目が覚めたら、目の前に自分の顔があった。 他の誰かがそんなことを言っているのを聞いたら、間違いなく俺は『何を言っているのかわからない』と思うのだろうが、それが自分に起きた出来事ではどうか。 やっぱり、自分でも何を言っているのかわからない、と、今現在進行形で考えている。 「あ、起きた」 きょとんとした瞳でぽつりと呟かれた声は、俺のもののようでどこか違う。いや、違うと思いたいだけで、実際は自分が普段発している声を自分で聞くのと、それをレコーダーに録音したときに聞いたときでは違う声に聞こえるという、ただそれだけの話だ。要するに、その声は紛れもなく俺の声そのものなのである。 「……! なっ、お、ま」 思わず、冷たい床に寝転がっていたらしい身体でがばっと起き上がる。その途端にぐらりと頭がふらついて、微弱ながら痛みが走った。頭の奥のほうにぐわぐわと響く弱い頭痛がなんとも不愉快だ。 「おまえ、どこの世界の俺? その制服、キャットストリートのとこにある高校のだよな? 俺が着てたのと違う」 言いながら、俺の首元でゆるく締められている青いネクタイを指差す姿は、やはり何度見ても俺の顔だった。 ぐるぐると混乱する頭で、それでもなんとか冷静さを取り戻そうと必死に脳みそをフル回転させる。以前もこんなような、似たようなことがあった。そのときに会ったのはもう一人の俺ではなく、もう一人のヨシュア、だったけれど。 どこの世界の俺か、と、目の前の『俺』は言っただろうか。 「……並行、世界?」 ぼんやりと頭に浮かんだ言葉を知らず知らずのうちに口にすると、目の前の顔がぱっと明るく笑う。なんだろう、この違和感は。俺はこんな風に無防備な笑い方ができただろうか? 「なんだ、その言葉は知ってるのか。なら説明する手間は省けるな」 「お、まえは……俺、か?」 「おまえの名前が桜庭音操で合ってるなら、間違いなくそうだと思うけど」 やはり、目の前の人物はもう一人の『俺』らしい。数ある並行世界には、その世界の分だけ俺がいるとは聞いていたけれど、実際に会ってみたいなどと思ったことは一度もない。というか、できることなら会いたくなどなかった。もう一人のヨシュアに会っただけで、それはもう面倒だったというのに。 「うーん……世界の並行移動なんてヨシュアの管轄だから、俺にはちょっとわかんないんだけど……」 それでも好奇心という名の本能から、思わず目の前の人物を改めて上から下まで凝視してしまって、その身なりにぎょっとした。 「お、おまえ! なんだよその格好!」 「格好?」 不思議そうに首をかしげてきょときょとと自分の身なりを確認する目の前の『俺』は、格子柄の長袖ワイシャツを一枚着ているだけだった。サイズが大きいのか、手首が出るくらいまで袖を大きく捲っている。 ズボンは穿いておらず、ぺたりと床に座り込むがりがりでみっともない太腿が丸出しだった。シャツの裾が長くてその下は確認できないけれど、せめてもに下着は穿いている、と思いたい。 人前でそんな姿を晒して平然としていられるという、それだけでも俺の理解の範疇を越えているのに、彼の首に付けられているそれは……どう見ても、犬用の首輪にしか見えないのだが。 「これ、ヨシュアの」 シャツの胸元を引っ張りながら嬉しそうに笑われても、俺が聞きたいのはそんなことではない。なかったけれど、ああでも世界は違えど、コイツもちゃんとヨシュアと一緒にいるのか、とついその名前には反応してしまう。いや、待てよ、なんで『俺』がヨシュアのシャツを着ているんだ。そしてなんでズボンを穿いていないんだ。 「あれ、ヨシュアは知ってるよな?」 全く見当違いの質問に、それでも勢いでこくんと頷く。気になることは山のようにあったけれど、とにかく目の前の人物の身に付けているもので一際異彩を放っているそれが何なのかを、俺は何よりも知りたかった。 