ドアを開けると、じゅーっという耳に心地良い音と共に、食欲をそそるいい匂いがした。
 玄関でそうっと靴を脱いで上がり込むと、入ってすぐにキッチンがあるので、この家の家主が何をしているのかはすぐに分かった。
 まな板の上で刻まれた野菜、テーブルに乗せられたボールと調味料、そしてガス台の前で一生懸命フライパンを振っている彼の姿。動くたびに、腰で結ばれた青いストライプのエプロンの紐が揺れる。
 どうやら、ちょうど夕飯の準備をしているところだったらしい。制服にエプロンをつけただけの彼は、もし油が袖などに跳ねたらどうするのだろうと思うけれど、その辺りがどうにも不精で困る。
 インターホンを鳴らしても反応が無かったので、てっきり留守なのかと思って勝手に鍵を開けて入ってきてしまった。いや、まあ一応鍵を渡されている身ではあるから、それはさして問題ではないのだろうけれど。
 こうしてキッチンまで上がりこんでも振り向きもしない彼は、そろそろと抜き足差し足で、手を伸ばせば触れるくらいの距離まで歩み寄っても、まだ気づかなかった。
 このまま彼が気づくまで椅子に座って待っているのも楽しそうだけれど、せっかく来たというのに自分の存在を認知すらしてくれないというのは、いささか面白くない。
 どうしたものかと考えていると、ぼそぼそとネク君が何か喋っているらしい声が聞こえた。時折フライパンの材料を炒める音で紛れそうになるけれど、しばらく耳を澄ませていると徐々に声がはっきりと聞こえてくる。
 始めは僕の存在に気づいているのかと思ったけれど、聞いているうちにそれは違うということがわかった。どうやら喋っていると思っていた彼の声は、小声で鼻歌を歌っていたらしい。
 CATのCDに入っている数ある曲の内の一曲だ。少し聞いただけでピンと来た。なぜなら、その曲を作曲したのは他でもない、僕自身だからである。
 映像作成から音楽制作と、CATの活動範囲は広い。当然ながらCDだって何枚も出しているのだけれど、ごくたまにCAT本人……まあ要するに羽狛さんに頼まれてアルバム曲の内の一曲や、カップリング曲などを作ることがある。もちろん僕の存在は公にはできないから、作曲者の名義はCATということになっているのだけれど。
 コンポーザーなどと便宜上の役職名がついているけれど、名ばかりだったその役職に実を持たせてくれた羽狛さんはまさしくプロデューサーといったところだろうか。二人とも人間ではないけれど、だからこそこういったRGとの繋がりは僕自身にとってもプラス方向に働いていると考える。
 僕はこの家で洗濯物をしているときなんかによく鼻歌を歌っていることが多い(とネク君が言っていた)のだけれど、ネク君のそれは初めて聞いた。自分一人だけだと思って、安心しきっているのだろう。
 僕は普段の生活が気を抜けない、という意味では緊張の連続な分、ネク君の傍にいるとなんだかやけに安心してしまって、さらには洗濯物なんかを始めてしまうとそれはもうだらしないくらいに気が緩んで、リラックスしてしまう。鼻歌は恐らくそれの表れだ。
 逆に彼は僕といるとなんだかいつも緊張しているようで、それは僕に対して変なところを見せたくない、良いところだけ見せていたい、という彼の思春期ならではの背伸びというか虚勢であって、決して悪いことではないのだけれど。こうも僕のいないところで安心しきっている彼の姿を見せられてしまうと、なんとも複雑な気分にさせられてしまう。
 たとえ今彼が歌っているのが僕の作ったマイナーなアルバム曲だということが嬉しくても、だ。
 歌いながら、ネク君はまだ背後の僕に気づきもせず、手慣れた動作でまな板を持ち上げて残りの野菜をフライパンに投下する。よっぽど夕飯の準備に集中しているらしい。
 そんな彼の姿は、何か一つのことだけにのめり込むと回りが見えなくなって、それに固執してしまう彼の性格をよく表しているようで微笑ましかった。
「ネークー君」
