※性描写を含みます。ご注意ください。




自室の扉を開けながら、声に出さずその名を呼ぶ。
すると彼はそれに応え、ソファに掛けて待っている。
あたかも、最初からそこで過ごしていたかのように。

ソファに近づく。
彼は腰を上げ、一人分の場所を空けて座り直す。
あえて半ば以上それを無視し、すぐ隣に腰を下ろす。
彼は嗜めるように苦笑するが、咎め立てはしない。

身を寄せる。
彼はそれも拒まない。
ただ思慮深く、落ち着いた表情で問うだけだ。
「……大丈夫か?」
広い掌が、案じるように頬に沿うのを感じる。
「休息を、取っていないように思えるが」
彼の指摘は、正しい。
ここ最近、職務を終えた後の時間は
ほぼ全て、彼と過ごすことに割いている。
もとより、生身の人間からは遠く離れた身だ。
食事も睡眠も、半ば嗜好のようなものにすぎず
仮に止めたところで、深刻な影響はない。
しかし、彼をこの部屋に呼んだ当初はまだ、
常人と同じような生活のリズムを保っていた。
彼が変化を訝しむのも、無理からぬことだろう。

それでも。
「いいんだ」
最低限の答えだけを返し、組み敷くように寄りかかる。
「構わねぇよ」
彼の返事は聞かない。
言葉を交わす、わずかな時間さえ惜しかった。
抱き締めて寄り添い、首筋に顔を埋める。
それすらも、彼は拒まない。



同じ街を愛した男が、目の前で消滅しようとしていた。
彼を失うことに耐えきれず、その魂を繋ぎ止めた。
誰にも口外できない。したところで、信じる者はあるまい。
だが、呼びかければ彼は、今までと変わらぬ姿で現れた。
一度の消滅を経たことなど嘘のように、歩き、語り、食事を摂る。
それが、本当に喜ばしかった。
特別、彼に何かをさせるために蘇らせたわけではない。
ただ、平穏な時間を共に過ごせる、それだけで十分だった。

十分だった――と、思う。

いつからか、平穏な日々の歯車は狂い始めた。
あるいは、狂い始めたのは、他ならぬ自分か。

彼を呼べるのは、私的な拠点であるこの場所だけだ。
休息と、職務の整理のためだけにあるような部屋。
暇つぶしになるようなものもなく、いるのは二人だけ。
彼自身に興味が向くのは、必然であったかもしれない。

最初は、ただ何気なく触れるだけだった。
広い掌、微笑む頬は不思議と温かく感じられて、
彼が存在するという、幸福感を得ることができた。

次第に、それだけでは足りなくなった。
同じソファの上で、肩を寄せ合って眠ったこともある。
緩く波打つ髪を、日がな一日梳いて過ごしもした。
しかし、彼と共にいる時間が増せば増すほど、
欲求は深くなり、満ち足りるということがなくなった。

そしてついに、その欲求は堰を切って溢れ出す。
きっかけは、彼にコーヒーを淹れてやった直後のこと。
白い陶器に沿う、血色の薄い唇を、目にした瞬間だった。

その時の心持ちを、一体どう表現したものか。
あれから少なからぬ時間が過ぎた今も、
相応しい言葉を、自分は見いだせずにいる。

だが、理解の及ぶ部分を端的に言い表せば、こうだ――
自分は、ひどく動揺した。
何気ないはずの光景に、目が眩み、息が詰まった。
カップを置いた彼を振り向かせ、強引に口付けた時。
文字通り唇を奪ったその時、自分は何を考えていたのだろう。
おそらく、何も考えてはいなかった。
薄皮一枚を隔てて感じる彼の温もり、それ以外は。

不意を打った、あまりに唐突な口付けだった。
技巧も気遣いも、あったものではない。
にもかかわらず、ただ一瞬交わしただけのそれは
これまでの記憶に残る、どんな接吻より鮮烈だった。
五感に訴えかけた感触など、今となっては思い出せない。
だが、消滅する最期の瞬間まで、忘れることはできまいと
確信させるほどの何かが、そこにはあった。

だが、永遠とも思えた時間にも、やがて終わりは来る。
衝動が醒め、我に返った自分の目の前にあったのは
身じろぎ一つせず、物も言わずこちらを見つめる彼の姿。
濃い色のサングラスと、自分自身の影に阻まれて
その瞳の色を窺い知ることはできなかったが、
驚きに見開かれていることは、想像に難くなかった。

理屈より先に、感覚で理解した。
取り返しのつかないことを、してしまったのだ。
職務を通して、彼とは長く付き合ってきた。
意見が衝突することもあれば、譲れないことも多くあった。
だが、信頼と呼べるものもまた、少なからずあったと思う。
それなのに、この一瞬で、自分がそれを壊してしまった。
互いが長い時間をかけて築いてきたものを、一方的に。
深い罪の意識が、刃のように胸に沿うのを感じた。