「おまえ、それ、何」 余りに気が動転していたせいで、彼の首元を指差しながら片言のような単語を口にするしかできない。 「これ? これもヨシュアの。正確には、ヨシュアから貰ったやつ。いいだろ?」 だろ? と言われても、もはや『俺』が何を言っているのかわからない。何度瞬きをして見直してみても、それはどう見たって首輪以外の何者でもなかった。田舎で祖父母が飼っている大きな柴犬が首につけていたものと全く変わりない。それを、ヨシュアがくれた、というのは。 「とりあえず、このままここで寝ててもしょうがないし。立てるか?」 あまりにも理解を超えた想像に、俺は考えることを断念した。差し出された手を素直に取って、何も考えずに立ち上がる。とにかくもう一人の俺のこれまでの経緯は見なかったことにして、自分の現状を確認する方が先だ。 「ここは?」 「審判の部屋。来るの初めてか?」 言われてぐるりと辺りを見渡すと、薄暗い中に見覚えのある玉座やヨシュアの部屋へ続くドアが見えた。 「いや、何回かは来たことあるけど」 「そうか。起きてこっちの部屋に来てみたら、なんかおまえが倒れてるからさ。びっくりした」 何気なく言われたその言葉に、どこか違和感を覚える。起きて? 「おまえ、ここに住んでるのか?」 起きてすぐにこの部屋に来たということは、この部屋に近いどこかで寝ていたということだ。彼の格好もいわゆる部屋着に該当するのだとしたら、何となくもやもやは残るもののある程度納得がいく。 「住んで? うーん、まあそうとも言えるな。正確には、住んでるっていうならヨシュアの部屋に、だけど」 あそこ、と指差されたのは、大きな柱にも見えるヨシュアの部屋の扉だ。俺は数える程度しか入ったことのないその部屋に、もう一人の『俺』は住んでいるのだという。『俺』にも色々いるんだなと思うと同時に、じわじわと胸に広がるこの気持ちが何なのか、認めてはいけないような気がして、無理矢理見ない振りを決め込んだ。 扉から視線を引き剥がして、再び『俺』に目を向けると、向こうもこちらを見ていたらしい。合わさった視線は、少しこちらを見上げるような形で。 「おまえ、今何年?」 「は?」 「学年だよ。高校生だろ?」 妙な質問に、こちらがあからさまに戸惑ったのを向こうも感じ取ったのだろう。それでもじっとこちらを見つめる瞳に、質問の意図が掴めないまま渋々口を開いた。 「高三、だけど」 「ああ、そっか。俺も三年になってたら、もうちょっと背も伸びてたんだな」 言われてよくよく見ると、目の前の人物は俺よりも少しばかり背が低い。ぱっと見ではわからなかったけれど、もしかして歳が違うのだろうか。時間の流れの違う並行世界もあるのか、とか現時点ではそのくらいの推察しかできない。 「俺の身体、高一のときで止まってるから」 それはどういう意味か、と俺が口を開く前に、がちゃ、と背後で扉の開く音がして、コツ、コツ、と耳慣れた足音がする。その途端、がくん、と膝から力が抜けてしまって、わけの分からないままに床に崩れた。 「ヨシュア!」 同時に、目の前の『俺』はもはやこちらなど見えなくなってしまったようにくるんと振り向いて、ぱたぱたと足音のするほうに駆けて行く。その様はまるでよく慣らされた飼い犬そのものだ。そして、その犬が駆け寄った先にいた主人はもちろん。 「ただいま、ネク君」 「おかえりなさい」 ずっしりと重くなった頭をなんとか持ち上げて見遣った先には、見慣れた生成り色の髪。けれど、その人物は俺のよく見知った姿ではなかった。背が高く、あどけなさの抜けた顔に怜悧な美貌を湛えたその出で立ちは、低位同調を解いたオトナ姿のヨシュアである。 「あれ?」 ぐらぐらと揺れる頭に、思うとおりにならない身体。この感覚にも、残念ながら覚えがある。 「ネク君が二人いる」 コツ、コツ、と響く靴音がこちらへ近づくたびに、びく、と身体が怯えた。