俺は部屋に龍を飼っている。 冗談でも頭がいかれたわけでもなんでもなく、今現在の状況を簡潔に言葉で表すとなるとそれが一番手っ取り早いのだ。 倫理的にどうなのか、というのはひとまず置いておいて。 その龍は別に、部屋に入りきらないほどの胴体を持て余しているわけでも、空を飛ぶでも炎を吐くわけでもなく、ただ俺の前で静かにコーヒーをすすっている。 当たり前だ。今の彼はノイズ化しておらず、ごくごく一般的な人間の姿をしているのだから。 ソファに控えめに腰掛けているその様子は、なんとも平和だ。 「うまいか?」 「ああ」 「つまらん、って顔してるが」 「実際何もすることがないからな」 平和だ。 コンポーザーとのゲームに敗北した彼は、あの日審判の間で消滅した。はずだった。 その彼が今ここに存在しているのは、紛れもなく自分の意向によって、である。 渋谷の存亡を賭けたゲームの最終日ということで、プロデューサーである自分もその場に同席していた。代理人の前に姿を見せたのはほんの一瞬だったが。 渋谷を存続させるためにはコンポーザーと指揮者のゲームも、指揮者の敗北も、消滅も、すべて必要な事柄だった。大きな全体の流れを見た上での話だ。 それでも、やり方は違えど懸命に渋谷を救おうとする彼の姿勢は、自分にはとても真摯に映った。 俺は渋谷を愛するがゆえに今回のゲームで堕天使と呼ばれてもなお余りあるほどの犯罪を犯したが、渋谷を愛すると言うことはつまり、同じように渋谷を愛する彼に好感を持ってもおかしくないということでもある。 まあ、要するに、なんというか彼に情が湧いてしまったのだ。 彼は自分の経営するカフェの常連客だった。そのほとんどはコンポーザーによる使いだったが、たまにふらりと現れては軽食を注文し、コーヒーを飲む。俺は彼が指揮者であることを知っていたが、彼は俺がプロデューサーであることは知らない。天使の存在自体、知らされてはいないからだ。 その間に交わした些細なやりとりもまた、自分が彼に情を移してしまった一端であったと言わざるをえない。この街で生活するうちに、ずいぶんと人間くさくなったものだと、我ながらおかしかった。 コンポーザーは公正で公平であるがゆえに、その対応は時に冷酷に映ることもある。指揮者に対してもそれは変わることなく、彼は自分のルールに従うのみだった。 そんな哀れな彼に情の湧いてしまった自分は彼が消滅する間際、ソウルが霧散してしまう前に、ポケットに忍ばせていたバッジにそっとそのソウルを繋ぎとめたのである。以前自分が知識を与えたビイトが、ライムにしてやったのと同じことを。 もちろん天使である自分が低次元の存在にそこまで関与するのはまた罪を犯すことでもあったが、すでに重罪を犯した今、一つ二つ軽罪が増えたところで変わるまいと思ったのだ。 コンポーザーもまさにその場にいたのだから、気づいていなかったとも言い切れない。ただ、彼は何も言わなかった。代理人とのゲームに夢中だっただけかもしれないが。 上に報告に行った際、特に俺の犯罪について言及されることはなかった。これにはさすがに驚いたものだが、そのときもコンポーザーは何も言わなかった。確かに並行世界の自分からの通報だけは免れるように対処していたとはいえ、確実にコンポーザーから上へ報告されるに違いないと思っていた。渋谷の存亡に関与した重罪も、彼を繋ぎとめた軽罪も。だが、今日に至るまで何も音沙汰はない。 おかげで、堕天使と成り果てた身でありながら、今日も俺はのうのうとこの渋谷で暮らしている。 暢気に彼とコーヒーをすすっている光景は平和すぎて、なぜ誰も壊しに来ないのかと疑問に思うほどである。 コンポーザーはこの渋谷にとって稀有な存在ではあるが、当たり前に心を有しているがゆえ情も葛藤も矛盾も内包している。それもまた、この世界には必要なことなのだ。 ただ、その矛盾がなぜ代理人には適応されて、彼には適応されなかったのかというのは今でも解せない。 この渋谷での『生き返り』の権限はコンポーザーが所有している。この渋谷で活動を行う以上、天使の前にプロデューサーである自分は、その権限に従わなくてはいけない。 