コン、と小気味いい音が部屋に響いて、それからゴトゴトと続く音にまたいくつかの球がポケットに落ちたのだということが分かる。
 ビリヤードなんて今のところ俺には縁のないゲームだから、球に書かれた数字の小さい方から手玉を当てて落として行く、ということくらいしか分からないけれど、最初の一突きで台に置かれた球の半数程度がポケットに吸い込まれていったのを見れば、ヨシュアの腕前が常軌を逸しているということは察することができた。
 俺の背丈ほどもある長さのキューを優雅に構える姿は嫌味なほどに様になっていて、先ほどから俺なんかこの場に存在していないかのように振舞うヨシュアに放って置かれてふてくされていたはずなのに、ついつい何度も見惚れてしまう。ちらちらとウエストから覗くベルトの派手な色などは、正しくヨシュアの悪戯心のよう。
 壁一面、床一面に広がる水槽から注がれる魚たちの視線を受け、ぼんやりとソファに腰掛けてヨシュアの様子を窺う俺を慰めてくれるのは手元に抱き締めたこげ茶色の上着くらいだ。
 俺がここに来たときにはヨシュアは既にワイシャツとベストという普段ならあまり見られないいでたちで遊戯台を相手に戯れていて、俺と同じようにソファに放り出されたスーツの上着を何となく手慰みに抱え込んでいたのである。
 この部屋は通り道として何度か通ったことはあるけれど、あらためてじっくりと見回してみると一体何の部屋なのかと思わず首をかしげてしまった。一応は指揮者である彼の部屋、らしいのだが。
 部屋のほぼ全面に設置された水槽、隅に追いやられたジュークボックス、色とりどりのリキュール類が並ぶバーカウンター、その横にはダーツボード、さらには中央に置かれた遊戯台だ。以前はレトロなサッカーゲームのような遊戯台が設置されていたように思うのだけれど、今のところはビリヤード台に早変わりしたらしい。まあいい加減、今更ヨシュアが何を引っ張り出そうとも驚きはしないけれど。
 とはいえ今俺が腰掛けている白いソファなどはものすごく高級そうな座り心地だし、横にはワインクーラーの置かれたワゴンが置いてあったりして、ものすごく落ち着かない。どこかの高級ホテルにでも置いてありそうだと思ってはみるものの、実際はそんなホテルになど行ったことすらないから、こういったものが本当はどこにあるのかなんてわからなかった。
 ゴトン、とまた一つ球が落ちる音がしてから、ヨシュアは小さくため息を吐きながら壁に立てかけるようにしてキューを置く。一人で考え事をしているようにも見えたけれど、相手のいない玉突きに飽きてしまったのだろうか。
「それで……ネク君はいつになったら帰るんだい?」
 億劫そうに長い腕を組みながらようやく真っ直ぐにこちらへと向けられた視線に、ぴくんと頭が揺れて思わず背筋を正す。投げかけられた言葉は冷たい響きだったけれど、呼びかけてくれたことに許しを得られたような気持ちで抱き締めていた上着を置き、勇気を出してソファから立ち上がった。
 きゅ、きゅ、と歩くたびに履き潰したスニーカーが床と擦れて音を立てて、それがなんだかやけに気になってしまうくらい、ただヨシュアの傍に行くというだけの行為に緊張しているのが自分でもわかる。
「そんな、の」
「……」
「ヨシュアが、構ってくれる、まで……に、決まってる、だろ」
 ヨシュアがこちらを見てくれたのだって、声を掛けてくれたのだって、俺が部屋に入って三十分以上経っているにも関わらず今が初めてだ。
 この間ようやく『来てもいい』とは言ってくれたけれど、決してヨシュアが歓迎しているわけではないというのは、何度も訪問を繰り返して分かっていることではあった。
 今日などは声を掛けてくれただけいい方で、たまに何も口を開かないまま放置されたと思ったら無理矢理手を引かれて家まで送り届けられたこともあったし、逆に無言で寝室に引き上げたヨシュアから『おやすみ』の言葉だけがメールで携帯に届いたこともある。