それ以上、彼の顔を正視できなかった。
広い手に縋り、頭を下げ、恥も外聞もなく謝った。
――許してくれ。
――許してくれ。
上辺だけの関係を、取り繕うための謝罪ではない。
自らの手で壊してしまった、彼の信頼を取り戻したい。
心の底からそう願って、何度も、何度も、必死に詫びた。

彼は、驚くほど冷静だった。
――何を詫びる。
奪われたばかりの唇へと、静かに指を滑らせながら。
――君が繋いだ命、君の好きに使えばいい。
――違うか?
消滅する前と何ら変わらない、理知的な口調で。
まるで諭すように、彼は微笑すら浮かべてみせた。
――たとえ再び消滅するとしても、私は文句は言わん。
――君の手にかかるのならば、な。
そう言って、彼は笑ったのだ。

あくまで、理性的に考えるなら。
自分はそこで、満足するべきだった。
彼は、容易く他人に気を許すような男ではない。
その彼が、こちらの唐突な行動を笑って許したのだ。
信頼を失わずに済んだだけで、よしとすべきだった。
決して、それ以上など望んではいけなかった。

仕立ての良いスーツの背に、緩く広がる黒い髪にも。
革張りのソファの上、無造作に横たわる広い掌にも。
わずかな潤いを残したまま、微笑の形を保つ唇にも。
決して、目を奪われたりしてはいけなかったのだ。

――いけなかった、というのに。

気づけば再び、自分は我を忘れていた。
言葉では形容しがたい何かに、突き動かされるように。

いっそ禁欲的なまでに、均整の取れた身体を見た。
抜けるように白かった頬に、微かな朱が差すのを見た。
色素の薄い瞳に湛えられた、静かだが強い意志の光が
熱に浮かされたように霞む様も、全てつぶさに見ていた。

先刻の忘我と自責を、繰り返すだけだと思っていた。
一度果てれば醒めてしまう、刹那的な衝動にすぎないと。
だが、解き放たれたそれは、鎮まることを知らなかった。
事を終え、朝を迎え、彼と離れて過ごす時間を幾度経ても。
疼きにも似た熱情は、胸を蝕み続け、決して消えなかった。



今に、至るまで。



一度気を遣り、深く息をつく。
彼の瞳が、緩やかに焦点を取り戻した。
少しだけ開いた唇から、安堵したような吐息が漏れる。
繰り返される呼吸に合わせ動く、逸らされたままの喉。
獲物を食らう獣の勢いで、それを甘く食んだ。
歯は立てない。
代わりに唇で、舌で、皮膚と汗の味を愉しむ。

何度か甘噛みを繰り返すと、彼の喉が低く鳴った。
薄い皮膚ひとつを隔てて、はっきりと感じられるその震えは
再び引き結ばれた唇に阻まれ、声になることはない。

こうして身体を重ねている間、彼は決して多くを語らない。
拒むこともしないが、自らの言葉で求めることもない。
無論、彼も一人の男性だ。自尊心があるのだろう。
しかし、苦痛も快楽も等しく押し隠そうとする素振りには
まるで、こちらの心情を気遣っているような節がある。
感情や欲望の発露は、求める側の興を削ぐものでしかない――
そう考えているようにすら、見受けられるのだ。

だが、時に彼の仕草は、言葉よりも遥かに多くを語る。
たとえば、首筋の感覚に反応して強張る腕の先。
骨張った指が、縋るようにソファの張り地を掻いている。
だが、滑らかな革は、無慈悲にそれを滑らせるだけだ。

彷徨い続ける彼の手に、自分の掌をそっと重ねる。
最小限の力だけを乗せて、皮膚の上を緩やかになぞる。
何度も、何度も。
微弱な感覚を染み込ませるように、それを繰り返す。

広い手が、もがくことを止めた。
微かな電流を受けた時のように、小さく強張る。
――早苗。
彼の唇が、動く。
あの時に自分を惹きつけて、二度と離さない唇が、
声に乗せず、ただ吐息の震える音だけで、自分の名を呼ぶ。

――早苗。
声にならない声が、もう一度自分を呼ぶ。
聞こえなかったふりをした。
首筋に沿わせた唇も、手の甲を撫でる指先も。
何も変えず、ただ同じ触れ方を続ける。
向けられた眼差しにも、あえて視線を合わせない。
いつから自分は、これほど意地悪くなってしまったのか。
その問いに答える者など、ここにはいない。
いるのはただ、彼を知って変わり果てた自分と、
「……っ、早苗……!」
撫でていた指先を絡め取るように握りしめ、
上擦った声で、縋るように自分を呼ぶ彼だけだ。

「メグミ」
彼が繋いできた手を、握り返す。
もう片方の手で、頬に張りついた長い髪を梳く。
「どうかしたか……?」
露になった耳元で呼びかけると、彼の手がまた強張った。
漏れ聞こえる掠れた声の、何と心地良く響くことか。
耳朶の曲線を辿るように口付け、幾度もそれを味わう。
彼にしてみれば、これも意地の悪いことかもしれない。
だが、触れていたいという想いには、一片の偽りもないのだ。
言葉を交わす合間にすら、求めずにいられない。