それでも思うとおりにならない身体では、逃げることもできない。俺にこのプレッシャーを与えている原因は、間違いなく目の前の人物である。低位同調をしていない上に、その強大な波動を欠片も制限などしていないかのようだ。 これが、きっとこの世界のヨシュアなのだろう。俺のヨシュアは、間違ってもこんなことはしない。 「なんか、起きたらここに寝てたんだ。ヨシュア知ってる?」 「んー、今日は朝急いでたから、気がつかなかったけど」 床に座り込む俺の前で足を止めた大人姿のヨシュアは、ひょいと屈むと、不躾なくらいの視線で俺の顔を覗き込んだ。スミレ色の瞳にまじまじと見られるだけで、無意識のうちにかたかたと身体が震える。 「君はどこの世界の子かな? 見たところ、あんまりこの世界とかけ離れた波動ではないみたいだけど」 「おまえ、大丈夫か? 身体震えてる」 ぺたぺたと歩いてきた『俺』も、ヨシュアの真似をするように俺の顔を覗き込んだ。波動を制限していないヨシュアの隣で平然としているのが、信じられない。 「うん、多分プレッシャーがかかってるんじゃないかな? ネク君も始めはこんな感じだったの、覚えてるでしょ? 君は僕の波動にあんまり慣れてないんだねぇ」 「ああ、あれか。なんか懐かしいな」 「ふふ……昔のネク君みたい。かわいい」 口々に勝手なことを言いながら、す、と伸ばされた大きな手が俺の顎を掴んで、長いゆびが不躾に頬を撫でる。触れられたところからじくじくと得体の知れない感覚が身体を駆け抜けて、ぴく、ぴく、と情けなく身体が跳ねた。 「ふ……ぅ、や……」 「ああ、でも君の顔を見たら思い出した。今日はなんだか変な夢を見たんだった」 身勝手にこちらを弄ぶヨシュアの隣から、やけに視線を感じるのはなぜだろう。閉じそうになるまぶたを何とか持ち上げて横を見ると、『俺』が面白くなさそうな顔をしている。 「夢?」 「うん。断片的にしか覚えてないけど、確かどこかの並行世界のネク君を誘拐する夢」 とんでもないことを言いながら、気まぐれな指先が今度は耳元にかかる髪をつう、と掻き上げた。 「ひっ……」 不躾にじろじろとこちらを見つめる猫のようなスミレ色の瞳が、すうと細められる。ピアスの嵌った左耳のホールを爪の先でくすぐられて、意図せず変な声が漏れてしまった。 次の瞬間、コツ、と聞きなれた靴音が後ろの方から微かに聞こえた。 「その夢のせいで、こっちはえらい迷惑を被ったんだけど」 穏やかな中に棘を含んだ、目の前の人物と同じ声。けれど、それは俺が今一番求めていた声だということはすぐにわかった。 「やあ、君が彼の飼い主かい?」 射抜くようなスミレ色が、俺をすり抜けて見上げるように背後に向けられる。俺も今すぐにでも振り向きたかったのだけれど、強引な手に顎を掴まれたままではそれも叶わない。 「まったく……夢と現実の境界も明確にできないなんて、君、それでもコンポーザーかい?」 目の前の男のふざけた質問には答えずに、俺は滅多に聞くことのできない苛立ちを露にした声が足音と共に近づいて、すぐそこまで迫ったかと思うと、ぐい、と後ろから強く抱き寄せられた。 「汚い手で気安く触らないでもらえるかな?」 「おやおや、これはまた随分可愛らしい僕のご登場だ」 脇の下に回された腕が立ち上がるのを手伝ってくれたけれど、それでもまだがくがくと笑ってしまう膝に、支えてくれる細い身体へ必死にしがみつく。その顔を見上げると、まるみを帯びた白い頬と心配そうにこちらを見つめるスミレ色が見えた。子ども姿の、いつも通りの、俺のヨシュアだ。 「やめてよ、気持ち悪い。『僕』に可愛いとか言われたくないし」 「へぇ? なら正直に言おうか。随分ちんけな姿だね?」 くすくすと笑いながら、折りたたんでいたその長い身体で優雅に立ち上がるヨシュアは、やはり俺の知らない世界のものだと確信する。俺のヨシュアなら、あんな残虐な笑い方はしない。