ケーキを目の前にして、ネクはふと呟いた。 「ヨシュアの誕生日っていつ?」 まるでその場だけ空気が固形になったかのような、不思議な違和感がネクの頬を突くとき、やっとヨシュアは口を開いた。 「さあ、忘れちゃった」 「なんだそれ」 突き立てたフォークを斜めにして、一口分を切り落とす。倒れかけたクリームは危ういところで救出に成功した。 冬の夜。甘いものが食べたいとずっと口にしていたネクの言葉を覚えていたヨシュアが、シゴトの帰りに買ってきたおみやげは、見た目もきれいなチョコレートケーキだ。 食後にきちんとコーヒーまで淹れてくれて、まるで誕生日みたいだなんて口にしたのが始まりだった。 「でも、ちゃんとトシは……?」 「さあ、どうなのかな」 「それってやっぱり、ヒトじゃないから?」 何気に口に乗せた言葉が重みを増す。そうだ、ヨシュアはヒトじゃないから──。 「そしたら、ネク君は僕のこと嫌いになっちゃう?」 「なんで!」 荒げた口に、ヨシュアの手で薄いチョコが乗せられた。小さなチョコレートのカケラが柔らかくとろりと溶け出すのを受け止め、ネクは慌てて口を閉じる。 「僕の全部をわかっててくれるんでしょ?」 くすくすと笑うヨシュアの手からフォークが持ち上げられる。はい、と一口分を詰め込まれて、ネクは言い返すことも出来ずに口を動かした。 甘いチョコレートの香りが鼻から抜けていく。いいケーキを買ってくれたんだ、とネクは今更ながらに胸の片隅がじんとしてくる。決して嫌いにはなれない自分の気持ちだ。 「全部かは、わかんないけど、少なくとも」 フォークを取り上げてから自分の分のケーキを切り分ける。お返しにとばかりに突き刺した甘い塊はヨシュアのキレイなくちびるにすんなりと乗せられる。 「俺は、今まで気付かなかったから……知っても知らなくても、ヨシュアのことキライになれないよ」 「ふうん?」 固まりかけていた空気が柔和した。再び満ちてくるコーヒーの香りが、ネクの胸に吸い込まれた。いつもの羽狛さんの豆だろうか、それでも、いつものよりもっといい香りだ。 「ホントだよ」 「うん、知ってるよ」 フフ、と笑うヨシュアの顔に、ネクはやっとからかわれたことに気付く。それを言わせたいがためにヨシュアはあんな意地悪をしたのだ、そうに違いない。 「じゃあ誕生日、俺が決めるよ」 仕返しに、と最初は思った。それに、不公平だとも思った。 ネクだけは、まるで祭りのように祝ってくれる(それも最初だからだろうし、ネクだって二度目からは拒否しようと思っている)のに、どうしてヨシュアだけはスルーされるのだ。 祝われる方も嬉しいけど、祝うほうだって楽しい。 ましてやそれが大切なひとのものならば、尚更。 「なに、それ」 きょとんとしたヨシュアは少ししてから困ったように笑った。そんなこと、考えてもいなかったと言わんばかりに。 ネクにしか見せないような腑抜けた表情は、ネクの真剣さに段々と強張っていく。 「ほんとに」 「……本気、で」 こうとなればネクは折れないだろう。付き合いは短くとも、ヨシュアには、全てわかっていた。 音のない部屋で、夜の空気が固まりかけていく。コーヒーと、暖房の柔らかい空気と、一口だけ食べられた目の前のケーキ。 ふと目にしたカレンダーはいたずらに数字を並べて、ネクはそれを見つめながら口の中で何度もふさわしい日を選び始めた。 「仕方ない子……」 ふう、とヨシュアはため息ひとつ零し、「ネク君の誕生日と一緒はやめてね、一緒にお祝いとかしたくないから」と再びケーキにフォークを突き立てた。 カレンダーをめくって、ペンを握る。マルをつけようとネクは手を伸ばした。 「ネク君の熱意には脱帽するよ……」 カラになった皿を片付け、ヨシュアは洗い物用のスポンジを泡立てながらグチをこぼした。 あれからずっと、ネクはカレンダーをめくってはその日を調べ、を繰り返していた。 時間もゆうに深い夜を指し、食べ終えたケーキももう甘さのかけらも残っていない。 「どうしたの?」 流れる水を弱めてから顔を上げると、不思議な表情をしたネクがペンを仕舞い込むところだった。ふと見たカレンダーは真っ白で、結局マルをつけるのは止めてしまったようだ。 「なんか、違うような気がしてきた」 手を拭きながら近付くと、自分で言ったことを忘れたかのようにネクの腑抜けた顔。 「どういうこと?やっぱり変えるの?」 「うーん」 ネクは何度もカレンダーをめくった。1月から始まって、ぱらぱらと季節を繰っては不満げに手を離す。 さすがにヨシュアも呆れたようにネクの手を止めて、「やっぱりやめとこうか」と諦めた口調で咎めた。 「そうか、決めた」 糸が切れた、そんな感覚がした。 ネクはぱっと顔をあげ、繋がったままのヨシュアの手を握り締めた。 「俺が決めるんじゃなくて、毎日祝うことにする!」 「……へ?」 なんて情けない声だ、とヨシュアは思った。まさかこんな声が自分から出るなんて、いや違う。まさかこんな考えになるなんて! 「ま、まいに、ち?」 上擦るヨシュアの声など何度も聞けるものではないだろう。残念ながらネクそれに木気付かなかったようだが。 それほどまでにネクは紅潮していた。祝う日が見つからないというのなら、全てを祝えばよい、ネクの結論はそれだった。 「今まで、俺と会う前からずっとなんだろ?」 誕生日を祝っていなかった、という話だろう。ヨシュアは頷くしかできない。 それまで一人でいたから。それまで祝う余裕なんかなかったから。祝う概念すらなかったから。 ヒトの死を見つめていかなければならないというのに、何故に自分の生を祝うなど。 「ヨシュア?」 はっとして目の前に広がる薄藍を見つめなおした。 すすけたような黒い部屋で向かい合っていた人々の生と死。死神と呼ばれる彼らとの生活。止まらない街。そんな中、変わらないのはたぶん、ヨシュアの掌握にあるひとのいのち。 一瞬で広がってから、自分の中に溶けていく。 渋谷の愛されて、渋谷のために存在して、それでいいと思っていた。 「僕は、愛されてるね」 「恥ずかしくない?」 「ネク君がそれを言うの?」 毎日祝うなんて、不思議の国のアリスみたいだよ、ヨシュアはそう続けてから嬉しそうに笑った。 「え、俺ってもしかして相当おかしい?」 「うん、変」 ネクは、うんうんと頷くヨシュアを、睨むような困ったようなそんな素の顔になる。無意識なのだろうか、手のひらは口元に当てられた。 「でも、すき」 じんわりと頬が熱くなる。 「ネクくんのことがすき」 「……乙女め」 「それって君に言われたくないな」 胸の片隅が熱くて痛い。鼻の奥がツンとする。 しあわせのいたみ。 「忘れるかもだから、あまり本気にするなよ」 「そしたら催促しよっと」 口を覆う手が絡めとられる。スミレ色が淡くにじんだように見えたのは、ネクの妄想だったのだろうか。 「これから365回のおめでとうを楽しみにしてるね」 今更ながらの後悔で、ネクの視線が泳ぐ。やっぱりあんなこと言わなければよかった…なんてことはない。 「覚悟してろよ」 腕の中でヨシュアの空気をいっぱいに吸い込んでから、ネクは祝福の言葉をくちびるに乗せた。 end |