「……もう、やめておこう」
彼の空いた手が頬に触れ、頭を撫でた。
「君は少し、休んだ方がいい」
子供に言い聞かせるような態度に、思わず苦笑する。
「別に、死にやしねえよ」
彼は緩く首を振り、落ち着いた口調で言葉を重ねた。
「それでも、判断力は鈍る」

「早苗」
頭を撫でていた手で、招くように抱き寄せて。
「私の意志を託せるのは、君をおいて他にはない」
吐息の混じった声で、懇願するように囁きながら。
「君の力が失われれば……誰が、」
この世界を守るのか、と。
問いかける瞳は、真っ直ぐにこちらを向いている。
だが、湛えられた意志の光は、ここを見てはいない。
彼の眼差しは、扉の先――外の世界を、見ている。

同じ街を愛した男が、目の前で消滅しようとしていた。
彼を失うことに耐えきれず、その魂を繋ぎ止めた。
誰にも口外できない。したところで、信じる者はあるまい。
未だ街を愛し続ける彼に、心を奪われている、などとは。

時折、思うことがある。
自分が守るべきは、部屋の外に広がる世界ではなく、
彼と二人きりで過ごす、この場所なのではないかと。

扉を開け、外の世界をくまなく探したところで
彼の姿は、どこにもない。
居場所も痕跡も、残ってすらいない。
あるいは、他の並行世界。
そこならば、彼と同じ姿を見つけることができるだろう。
だが、それは自分の求める彼ではない。
街の消滅という運命に、身を賭して立ち向かった彼は、
この部屋、この小さな世界にしか存在しないのだ。

「私は、どこにも行くことはない」
囁く声で訴えかける彼は、気づいているだろうか。
同じ街を愛し、守り続けようという使命感。
かつて二人で共有していたそれが、失われつつあることに。
「君が、私を必要としなくなるその時まで」
彼が存在しない世界なら、もう守る意味がない。
理性でいくら否定しようとも、その想いは増すばかりだ。
「だから、君は――」
扉の外に広がる世界を、守ってくれと。
その切実な願いだけが、自分を外の世界に繋ぎ止めている。

「……わかったよ」
宥めるように頬を撫でると、彼の唇が安堵の形に緩んだ。
「その代わり――」
視線でベッドを示し、隣で眠りたいと訴えると
彼は少し困ったように笑ってから、身体を起こした。
疲労が抜けないのか、どこか大儀そうな歩みに手を貸す。
鈍く軋むベッドに、二人して沈み込むように横たわる。
同じシーツの中で繋ぐ手は、変わらず温かい。

肩に額を預けても、彼は咎めることをしなかった。
今のところ、自分が望む全てを、彼は許してくれている。
自室で過ごす時間の大半を、共に過ごすことも。
さらに、その時間のほぼ全てで、肌を重ねることさえ。
そこに確かな信頼を感じるのは、自惚れではないと思う。
一個人としての高い矜持も、男性としての自尊心も、
構わず譲り渡してくれるほどには、信じられていると思う。
だが、そこには残酷な事実がある。
彼が信頼を寄せ、全てを許し、微笑みかけるのは、
あくまで同じ世界を愛し、守っていた自分に対してなのだ。

彼を知って、自分は変わってしまった。
焦がれている、そうとしか言い表せないような想いを、
何より街を愛してやまない彼が、知ってしまったなら。
彼はそれでも、自分を信じていてくれるだろうか。
好意は、情は、こうして身体を交わらせた記憶は。
その時を迎えた瞬間、何に変わってしまうのだろう。

眠りに落ちようとしていた意識が、曖昧に抱いた思考。
しかしそれは、目を醒ますには十分な冷たさを持っていた。
「早苗?」
彼の声が、驚いたように自分を呼んだ。
我知らず震えていた背中を、広い掌が撫でる。
「シャワーでも、浴びてくるか?」
汗で身体が冷えたようにでも、見えたのだろうか。
彼は腕を廻し、暖めるように身を寄せてくれた。

無駄のない身体の線。
黒髪と対照を成すかのような、くすみのない肌。
穏やかで、理知的な光を湛えた瞳。
間近で見るそれら全てが、美しいと思える。

何気ない情景の中で、彼を見たあの時から。
この想いは胸を焦がし続け、消えることがない。
たとえ近い将来、それで彼の信頼を失うとしても。
おそらく自分は、この想いに操られ続けるだろう。
――離れたくない。片時も。

「……勿体ねぇよ」
汗の味が残る肩口を、強く吸って痕を残した。
次に彼を呼ぶ時には、それも消えているだろうと知りながら。



C-7さまからいただきました。ありがとうございました! 20081029

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