それまでは全く別の話をしていたはずなのに、アルヴィースのきれいな横顔に見惚れていたらぽろりと口に出してしまった。 「キス?」 オウム返しで言われた言葉に、改めてなんて馬鹿なことを言ってしまったんだろうと一気に体温が上昇する。 「え、あ、あのっごめ、僕、何言ってるんだろっな、なんでもな」 「したいのかい?」 ぼん、と音がしそうなほど自分の顔が熱くなったのがわかって、でもわたわたとみっともなく取り乱す僕とは対照的に、アルヴィースはいたって淡々と常日頃どおりのどこか抑揚のない口調を崩さない。 「えっ」 「したいのかい?」 「う……う、ん……」 けろりと、まるで嫌悪感も軽蔑も感じられない無垢な瞳で見つめられては、素直にうなずくほかなかった。 のんびりと隣り合ってソファに腰掛けるアルヴィースは、その鋭い目つきとは裏腹に生まれたての赤ん坊のような雰囲気すらかもし出している。 日が沈みかける自室の今の穏やかな時間は彼によく似合っていて、それが余計に自分の放埓な発言を際立たせるようで居心地が悪い。ちなみに昼間空で煌々と輝くあの光の塊は太陽というのだと、以前目の前の人物に教えてもらった。 彼の澄み切った翡翠色を前にすると、不思議と自分の心のやましい部分も何もかも洗い浚い吐き出してしまいたい気持ちにさせられて、この瞳を前に平然と嘘をつける人物がいたらぜひお目にかかりたい。 当然、自分には無理な話だ。 「そうなんだ」 無邪気な佇まいで何度も確認されて、段々いたたまれない気持ちになってこの場から逃げ出してしまいたくなる。けれど、そろそろキスくらいはしてもいい頃合ではないかと正直こちらとしては焦れていたのだ。 アルヴィースが僕の呼びかけに応えて姿を現してくれてから、それなりに時間が経っている。イコール、力の依り所として僕に依存している(らしい。一度教えてもらったけれど悔しいことにまるで理解できなかった)彼と生活を共にし始めてしばらく経つということで、抱き締めたり抱き締められたり、一緒に寝たりということはもう何度も繰り返していた。 僕が彼に抱いていた特別な気持ちに気づくのも時間の問題で、「君のことが好きなんだ」と一世一代の告白をした僕にあまりにもあっさりと「僕も好きだよ」の答えをくれたアルヴィースに拍子抜けしたあと思い切り抱きついてしまったのもいい思い出だ。 今までスキンシップで嫌がられたことはないし(というか逆に嫌がっているアルヴィースが想像できないのが多少気がかりではある)彼の感情表現は分かりづらいけれど、言葉通り好意を持ってくれてはいるらしい。 「それは構わないけれど」 「えっ? あ、う、うん?」 「キスって、どうやるのかなーって」 これまたあっさりと了承されてしまったことに驚く暇もなく、アルヴィースの形のいいくちびるから放たれた言葉の意外さに思わず目を丸くする。どうやる、とは。 「もちろん知ってはいるんだよ。ただ、したことがなくてね?」 「そ、そうなんだっ?」 あまりあからさまに驚いてしまっては気を悪くするだろうかと思ってはみるものの、とてもこの衝撃を隠しきることはできなかった。意外だ。こんなに見目麗しくて物腰穏やかな人物を、世の女性が放っておくものなのか。 いや、それとも、彼の立場や成り立ちを考えるとそれも自然なことなのだろうか。 「だからさ」 さらり、とアルヴィースがやわらかく首をかたむける動作に合わせて銀の長い髪がゆっくりと肩を滑る。僕を魅了してやまない彼の瞳の次に大好きな身体の部位が、室内の光を控えめに反射しながらむき出しの首筋に絡まる光景はあまりにも目の毒だ。 「シュルクが教えてよ」 とどめに穏やかなエーテル色の光を細めて微笑まれてしまっては、大人しくアルヴィースの首に腕を回して引き寄せるほか術がない。 「んっ……」 僕の腕の力に抵抗一つしないまま、素直に顔を寄せるアルヴィースの滑らかな血色のいい肌に緊張しながら、ちゅ、と軽く触れるだけのキスをした。そうすると少し乾いたかさつく感触が気になったのか、動物のようにぺろりとくちびるを舐める仕草に嫌でもドキドキしてしまう。 「これでおしまい?」 