眠気に絡め取られてぐずる俺を根気強く諫めながら風呂にまで入れて、今俺の前でせっせとシャツのボタンを留めたり、バスタオルを俺の頭に乗せたりしている人物はもはや嫁というよりも、おまえは俺の母親かと言ってやりたくなる。 「ネク君、つめ伸びてない?」 そんなことをぼんやりと考えながら、甲斐甲斐しくバスタオルを手に俺の髪を拭うヨシュアの一言で、何気なく自分の爪に目をやった。言われてみると、たしかに爪の先がゆびの腹よりも大分飛び出している気がする。 「ああ、そういえば最近切るの忘れてたかも」 「ダメだよ、ちゃんと切らないと。怪我の元なんだから」 あまりにいつもどおりなヨシュアのお小言に、苦笑しながらも思わずため息が出そうになったのだけれど、そうすると更なる小言が降ってくるだろうことが予想できたので、ぐっと堪えた。 「よく気がついたな、人のつめのことなんて」 他人の身なりになどほとんど関心を払わない俺にとっては、そんな細かいところまで気がつくヨシュアが不思議だった。まあ俺も『ヨシュアの』という枕言葉がつくなら、それはまた全然別の話なのだけれど。 「うん、だってさ……ほら」 ソファに向かい合って座るヨシュアは、一端髪を拭う手を止めてタオルを俺の肩にかけると、自分のシャツの裾を摘んでそっと捲ってみせる。 「つめあと」 「っ!」 露になったヨシュアの白い腹には何本かの赤い筋がはっきりと浮かび上がっていて、一目で引っ掻き傷だとわかる。もちろん引っ掻いたのが誰かなんて、言うまでもない。 「う……ご、ごめ……ん」 先ほどヨシュアの腰に跨って、バランスを取るためにお腹に手を置いていたときについ力が入ってしまったのだろう。恥ずかしいやら、申し訳ないやらでどう言っていいやら分からず、しどろもどろの謝罪しか出てこない。 「謝らなくてもいいんだけど。お風呂上がりだと爪が柔らかくなってるから切りやすいんだよ」 「え、う」 「爪切り引き出しの中に入ってたよね? 切ってあげる」 「う、うん……」 あれよあれよという間に段取りを決めてしまったヨシュアに思わずうなずきながら、ソファを立ち上がってぱたぱたと爪切りを取りに走る背中を見送ってしまって、それくらい自分でできると言葉にする暇すらない。 けれど戻ってきたヨシュアのどこか楽しそうな微笑を見たら何を言うこともできなくて、大人しくおずおずと手を差し出した。 器用な手つきで伸びていた爪を綺麗に切りそろえたヨシュアが、ソファを降りてそのまま床に膝を突こうとするので何事かと思う。そのまま俺の足を持ち上げて自身の膝に乗せるものだから、何をするつもりなのかはすぐにわかったけれど、慌てて引き止めた。 「そ、っちは、いいって……っじ、自分でできる、からっ」 「いいからいいから、ネク君は楽にしてて」 のほほんとした声でヨシュアは言うけれど、細い膝に踵を乗せてしまっているのも落ち着かないし、少し冷えた足先にヨシュアの手が置かれて、ほんのりと温かい感触にもなんだかどぎまぎしてしまう。 「ふふ……なんかネク君のあし、かわいい」 「そ、ゆこと言うな」 ぱち、ぱち、と静かな部屋に響くちいさな音と、裸足の足にぺた、と触れるヨシュアの手の感触にやけに心臓が早鐘を打った。そもそも自分の足元にヨシュアが跪いているということが何だか悪いことのような気もするし、それをいとも簡単にさらりとやってのけて、やけに似合っているヨシュアもなんというか、とても困る。 「可愛くて、シンデレラのガラスの靴でも履かせてあげたくなるね」 「なっ」 何を言い出すんだ、こいつは! 思わぬ言葉に思いっきり動揺してしまって、悪戯にこちらをのぞきこんでくるスミレ色に、赤面した俺の顔はさぞかし鮮やかに映し出されていたことだろう。 「でもそんなもの履いたらきっと割れて怪我しちゃうから、やめておこうか」 くすくすと楽しげに笑うヨシュアの言葉はきっとただの気まぐれなのだから、俺も笑って受け流せばいいのだ。 ただほんの少しだけ、もし俺がガラスの靴を履かされて歩けなくなったとしたら、ヨシュアは大事に閉じ込めておいてくれるのかな、などと思ったのだけれど、口には出せなかった。 