 けれど、このままではきっと彼はフライパンの中身が出来上がるまで僕に気づかないに違いなく、埒が明かないと思ったので、その可愛らしい耳元に顔を寄せてそっと囁いてみた。
「う、わっ」
 びくん、と肩を跳ねさせたネク君の右手から、材料を掻き混ぜていた菜ばしがフライパンの中にがしゃんと落ちる。次いで振り向いたネク君は微笑む僕の顔を見つけると、何か信じられないものを見るように目を見開いてから、ぱくぱくと口を動かした。
「よ、よ、よ、ヨシュアっ?」
「こんばんは、ネク君。お邪魔してます」
「お、おまっ、いつから」
「うーん、ついさっき、かな? でもちゃんとインターホンは鳴らしたんだよ。鍵開けてもネク君気がつかないんだもの」
「あー、それは、悪かった、けどっ」
「ああ、それともただいまって言った方がよかった?」
「そんなことは聞いてな……って、焦げる!」
 強火で放置されていたフライパンに慌てて向き直ると、取り落とした菜ばしを持ち直し、火を弱めたネク君はまたそちらにかかりきりになってしまう。
「ヨシュア、メシ! テーブルの上のやつ、取れっ」
 言われて素直にテーブルの上のご飯が盛られた白い皿を手に取ると、冷蔵庫から出してあっただけのようでまだひんやりと冷たかった。
「これのこと? 冷や飯みたいだけど、あっためないの?」
「別に、一緒に炒めちゃえば関係ないだろ」
 そう言って皿のご飯を菜ばしから持ち替えた木ベラで小分けにしながらフライパンに放り込む彼の姿に、思わず苦笑してしまう。面倒くさがらずにちゃんとレンジで温めてから炒めた方が、ダマにもならなくて美味しくできると思うのだけれど、その辺りがなんというか、ネク君は男の子だ。
 まあ僕などはそういう知識はあっても、味付けだけは壊滅的にできないということが自分でもわかっているので、料理関係はネク君に任せきりなこともあって何も言わずにおいた。別に女の子のような細やかな気遣いをネク君に求めるつもりも毛頭ない。彼の料理は見た目が整っていなくても、いつも美味しい。
 ガス台のすぐ横に置かれたケチャップと、テーブルの上でまだ割られていない卵を見て、本日のメニューはすぐに分かった。
「卵、このボールに割っちゃっていい?」
「あ、ああ。頼む」
「いくつ?」
「お前が来たから、四つ」
 投げやりに言われたその言葉に、両手に一つずつ卵を手に取りながら思わず苦笑する。
「今から行くよ、ってさっきメールしたのに。まだ見てなかったんだ?」
「あー、悪い。ケータイかばんに入れっぱなしだ」
 まったく、普段殆ど使われないその機能を使って珍しく僕がメールを打ったというのに、そういうときに限ってこれだ。彼とはこんな風に噛み合わないことが多いけれど、そんなすれ違いが不思議といつでも僕を楽しませてくれるもので、決して不快ではない。
 こんこん、とテーブルの端でそれぞれの殻を割って中身を開けると、二つの黄味がボールの中を滑る。うん、自然な黄色で黄味が盛り上がっていて、新しいいい卵だ。
「おまえさ……」
「うん?」
 残った白身をよく切ってから殻を捨て、残りの二つに持ち替えようとすると、もう火を止めて出来上がったケチャップライスを皿に移している最中のネク君がこちらを見ていた。
「そういうのやらせると上手いのにな。あと野菜切るのとか」
「……」
 そういうのとは、卵を片手で割ったことだろうか。確かに、野菜も切るだけならたぶんネク君よりも上手くできる。彼の切った野菜は往々にして大きさが不ぞろいなことが多いからだ。僕は以前、ちょっとした気まぐれで大根の桂剥きに挑戦して最後まで途切れることなく剥けてしまったことがあって、あのときには自分でもさすがに少し引いた。そりゃ、刃物の扱いは多少人より慣れているけれど。
 とはいえ、味付けだけは本当に壊滅的にできないことをネク君も知っているので、そんな言い方になったのだろう。複雑な気分になったものの、本当のことなので何も言えなかった。
 それから残りの卵を割って、溶いたボールをネク君に渡してしまうともう何もできることがなかったので、大人しくテーブルについて待っていることにする。