彼といるとやましいことばかりで頭がいっぱいになってしまう僕とは対照的な、どこまでも無垢な瞳にこんな至近距離で見つめられると、なんだか自分が彼にそぐわないみっともない生き物のような気がしていたたまれない。 「あ……いや、今のは挨拶みたいなかんじ、で」 「そうなのかい?」 「え、と……」 自分の望みを口に出すのが苦手な僕の気持ちをフィオルンやラインならいつもニュアンスで察してくれるけれど、アルヴィースに関してはきちんと言葉にしないと伝わらない。 それもなるべく明確に、順序だてて、だ。 普通ならこういう場面では明確に言葉にするのはなるべく避けて、雰囲気でお互いが察するものだと思うのだけれど、残念ながらアルヴィースにそれが通用しないのは共に過ごすうちに分かったことの一つだ。 ものすごく、ものすごく恥ずかしいのだけれど、このまま黙っていては恐らく何も進まないだろう。 「くち開けて……舌、出して」 うん、と子どものように素直にうなずいて、うっすらと緩んだくちびるから舌を覗かせる従順な姿に、もはやいてもたってもいられなくなる。誘われるままに再びくちびるを寄せて、差し出されたものに吸いついた。 「んく、ぅ……んん……」 抑揚の少ない、温度の低そうな声色をいつもつむぎ出すアルヴィースのくちびるだけれど、触れてみればその滑らかな粘膜はきちんと温かかった。つるつると舌が触れるだけで気持ちいい歯の表面をなぞって口内に侵入してしまえば、あとは身体が求めるのに任せるだけだ。 くちゅくちゅと音を立てて夢中で舌を絡めていると、されるがままの彼の口端からとろとろと透明な雫が垂れていく。 「ふ、アルヴィ、す……こぼれて、ぅ」 「うん?」 何も知らないような顔をして瞳を瞬かせる仕草に劣情を煽られて、欲求のまま既に首筋まで流れ落ちている唾液を追って舌を這わせた。そうすると無防備な襟首と同じく曝け出された鎖骨が目に入って、もう何も考えられずに求めるまま吸いつく。 「ん、んぅ……うく」 ちゅ、ちゅ、とはしたない音を鳴らしながら動物が毛づくろいをするようにアルヴィースの肌を味わっていると、普段はほとんど感じられない微かな体臭が鼻腔をくすぐって、どうしようもなく心がかき乱される。 「キスはもういいの?」 困ったような笑いを含む声音にのろのろと顔を上げると、彼の表情もそのまま困惑した様子で苦笑していた。先ほどまで触れ合っていた温かなくちびるの感触を思い出して、ひくりと喉がびくつく。 「よ、くない……よ」 「そう。じゃあほら、ちゃんと教えてくれないと」 下を向く僕の頬を掬い上げるように滑らかな指先で撫でられると、アルヴィースは何もしていないはずなのに操られているような気持ちになって、再び彼のくちびるを求めて噛みつくようにキスをした。 今度はきちんと僕のほうに唾液が流れるように角度を変えてから、ちゅくちゅくと温かい口内を舐め回す。僕と彼ではほとんど身長に差がないから、実はキスをするのには少しやりづらい。彼のことだから、僕の体格を考慮して故意に今の形に落ち着いているのだろうことは容易に想像ができたけれど。 とろりと流れ込む唾液にこくこくと喉を鳴らしていると、時折アルヴィースの舌が僕の真似をするように歯列をなぞったり、口蓋をくすぐったりするものだから、その度に不意打ちを食らったように震えてしまう身体を抑えることができない。 「あ、ふ……ぅく、んん……」 「よくわからないけれど、これであってるのかな?」 「はぁ、はふ……ふ、あぅ」 舌を擦り合わせるたびにアルヴィースのキスはみるみるうちに僕を虜にして、初めてなんて絶対嘘だと思った。 「ね、あってる?」 もうとっくに痺れるような快感でうまく舌が動かせなくなっているのに、くちびるが触れるか触れないかの距離で囁くようにアルヴィースが喋るものだからたまらない。吐息が肌を舐めるだけで背筋が震えて、もっと彼に触れていたいのか、もうやめてほしいのかも分からなくなる。 「ふっぅ……も、ある、び……っ、め」 「なんだい?」 「う、ゅ……きす、ゃめ」 「? よく聞こえないよ」 舌が痺れてろくに呂律の回らない僕の言葉に首をかしげながらも、明確な命令のないうちは続行と彼は判断したらしい。しがみついていたはずがとっくに脱力してアルヴィースの肩を滑る手の代わりに、しっかりとした骨格の長い腕が僕を腰から抱き寄せた。 