自分がこの部屋の住人となってから、何度日は昇り沈んでいっただろう。 随分長い間彼と寝食を共にしてきた気もするが、そのくせ何も語り合ったことなどないような気もする。 もっとも自分がこの部屋に顕現する時間はせいぜい数時間ほどで、そのときが日中か日没か程度の認識しかないのだから、分かりようがないのだが。 それでも過ぎた時間は、この小さな部屋の中で彼の興味が私へ向かうのに十分すぎるほどだったらしい。 「おまえのそれ、目見えねぇな」 それ、と彼が顎で指し示したのは私の視界を覆う黒いレンズのことだろう。 サングラス自体は彼もかけているが、うっすらと色のついたそれはちゃんと瞳が透けて見える。 対する自分のものがまとう黒は暗く重く、マジックミラーのようにこちらからは見えても相手から自分の目が見えることはない。 私をこの世界に再び存在できるよう取り計らったのは間違いなく彼ではあるのだが、その理由を自分は知らされていなかった。 彼の、貴重なプライベートな部屋なのであろうこの場所にだけ存在を許されているのも不思議で、なぜ彼がこんなことをしたのか始めのころは気にならなかったと言えば嘘になる。 この渋谷の中で、コンポーザーの目をかいくぐって力を行使できるのがこの部屋と彼の店くらいなのだろうことは分かった。ただ、それならばどうして彼がそこまでして、彼のテリトリーに自分を招き入れてまでこのソウルを繋ぎ止めたのかが分からないのだ。 それでも自分にただ他愛ない話ばかりを繰り返す彼に、そのうちこれはただの彼の気まぐれだったのかと思うようになった。だから、彼がこんな風に自分の個人的なことに踏み込むような質問をしてきたことに、正直少し驚いたのだ。 薄情な、と思われるかもしれないが、そう思わざるをえないくらい彼の私への対応は淡白だった。 彼は自分に何をさせるでもない。この部屋に呼び出しはする。他愛ない世間話、自分の知り得ない外界の話もする。香り高いコーヒーを入れては、自分に飲ませる。ただ、それだけだ。 ちょっと話し相手が欲しかったから。 そう言われたとしても、自分は疑問を持つこともなくすんなりと納得しただろう。 彼はプロデューサーという役目を負った『天使』なのだという。 仕事上の関わりで、きっと彼は何かゲームの重要な役割を果たしているのだろうことは気づいていたが、プロデューサーということ、『天使』という単語はこの部屋で初めて聞かされた。 コンポーザーよりもさらに上位次元にいるというその存在を受け入れるのは私のこれまでの認識を覆すことであり、なかなか困難なことではあった。 それでも今まさに目の前に彼は存在していて、そこまで人からかけ離れた存在なら、きっと思考回路すら私の理解を越えているのかもしれないと思うようになる。 コンポーザーでさえ、自分にとっては天上人と同義だったのだから。 それこそ、ただ話し相手が欲しいだけ、で絶対のルールによって消滅寸前だった自分のソウルを、繋ぎ止めるくらい何でもないことなのかもしれなかった。 このサングラスについて、特に嫌な思い出があるとか話したくないということはない。 それでも、ごくごくプライベートなことではあった。 自分にとっても、コンポーザーにとっても。 思えば、あの方がコンポーザーとして以外の一面を見せた、指揮者とコンポーザーとしての立場以外で関わった、最初で最後の機会だったのかもしれない。 彼になら、この部屋の中でなら話してもいいだろうか。 天使とは本来このUG内でコンポーザー以外には知らされることのない存在だという。その存在を、彼はわざわざ自分に知らせたのだ。 この部屋の中では、天使のしきたりもコンポーザーのルールも届くことはない。そう思えた。 それこそ、ばかげた考えかもしれないが、これまで淡白に接してきた彼が自分にこんな風に問いかけてきたことが嬉しかった……のかもしれない。 もっとも、大した話題提供能力のある話でもなければコンポーザーの秘に触れるわけでもない、ただの世間話のような与太話だったからこそ口にできたのではあるが。 「見えないようにしてあるんだ。これは、あの方からいただいた」 私の言葉に、彼が驚いたようにわずかばかり目を見開く。 「コンポーザーから、か?」 こくりと頷くと、ますます不思議そうに彼は首をかしげた。彼の反応も当然かもしれない。女性でもなければ、単なる一部下の男に、ましてやあのコンポーザーが他人に贈り物をしたと聞いたら、僭越ながら自分も同じ反応を返していたと思う。 「何かの手柄を立てたときにな、褒章としていただいたんだ」 手柄自体どんなものだったのかは記憶にない。記憶に残るほど何か特別なことではなく、ありふれたものだったのだろう。 