「ん。お待たせ」
 椅子に座ってしばらくネク君の背中を眺めているとすぐに、とろりと流れる半熟卵が美味しそうな、ほかほかのオムライスがテーブルの上に乗せられた。桜庭家のオムライスはご飯を卵で包むタイプではなく、薄く焼いた卵をご飯の上に乗せるだけというスタイルらしい。
 フライパンを流しの水で冷やすじゅう、という音を聞きながら、ネク君が席に着くのを待つ。
「ほれ、スプーン」
「ありがとう。ふふ、美味しそうだね」
「お前が来たせいで味見忘れたけどな。いただきます」
「いただきます」
 二人で手を合わせてご飯を食べる当たり前のことが、最近ようやく僕にも当たり前だと思えるようになって、それは気恥ずかしいようでやっぱりどうしたって嬉しいことだ。
 ちゃんと二人分の材料を用意していたくせに素直じゃない彼の言葉はいつも通りで、口に運んだオムライスも相変わらず美味しかった。にんじんが硬かったり柔らかかったりするのは、大きさが不ぞろいなせいで火が均一に通っていないからだけど、それもご愛嬌だろう。
「あつっ」
「ああほら、ちゃんと冷まして食べないと」
 よほどお腹が空いていたのか、慌ててスプーンを口に運んだらしい彼の上げた声に思わず苦笑する。彼は猫舌だというのに、懲りもせずによく食事中に火傷をするのだ。
「口、開けてごらん」
 仕方なくいつものようにテーブルを挟んで身を乗り出すと、ネク君は素直に口を開く。涙目になっている彼の口の中にふー、と何度か息を吹き込むと、ようやく落ち着いたらしく彼の喉がこくりと動いたのを確認してから、再び席につく。
「あ、デザート、この間おまえが買ってきたプリンとヨーグルトがあるけど……どっちにする?」
 今度は何度もふーふーとスプーンの上のオムライスを冷ます彼がするそんな些細な会話も、ネク君が僕に教えてくれた嬉しいことの一つだ。
「うーん、今日はプリンな気分かな」
「そうか」
 以前ネク君の好きなほうでいいよ、と言ったらなぜか怒られたので、それ以来ちゃんと自分の希望を伝えるようになった。僕の返事を聞いて、ネク君は再び忙しくスプーンを動かす作業に没頭し始める。
 少しずつゆっくり食べればいいのに、彼はなぜか口の中にいっぱいに詰め込んでから一生懸命もぐもぐと口を動かすので、その食事の様はまるで頬袋に食べ物を溜め込むリスのように見えてなんだか微笑ましい。
「あ、そういえば」
 ふと飲み物が出ていなかったことに気がついて立ち上がり、冷蔵庫を開けると、ちょうどよく麦茶が冷えていた。それとグラスを二つ手にして、再びテーブルにつく。
「?」
 口いっぱいに頬張ったオムライスで口を動かしながら、ネク君の青い瞳がこちらを見た。
「ネク君も鼻歌なんて歌うんだね」
「……!」
「さっき初めて聞いたよ」
 驚きに目を見開いたネク君は次いで、みるみるうちに耳まで真っ赤になった。それから何か言い返そうとしたものの口がいっぱいだったことに気がついて、必死でオムライスを咀嚼している。
「お、おま……っ」
「ああ、飲み込んでからでいいよ」
「ん、んぐっ……き、聞いてたのか!」
 ごくん、とこちらまで音が聞こえてきそうな勢いでオムライスを飲み込むネク君に、苦笑しながらグラスに注いだ麦茶を渡す。
「うん、ごめんね。聞こえちゃった」
「……」
「ネク君は好きな曲もCAT尽くめなんだね」
 ばつが悪そうに目を逸らしながら、黙り込んでグラスに口をつけるネク君は無防備な鼻歌を僕に聞かれてしまったことに照れているらしく、その様子がなんとも可愛らしい。ゲーム中に彼が聞いていた音楽もCATのCDばかりだった。ヘッドフォンから流れる音楽でも、人間のものではない自分の耳が聞き取ることは容易い。
 だから、何とはなしに聞いてみただけだ。強いて言うなら、話の流れで、あるいはちょっとした好奇心から。
「ネク君はどの曲が一番好きなんだい?」
 きょとん、と一瞬子どものような顔になった彼は、特に考え込むこともなくすらりと口にした。
「さっきの」
「え?」