一度、コンポーザーの元に彼のソウルを連れて直談判しに行こうかと、彼に持ちかけたことがある。だが、彼が首を縦に振ることはなかった。 コンポーザーから与えられた慈悲を全うした自分には、そんな出過ぎた真似はできないという。 彼が望まないなら仕方がないと、それからその話をすることはなかった。 だから彼はこうして、俺のテリトリーである場所でしか顕現できない。ここ、俺の部屋と、活動拠点であるワイルドキャットのみだ。 「君の……」 自ら望んでここに存在しているわけではない彼の態度は、この部屋で過ごすようになってからしばらく経つというのに未だ他人行儀だ。 「なんだ?」 「いや……CATと言ったか、活動は順調か?」 なんという平和な世間話だろう。 「おかげさまでな、大盛況だよ。渋谷の未来は明るいぜ」 「君のアートはイマジネーションが強いものを惹き付ける、だったな」 渋谷で俺のアート作品が広く受けいれられているということは、未来を描くイマジネーションの強い者が増えているということの証明なのだ。 「店のほうは相変わらず閑古鳥が鳴いているようだが」 俺越しに奥の窓を見ながら(もちろんただの窓ではない。俺のワイルドキャットとつながっている)コーヒーカップを行儀よく両手で支えた彼が笑う。珍しい表情だ。 「俺の味は玄人好みなんだよ。それと、サナエでいいって言ったろうが」 苦笑する彼は、以前俺の店の常連だったときは気安く呼びかけていたはずだ。それでも、こうして俺の部屋の住人になってから呼ばれたことはない。制限付きで、この部屋以外にカフェまでなら出ることも出来るが、顕現した彼がここから動くこともない。 コンポーザーの許しを得ずにこの世界に留まっていることが、彼の中の何かを押し留めているのかもしれなかった。 それでも俺の呼びかけには応じて、こうして部屋の中でじっとしていたり、たまにうろうろしたりする。 俺が外出するとき、及び就寝時には彼はソウルに戻りバッジの住人になる。というか自分は殆ど外出してばかりの生活のため、大抵彼は俺のポケットのどこかしらに収まっていた。就寝時に顕現させないのは単純に、この部屋に大の男二人が眠れるだけの十分なスペースがないからだ。バッジに定着しているとき、彼に意識はあるのか、居心地はいいのかは甚だ疑問ではあるが、残念ながら自分には知り得ない。彼も特に語ることはない。ただ、ほどほどに不快ではない空間であることを祈るのみだ。 俺の部屋に顕現しながら、彼は何も言わずにそこにいる。ぴんと背筋の伸びた彼の姿勢は見ていて気分がよく、上品な振る舞いで実に美味そうに俺のコーヒーを飲む。 砂糖は入れないが、日によってミルクを所望されるときがある。彼は多くを語らないが、そんな些細な知識は確実に日々増えていた。 ソファに慎ましやかに座るその様子が何となく大人しい大型犬を彷彿とさせて、どことなく……可愛い、ような気がする自分は、やはりどこかいかれているのではないかという疑問も、これまた日々確実に増えていく。 これ以上増えると、自分は何か取り返しのつかないことをしでかすのではないか、という危機感がちらつくのはどうしたことだろう。まあ、堕天使である自分がこれ以上何をしでかそうと、世界にとっては些細なことなのかもしれない。 そんな煩悶を繰り返しながら、俺はこうして彼にコーヒーを飲ませ、彼は何も言わずにこの部屋に留まっている。 「メグミ」 彼はゆっくりと顔を上げる。濃い色のレンズに阻まれて、その瞳の色を知らせてはくれない。 「戻りたくなったら、いつでも言えよ」 彼が本来忠誠を捧げているはずの人物の元へ。 彼は嫌がるだろうと思い、あれからこの話はしていなかったのだが、ぽろりと言葉が零れてしまった。明確な言葉にせずとも、何の話であるかはすぐに伝わっただろう。 ただ、彼は何も言わず、微かに苦笑を漏らしただけだった。 俺は部屋に龍を飼っている。 この龍が、いつこの部屋を窮屈に感じて飛び立つ日が来るのか、天使である俺にもわからない。 目指せきみペ+南くんの恋人。 20080919 →もどる |