ヨシュアはきっと俺が望んでいても、そんなことはしてくれないだろうということがわかっていたから。 「はい、これでおしまい」 「ん……」 やんわりと終わりを告げる声でつま先に目をやると、右から左から、自分では切り辛い小指の爪まで形よく整えられていた。ようやくヨシュアの膝から足を下ろされて、裸足に触れる手の温度が離れて行くのにほっとしたような、残念なようなよく分からない気持ちになる。 「さん、きゅ」 「あれ、ネク君。なんか前髪も結構伸びてない?」 「へっ」 ようやく居心地の悪い位置関係から解放されたと思ったら、ヨシュアはそのまま俺の脚の間で伸び上がって、優雅な手つきで俺の前髪をそっと持ち上げた。 そのまま額を撫でてぺたりと頬に置かれる指先に、ヨシュアにとってはきっとなんでもないことのはずなのに、やけに近い距離のせいで視線がうろついてしまう。 「う、あ……た、たしかに……最近切ってない、かも、だけど」 「今日はもう遅いから、また今度昼間に来たときに切ってあげようか?」 「えっ」 咄嗟にヨシュアがはさみを持つ姿を想像することができなくて、思わず変な声を漏らすと別の意味に受け取られたのか、困ったように笑われた。 「ふふ、大丈夫だってば。こう見えても、僕結構上手いんだよ?」 「あ、ちが、くて」 「ああでも、ネク君くらいの歳の子はやっぱり、ちゃんとお店で切ってもらったほうがいいかな?」 そのままするりと離れようとするヨシュアの手を、どうしてかはわからないけど、なんというか、とても離れ難くて、咄嗟に掴んでからぎゅっと頬に押し付ける。 「お、おれ、は……べつに、そういうのこだわらない、から」 「うん」 「ヨシュアが、いいなら……」 なんだかそんな風にしなくてもいいのに俺のほうが弱気になってしまって、本当はおまえがどうしても切りたいっていうなら切らせてやってもいい、くらいに言ってやりたかったのに、つくづくとことん、俺はヨシュアに弱いのだ。ヨシュアの、口元を綻ばせたこの子どものように笑う嬉しそうな顔に。 「うん」 でもちょっと想像してみると、いつもの優雅な手つきで櫛とはさみを操るヨシュアの姿はなかなか様になるのではないだろうかと考えて、ちょっとだけ休日の楽しみが増えたなと思う。まあ、どんな髪型にされるかはそれこそ運試しというところだけれど。 「ヨシュア、は」 「ん?」 ヨシュアの手はぎゅっと自分の頬に押し付けたまま、反対の手でその頬にかかるほどに長い淡い色の前髪に手を伸ばして、けれど何気なく口にしようとした言葉の意味のなさに思わず口を噤んだ。 「なあに」 そのせいで何も言えないまま、俺のゆびは絹糸のような髪の間を通り抜けるだけの意味のない動作をするに留まり、不思議そうな顔をしたヨシュアに首をかしげさせてしまう。 ヨシュアは出会ったころからずっと変わらない。それは比喩でもなんでもなくて、髪の長さも、爪の形も、生きている人間ならば変化して当たり前のものすら何一つ変わっていなかった。UGに属するということはそういうことなのだと思う。それをどうして寂しく思うのかなんて、俺にはとっくにわかっているのだけれど。 「なんでもない」 だから俺はそのままヨシュアの首に腕を回してしがみつくと、顔が見えないようにぎゅっと温かい肩口に顔を埋めた。そうするとヨシュアは何も言わずに抱き締め返してくれて、余計なことを言わずに済んだ俺はほっと息を吐く。 ヨシュアが俺の髪を切ってくれるという約束と、数日後に訪れるであろうその近い未来に俺は確かに胸躍らせていたはずなのに、俺とヨシュアの間に確実に横たわる時間の隔たりを感じさせる遠い未来が、俺は疎ましくてしょうがない。 でもそれをどうこうできるような術を俺は持っていなくて、ただヨシュアの望むままに身を任せるしかないのだ。 どうか俺の足がガラスの靴に入らなくなる前に、ヨシュアが俺の時間を止めてくれますようにと祈りながら。 お世話萌えは不滅です。 20100105 →もどる |