「……さっき、歌ってたヤツ、が、いちばん」
 ネク君が口ずさんでいた、少し低めの声色が紡ぎ出す拙いメロディが頭をよぎる。
「……そう、なんだ」
「なんか、聞いてて、安心する」
 言われて、今度は僕の方が驚く番だった。彼の言葉の意味を理解するのになぜだか時間がかかって、呆然としている間にスプーンを動かしていた手も止まる。けれど、ネク君はネク君でやはりまだ恥ずかしがっているらしく、特に何も指摘せずにただオムライスを頬張っていた。
 そのままどちらからともなく無言になってしまって、ようやく僕もオムライスを口に運ぶ作業を思い出すと、部屋の中にはただかちゃかちゃとスプーンと皿がぶつかる音だけが響く。
「……ごちそうさまでした」
「ん、お粗末さん」
 そう言って僕がスプーンを置くのと、彼が食べ終わるのは殆ど同時だったらしい。いつもなら僕の方が食べ終わるのは早いのだけれど、今日は食べることだけに集中できなかったせいだ。立ち上がったネク君の手が僕の皿に伸ばされて、そのまま何となく細い腕を追って顔を上げる。
「っ……よ、ヨシュアっ?」
「うん?」
 僕の顔を見てなぜか動揺したらしいネク君は、わたわたと見るからに慌てた様子になりながらも、どうしていいのか分からなかったらしくそのまま二枚の皿を流しに持っていった。それからぱたぱたと忙しなくこちらに駆け寄る彼に、思わず首をかしげる。
「お、おまえ、顔赤いぞ?」
「え?」
「大丈夫か?」
 恐る恐る、といった体でぺたりとネク君の手のひらが額に押し当てられて、けれどそんな彼の手の方がよっぽど温かい。心地良いその温度に、思わず目を閉じる。
「熱、はないみたいだけど」
「ネク君」
「う、えっ?」
 湧き上がってきた衝動のままに、ぎゅ、と彼の腰に腕を回して抱き締めた。立っている彼に椅子に座ったままの僕が抱きつくと自然とそうなってしまって、肉の足りない薄っぺらな腹に顔を押しつける。
「よ、ヨシュア……!」
 一瞬びくりと身体は逃げ出しそうになったくせに、彼は僕に抱きつかれたままその場を動かない。全く、それでは僕の思う壷だというのに。
 ネク君はCATのCDを恐らく全て、揃えて持っている。奥の部屋に行けば本棚にずらりと並んだCDケースを見ることが出来るから、それは間違いない。けれどその何枚ものCDの中で、僕の作った曲が一番好きなのだという。
 これが殺し文句以外のなんだというのだろう。
「ネク君」
「な、なんだよ」
 けれど、これは彼は知らなくていいことだ。こんなに嬉しいことを、独り占めせずにいられるわけがない。精々、僕の音楽を愛でる彼の姿で楽しませてもらうことにしよう。
「僕、やっぱりデザートいらない」
 ネク君の腹に押しつけるのをやめて顔をあげると、す、と胸元に手を伸ばす。エプロンで隠れたネクタイを引き出してからそれを掴んで、くい、と引っ張った。僕の言葉の意味と行動の意図に気づいたらしいネク君は、恥ずかしそうに顔をしかめながらも従順にその身体を屈める。
「デザートより、こっちの子の方が美味しそうかなって」
 ちゅ、と一度だけ掠めるようにくちびるを触れ合わせると、ますます恥ずかしそうに顔を赤らめて目を逸らす動作がたまらなく愛しい。
「な、なら、ヨシュアの分のプリン……俺が貰うからな……っ」
 精一杯の強がりを口にしながらも、おずおずと首に回る細い腕は正直だ。
 以前ネク君は僕の声をいやらしいと言っていたけれど、ネク君なんて声だけでなくその身体全部でこちらの思考を奪いにかかるのだから、たまったものではないと思う。
 年頃の子どもらしい強がりも、未だ頭を離れない拙い歌声も、僕を甘やかすばかりで困ってしまうではないか。
「バカヨシュア……」
 だからこれ以上困らせられる前に、誘うように薄く開かれたそのくちびるを引き寄せて、そっと塞いだ。



歌うネクも歌うヨシュアさんも大好きです。 20090706

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