それでも褒美をくださるというあの方の慈悲に甘えることは、せっかくの好意を無下にしないための部下としての役目だとも思った。 「何か欲しいものはあるか、と聞かれてな」 「その色眼鏡が欲しいっつったのか」 「ああ」 納得のいかない顔で眉を寄せる彼の反応は当然かもしれない。コンポーザーから指揮者への褒章というものが、この小さなサングラスで済まされてよかったのかどうか、今の自分ですら疑問に思う。それでも笑って応じてくださったコンポーザーの御心の寛大さには、まったく頭の下がる思いだ。 まだ何かあるんだろう、と覗き見た彼の目は不審そうにはっきりそう告げている。その疑問に答える前に、一つだけちいさくため息をついた。 「私はどうも、相手の目を見すぎるらしくてな」 話している相手の目を見るということは当然のことと思っていた。目を見て話さないということは相手に対して不誠実であると、今でもそう思っているのだが。 自分はそれが行き過ぎてしまうらしく、あるときコンポーザーに言われたのだ。指揮者になりたての、この褒章をいただく少し前。 『メグミ君の目、まっすぐすぎて僕には少し怖いな』 何でもない、他愛ない一言だった。きっと放った張本人であるコンポーザーにしても、もう覚えていないだろう。 それでもそのときの自分には少なからずショックだった。そんなに自分の視線は不躾だっただろうか。出過ぎた真似かもしれないと思いながら、その言葉の真意が知りたくて、コンポーザーに問うたのだ。 聞けば、前任までの指揮者でコンポーザーの御姿をはっきりと視認できたものはいなかったのだという。自分も時折輪郭がぼやけて見えることがあるものの、その整った造作の一つ一つまではっきり見えていると言って差し支えない。 コンポーザーのほうこそ元来他人の目をまっすぐに見られる方だと、今なら分かる。それでも畏れ多さから、顔を伏せてしまうものや、そもそもぼやけた輪郭しか捉えられないものもいたという。 『久しぶりに人の目を正面から見た気がするよ』 そう口にされたあの方を、どこか寂しそうだと思ったのはやはり出過ぎた真似だったのかもしれない。ただ、逃げるように逸らされた視線は悲しかった。 「おまえ、あの方を怖がらせたのか」 やるねぇ、と笑う彼にどんな顔をすればいいのかわからない。彼のように近しいものの態度で、気安くあの方を笑うことは自分にはとてもできそうになかった。 「それ以来、自分の視線があの方を不快にさせているのではないかと、私のほうが怖くなった」 だから、あの方に欲しいものはあるかと聞かれて、真っ先に思い浮かんだものがこれだったのだ。コンポーザーからいただいたのは確かだが、こうなるように望んだのは自分だとも言える。 「難儀なやつだなぁ」 向かいのソファに腰掛ける彼が、だらしなく背もたれに倒れるように姿勢を崩す。吐き出されたため息は楽しんでいるようにも、悲しんでいるようにも見えた。 「あの方はきっとご存知ないだろうがな」 知らせる必要も感じないし、今後あの方が知ることもないだろう。記憶もおぼろげになるほど過去のことであるし、何よりこの小さな装飾品は自分の身体の一部のように馴染んでしまった。特に邪魔だとも、外そうとは思わない。 「ふぅん」 何かに興味を惹かれたように、反面何も興味なさそうな顔でちいさく声を上げると、彼はソファから腰を上げた。 間におかれた背の低いテーブルをぐるりとよけると、とす、と隣に腰掛ける。 彼と自分はテーブルを隔てて向かい合わせに座るのが定位置だから、こんな風に近くに寄ることは滅多にない。 突然縮まった距離に少なからず驚いていると、彼は何か悪戯を思いついた子どものような顔をしていた。 持ち上げられた彼の手が自分の顔に伸ばされる。その動作は不躾でありながらごくごく当たり前のことのように行われて、あまりの自然さに動くことができなかった。 両側を摘まれたフレームが持ち上げられて、薄暗く光量の制限されていた視界が一気に明るくなる。外されたサングラスに、瞳に飛び込んでくる室内灯の光の攻撃的な量に思わず目を細めた。 ずれたサングラスの隙間から、覗く彼の虹彩に自分の金の光が写りこむほど距離が近い。 黒だと思っていた目の前の彼の瞳は薄く灰がかっていて、こんな色をしていたのかと初めて気がついた。 「俺は綺麗だと思うけどな」 天気の話でもするように呟かれた言葉が理解できない。 「な」 「隠してんのもったいないぜ?」 かたかたと手にしたサングラスのフレームを弄びながら屈託なく笑う。その彼の顔を、どうしてか見ていられなかった。 「ひ、人の持ち物で遊ぶんじゃない」 上擦りそうになる声をなんとか堪えたせいで、言葉が震える。それでも何でもない風を装って彼の手からサングラスを奪い返した。あっさりと離された手に、動揺を悟られはしなかっただろうか。 