ついでに、立ち上がったヨシュアの腕にすぐさま抱きついて、まるでペットのように寄り添う『俺』も、知らないものだ。 「どうでもいいけど、その下品な波動を仕舞ってくれないかな? 不愉快だから」 未だ自力で立つこともできない俺の様子を見て、ヨシュアも察したのだろう。けれど、オトナ姿のヨシュアはそんなのはどこ吹く風と言わんばかりだった。 「君、まだその子のこと貰ってあげてないんだ? そのピアスも、ただの飾りみたいだし」 ピアス、と言われて先ほど耳元をなぞっていったゆびの感触を思い出し、ぞくりと背筋がざわめく。よくよく見ると、向こうの『俺』の左耳にもピアスが嵌っていた。ヨシュアの瞳と同じ、スミレ色の。 「なんのことだかわからないな」 「やれやれ……その子も、『僕』のものになりたがってるように、僕には見えるんだけどね? 強い波動にも全然慣れてないみたいだし」 「……」 「生殺しって感じがするよ。可哀想」 哀れむような声を漏らしながら、その表情は心底楽しそうに笑っていた。それから腕にまとわりつく『俺』の腰をいやらしい手つきで抱き寄せると、飼い犬の頭を撫でてやるみたいにその橙色の髪を梳く。 人前でそんなことをされたら、俺は間違いなくヨシュアを突き飛ばしているだろうけれど、向こうの『俺』はそんな素振りは欠片も見せずに、それはもう嬉しそうに笑っていた。 「……眷属、か……悪趣味な首輪だね」 耳慣れない言葉に思わずヨシュアの顔を見上げる。その表情は、苦虫を噛み潰したかのような、忌々しそうな、なんとも複雑なものだった。 「よ、しゅ……」 「これ以上彼をUGの空気に晒したくないから、僕らはもうこれでお暇させてもらうよ」 なんとか喉からひねり出そうとした俺の声を、ヨシュアはわざと掻き消すタイミングで口を開いた。この先は、俺に聞かせたくないとでも言うように。 「そうかい? それはそれは、ろくなお構いもしませんで……残念だねぇ」 先ほどから、あちらのヨシュアは言っている言葉と表情がまるで噛み合っていない。残念と言いながら、そのくちびるから漏れる笑いを隠そうともしなかった。 「もう二度と、君の顔は見ないで済むように祈っておくけど」 「ふふ、ひどいなぁ。その子の気持ちも中途半端に放ったままだし、君、可愛い顔して案外鬼畜生だね?」 自分だって同じ顔だろ、と思ったものの、ここで口を挟むほど俺は命知らずではない。 「……今度同じようなことがあったら、この世界の安全は保証しないよ?」 背筋も凍るような冷たい声を返すと、すぐに抱きこまれた俺の視界はヨシュアの胸に覆われて、子どものように残酷な無邪気さをまとった飼い主と、従順な彼の犬の姿はどこにも見えなくなってしまった。 「どこも怪我してない?」 「ああ……」 「何か、ヘンなことされなかった?」 「……大、丈夫」 ヨシュアの腕に抱かれながら、先ほどの光景が頭を離れない。目の前にいるヨシュアのことだけで頭がいっぱいにできないなんて、俺はどうかしてしまったんだろうか。 「ごめんね。僕の不手際で……」 大きすぎて袖も裾も余ったシャツ。所有物なのだと強調するように巻かれた首輪。ペットのように、素直に甘える俺ではない『俺』。その、幸せそうな顔。時間の止まった身体。ヨシュアに独占されるということ。支配者然とした顔で振舞うヨシュア。 ヨシュアはヨシュアのやり方で俺を大事にしてくれている。俺のことを想ってくれている。それ以上に幸せなことなんてないってわかってる。だから、こんなこと、思う方がどうかしてるんだ。こんな馬鹿なことを思ってしまうのは今だけだ。冷静になったなら、きっと笑い飛ばしてしまえるだろう。今だけ、だから。 こんなの、ヨシュアにだけは絶対に言えない。 「ネク君?」 向こうの『俺』を、羨ましいと思ったなんて。 悪い子ネクはお仕置きを受けるべき。 20090708 →もどる |