獄に落ちるだろうなと思う。
 それでも何故だろう。
 どうしてか、あの男だけは地獄に堕ちている気がしないのだ。

六命時代前の、まだ色々な世界中を旅してまわっていた頃のサキレグです。
時間的に、サキちゃんと一緒にいる100年の内の半ば頃でしょうか。

レグの中のサキちゃんと言うのは大体、こんな感じの距離感です。
最初はもっとサキちゃんは外道なモンスターっぽい感じなのかと思っていたのですが、シド氏に話を聞くうちに色々と紳士的な感じのイメージに修正されていきました。