 最近になってヨシュアが俺の部屋を訪問する回数が劇的に少なくなったのもあって、出しゃばりすぎたのだろうか、もしかして嫌われたのだろうか、とネガティブになったりもしたものの、きっと嫌いになったらなったでヨシュアはこんな中途半端な状態を続けてはいないだろう。良くも悪くも言いたいことははっきりきっぱりばっさりと言い捨てる男なのだ、ヨシュアというやつは。
 だからヨシュアはヨシュアで、唐突に変化した俺との関係性にどうしていいのかわからない……のだと、思いたい。
「ふぅん?」
 すぐ目の前まで来て立ち尽くす俺のことを、ヨシュアは面白いものでも見るような目でじろじろと不躾に眺めている。居心地の悪さに思わずたじろぐ俺の腕を、何の前触れもなく急に伸びてきたヨシュアの大きな手が掴んだ。
「っ……!」
「構って欲しいんだ。それって……こういう意味で?」
 ぐい、と強く引かれたかと思うと、バランスを崩した俺の身体はそのまま横にあったビリヤード台の上に倒れこむ。
 俺の腰よりも高い位置にある台のせいで足が浮いて、反射的に起き上がろうとした身体はヨシュアの手で押さえ込まれた。俺がこちらに来るようになってからヨシュアはあまり優しく扱ってくれたことがないから、乱暴な所作にももうさほど驚かない。
 完全にヨシュアに押し倒される形になった俺の身体の横を、ころころと球が転がってポケットの中に吸い込まれていく。あ、ファール、なんて暢気なことを考えてしまったのは、単純に展開の速さに頭がついていかなかったからだ。
「そ、そんなの……ちが……」
「うそつき」
「……っ、よしゅ、あ」
 するりと首筋を滑った指先が、そのまま襟元のネクタイを解いてワイシャツのボタンを外していく。肌蹴た胸元にくちびるを寄せてちゅ、と吸い付かれると、ぴくぴくと身体が跳ねてしまうのを堪えられない。言葉では否定しながらも、こうなる展開を期待していなかっただなんて、口が裂けても言えないと思った。
「まあ、ネク君がどう思っててもどっちでもいいんだけどさ」
「んっ……くぅ」
「最近、してないから……結構溜まってるんだよね」
 ヨシュアのキレイなくちびるから出るには似つかわしくない下卑た言葉に、高ぶり始めた身体がびくん、と震える。
「は……ふ、よしゅ……あっ」
「だから、付き合ってくれるよね? そのつもりで来たんでしょ?」
「う、あっ……?」
 かぷ、とヨシュアの歯が耳たぶに噛み付いた瞬間、がくりと全身の力が抜けてしまって、腕の一本も動かせなくなった。押さえつけられているわけではなく、ただ身体のどこにも力が入らなくなって、目の前の人物に何もかもを任せてひれ伏してしまいたくなる感覚。
 何度も経験していることだから、ヨシュアが何をしたのか否が応にも分かってしまった。今まで制限していた自身の強大な波動を、全て解いたのだ。
「よ、ひゅ……ぅ」
「ね……?」
 匂い立つようなヨシュアの波動は瘴気とも言えるほどに強すぎて、ただその指先を肌に滑らされただけでびりびりと痺れるような快感を呼び起こす。腹に力が入れられないせいでまともな声も紡げなくて、大好きなその名前すら呼べない苦しさで胸がいっぱいになった。
 ヨシュアはずるい。こんなことをしなくたって俺は逃げたりしないのに、あくまでヨシュアが無理矢理しているのだというスタンスを崩さないのだから。
 ヨシュアだけがしたいんじゃないのに。俺が、嫌だなんて思ったりするわけないのに。
「ん、んん……んく、ふ、ぅ……う」
 そう考えてはみるものの、やわらかなくちびるでいやらしいキスを繰り返し施されてはもう文句を口にすることなんてできなくて、ただヨシュアの望むとおり、従順に喉を鳴らして温かな唾液を飲み込むしかなかった。



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