極めて冷静に努めながら、急いでサングラスをかけ直す。初めて直に交わした彼の視線はまっすぐに自分を貫くようで、いささか強すぎた。 『久しぶりに人の目を正面から――――』 ふとなぜか、あのときのコンポーザーの言葉を思い出す。頭に蘇ったその声は、まるで昨日一昨日の出来事であったかのように鮮明に響いた。 そうして、暗く視界を制限するこのレンズに頼るようになってから久しく、自分のほうこそ他人の目をまっすぐ見る機会のなくなっていたことに気がつく。 遮るもののない、正面から見た彼の目はとても。 「コーヒーでも淹れようかね」 早々に奪い返されてしまったサングラスから、もう興味を失くしたらしい。 そう言うと立ち上がってキッチンに向かった彼を見送りながら、知らず知らずのうちに硬くしていた身体からゆっくり力を抜く。 まっすぐにこちらを射抜いた彼の目はとても、恐ろしかった。彼に対してやましいことなど何もないはずなのに、些細な動揺や自分の知らないところまで暴かれてしまいそうな錯覚を覚える。 落ち着け、落ち着け。 この程度のことで冷静さを欠いていては、元指揮者としてあの方に面目が立たない。 一人頭の中で忙しなく考えている間に、こぽこぽという音と共にいい香りが漂ってきて、自然と気持ちを落ち着かせてくれた。 再び戻ってきた彼の手には、白く湯気を漂わせる二つのカップが握られている。 「今日はミルクいるか?」 「いや……」 こちらの葛藤など知ってか知らずか飄々と尋ねる彼に、返事をしながらカップを受け取ろうとした。のだが。 「!」 差し出されたカップを受けた際、わずかに彼の乾いた指先が手に触れた。ゆびが触れ合ったこと自体に驚いたのか、彼の乾いた指先に触れたことで自分の手がいつの間にか汗ばんでいたことに動揺したのかはよく分からない。あるいは両方だったのか。 動揺を隠し切れなかったように揺れた手元のカップから、茶色い液体が大きく跳ねる。幸い咄嗟にテーブルの上にカップを置いたことで最悪の事態は避けられたが、跳ねた液体は容赦なく自分の手に降りかかった。 「おい!」 「っ」 「大丈夫か?」 一瞬の熱さの後に、じわじわと痺れるような感覚は久しく忘れていたものだ。火傷をしたのなど、いつ以来だろうかとぼんやり考える。もうしばらくすればひりひりと皮膚が痛みをうったえ始めるだろう。 「何ぼうっとしてるんだよ」 珍しく焦ったような彼の言葉と共に手首を掴まれて、引っ張られた。いつのまにか隣に回っていた男に愚鈍について行くと、流し台の前に立たされる。 「ほら、ちゃんと冷やせ」 きゅ、と捻られた水道から流れ出す水に、突き出した手の甲を晒す。冷たい水が痛み出した患部を冷やす感触よりも、未だ握られた手首の方が気になって仕方なった。 骨ばった無骨な手のひらは、多彩な彼の職業柄怪我をすることも多いのだろう。お世辞にも綺麗とは言えないが、かさついた傷跡も硬くなった指先もどこか優しかった。 「す、すまない」 一体自分はどうしてしまったのか。なぜこれほどまでに動揺しているのか、先のような失態をやらかす自分を私は知らない。 指揮者として、ゲームの間は常に冷静さを要求されていた。そして、私はそうであるように努力は怠らなかったつもりだ。 この部屋に呼び出されるようになってからも、努めて何事にも心揺らすようなことなどないのだと言うように振舞った。 その努力が、今この場では何の役にも立っていない。今まで自分の身を守っていた殻が、ぼろぼろと崩れて行くようだ。彼の手によって。 彼は自分の何を暴こうと言うのだろう。なぜ、自分は今までどおりに振舞えないのだろう。 身を寄せ合うように近くにある彼の体温や、前髪を揺らすほどの距離で聞こえる息遣いにうるさい心臓の音はなんなのか、とても分かりたくなんてなかった。 これ以上この場に留まってなどいられなくて、乱暴にならないように彼の手を振りほどく。何か言いたげにする彼をよそに蛇口を閉めると、きゅ、とちいさな悲鳴を上げた。 「すまない」 繰り返すように先と同じ言葉を呟くと、とす、と彼の肩に額を押し付ける。もうこの上、自分にはどうしていいかわからなかったのだ。 「おい、メグ」 ミ、と最後までその声を聞くことなく、彼のポケットに隠されたバッジの中に逃げ込んだ。 彼の手の届かない所まで逃げても、この鼓動が収まる気がしないのはどうしたことか。 どうかこれ以上、自分を暴くのはやめて欲しい。ぼろぼろと剥がれ落ちて行く殻と共に、奥深くまで押しこめたはずの分不相応な感情まで零れ出してしまいそうだ。 脱皮をしないヘビは死ぬしかないという。 だが、脱皮した先に何があるのか、自分自身ですら分からないのだから。 (りなちゃ的な意味で)盛り上がって参りました。 20081101 →もどる |