「もっと?」 「は、あふ、うぅ……んん、やっ」 「だめだよ、教えてくれるって言ったのに。逃げないで」 「んく、んん……むぅ、んぅ」 ぴちゃ、と濡れた舌でくちびるの合わせをなぞられると、どれだけ頑なに拒もうとしても身体が勝手にアルヴィースを受け入れてしまう。おずおずと開いた口からだらしなく舌を差し出すと、彼は先ほどの僕とまったく同じような動作でくちびるを寄せて、ぬめる口内を蹂躙した。 ずるずるとさらに滑り落ちた手は、その胸元を掴むので精一杯だ。 「あ、く……んん、ふ、うぅ」 「こぼれているよ?」 「やぁ、あ……なめ、ちゃ」 まるで立場が逆転してしまったように、ぬるぬると僕の首筋を落ちていく唾液をアルヴィースの舌が舐め取って、その度にひくん、ひくん、と恥ずかしいくらいに身体が跳ねる。そのまま襟元をひっぱってミルクを舐めるネコのように鎖骨に濡れた感触を這わされると、もうどうにもならないくらいまで身体は高ぶってしまっていた。 「アルヴィ、うぅ、アルヴィースっ」 「うん?」 「はぁ、はぅ……うう、んくぅ、んぅ」 衝動のままにぴったりと身体を沿わせて、くっついた股間をアルヴィースの腰に擦りつける。胸元を彷徨っていた手でつむじのきれいな銀色の後頭部を掻き抱くと、やっぱり彼からはいい匂いがした。 なのに。 「ああ、でもそろそろ」 もうどうにも止まらないところまで自分は来てしまったのに、アルヴィースはあっさりと僕の腰を抱いていた手を解いてしまう。突然のことに、頭の理解が追いつかない。 「夕飯の時間だから、支度しないとね」 あまりに当たり前で、当然のことを言われてしまって、浮ついた頭に冷や水をかけられたようだった。 いや、でも、ここまで来て。 まあ、たしかに時間的にはそうなのだけれど、言われてみると僕もお腹が空いてきた気もするのだけれど。 「うっ……?」 「あれ、お腹は空いていないかな?」 「あ、いや、そ、そうじゃない、けど」 じゃあすぐ支度するね、と腰を浮かせかけるアルヴィースを、最後の意地でなんとか引き止める。 「ちょ、ちょっと待ってっ」 「? うん」 僕の言葉に素直にうなずいて、再びすとんと腰を落ち着けるアルヴィースの胸元に、逃げられないうちにとぼす、と顔を埋めた。身体の疼きをどうにか抑え込もうと、すりすりと頬を擦りつける。 「ちょっとだけ、こうしてて……」 「うん」 生来こうして自分から人に触れるのはあまり慣れていないのだけれど、不思議とアルヴィースには自然に寄り添うことができた。無垢で、ニュートラルな彼の纏う空気がそうさせているのかもしれない。 自分はこうして彼に触れているととても安心するのだけれど、彼はさっさと食事の準備を済ませたいのかもしれないと思うと罪悪感でそわそわしてしまう。どうにも不精な自分の身の回りの世話をほとんど彼に任せてしまっている分、余計に。 「シュルクには」 そんな自分の落ち着かない空気を感じ取ったのか、ぽつりと落とされた歌うような声音に、ゆっくりと顔を上げる。 「僕の感情表現が拙すぎて、上手く伝わっていないのかもしれないけれど」 アルヴィースの口から拙いなどという言葉が出てくるなんて、おおよそ彼には似つかわしくない言葉のひとつだと思うのだけれど。 「僕もちゃんと、シュルクのことを好きだと思っているよ」 「っ、へ……?」 「だから、続きはまた後で教えてもらおうかな」 予想もしなかった言葉に思わず姿勢を正して身を離すと、ね、と小首をかしげて微笑んでから、アルヴィースはさっさと立ち上がってキッチンへと向かっていた。 「……」 呆然と一人ソファに取り残された自分は、傍から見ればどれだけ間抜けだったことだろう。でも、そんなことは今の僕にはどうでもよくて、それよりも、それよりも。 うれしい、けど。とてつもなくうれしいけど。まさかそんな風に彼が思っていてくれたとは。というか、正直あまりにも爆弾すぎて理解の方が追いついていないのだけれど。 どうして今、この状態の自分にそんなことが言えるのか。 「そ、そんなこと言われたらっ」 とてもではないけれど、夕飯を終えるまで待てる自信がない。 アルシュルはアルヴィーの逆調教が醍醐味。 20101015 →もどる |